20170222

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 34: ワルシャワ4



*1


今日から、ワジェンキ公園を紹介します。
陽光に輝く黄葉、湖面、宮殿を見ながら広葉樹林の中を散策しました。
孔雀やリスが晩秋を惜しんでいました。
2017年10月4日に訪れました。



 

< 2. ワルシャワの中心街 >

上の写真: スターリン様式の文化科学宮殿。


 

< 3. いよいよワジェンキ公園 >

下の写真: ワジェンキ公園の北側から入園、無料。
これはクラクフ郊外通りを2kmほど南下した所にある大きな庭園で、ポーランドの最後の王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキによって18世紀に30年をかけて造営された。


 

< 4. ワジェンキ宮殿が見える >

上の写真: ポーランド王ヤン3世ソビェスキの像。
1683年、オスマン帝国15万の軍による第二次ウィーン包囲に対して、彼はわずか3000の騎兵で中央突破し、勝利に導き、ヨーロッパを救った英雄と讃えられた。
この像は、これを記念している。
 
下の写真: 池の奥にワジェンキ宮殿(水上宮殿)が見える。
ヤン3世ソビェスキの像の前から見ている。


 

< 5. ワジェンキ公園  >

上の写真: ヤン3世ソビェスキの像がある橋。


 

< 6. ワジェンキ宮殿に向かう  >


 

< 7. ワジェンキ宮殿に迫る >

この宮殿は造園を命じた王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキが、夏の宮殿として使用した。
彼は前の所有者が浴場として使用していた建物を改造した。
この建物はポーランド・リトアニア共和国が滅亡した後、ロシアに売却され、第二次世界大戦ではドイツに美術品は盗まれ破壊されたが、修復された。


 

< 8. ワジェンキ宮殿の南側 >


 

< 9.ワジェンキ宮殿の南側の池  >


 

< 10. いよいよワジェンキ宮殿に入る >



 

< 11. ワジェンキ宮殿内 >

上の写真: 宮殿のホールで学習する子供達。

下の写真: 宮殿のホールから池の北側を見る。


あとがき
実は、この時期、例年なら黄葉が美しいのだそうですが、この年の夏が小雨だった為、残念ながら多くの黄葉が茶褐色を帯びていました。
従って、あまり黄葉の写真を撮っていません。
それでも遠目には美しかった。

次回に続きます。


20170220

何か変ですよ! 52: トランプの評価を巡って





*1


不思議なことがある。
大衆はなぜ突如として極端な行動に出るのだろうか?
トランプ大統領の選択がその好例です。

不思議なこと
私はトランプに関する本を6冊読んだが、トランプ大統領の評価は混乱している。

彼の就任は悪化している米国の現れか、彼の希代の才能ゆえか、それとも何かの間違いか?
我々は彼に期待すべきか、はたまた最悪の事態に備えるべきか?
これは世界にとって吉兆なのか、それとも凶兆なのか?

これら相矛盾する評価から、米国社会と世界の混沌が見えて来ます。



 
*2


相矛盾する評価

*トランプ氏に対する評価
意見は大きく二つに分かれる。

トランプを高評価する人は、彼は群を抜いた交渉力を持ち、幾多の困難を乗り越えたビジネスマンで、機を見るに敏だと言う。
また彼は自己資金で戦ったので既成勢力と無縁で、正直者だからと期待されている。

彼を否定する人は、彼は感情的、ナルシスト、守銭奴だから信用出来ないと言う。
また彼は政治経験がなく、極右で、煽動家だから危険だとされている。


*トランプ氏が選ばれた背景
概ね以下のように要約できる。

幾多の有力候補やヒラリーが嫌われ、投票率が低い背景に、ホワイトハウスへの根深い不信感があり、大衆は既成政治との断絶を求めた。
さらに白人層の危機感と女性蔑視が大きく作用した。

