20161224

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 19: タリン 2





*1

今日は、首都タリンの港と旧市街の一部を紹介します。


 

< 2. 地図、すべて上が北です。 >

上の地図: 首都タリン。
番号1のホテルと番号2の「歌の原」は前回紹介しました。
番号3の港と番号4の青枠の旧市街を今回紹介します。
青枠は支配者達が居を構えた丘の上にある「山の手」です。

番号5の赤枠の旧市街は次回紹介します。
赤枠は商人や職人が築いた平地の「下町」です
旧市街の大きさは両方で一辺800mぐらいです。

下の地図: 旧市街の「山の手」の拡大です。
赤線が今回紹介する徒歩のルートで、Sから歩き始めて、eの展望台まで行きました。

ライブカメラ: 世界遺産「タリンの旧市街」のラエコヤ広場。
現在、ちょうどクリスマスマーケットが行われています。
次回、「下町」で紹介します。
TALLINN TOWN HALL SQUARE – VIEW FROM RESTAURANT DOM



 

< 3. 港 >

上の写真: フェリー乗り場のターミナルです。
中央の写真: 中央奥に旧市街の教会の尖塔が見えます。
下の写真: ターミナルから埠頭を望む。

この港から対岸のヘルシンキ、フィンランド湾の奥にあるサンクトペテルブルグ、またバルト海を抜けてヨーロッパに渡ることが出来ます。

この地は、ロシアとスカンディナヴィア半島を結ぶ軍事戦略地点として、またノヴゴロド(ロシアの前身)と西欧を結ぶ中継貿易で繁栄を築いた。
この港は13世紀にハンザ同盟(最北端)に加わり、14世紀、デンマークからドイツ騎士団がこの地を買い取り、エストニアとラトビア(バルト三国の北側2ヵ国)にドイツ人の影響が残ることになった。


 

< 4. 市街 1 >

番号4と5の写真は、港から「山の手」のトームペア城までの3kmほどの車窓からの眺めです。


 

< 5. 市街 2 >

緑溢れる落ち着いた街並みです。


 

< 6.トームペア城 1 >

この塔は「のっぽのヘルマン」と呼ばれ、15世紀の姿を留めている。

エストニア人の砦があったこの丘「トームペア」に、13世紀初頭、ドイツの騎士団とデンマークによる北方十字軍が城を造った。
その後、支配者が幾たびも替わり、18世紀初頭からロシアがこの地を支配し、この城は宮殿へと改造されていった。


 

< 7.トームペア城 2 >

下の写真: 右手は宮殿側で、国の議会が入っているので見学が出来ない。



 

< 8.アレクサンドル・ネフスキー聖堂 >

上の写真: トームペア城側から見たアレクサンドル・ネフスキー聖堂。
1901年、当時支配していた帝政ロシアによって建てられたロシア正教会。
ここだけ違和感のある建築でした。
この中に日露戦争で沈没したバルチック艦隊の記念プレ-トがかけられている。
このバルチック艦隊は、エストニアとラトビアの港から出航した。
中を見学したが、写真を撮ることが出来ませんでした。

下の写真: アレクサンドル・ネフスキー聖堂の側面。
この道を奥に進み、坂を下ると「下町」に行くことが出来る。



< 9.山の手の街並み >

上の写真: 右手にアレクサンドル・ネフスキー聖堂、左手にトームペア城。
中央の写真: 上の写真の中央にある通りに入っていく。
下の写真: 大聖堂(トームキリク)周辺の建物。
この辺り教会関係者の住居だったのだろう。



< 10. 大聖堂(トームキリク)周辺 >

上2枚の写真: この大聖堂はタリンの中心的なプロテスタント教会。
13世紀にデンマーク人がここにカトリック教会を建設し、その後、火事で焼失したが18世紀に再建された。

見学しましたが撮影は出来ませんでした。
中は古く簡素でしたが、16世紀からの品々が集められており、まるで中世の田舎の教会に迷い込んだようでした。

下2枚の写真: 風情のある通り。


 

< 11. 展望台からの眺め  >

地図のe地点にある展望台から旧市街の北東方向を望む。
奥はタリン湾です。

次回に続きます。



20161223

Bring peace to the Middle East! 54: when religions were born 2: Judaism


中東に平和を!54: 宗教が誕生する時 2: ユダヤ教



<  1.  A miracle of Moses >
< 1. モーセの海割り >

This time, I investigate the birth of Judaism and after that time.
This is the oldest one among those five religions.

