20170725

フランスを巡って 29: ランスの大聖堂 1




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これからランスの大聖堂を数回に分けて紹介します。
今回は、大聖堂の周囲を一周します。


ランスについて
この都市はフランス北部、パリの東北東142kmのところにある。
人口約20万、古来より、羊毛の織物工業が盛んで、現在でも商工業が発達している。
かつては歴代のフランス国王がここの大聖堂で戴冠式を行った。
そしてシャンパン醸造の一大中心地です。


 

< 2.ランスのノートルダム大聖堂 >

黄色線が周囲を歩いたルートで、写真は概ねSから始まります。

大聖堂を訪れたのは旅行6日目、5月22日(月)、12:10~15:00です。
私達はオプションの昼食を注文していなかったので、途中のトイレ休憩で立ち寄ったコンビニでサンドイッチを買って、大聖堂の広場で食べました。
その後の自由時間を一人で周囲を歩いた。
また皆が集合して現地ガイドに大聖堂を案内してもらった。
その後、バスに乗ってサン・レミ・パジリカ聖堂に向かった。


 

< 3. 大聖堂の外観 >

地図のSから黄色線に沿って一周した。


 

< 4. 後陣側 >



 
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写真5~9は地図のS近くから外周を一周した順に並んでいます。



 
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< 10. 大聖堂近くの通り >


 

< 11. 大聖堂周辺で 1 >


 

< 12. 大聖堂周辺で 2 >

下の写真: 学生らしいグループにカメラを向けると、数人の青年が笑顔でピースをしてくれた。
今回の旅行中、各地でそれと無く人々にカメラを向けた時、若い人達が驚くほどの笑顔で写真に応じてくれた。
フランス人が人懐っこいのか、日本人に好感を持っているのか、または両方かもしれない。
気持ちの良いものでした。



次回に続きます。





20170724

デマ、偏見、盲点 20: 衆愚政治の恐ろしさ



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今日は、今、世界を席巻しつつある衆愚政治についてみます。
これは大衆迎合、ポピュリズム、右傾化、全体主義とも重なります。
世間ではこれを肯定する人々がまだ多数おり、危険な状態が続いている。



はじめに
皆さんはヒトラー総統やトランプ大統領は衆愚政治やポピュリズムを象徴する人物と思いますか?

言葉の厳密な定義は、学者でも意見が分かれていますので、気にしないでください。
イメージで結構です。
例えばヒトラーとトランプの似ている所はどのようなところでしょうか。

先ず、演説時の壇上のパフォーマンス、特に表情、手の扱いなどが似ています。
共に一貫性のある思想や政策がない(ヒトラーは適宜変節していった、トランプは支離滅裂か自由奔放)。
既存のエリート層、政治家、大企業、マスコミ、知識人を徹底的に否定する。
一方、我こそが大衆、労働者の味方で、雇用と労働条件向上を実現すると宣言する。
その達成手段は、自民族(ゲルマンかホワイト)だけの繁栄、他者(ユダヤかムスリム)を排除、そして力の行使(軍事力か経済力)で共通する。

二人は大変似ており、ヒトラーが衆愚政治によって生まれたのだから、トランプもも衆愚政治の産物と言えます。
それではなぜ、悲惨な歴史を知っているはずの人々が、未だにトランプを評価するのでしょうか?

トランプを肯定的に見る識者達の見解を要約すると以下のようになるでしょう。
一つは、彼らの多くは米国の共和党寄りのようで、単に民主党嫌いが理由のようです。
もう一つは、トランプが優れたトップの可能性を秘めいていると言うものです。

実は、ここに問題があるのです。
歴史的に見て、衆愚政治でトップになった人物は、その大言壮語なスローガンと破壊的な行動力が大衆から絶大な期待を集めていたのです。

衆愚政治のトップに共通する特徴があります。
彼らのほとんどは徳が無く下劣な品性の持ち主ですが、敵をやり込める口汚さなどの攻撃能力や大衆受けする芝居がかった振る舞いが前者の欠点を帳消しにして余りあるのです。
ヒトラーの場合は、クーデター未遂事件での収監時の態度が潔しとされ、トランプは身銭を切って選挙を戦ったことで好感されたように。
また共に、敵を徹底的に打ちのめします。
ヒトラーがスパイ紛いの汚い仕事をしていようが、トランプが税金を払わず、幾度も倒産して事業を拡大していようが人々は問題にしないのです。