彼は大衆の不満(移民、ムスリム、派兵、失業など)を積極的に取り上げ、既成概念に囚われない解決法を示した。
それをデマゴーグと非難するマスコミと他候補に対して、彼は悪態とメール発信でやり込めることが出来た。

彼はテレビ番組の人気者であったが、当初、泡沫候補と見られていて、マスコミは興味本位に彼を扱ったことより、露出度が非常に高まった。
マスコミは彼の人気が出てから批判を始めたが、既成勢力と非難され、逆効果となった。

他に、米国における闇の支配者などの陰謀説もある。


*著者たちのトランプ大統領の評価

彼をレーガンやエリツインになぞらえ、彼こそが米国で創造的破壊を起こしてくれるとの期待がある。
確かに、他の候補では超富裕層による支配、戦争継続、移民増大、格差拡大が続く可能性がある。

当然、危険視する意見もある。
彼のほとんどの解決策はデタラメで、特に経済政策、結局は米国と世界を混乱に陥れる可能性が高いと見られている。

結局、ジリ貧になっていく白人層は、溺れる者は藁をも掴む心境のようだ。
日本もこうならないように願いたいのだが。


様々な疑問

A: 経済に創造的破壊は必要だが、大統領が旗を振ってうまく行くのだろうか?

歴史的には、イギリスの産業革命などのように、良い創造的破壊が起きる時は、それぞれの利益を代表する集団が交渉し妥協しながら自由裁量権を得て、イノベーションへの意欲が持続する時です。
残念ながら、現状は金権政治(超富裕層による支配)で社会の調整機能が失われているのですが。

彼が進める公害防止や金融規制などの緩和・撤廃、また相続税廃止などの富裕層減税は、明らかに弱者を増やすだけで、創造的破壊とは別物です。

世界を牽引している米国の情報通信などのイノベーションは政府の関与とは言えない、また移民も大きく関わっている。



B: 大統領に破壊を期待すると、何が起きるか?

レーガンの経済政策により、後に米国は双子の赤字と格差拡大で苦しむことになり、日本は円高を飲まされることになった。

エリツィンの経済政策により、ロシアはハイパーインフレを起こし経済破綻し、プーチンの独裁を招くことになった。

ヒトラーの例は既に述べました。

レーガンはインフレを抑制し冷戦終了を導いた、またエリツィンはソ連崩壊と共産経済の低迷からの脱出を導いたと言える。

結局、国民は混乱に備え、相当の覚悟が必要です。



C: 大統領に人格や見識は必要ないのだろうか?

例えば、彼は数度の倒産にもめげず大富豪に成り得たのだから素晴らしい胆力と能力を持っていると評価される。
見方を替えれば、幾度も借金を踏み倒し、従業員を路頭に迷わせたのだから、無計画で無責任な人間とも言える。

実際、彼のビジネス手法には違法まがいが目立ち、また脱税(節税)しているらしい。
はたしてこのような人物に国を任して良いのだろうか。


D: トランプを期待する心理の不思議。

概ねトランプを評価する著者らは共和党寄りのように思える。
彼らは民主党政権には辛辣だが、共和党への悪口がまったくない共通点がある。
逆も真なりですが。

例えば、ヒラリーは多額の献金を受け、戦争を拡大させ、裏で汚い事をしていると罵る。
また民主党政権は中東で手を打たなかったから戦火が拡大したと言い、一方でトランプは外国に干渉しないから、世界は平和になるとも言う。
中東を大きく混乱させたのはブッシュ親子だと思うのだが。

私は、どっちもどっちで、まだ民主党の方が少しましなように思えるが。

また、盛んに陰謀論を唱える福島隆彦は2016年7月出版の本で、ロックフェラーがトランプに決めたと自慢げに書いている。注釈1。
キッシンジャーとトランプの娘婿の父親は共にユダヤ系の大物であり、彼らが仲介したと説得的でした。

しかしその年の4月の彼の本を見ると、ロックフェラーがヒラリーに決めたと書いていた。注釈2.

