20200321

早春の淡路島 :  国営明石海峡公園と諭鶴羽山




*1

今回は、早春の淡路島の花と自然を紹介します。
2020年3月17日と20日に訪れました。
両日とも素晴らしい快晴に恵まれました。

 
< 2. 訪問地、上が北 >

上: Aが国営明石海峡公園、Bが諭鶴羽山。

下: 赤矢印が諭鶴羽山、B1が諭鶴羽山ダム、B2が上田池ダム。
ここに来た目的は、約二十年前に登った諭鶴羽山にもう一度登りたったからです。
しかし、失敗しました。
私の勘違いで、諭鶴羽ダムから登れると思っていたのですが、途中で道が無くなり、引き返しました。
次いで、車で上田池ダムへ移動し、そこから登り始めましたが体力が持たず、諦めて途中から下山しました。
約4時間半かけて、15km歩きました。



 

< 3. 国営明石海峡公園のMAP >

地図を二分割し、右側(東)を上に左側(西)を下にしています。

私は上の右側のゲートから入り、黒線に沿って一周して戻って来ました。
途中、連絡口ゲートから夢舞台を少し散策し(茶色線)、また公園内に戻りました。


 
< 4. 「大地の虹」辺り >

早咲きのチューリップが咲いていました。
3月17日は平日であり、コロナウイルスの関係もあるのか園内の人影はまばらでした。


 
< 5. 「花の丘道」 >

上: 「大地の虹」辺り。
下: 「花の丘道」。
色々な種類の桜が咲いていました。



 
< 6. クリスマスローズ >

下: クリスマスローズ。


 
< 7. 「月のテラス」 >

上: 「月のテラス」から大阪湾、紀伊水道を望む。
チューリップの季節には、ここ一帯が色とりどりの花で満たされます。

下: 「空のテラス」から「せせらぎ広場」と大阪湾、神戸を望む。



 

< 8. 「せせらぎ橋」からの眺め >

上: 「せせらぎ橋」からの眺め。
下: 「案内所」の前辺りの水仙。



 
< 9.諭鶴羽ダムから登り始める >

アドバイスがあります。
諭鶴羽ダムは桜の名所で、湖岸を囲むように桜が咲きます。
しかし周囲を巡る道路は非常に狭く、対向車線が有りません。
ニ三十台の駐車場は、ダム湖の奥にあります。
従って、車は湖岸を時計周りで走行すべしと現地の人に教わりました。
この日は、桜は未だでした。


 
< 10. 鬱蒼とした林間を抜けると >

鬱蒼とした林間を抜けると、視界が開け、沢づたいにゆっくり登って行きます。
残念ながら、途中で道が無くなり、引き返しました。



 
< 11. 上田池ダムから登り始める >

上: 遠くにダムが見える。
ダム近く、道路沿いの空きスペースに車置き、湖岸沿いに歩き始めた。
この辺りに駐車場が無いので、ハイキングするには問題があります。
いっそのこと、車で頂上まで行く方が良いようです。
私達が歩いて行く間に、6台ほどの車が上に向かって行きました。




 
< 12. 椿が多かった >

途中、一か所、農家らしい廃屋がありました。


 
< 13. 役行者の碑 >

上: 途中、役行者の碑を見ました。
この辺りから、沢を越えて諭鶴羽山頂に向かう道があるようです。
おそらくかなり険しい山道になるでしょう。
頂上近くに諭鶴羽神社があり、諭鶴羽ダムからも行ける裏参道があるらしいのですが、分からなかった。
修験者の道が、山頂に向かって幾本もあったようです。



 
< 14.沢づたいにのぼるが、果てしない >

いくら歩いても、谷間を行くだけで、見晴らしは良くならない。
もっと上まで行けば見晴らしの良い道に出れるのですが、とうとう諦めました。
諦めた場所近くに標識「奥滝」がありました。


 
< 15. 来た道を戻ります >


 
< 16. ダムからの眺め >

上: つつじが咲いていました。
中央: 上流側を望む。
下: 下流を望む。
三原平野の向こうに、瀬戸内海が見える。


次回に続きます。




20200319

世界が崩壊しない前に 7: 罠に嵌った人々







20世紀最大の罠と言えば、ファシズムへの暴走でしょうか。
人々は危機を脱しようとして、より悲惨な危機に陥った。
日本も同じですが、ドイツを見ます。


特報!!
 