衆愚政治の真の恐ろしさは、このようなトップを待ち望む人々がたくさん存在することなのです。
人々の期待を実現すると大風呂敷を広げ、行動力があると思わせれる人物が、衆愚政治のトップになるのです。
その結果、多くは破局に向かうのです。

破局に至る理由は簡単で、その手の行動力があると思われる人物は道理を顧みず、未来を深慮せず、他者を害することを厭わないからです。
社会が閉塞状態になったり、外からの脅威に晒されたと大衆が強く感じると、このような人物こそが、現状を打開できる人物と見なされ易くなるのです。
このことは米国で行われた心理学の泥棒洞窟実験が良く説明しています。

国が軍事的脅威に晒されると、粗野であっても、こわもてのトップが選ばれるのが常です。
衆愚政治から生まれたトップがいつも不幸をもたらすとは限らないが、社会が危険になる確率は高まる。


 
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衆愚政治の代表例
実は、世界史に名だたる衆愚政治の極め付きが2400年前にあった。
これは有名な古代ギリシャの都市国家アテナイで起きた。
この実に馬鹿げた悲惨な事件は、衆愚政治の愚かさをよく物語っています。

時は、紀元前415年、アテナイは200隻の軍船と数万の漕ぎ手と兵士をシチリアに向け出撃させた。
そして全滅するか、捕虜になってすべてが死んでいった。

戦史家トゥキュディデスはこの戦いを「ギリシャ史において、これ以上なく悲惨な敗北を喫し、完膚無きまでに打ち負かされた」と語っている。


 
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この戦いはなぜ始まったのか。
古代ギリシャとアテナイの絶頂期はペルシア軍を撃退した紀元前5世紀前半でした。
盟主アテナイは軍事力と軍事遠征で巨大な富を手に入れることに味を占め、やがてギリシャ全土が戦いに明け暮れるようになった。
その大きな戦争の一つがスパルタとアテネが勢力を二分して戦ったペロポネソス戦争(B.C.431-B.C.404)で、これが衰退の始まりでした。

アテナイは絶え間ない戦争で疲弊していたが、降ってわいたシチリアからの救援要請に、世論は慎重派と積極派に分かれた。
慎重派はアテナイの国力が前回の戦いから充分回復していない状況で、兵力が充分な手強いシチリアへの遠征は無謀だとした(これは的確な情報分析だった)。

すると、若い煽動家アルキビアデスは、シチリアは大きいとは言え、烏合の衆であり、気概のある相手ではなく、この際、支配権を拡大する絶好の機会だと訴えた。
そして大勢は決し、しかも大編成で行うことになり、彼は遠征軍の三人の司令官の一人に任命された。

ところが出撃すると、彼は神像破壊の容疑者としてアテナイから召喚を命じられます。
彼は日頃から傲慢で放埓であった為、敵が多く疑いがかけられたのです。
すると彼は敵国スパルタに亡命し、アテナイの情報を漏らし、スパルタにシチリア遠征を薦め、遂にアテナイ軍は殲滅されることになった。

なぜこんな裏切り者の軽薄なアルキビアデスの言をアテナイ市民は信じたのだろうか?
彼は名門貴族の出で、ソクラテスの弟子であり、演説家、政治家で、その美貌と才能によって市民に絶大な人気があった。
また彼は野心家で、それまでも遠征を焚き付けており、今回、成功すれば自分の名声と富が一層高まることをもくろんでいた。
彼の演説を聞いたアテナイの若者達は、昔の栄光の再来を夢見て、遠征に熱狂していったのです。
その後、アルキビアデスは各地で問題を起こし、ついには暗殺された。

この話には更に落ちがあります。
始め、アテナイはシチリアでの敗北を信じず、やがてパニックになった。
慎重派があれほど無謀だと指摘していたにも関わらず、現実逃避していたのです。

その後、アテナイの同盟国が次々と反旗を翻した。
その混乱の中、アテナイは民主政を捨て暴政にのめり込み、あらゆる面で衰退が加速していった。
ちょうどこの頃(B.C.399)、皮肉屋のソクラテスは濡れ衣を着せられ毒殺されることになった。
その後、アテナイはスパルタに占領され、さらに半世紀後(B.C.338)にはマケドニア王国に屈服し、ついに命脈は尽きた。