陰謀論は読んでいてワクワクするが、少し考えれば腑に落ちないことが見えてくる。


まとめ
やはり、米国は病んでいる。
米国主導のグローバリズムによって世界も病んでいる。
グローバリズムが悪いわけでは無いが、自由放任が悪い。

いつしか、既得権益層が社会を牛耳り、格差拡大が蔓延し、大衆の団結を防ぐ為に疑心暗鬼が煽られ、分断が深まった。
そして社会を変えられない大衆が焦り、そしてポピュリズムによる大きな左右への揺れが起きた。

この状況は、帝国主義やファシズムを生み出した社会と酷似しているように思えるのだが。
この時も、ナショナリズムと保護主義が世界に蔓延して行き、2度の大戦へと繋がった、

皆さん、どうか自分の身を守る術を考えておいてください。



 

*3


参考文献の紹介
*「トランプがはじめた21世紀の南北戦争アメリカ大統領選2016 
渡辺由佳里著、2017年1月刊。

彼女は米国で長年暮らしているジャーナリスト。
この度の大統領選の集会などを直に取材し、市民の眼からレポートしている。
トランプを支持する人々(主に白人)の実態が良く伝わってくる。
彼女はヒラリー寄りで、リベラル派の惨敗に気落ちしている。


*「トランプ政権でこうなる日本経済 」
岩崎博充著、2016年12月刊。

彼は日本在住の経済ジャーナリスト。
この大統領選挙を取材ではなく資料や本から分析しているようです。
トランプが選ばれた背景を妥当な情報で分かりやすく解説している。
私の感じでは、中立的な立場で、トランプ政権の今後を占っている。
彼はトランプによって災いが起きることを恐れている。


*「なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか
佐藤 則男著、2015年11月刊。

彼はニューヨーク在住40年を超えるジャーナリスト。
書かれたのが序盤戦(予備選)の時期なので切実感はないが、米国大統領選の裏表を見せてくれる。
また序盤でのトランプへの悪評とヒラリーへの嫌悪感がよく伝わってくる。
彼は共和党寄りです。


*「トランプ大統領とアメリカの真実」
副島隆彦著、2016年7月刊。

彼はアメリカ政治思想研究の第一人者と自称している。
大統領選が混沌としている中で、早々とトランプで決まりと発言している。
本は読んでいて面白い。
米国の政治思想史や支配層の人脈を縦横に駆使しながら大統領選を鮮やかに分析している。
陰謀説で、踏み込んで断定する割には、2017年2月20現在において、多くが外れている。
極端で眉唾ものと思って読む分にはよい。
なぜか、この手の本はアマゾンでは評価が高い・・・。


*「『闇の支配者』最後の日々」
ベンジャミン・フルフォード著、2016年4月刊。

彼はカナダ出身のジャーナリストで日本に帰化。
この本ではトランプは扱われていませんが、米国の裏側を知りたいと思って読みました。
日本、米国、世界を股にかける闇の支配者が出て来ます。
私には、真贋を検証する力がありませんので、途中で放棄しました。
これもアマゾンでは評価が高い・・・。


*「トランプ・シフト これからの世界経済に備える14のこと」
塚口直史著、2016年12月刊。

彼は大成功しているヘッジファンドマネージャーで、世界の政治史にも見識がある。
この本は、トランプ後の世界の経済・金融を理解するには必見です。
経済用語が出て来て読みづらいところはあるが、読めば世界の現状と混乱の広がる様子を知ることが出来ます。
日本のアベノミクス、日銀政策についても明快な判定を下しています。

彼は、現実に大きな資金を運用する立場にある為、この危機にあって、今は様子待ち(手元流動性を高め)を行い、しっかりと備えるべきと警鐘を鳴らしています。

私がトランプの次に恐れているのは、中国経済の崩壊ですが、これがトランプによって更に悪化するかもしれない。
世界の悲運は、政府の些細な判断ミスや外交ミスの積み重ねで訪れるものです。

これで終わります。


注釈1
既述の「トランプ大統領とアメリカの真実」


注釈2
「マイナス金利「税」で凍りつく日本経済」副島 隆彦 著。




20170218

Bring peace to the Middle East! 69: Why was it exhausted ? 7: The period background of imperialism 2


中東に平和を! 69:  なぜ疲弊したのか 7: 帝国主義の時代背景 2





*1

Last time we saw why the imperialism began.
However, the explanation lacks a certain something. 