< 2.いつか来た道 >


当時の状況
・ 巨額の戦後賠償と世界恐慌による大量の失業
・ 革命後の社会民主主義政権は安定せず、軍部の復権が進んでいた
・ 共産革命とソ連への恐怖が高まっていた

一人の天才アジテーター、ヒトラーが出現した。
彼は、かつてのドイツ帝国領土を取り戻し、共産主義者とユダヤ人を排除すべきと訴えた。
彼は清廉な人物と見なされ、若者に絶大な人気があった。
彼が行う政策、国民運動や大規模公共事業は功を奏し経済が好転した。
これでナチ党は国民の支持を得て国会の議席を伸ばしていった。

当時、政治を掌握していたのは元軍人の大統領でした。
彼は自ら任命した首相に政治を任せ、まだヒトラーを信用していなかった。
だがこの非力な首相は、人気のあるヒトラーの抱き込みを図った。

大統領が高齢で弱気になったと見るや、ヒトラーは一気に政権掌握に動いた。
彼は部下に国会議事堂を放火させ、それを共産主義者のせいにし、彼らの議員職を剥奪します(緊急事態条項と同じ)。
そしてナチスは過半数を占める第一党となり、ヒトラー総裁を決議させた。

この後、第二次世界大戦へと一気に突き進むことになる。
やがてユダヤ人追放が始まり、彼らの莫大な資産は国民に分配され、虐待や虐殺への批判は起きなかった。
同様の手口は中世スペインでもあった。

この間、ヒトラーを支えた巨悪があった。
ドイツのメディア王は彼を応援した(フォックスニュースや読売と類似)。
ドイツの鉄鋼王(兵器王)も彼を支えた。
英米系の大企業は、戦後までこの鉄鋼王に巨額資金を提供し利益を得ていた。注1.


ポイント

・ 国民は騙されたと言うよりヒトラーに狂信し続けた。
・ 安直な危機打開策が、最悪の被害を招いた。
・ 一部の国民は命を賭して抵抗したが制圧され、暴走を止めることは出来なかった。



次回に続きます。


注1. 「オリバー・ストーンの『アメリカ史』講義」p391より。




20200317

中国の外縁を一周して 27: 兰州西关清真大寺と蘭州牛肉麺


 
*1


今回は、イスラム寺院と蘭州ラーメンを紹介します。


 
< 2. イスラム寺院に向かう >

イスラム寺院が見える通りで車を降り、ここから歩いて行きます。
上下の写真は、この通りの東西方向を撮ったものです。
今まさに、地下鉄工事がこの通りで進んでいます。

下の写真に、兰州西关清真大寺が見えます。


 
< 3. 大病院が見えた >

歩いて行くと、人混みが増えて来ました。
大病院でした。
病院の入り口は、人で一杯でした。
まだコロナウイルスが始まっていませんでしたが。





 
< 4.兰州西关清真大寺 >

おそらく蘭州市で最大のモスクでしょう。
夜はライトアップされ綺麗だそうです。
言い伝えでは明時代まで遡るらしいが、清の時代、1687年に創建され、1729年に再建された。
甘粛省には回族が5%おり、東の端になる蘭州にも同率ぐらい暮らしているでしょう。
回族は言語・形質的には漢民族でイスラム教を信仰する民族です。
回族は中国ムスリム2000万人の半分を占める。