 
< 4. ソクラテスがアルキビアデスにシチリア遠征の中止を説く >


何が問題なのか
まさに、アテナイのこの一連の事件には「はじめに」で紹介した衆愚政治のパターンが凝縮されている。

閉塞状態に陥っていたアテナイ市民は、アルキビアデスの欠点には目もくれず、途方もない夢だからこそ飛びついたと言える。
彼は野心家で、大言壮語し、責任を取るどころか裏切りすら平気な人物でした。
そんな人物に振り回され、あれだけ栄華を誇り、民主政を生み出した国家が無惨な結末を迎えたのです。

もしアテナイの市民が煽動家アルキビアデスを信じなければ、または彼が生まれていなければアテナイは繁栄を続けることが出来たのだろうか?
この文章でアルキビアデスをヒトラーに替えたら・・・・。

大なり小なり、代わりの人物がこのトップの役を担うことになるでしょう。
もっとも、アルキビアデスやヒトラーほど優秀(極悪)ではなく、損失はまだ少なくて済んだかもしれませんが。
つまり、最も恐ろしいのはこのような人物をトップに崇める人々、偏向したマスコミ、権益擁護者の存在なのです。


 
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現在、あなた国のトップは、このアルキビアデスのような人物ではありませんか?
その人物は家柄が良く人気があり、大言壮語し、力に頼り、敵を激しく罵り、簡単に辞めたり、方針転換したり、都合が悪くなれば逃げ回る人物ではありませんか?

もし居るとすれば、衆愚政治を支える人々が多く居ることの証であり、それが減らない限り、同じようなことが続くことになる。
とりあえず、そんなトップは居ない方が良いのですが。


皆さん、くれぐれも注意願います。




20170723

フランスを巡って 28: ストラスブールからランスへ





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今回は、フランスの東北部、ストラスブールからランスまでの車窓風景を紹介します。
そこには、なめらかな起伏をもつ広大な緑の大地が広がっていました。
私達はフランスの誕生や幾多の戦いと関わりがある地を走り抜けていきました。


この日のルートについて
写真は旅行日7日目、5月23日(火)、ホテル出発8:00でランス到着12:10までの景色をバスの車窓から撮ったものです。
この日の朝は雲に覆われていましたが、走るに連れ雲が無くなり青空が広がって行きました。

このルートはアルザスの北部からロレーヌを抜け、シャンパニューに入ります。
この三つの地は順にドイツ、ルクセンブルグ、ベルギーと北側で国境を接しています。
前回紹介したように、アルザスとロレーヌはほぼ500年間、フランスとドイツ(神聖ローマ帝国、プロイセンなど)の激戦地となりました。
第一次世界大戦の西部戦線、第二次世界大戦のマジノ線をどこかで横切ることになります。
またフランス革命戦争の地ヴァルミー、晋仏戦争の地リヒテンベルクの近くを通過することになります。

シャンパニュー地方は発泡性ワインのシャンパンと、大聖堂で有名なランスがあります。
英仏の百年戦争の英雄ジャンヌダルクはシャンパニューで生まれ、ランスの大聖堂とも関わりがある。

以下の写真はすべて撮影順に並んでいます。


 
< 2. 走行ルート >

地図: 上が北で、青線がランスまでのルートです。
Aはフランス革命戦争の地ヴァルミー、Bは晋仏戦争の地リヒテンベルクです。
Cはジャンヌダルクの誕生の地です。

下の写真は朝のストラスブールです。


 
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下の写真: 軍用車の列に遭遇した。

この近くに駐屯地があります。


 

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下の写真:屋根側がアルザスとは異なります。
撮影9:20.
 

 
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< 13. ランスに到着 >


あとがき 
私の目には、この道からの景色は豊かな自然に恵まれた平和な地としか映らなかった。

三つの国と国境を接し、紛争を重ねたことが嘘のようです。
またこの地はワイン栽培の北限であった為、他のワイン産地に負けて、打開策としてシャンパンを生み出さなけれならなかった。

またシャンパニューのランスは、ローマ帝国滅亡後、フランスの源流となるフランク王国誕生(5世紀末)時の領土の中央に位置した。


次回に続きます。



20170721

フランスを巡って 27: アルザスに想う








 
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今回で、アルザス地方と諸都市の紹介を終わります。
私はこの地を旅して強く印象付けられたことがある。
この地の人々の暮らしに私は平和な世界が来ることを確信した。


 