前回、なぜ帝国主義が始まったのかを見ました。
しかし、何か大事なことが抜けている。




*2

What did it lack?
In the previous explanation, it is difficult to understand why competition for getting parts of colony began in the 1880's.
There must be a common motive for Western countries, and I think it eventually led to two great wars.

In the latter half of the 19th century, there are some important changes that occurred in the Western Europe.

A: Capital exports and emigrants from the Western Europe had doubled every 10 years.
For example, the development of steamboats expanded a maritime traffic, and the export value was growing every year.
After the Industrial Revolution, the economy and the science technology developed, so the difference in national power between the UK and the US or the Germany was decreasing in size.

B: Although the economic recession had already occurred repeatedly, finally a major depression lasted for about 20 years since 1873.
As a result, each country took a protective trade policy, and at a same time nationalist sentiment intensified.

C: A thought "The Western Europe is superior to the other world and develops" had been timely widespread .
The people adopted Darwin's theory of evolution, and they were convinced that the excellent Western civilization was evolving through the principle of the survival of the fittest.

D: In 1884, 14 Western countries held a conference in Berlin, and decided the rules of partition of Africa, then after that the competition for getting parts of colony began.

At that time, the Africa was an unexplored area where fever disease spread in, and the colony of the Western Europe was only 10% in it.
A conflict occurred when countries (Belgium etc.) that had lagged behind in getting of colony tried to enter it.
In order to prevent this conflict, certain rule " the country that first occupied and dominated colony is granted the control of it" was stipulated.
Thus, the competition began.

Although there is a part overlapping with the previous explanation, you may notice a strange something.


何が抜けているのか
前回の説明では、1880年代から植民地獲得競争がなぜ始まったが分かり難い。
やはり西欧諸国に共通する動機があるはずで、やがてそれが二度の大戦へと繋がったように思える。

19世紀後半、西欧に起きていた重要な変化を挙げます。

A: 西欧からの資本輸出と移民が10年毎に倍増した。
例えば蒸気船の進歩が海上交通を発展させ、輸出額は毎年伸びていった。
また産業革命後、経済と科学技術が発展し、これによって英国と米国やドイツなどの国力差が縮小した。

B: 既に景気後退が繰り返し生じていたが、ついに1873年から大不況が約20年間続いた。
これによって各国は保護貿易に転じ、また愛国主義の風潮が高まっていった。

C: まさにこの時期、「西欧は世界に優越し発展する」との思想が広まっていた。
彼らはダーウインの進化論を取り入れて、優れた西欧文明は適者生存により発展していると確信した。

D: 1884年、西欧14カ国がベルリン会議を開き、アフリカ分割のルールを決め、この後、植民地獲得競争が始まった。

当時、アフリカは熱病が蔓延する未開の地で、1割が西欧の植民地となっていただけであった。
そこで、植民地獲得に遅れをとっていた国(ベルギー)が参入しようとして衝突が起きた。
この争いを防ぐ為に、ルール「先に占領し支配した国が領有する」が定められた。
こうして競争が始まった。

これは前回の説明と重複するところもあるが、こうして見ると不思議な事に気づく。




*3

What is it?
That is certain mentality of the Western Europe that appears in the above paragraph C and D, and it is probably more intense than East Asia.

If I were to use one word, it will be a feeling of superiority passing over a self-confidence of Westerners.
They who were Christian and White despised pagans and different races.
They understood a social system that was different from their society as deteriorating or undeveloped society.
What an inconsistent stance. Annotation 1.