私が町を観光している間、思ったよりムスリムの服装(つばなしの帽子、へジャブなど)の人を見かけなかった。




 
< 5. 兰州西关清真大寺に入る >

門をくぐり、前庭に入る。
前庭に数人の信者らしき老人が椅子に座り、のんびりと過ごしていた。

今まで、トルコやモロッコ、エジプト、ボスニアヘルツェゴビナなどでモスクを見て来たが、建築様式や配置が異なる。
尖塔と半球ドームのモスクの組み合わせはおなじであっても、モスクへの階段が如何にも中国王宮風でした。
面白いのは、階段に盆栽が並んでいることです。
今回、中国の寺院を巡っているとホントに多くの盆栽を見ました。

モスクの中には入れませんでした。
特に女性はダメなようです。



 
< 6. 兰州西关清真大寺のモスク >

下の写真は、モスクの階段前から入り口の方を見下ろした。


今回の中国旅行の目的の一つに、地方の少数民族の状況を知りたかったことがありました。
中でも回族には、強制収容所(中国側発表で職業訓練所)の問題や、過去にテロと弾圧のニュースがありました。
蘭州のある甘粛省は、暴動のニュースがよく知られた新疆ウイグル自治区の東隣にあります。

私が日中一日、観光した分には異常さや緊張感はまったくありませんでした。
警察官が警備の為に街中に立っている姿をまったく見かけませんでした。
現地の人の感想では、取り締まりをしたおかげで、安心出来るようになったとのことです。
もともとこの地は平穏だったのかもしれませんが。
日本で治安を危惧していたが、まったくの杞憂に過ぎなかったようです。

日本人とって、蘭州は砂漠に隣接する山間の都市、かつてのシルクーロードの古い街ぐらいのイメージしかない。
しかし、ここも中国の大躍進を受けて、間違いなく発展していた。
将来、この地が世界のレアメタルや石油生産を担うようになるかもしれない。
けして無縁ではいられない。


 
< 7. 五泉山公園の前 >

イスラム寺院を離れ、五泉山公園の前に来ました。
車を降りて、昼食のレストランまで歩きます。
この辺りも高層のビルはあるが、少し古い感じがします。

下: 五泉山公園の前の広場が見える。
私が立っている所は陸橋の上です。
下は幹線道路と列車の線路です。




 
< 8. 五泉山公園の前の陸橋 >

陸橋を渡り、五泉下広場に向かいます。


 
< 9. 五泉下広場 >

大きい広場ですが、少し殺風景な気がしました。
広場を様々な店舗が囲んでいます。
この広場の北端の角にあるラーメン店に行きます。


 
< 10. 金强牛肉面 >

現地ガイドが昼食にこの店を選んでくれた。
13:00過ぎに入ったのですが、広い店内のテーブルは勤め人などでほぼ満席でした。
メニューは何種類かあり、妻と私の分で二種類注文した。
スープの味はさっぱりしていて、ほど良く、辛い分も私にはぎりぎりセイフでした。
麺も違和感はなく、美味しかった。
驚いたのは、スープの量が多く、肉が少ないことでした。
ガイドの話では、元々蘭州牛肉麺の肉の量は多く無いそうです。
一番驚いたのは、一杯100円以下だったことです。
他のメニューを加えても、一人150~200円ぐらいで済みます。
今回の中国旅行で、最も安く、美味しく、腹一杯になった料理でした。

この店は、現在5~10万元(75~150万円)で加盟店を募集しており、急拡大中です。
繁盛間違いなしです。


次回に続きます。





20200314

世界が崩壊しない前に 6: 罠を知る





*1

前回、私達が原発に呪縛されていることを見ました。
これと似た国を越える罠もある。


米ソ軍拡競争を見ます。

突然、現れたソ連のゴルバチョフが、米国に核戦力削減を提案し、核軍縮条約締結が成った。
しかし、この後が続きませんでした。
それはなぜか?

当時、米国は自画自賛していた。
「ソ連は我々の軍拡競争に負けて経済的に弱ったのだ。
だから宇宙にまで軍拡すれば、遂にソ連はねをあげる。
平和になるぞ!」
人々は、軍拡競争こそが軍拡を終わらせ、危機は回避されると信じた。

しかし、30年後の今、間違いだと分かるはずです。


 

何が起きていたのか?