今回はユダヤ教誕生とその後を追います。
これは5つの宗教の中では最も古いものです。


Preface
The origin of the Jewish people lies in that various tribes had drifted to the ground of Palestine from each place of the Middle East and they gained their permanent residency after fights.
It was about the thirteenth century B.C.
This area was one of the oldest birthplaces of agriculture, had received the benefit of both civilization of Egypt and Mesopotamia, and a sophisticated culture grew up here.
However, the Jewish kingdom was on an only pathway between the both large kingdoms, therefore a alliance with one kingdom meant an attack from the other one, and the Jewish kingdom was subject to destruction and aggression many times.
In this occasion, many prophets appeared and sounded a note of warning to the Jewish people.
They severely criticized politics of King and an irreligion of people, and prognosticated the kingdom would perish before long


はじまり
ユダヤ民族の起源は、様々な部族が中東各地からパレスチナの地に流れ着き、戦いの末に定住を勝ち取ったことに始まる。
それは紀元前13世紀頃のことでした。
この地は、最古の農耕発祥地の一つであり、エジプトとメソポタミアの両文明の恩恵を受けて高い文化が育っていた。
しかし、ユダヤの国は両大国に挟まれた通り道にあたり、一方との同盟は他方からの攻撃を意味し、幾度も破壊と侵略を被った。
こんな折、幾多の預言者達が出現し、ユダヤ民族に警鐘を鳴らした。
彼らは王の政策と民の無信仰を痛烈に批判し、やがて国は滅亡するであろうと予言した。




<  2.  the Babylonian Captivity >
< 2. バビロンの捕囚 >


Turning point
A decisive misfortune befell them before long.
Powerful Assyria invaded and destroyed Jerusalem, and took the upper crust away to Baghdad.
However, in the sixth century B.C., an emperor of Persia of the new ruler absolved them, returned them to the Jerusalem, and permitted the rebuilding of a former Solomon shrine.
Their country Jerusalem became a small and waste vassal state that can't compare with the large empire of ex-Solomon.

The people thought that the national ruin was because of the anger of God, and should obey God.
The persons that took the central role in the rebuilding were compiling sacred texts that involved religious precepts and teachings since before 1,000 years B.C. as the oldest thing, and almost finished editing of the Old Testament in the third century B.C.
As a result of this, they may have wished to get the saving grace of God and the strong solidarity.

At the time of the rebuilding, there were the Jews who came back to Jerusalem, but on the other hand, there were the Jews that organized communities in each place of the Middle East, played an active part with using the accumulation of the high culture.


転機
やがて決定的な災厄が降りかかった。
強大なアッシリアが侵略し、エルサレムを破壊の後、ユダヤの上流階層をバクダットへと捕囚した。
しかし紀元前6世紀、新たな支配者のペルシア王が彼らを解放のうえ、エルサレムに戻し、かつてのソロモン神殿の再建を許した。
彼らの国土はかつてのソロモンの大帝国とは比べものにならないほど小さな荒れ果てた属州エルサレムだけになった。

人々は、亡国は神の怒りのせいであり、神に服従すべきと考えた。
再建を担った人々は、最古のものでは紀元前1千年前の戒律や教えを加え、紀元前3世紀には旧約聖書の編纂をほぼ終えた。
これによって彼らは神の御加護と強固な団結を得られることを望んだのだろう。

再建時、エルサレムに戻ったユダヤ人もいたが、中東各地に共同体を造り、高い文化の蓄積を生かして活躍する人々もいた。




<  3.  The rebuilding of Solomon shrine >
< 3. 神殿の再建 >

Point of the Judaism
This religion give greater importance to religious precepts in comparison with other religion.
It included law of early city-state period of Mesopotamia from their tribal rules.

What was entrusted by the people at the birth of this religion was to found a strong country by Jewish people, and it was natural that the religion identified with the law of their country.
To prevent the national ruin, they felt need for an unquestioning obedience to God, and it was to obey the religious precepts God gave.


ユダヤ教のポイント
他の宗教と比べ、最も戒律が重視されている。
それは部族の掟からメソポタミアの都市国家期の法までを含んでいた。

この宗教の誕生期に託されたのは、ユダヤ民族による強固な国造りであって、国の統治(法)と宗教は一体が当然だった。
彼らは、亡国を招かない為には神への絶対服従、つまり神の与えた戒律に絶対服従することだった。

 Afterwards
It lasted approximately 200 years when they were devoting themselves to the rebuilding although being a small country, and it was in the peaceful times.
However, Alexander the Great invaded in the 4th century B.C., and maelstrom of war lasted by the later internal trouble.
The Jew again built their kingdom in the second century B.C., but it became a vassal state since an invasion of the Roman Empire in 63 B.C.
During this time, the continuation of Judaism was forgiven, and the high priest continued to have the religious authority.