それは何か
それは前述のC,D項に現れている西欧の心性で、おそらく東アジアより強烈と思われます。

敢えて言うならば、それは西欧人の自信を通り越した優越感でしょうか。
キリスト教徒であり白人である彼らは異教徒や異なる人種を蔑んだ。
彼らは自分達の社会制度と異なるものは劣化か未発達だと捉えるところがある。

例えば、欧米は東京裁判において日本を「平和に対する罪」などで裁いた。
この罪は侵略戦争に対して言っているのですが、この60年前のベルリン会議で、欧米は侵略を合法化していたのです。
如何にも矛盾しています。注釈1.



*4

What is the mentality of the imperialism?
In the age of European Imperialism, the brutality of the Western Europe that was shown in colonies was based on a strong discriminatory sentiments and contempt.

This would have lowered resistance sentiments toward exploiting and controlling the colonies.
Although this mentality was also common to the empire of Japan and the fascism of Nazi Germany.


Then, what has happened?
In 1914, the First World War began from one assassination incident in the Balkans.

In the competition for colony, the Western countries did not big fight against each other.
However, during the competition, eventually the greed of larger countries and the  backlash of the colony must have exploded.

Knowing this process, the judgment of whether the imperialism was holding down internal conflicts or was preparing the world war depends upon the person.
I have the latter view.

This continues to the next time.



帝国主義の心性とは何か
帝国主義の時代、西欧が植民地で行った蛮行に通底しているのは、強烈な差別感情、蔑視でした。
これが植民地への搾取や支配への抵抗感を低くしたことでしょう。
もっとも、この心性は大日本帝国やナチスドイツのファシズムにも共通していたのですが。


その後、何が起きたのか
1914年、バルカン半島での一つの暗殺事件から第一次世界大戦が始まります。

植民地争奪では西欧各国は互いに大きな戦闘をすることはなかった。
しかし、植民地の獲得競争の中で、やがて大国の強欲と植民地の反発は爆発することになった。

この経緯を見て、帝国主義が内紛を抑えていたのか、はたまた世界大戦を準備していたのかは判断が別れます。
私は、後者の見方に立ちます。


次回に続きます。



注釈1.
この60年間の隔たりをどう見るのか。
それまでの西欧の激しい対立と戦争の歴史、特に二つの大戦の経験から、彼らは大いに反省し、自らも含めて侵略行為に制裁を科そうとしたのだろうか。
残念ながらそうは思えない。
米国による広島への原爆投下や、ベトナム戦争などから察すると、やはり欧米の異人種・異教徒への蔑視と復讐心は強烈で、自戒をあまり期待できないようです。

私は東京裁判の意義を認めるが、この心性に人類共通ではない特有の恐ろしさを見る。
しかし、この章では深く立ち入らない。


参考文献
帝国主義については下記図書を主に参考にしました。
「概説 世界経済史Ⅱ」p176-191.
「早わかり 世界史」p254-259.
「世界の歴史 帝国の時代8」第二章。
「世界歴史地図」ムーア著、第9章。
「丸善エンサイクロペディア 大百科」p1778.
「帝国主義」アンドリュー・ポーター著。


20170217

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 33: ワルシャワ3



 *1


今日は、王宮広場からクラクフ郊外通りを紹介します。
紺碧の空に映える建物や通りを歩き、ショパンの関わりある場所を巡りました。


 
< 2. 王宮広場 >

上の写真: 奥が、既に紹介した旧市街で、右手が旧王宮です。
中央に立っているのはジグムント3世の像です。
この王がポーランド・リトアニア共和国(1569-1795年間、現在のポーランド、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナを含む大国)を継承し、1596年に首都をクラクフからワルシャワに移した。