当時の米国大統領はレーガン、次いで父ブッシュでした。
ホワイトハウスはまったくソ連を信用せず、相変わらず軍備増強と軍事支配拡大で押し切ろうとした。

一方、ゴルバチョフは政治刷新の手腕を認められて、トップに立つことは出来たが、立場は危ういものでした。
彼が前例のない大幅な軍事的妥協(アフガニスタン撤退も)を提案すると、当然、軍部や保守派からの猛反発に晒された。

米国は、これ幸いと不平等な兵削減をソ連に迫り、また南米への軍事介入を進め、ソ連の制止も聞かず湾岸戦争に突入します。

湾岸戦争は、子ブッシュもやった人気取りの可能性が高い。
米国の駐イラク大使は、クウェートとイラクで緊張が高まっていた時、フセインに告げていた。
「ブッシュ大統領は、イラクの友好が優先であり、友人でないクウェートとの国境紛争には何の意見も持っていない」と。注1.
この戦争で大統領の人気は鰻登りとなった。

米国の中東やアジアへの軍事介入の経緯と、世界断トツトップの米国の軍需産業の伸張を知れば、頷けるはすです。


もし1980年代末、ホワイトハウスがゴルバチョフを信じ協力していれば、彼はクーデターで辞任することもなく、戦争は減っていたかもしれない。

結局、国民は真実から遠ざけられ、政府に振り回されている。


次回に続きます。


注1.「オリバー・ストーンの『アメリカ史』講義」p397より。


20200312

中国の外縁を一周して 26: 敦煌艺术馆と蘭州博物館






*1

今回は、二つの博物館を紹介します。
珍しい物を見ることが出来ました。


当初、蘭州に行く最大の目的は炳霊寺石窟で、それがダメなら甘粛省博物館と思っていたのですが、両方とも訪れることが出来なかった。
しかし中国旅行直前に現地ガイドと観光地の選定をメールでしていると、敦煌艺术馆が急浮上しました。
この博物館は最近出来て、ガイドブックにも載っていない。
ここで敦煌の莫高窟を紹介している。
かつて莫高窟に憧れていたが、見学は諦めていました。
しかし今回、雰囲気を味わうことが出来、ラッキーでした。

甘粛省博物館はシルクロード、漢民族と西方・北方民族が織りなす文化と歴史を知るには恰好の巨大な博物館です。
有名な展示物は「馬踏飛燕」でしょうか、これは「汗血馬」が空を駆ける姿を表現したものです。
漢民族の馬は北方騎馬民族の馬に比べ貧弱でした。
漢の時代、シルクロードの西方に優れた馬「汗血馬」がいることがわかった。
その後、蘭州で馬の飼育が盛んに行われた時代があった。



 
< 2. 仏教美術―壁画と仏像の宝庫、巨大な石窟群 >

左からシルクロード沿いにある敦煌の莫高窟、蘭州の炳霊寺石窟、天水の麦積山石窟です。
洛陽の龍門石窟は、シルクロード沿いにはなく王朝の首都近郊に造営された。
私は龍門石窟だけを以前見学している。
これら石窟の壁面には仏画が描かれ、仏像が掘り出されている。
中に僧侶らが修行や祈りの生活を続けた痕跡が残っている。

なぜこの地には数百もの石窟群からなる仏教遺跡が幾つもあるのでしょうか?
これら四つの石窟群は4~5世紀に造営が始まり、石窟によっては元から清の時代まで造営や改修が続き数百から千近くまで増えた。

当時、南下していた北方遊牧民族(匈奴、鮮卑ら)は中国の北半分からシルクロード一帯を占拠し分立していた。
彼らは漢民族の文化、特に仏教を積極的に受容し石窟の造営を始めた。

仏像は主にこのシルクロードを通じて中国に伝わり、既に中国でも製作は始まっていた。
インドでは仏像誕生後、一度廃れていたが、5世紀になるとヒンドゥー教と競うように、巨大な石窟群を開窟するようになった。
こうしてシルクロードの石窟にも、インドの様式が取り入れられるようになった。