< 2. アルザスの地図、上が真北です >

上の地図: アルザスは赤線と東側の国境線で囲まれたところです。
フランスの東端にあり、ドイツとスイスに国境を接している。
赤丸はストラスブールとコルマールです。

ドイツとの国境を流れるライン川は交易を発展させ、その流域に石炭や鉄鋼の産地が連なり、産業を発展させた。
一方で、このことが絶え間ない国境紛争をもたらした。

下の地図: 赤丸はストラスブール、リグヴィル、コルマールを示す。
今回紹介する写真は、すべてストラスブール、リグヴィル、コルマール間のバスの車窓からの景色です。


 
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< 8. リクヴィル近くの村 >


 

< 9.ヴォージュ山脈の裾野からドイツ側を望む >
 
この三枚の写真はリクヴィルを発って直ぐのストラスブールに向かう時のもので、東側を見ている。
遠くに黒い森(シュヴァルツヴァルト)が見える。
これはライン川に沿ったドイツ側に160kmほど続く森です。



アルザスの運命
今まで紹介したストラスブールやリグヴィル、コルマールは実に平和そのものでした。
ストラスブールを朝夕散策しても、治安の悪さや、何らかの戦争や憎しみの傷痕などを見ることはなかった。
また多くの人種や移民が共に暮らしている。

しかし、かつてのアルザスは際限なく戦乱に巻き込まれ、領主や宗主国が交代した。
簡単に、大きな戦乱と国境の変化を紹介します。


 

< 10. 9世紀から11世紀の国境 >
赤の矢印はストラスブールを指す。

上の地図: 中部フランク王国(黄着色部)を示す。
紀元前1世紀にはローマ帝国が支配していたが、やがてゲルマン人がやって来てフランク王国を築きました。
そして9世紀に、フランク王国が三つに分割され、アルザスはライン川に沿う南北に延びる中部フランク王国の一部になった。

下の地図: 神聖ローマ帝国(赤線で囲まれた紫着色部)を示す。
10世紀になると中部フランク王国は東部フランク王国に吸収され、それが神聖ローマ帝国になり、16世紀まで続くことになった。


英仏による百年戦争(1337~1453年)の戦場はアルザスとは無縁だった。
しかし、休戦期に解雇された傭兵や敗残兵がアルザスに侵入し略奪した時期が幾度かあった。


 

< 11. 宗教改革 >

16世紀初頭に始まる宗教改革は全ヨーロッパ、さらには世界に影響を与えた。
しかしその展開は複雑で、多くの戦争を生んだ。
一般には、これはドイツ中部で生まれたキリスト教聖職者ルターが教皇を痛烈に非難したことから始まるとされている。
しかし、その萌芽はヨーロッパ各地で以前から見られた。

アルザスが宗教改革と関わるのは、最初期の農民一揆からでした。
上の地図の灰色の部分はアルザスの北方(当時はアルザス)を指し、ここで15世紀末から農民一揆が起こっていた。
1524年になるとドイツの南西部(赤色)でドイツ農民戦争(~1525年)が起こり、瞬く間に、地図の茶色部分に広がり、ストラスブールを含むアルザスも騒乱状態になった。
立ち上がった彼らは、ルターの宗教改革思想を拠り所にしていた。
この2年間で30万人が蜂起し10万人が戦死し虐殺され、アルザスでも10万人が蜂起し3万人が死んだ。

この戦乱で、ドイツは疲弊し、帝国自由都市や小領主が衰退し、領邦国家が力もつようになり、領邦国家が次のプロテスタントとカトリック間の戦争を開始した。
これが神聖ローマ帝国内で始まり、やがてヨーロッパを巻き込んだ三十年戦争(1618-1648年)になった。

下の地図は1650年における、宗派間の色分けです。
ストラスブールを含む橙色はルター派のプロテスタント、周りを囲む草色はカトリック、下側の肌色はカルヴァン派のプロテスタントです。

実は、この後、アルザス一体(フランス東部)の領有権は細切れになり錯綜し、複雑な状況が1634年から1697年まで続きます。

一つ目は、1634年、スウェーデンがフランスにアルザスを全委譲した。
これは三十年戦争の間、アルザス(ストラスブールなど)はプロテスタントの雄スウェーデンから軍事援助を受けていたことによる。

二つ目は、1648年、三十年戦争の講話条約でアルザスが神聖ローマ帝国内からフランスに割譲された。

三つ目は、フランスのルイ14世が領土拡大に乗り出し、1673年、コルマールを奇襲し要塞を解体、1681年、ストラスブールを占拠し、1697年にはアルザス全域がフランス領となった。


 