下の写真: 旧市街を見ています。
建物の間の通りを行くと旧市街広場に戻ります。


 
< 3.旧王宮 >

上の写真: 現在博物館になっている旧王宮。
ジグムント3世の居城だっただけでなく国会などしても使用された。
第二次世界大戦で完全に破壊されたが再建された。

中央の写真: 旧王宮の中庭。

下の写真: 中庭のポスター。
これらは1956年のポーランドのポズナン暴動とハンガリー動乱を扱っているようです。
この事件はソ連でフルシチョフがスターリン批判をしたことに端を発して、両国の民衆がソ連と自国の共産政権への不満から暴動となった。
ポーランドは自国で鎮圧し死傷者は百名ほどであった。
しかしハンガリーはソ連軍によって鎮圧され2万人近くが死に、20万人が難民となった。



 
< 4.王の道を行く >

上の写真: 今回紹介するコース。
Sは王宮広場で、Eは徒歩観光の終点で、この間はクラクフ郊外通りです。
この通りを右側(南)に真っすぐ行くと、中心市街地の新世界通りを抜け、後に紹介するワジェンキ水上宮殿公園に至り、この道は王の道の一部です
Aは大統領官邸、Bは道を挟んでチャプスキ宮殿とワルシャワ大学、Cは聖十字架教会、Hは私達のホテル。

中央の写真: 王宮広場からクラクフ郊外通りを見ている。

下の写真: クラクフ郊外通りから王宮広場の方を見ている。


 
< 5.クラクフ郊外通り  >

上の写真: 王宮広場の方を見ている。

中央の写真: ポーランドの国民的詩人の像。
彼はショパンと同時期に活躍した。

下の写真: Kościół seminaryjny w Warszawie
17世紀に造られ始め18世紀のファサードを持つカトリック教会。 
詩人の像と大統領官邸の間にある。


 
< 6.大統領官邸 >

上の写真: クラクフ郊外通りの中頃から南側を見ている。

中央の写真: 大統領官邸の前に立つポーランドの英雄像。
彼は19世紀始め、ナポレオンに従って祖国ポーランドの為に戦い、戦死した。
彼は池田理代子の漫画『天の涯まで ポーランド秘史』の主人公となっている。

奥の大統領官邸はかつて貴族の館で、18世紀に一部劇場として開放され、ここでショパンが初めてのピアノ演奏会を行った。

下の写真: 18世紀に建てられた後期バロック様式のヴィジトキ教会。
学生のショパンがこの教会の日曜ミサでオルガニストをしていた。


 
< 7. ワルシャワ大学 >

上二つの写真: ワルシャワ大学。
かつてショパンはこの大学内の中・高等学校で学んだことがあった。

下の写真: クラクフ郊外通りの中頃から北側を見ている



 
< 8.ショパンのゆかりの地 >

上の写真: ユニークな像が入り口を飾る建物。

下左の写真: かつてのチャプスキ宮殿、現在は美術アカデミー。
写真は正面左側の建物で、ショパン一家は1827~1830年までこの3階で暮らした。
1830年、彼がウィーン滞在中にワルシャワでロシアからの独立を求めて「十一月蜂起」が勃発し、帰国を断念し、パリに赴いた。
ショパンにとっては、ポーランドで最後の家となった。

下右の写真: これはショパンのベンで、ショパンゆかりの地に幾つも置かれている。
ベンチには説明が書かれており、ボタンを押すとショパンの曲が流れてくる。


 
< 9.聖十字架教会 >

上の写真: 鐘楼はクラクフ郊外通りのほぼ北の端に建つ聖十字架教会。
下二枚の写真: 聖十字架教会の内部。
ショパンの心臓が右の柱に埋められている。
彼は39歳の若さで肺結核でパリに死すが、彼は埋葬を嫌い、遺言に従いこの教会に眠ることになった。


 
< 10.広場や通りの人々 1 >

 
< 11. 広場や通りの人々 2 >

下の写真: 先ほど紹介した美術アカデミー(チャプスキ宮殿)の奥の建物。


ワルシャワ・ゲットについて
前回紹介した最高裁判所の脇にワルシャワ・ゲットーの境界跡と記念碑がありました。
その位置は下の地図の黒の矢印で、黒の楕円枠は城壁で囲まれた旧市街、黒の四角枠は私達のホテルです。
赤枠が第二次世界大戦中に設置したワルシャワ・ゲットーで、如何に巨大かがわかります。