 
< 3.蘭州の街 >

白塔山から敦煌艺术馆まで。


 
< 4. 敦煌艺术馆に到着 >

下: 中央に見える1階の建物が博物館です。
入口が中央に見える。


 

< 5.石窟内の壁画 1 >

それぞれ石窟の一部の壁画を再現している。
様々な年代の様式が見られる。

上: 天井の壁画。
中央: 側壁。
この二つは初期の物でしょう。

下: これはどうやら西夏(11~13世紀)のものでしょう。
この作風は遼時代(10~13世紀)のものに似ている。
前者はチベット系で後者は北方系(契丹)だが、南北で境界を接していた。


 
< 6. 石窟内の壁画 2 >

中央: チベット仏教の影響がみられる。


 
< 7. 仏像 >

上: 初唐時代の彩色塑像。
下: 北魏時代の塑像。
造営初期の4~6世紀の仏像で、顔の形が細長い。
衣の表現はマトゥラー仏に似て薄く襞が少ない。


 
< 8. インド風の石窟 >

北魏時代のもので、石窟全体を再現している。
この原型はインドの石窟群に見られるもので、礼拝者が仏像の安置された祠を周回出来るようになっている。
祠は掘り出されているので天井は繋がっている。
私はレプリカであっても初めて見ることが出来たので嬉しかった。


全体の感想
展示のコンセプトは石窟の部分的な再現にあるようで、全体の雰囲気を容易に掴むことが出来る。
この便利な地、蘭州で手軽に敦煌莫高窟を楽しめるのは有難い。

少し残念なのは、少しレプリカが雑なように思う。
表記は中国語だけです。
今後増えるかもしれないが、現時点で展示が少なめです。






 
< 9. 蘭州博物館 >

上: 入り口。
省都の博物館でありながら、小さい。
それでも見る価値はあると思います。

中央: 半山類型(馬家窯文化)の彩陶鼓。
左に写っている土器が太鼓です。
土器の下部に皮などを被せ、紐で無数の突起に縛ったらしい。
5000~4000年前のものらしい。
西安から遠く離れたこの乾燥した地に、人々が文化を育んでいたとは思いもよらなかった。

下: これは浮橋で、前回紹介した中山橋(黄河第一橋)の前進にあたるものです。
黄河の両岸にそれぞれ二本の鉄の杭を打ち、縄を張り、小舟を繋いだ。



 
< 10. 金城 >

蘭州が初めて行政区になったのは前漢の時代(紀元前1世紀)で、金城県と呼ばれた。
この城の模型は、初期の金城県の城を示しているのでしょう。
今の蘭州中心部より西側にあった。



 
< 11. 発展した蘭州 >


何時から今の蘭州中心地に移ったかはわかりませんが、黄河に面して巨大な城砦となった。
下の写真の左下に水車が見える。

玄奘三蔵などはこの城を通って、西域を目指したのでしょう。


全体の感想

写真を載せていませんが、遊牧民の文化が中国初期の土器に影響を与えた袋状の三本足の土器もありました。
展示品は少ないが、西域と接する文化を少しは感じることが出来た。

見学途中、突如、蘭州のテレビ局のインタビューを受けた。
蘭州の感想を尋ねられたが、適当に褒めるだけで終わった。
なにせ来たばかりなので。
最近は日本人の観光客が少ないようで、驚いていた。


次回に続きます。




20200308

世界が崩壊しない前に 5: 原発に見る無視の構造






すいません、投稿がダブりましたので投稿し直しました。

危機の後、正しかったと判明した警鐘は多い。
しかし幾度も無視した。
これを事例で確認します。


警鐘が国民に届かない理由を前回見ました。
1. 無理解(科学など)
2. 未来の事(近視眼的思考)
3. 世論誘導(政治・経済絡み)
4. 分裂する社会(ナショナリズムなど)