< 12.フランス革命戦争、1792~1802年 >

フランスで1789年に革命が起きると、周辺の王国はフランス王家を守る為に介入も辞さないと宣言した。
これを受けてフランスはオーストリアに宣戦布告し、ついには12ヵ国を相手に戦争することになった。
初期は劣勢であったが、義勇兵の参加と国家総動員などが功を奏し、やがて東方に領土を広げる侵略戦争へと変貌した。

上の絵: 初期の闘いでフランス軍が勝利したヴァルミーの戦い。

下の地図: フランス革命戦争による領土拡大図の一部。
赤矢印がストラスブール、白矢印がヴァルミー、黄矢印がパリです。

この革命と戦争によって、ストラスブールは略奪され、アルザスは荒廃し、数万人が難民となってドイツに流れた。
また軍人が力を持ち、ナポレオンの帝政を招くことになった。


 

< 13. 普仏戦争、1870~1871年 >

三十年戦争後、神聖ロ―マ帝国は300以上の小国と帝国自由都市の集合体に解体されていたが、19世紀後半にはプロイセン王国がドイツの北方を占め、さらなる領土拡大を目指していた。
フランスはこの挑発に乗って、準備万端のプロイセンに宣戦布告し、一時はパリも占領されるほどの大敗を期した。
こうしてアルザスは隣のロレーヌと共にまたドイツ(プロイセン)に併合された。

上の絵: リヒテンベルクへの攻撃。
プロイセンの連合軍がストラスブール近郊の山城を攻撃している。

中央の地図: アルザスとロレーヌでの普仏軍の対陣を示す。
赤がフランス軍、灰色の丸がプロイセン連合軍です。
黄矢印がリヒテンベルクです。

下の地図: 1871年の領土。
水色がプロイセン連合軍の領土で、アルザスとロレーヌが含まれている。



 

< 14. 西部戦線、1914~1918年 >

第一次世界大戦での西部戦線を示す。
赤線が塹壕のラインで、多くの死者を出したが、ドイツ軍の攻勢を英仏軍がここで防いだ。
ドイツ領であったストラスブールは戦火を免れたと思われる。

第一次世界大戦でのドイツの敗戦を受けて、1919年よりアルザスとロレーヌは再びフランス領となった。


 

< 15. 第二次世界大戦、1939~1945年 >

上の地図: フランス国境の青線がマジノ線です。
これはフランスが対独防衛のため築いた大要塞線で、国境地帯に約400km にわたり建設された。
しかし1940年、赤の矢印の防衛ラインを独軍に突破された。
この時、フランス軍はストラスブールを無人状態で放棄した為、ナチスドイツが占領した。
黄矢印がストラスブール。

1945年、敗戦と共に、占領されていたアルザスとロレーヌはまたフランスに戻った。

下の写真: ストラスブール北側にあるマジノ線を見る連合軍兵士。



今、想うこと
団体の観光旅行ではあるが、ストラスブールやアルザスの他の町も出来る限り見て廻ったつもりです。
しかし、戦争の爪痕やフランスとドイツ両民族の軋轢を感じるものはなかった。

この地をよく案内している添乗員と日本人の現地ガイドに、ストラスブールやアルザスでの両民族の仲違いについて聞いた。
しかし二人共、まったくそんな事は聞いたことが無いと明言した。
まったく私の質問が的外れだった。

既に見たように、アルザスとストラスブールは数多くの戦火、混乱、破壊、略奪、殺戮に苛まれ、その後は民族や言語が異なる国家に組み込まれて来た。
特にドイツ圏とフランス圏とは幾度も入れ替わった。

アルザスは17世紀中頃までドイツ圏に属していたので、ドイツ圏の文化(家屋)や言語(アルザス語を併用)が根付いている。
おそらく食事もだろう。

それにしても、ドイツへの帰属願いや分離独立、ドイツ系とフランス系の人々にいがみ合いの無いのが不思議です。
傍から見る分には、年月が互いの不和を洗い流したゆえか、はたまたフランスが適切な融和策を執ったゆえか、どちらか分からない。
ストラスブールには欧州議会、欧州評議会、欧州人権裁判所、欧州合同軍の本部が置かれており、欧州統合の象徴であり中心と言える。

少なくとも言えることは、これだけの憎しみを生んだ苦難を経験しても、何事もなかったように平和に暮らせることです。

ただ心残りは、市民がどのように平和を紡いで来たのが分からなかったことです。
それでも私は、一つの大きな旅行の目的を果たしてほっとしている。
旅は素晴らしい!!


次回に続きます。