私達はポーランドがホロコーストの主な舞台だったことを知っています。
一つには悪名高きアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所がポーランドにあったからでしょう。
ナチス・ドイツが殺戮したユダヤ人約600万の内、300万人はポーランドに暮らすユダヤ人でした。


 

< 12.ワルシャワ・ゲットー >

これらの地図と写真は1939年から1945年までのワルシャワ・ゲットーに関するものです。
*当時のワルシャワ・ゲットー赤枠で示されています。
*1942年、ゲットーのユダヤ人の絶滅収容所への移送。
*1940年、ゲットーの壁建設
*1943年、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人が武装蜂起した報復にドイツ軍は街を焼き払い掃討した。
*1943年、ワルシャワ・ゲットー蜂起鎮圧戦の最中に連行される人々。


私はユダヤ人で気になっていたことを、前回のポーランド女性に聞いてみた

質問1:
「映画シンドラーのリストでは、ポーランド人がユダヤ人迫害に同調したように描かれているが、どう思いますか?」

答え:
監督はユダヤ系アメリカ人なので迫害を際立っさせるために、ポーランド人を悪く描いているのでしょう
ポーランド人は、多くのユダヤ人を受け入れた国であり、他の場面ではユダヤ人を助けている」

質問2:
「リトアニアではユダヤ人がソ連の手先になって裏切り、ユダヤ人が嫌われたが、ポーランドではどうだったのか?」

答え:
答えは明瞭ではなかったが、ポーランド人はユダヤ人を嫌っていないと言いたいようでした


ポーランドのユダヤ人 注釈1
ユダヤ人は中世より西欧での迫害を逃れて東欧への移住を進めていた。
西欧では例え住むことが許されても、限られた町で職業と人数に制限があり、多くのユダヤ人の暮らし劣悪で人数も少なかった。

ユダヤ人は15世紀にはすでにワルシャワで暮らしていた。
民族的に寛容なポーランドでは、ユダヤ人はごく一部の大都市の旧市街を除いて、基本的にどこでも自由に住むことができた。
18世紀末以降、緩和が進み、旧市街にユダヤ人が住むようになった。
19世紀半ばより、キリスト教徒もユダヤ教徒も比較的裕福な人々は近代市街地やその郊外へと居を移していき、旧市街などには貧困層が集中して住むようになった。
この状態は20世紀のはじめまで続いた。
この時代、ワルシャワのユダヤ人人口は急増し、ユダヤ人の自治共同体が急成長した。
第二次世界大戦直前のワルシャワ市には全人口の30%にあたる38万人のユダヤ人が暮らしていた。
ワルシャワは、ニューヨークに次いでユダヤ人人口の多い都市だった。

ワルシャワ・ゲットーの歴史
1939年、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、ワルシャワは占領された。
ユダヤ人居住区でチフスが流行していた為、1940年、隔離の為にゲットーが建設され、その中に45万人が詰め込まれ封鎖された。
このユダヤ人は強制労働に駆り出され、食料配給は必要摂取カロリーの10分の1に過ぎなかった。

1942年7月、ユダヤ人の絶滅収容所への移送が始まるが、この時までに8万人が飢えと病で死亡していた。
これに抵抗してユダヤ人は暗殺を手始めに武装蜂起し、ワルシャワ・ゲットー蜂起を起こした。
しかしドイツ軍による1か月の鎮圧で、全住民は移動させられゲットーは破壊された。
住民は瓦礫で圧死し、捕虜は銃殺され、残りは強制収容所で死んだ。

1945年、ソ連軍が到着するまでにワルシャワで生き残ったユダヤ人は約200人だった。

次回に続く。



注釈1
説明は主にウィキペディアによる。