原発を例に考えます。

1 原発の危険性を理解できない

安全とは規定の設計基準を満足するだけであって、日本の基準では外部要因(テロ)、より大きい地震や人為的ミスなど、さらに福島の事故原因(電源喪失、水素爆発)は無視されていた。
実際、原発事故の多くは操作ミスや製造ミスなど人為的なものが多い。
人々は、住民が無視されていることを理解しない。

原発事故が致命的なのは、放射線が遺伝子破壊を永遠に進行させ、しかも見えず消去出来ないことです。
他の技術では、失敗を繰り返しながら安全基準を高めることが出来る。


2 エネルギー政策の転換が見えない

クリーンエネルギー(太陽光、風力)発電のコストが原発より高いと誘導され原発破棄が進まない。

国と産業界はこれまでの建設・維持費を安く見積もり、廃炉・灰・汚水処理の費用と事故の賠償額を無視している。
彼らは原発村と研究開発、更に安全神話を創り上げるための広報宣伝と裏金にどれだけ投じて来たか。
現在、クリーンエネルギーのコストは低下しているが、原発は急上昇している。

危険性を理解出来ても、対策や代替え案の選択が困難になっている。


 誘導され安直に流される

原発推進を担って来た人々が、事業継続の為に総がかりで国民を誘導している。
与党議員、官僚、経済界、そして学会、労働界、マスコミの大半が存続に加担している。
例えば、原発差し止め裁判は上級審に行くと必ず敗訴するが、これも司法官僚上層部が政権に従属し、政策否定や憲法判断を封じ込めるからです。

さらに、この誘導に強く影響される人々がいる。
例えば野党嫌い、科学に弱い人、今ならウヨがこれに加わります。
それは彼らが、好みの情報(御用マスコミやネットウヨ)しか信じないからです。

これらの障壁を乗り越えて、警鐘をまともに受け止められる人がどれだけいるだろうか。


次回に続きます。





20200307

世界が崩壊しない前に 4: 人々はなぜ警鐘を無視するのか?





時には命を削ってまでも、警鐘を鳴らす人がいた。
しかし、ほとんど聞き入れられなかった。


なぜ人々は無視するのか?

前述の例、原発事故、資源枯渇、人口増、環境破壊、核戦争勃発、米国の監視体制、地球温暖化の危機から見えるもの。

1. 科学的な理解無しで危機を理解出来ない

原子炉の構造や安全設計の概念を理解していないと、推進側の権威者が唱える原発の無謬性を容易に信じてしまう。
多くの人は、その安全性の根拠が如何に抜けだらけかを見破ることが出来ない。

地球温暖化の危機を知るには、気候現象や地球史を知らないと、これまた煙に巻かれる。

中途半端な知識や感情論では無理。


2. 人は数十年先に訪れる危機に対して及び腰になる

おそらく数か月後に起こるとするなら対処するでしょう。
しかし10年、50年先となると、ましてやコストと手間がかかるものなら無視するでしょう。
さらに対策の費用対効果を見積り、優先順位を付けるとなると絶望的です。


3. 危機とその因果関係を否定し、世論を誘導する集団がいる

この力は非常に大きく、かつ国民が気付かないよう行われる。

現在、大きな危機の元凶はすべて人間だが、限られた人間によるものが多い。
彼らは防止策や規制により、利益の減少や賠償による損失を避けようとする。

例えば、現在、自由放任経済の恩恵を享受している人々は、かつてのルーズベルト大統領のニューディール政策(需要喚起、賃金上昇政策)を貶めて続けている。


4.人は論理よりも帰属集団の意向に沿って判断し易い

これは分裂を極める社会ほど顕著です。
例えば、人は組する集団が原発推進、敵対する集団が原発反対なら、迷うことなく原発に賛成する。
現在、都合の良い情報(フェイク)は幾らでも集まるので、事実は二の次となる。

今や未開地の部族間抗争に逆戻りした感がある。
残念ながら日本人は稀に見る高い帰属意識を持っているので陥りやすい。


次回に続きます。