However, the misgovernment of the foreign rulers and a lack of understanding about Jewish culture continued.
Thus, the Jewish antipathy increased, resistance movements rose up in each place and it was sitting on a time bomb.

The next time is about Christianity.


その後
小さいながらも再建に専念した平和な時代は200年ほど続いた。
しかし紀元前4世紀のアレクサンダー大王の進攻、その後の内紛で戦火は続いた。
紀元前2世紀には、ユダヤ人は王国を築いたが、紀元前63年のローマ帝国の侵攻後、一属国となり果てた。
この間も、ユダヤ教は存続を許され、大祭司が宗教的権威を持ち続けた。

しかし、異国の統治者の失政やユダヤ文化への無理解が続き、ユダヤ人の反感は募り、各地で抵抗運動が起きて、一触即発の状態になっていた。


次回はキリスト教です。







20161222

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 18: タリン 1





*1

今日から、エストニアの首都タリンを紹介します。
2016年10月1日の早朝から昼過ぎまで、主に旧市街を観光しました。
この日は、朝の雨上がりの後、素晴らしい快晴となりました。



< 2. ホテル周辺 1 >
早朝、ホテルの周辺を少し散策しました。
宿泊したホテルはÜlemiste Hotellで、旧市街から数km離れた所にあります。
ホテルの前には大きな湖、後ろにはタリン空港があります。

上の写真: この道を進むと都市の中心部、旧市街、タリン湾の港に行きます。

中央の写真: 上とは逆の方向です。

下の写真: 右側がホテル、左側が大型スーパーです。
当初、このスーパー(オープンAM10:00-PM9:00)に行ってみたかったのですが、前日ホテルで食事を終えたのが遅く、また朝の出発が早かったので行くことが出来ませんでした



< 3. ホテル周辺 2 >

2枚の写真: 少し歩いて電車の高架橋近くまで行きました。
ここを抜けて行くと町の中心部になります。

下の写真: ホテル近くのバス停。



< 4. ホテル周辺 3 >

上の写真: 湖。
中央の写真: 朝焼けの空港。
下の写真: タリン湾の方に虹が架かっている。




< 5. ホテルの最上階からの眺め  >

上の写真: 都市中心部の方。
中央の写真: 湖。
下の写真: 都市から離れる方。



< 6. 車窓からの市内 1  >

バスはホテルを出発し、市内を抜けて最初の観光地に向かいます。




< 7. 市内を行く 2  >

タリンの人口は39万人で、首都とはいえ非常にこじんまりしている。
ビル街は少なく、閑静な住宅街が広がっている感じです。




< 8. 「歌の原」に到着  >

目的の場所に到着した。
ここはエストニア、いやバルト三国にとっても心の叫びが奇跡を生んだ誇り高き場所なのです。

バルト三国では昔から毎4、5年ごとに、国を挙げての音楽祭が開かれていた。
かつてバルト三国は揃って一度、二つの大戦の間だけ独立したことがあった。
しかし第二次世界大戦が始まるとソ連に占領され、国歌や民謡を母国語で歌うことが禁止された。

一方、ゴルバチョフがソ連でペレストロイカを始めると、この地にも変化の兆し現れた。
1986年からバルト三国の各首都で大規模集会が開かれたが、逮捕者が出て終わっていた。
ついに、1988年9月、全エストニアの4分の1に当たる30万人がここに集まり、独立の思いを歌にした。
エストニア政府は連邦の方針に逆らい、抗議行動を許可し、この「歌う革命」は4年以上続くことになった。

1989年5月、タリンでバルト三国の独立の為の会議がもたれた。
こうして9月、バルト三国の首都を結ぶ600kmをそれぞれの国民200万人が手をつなぎ、人間の鎖を作った。
私達のバスは後にこの道を走ることになります。

1991年には、バルト三国のすべてがほぼ平和裏に独立を果たしていた。

「歌の原」で行われた2009年の歌声の祭典の公式ビデオです。
歌が持つ力に感動します。




< 9. 歌の原 1  >

上の写真: この静かな場所で感動がおこりました。

下の写真: タリンの港が見えています。




< 10. 歌の原 2 >

黄葉と朝陽が心を高揚させます。


今回の旅では、これから訪れる各国で自由と独立とは何かを考えることになりました。

次回に続きます。



20161221

Bring peace to the Middle East! 53: when religions were born 1: preface


中東に平和を! 53: 宗教が誕生する時 1: はじめに




<  1.  Salt March by Gandhi >
< 1. ガンジーの塩の行進 >


When I thought about Middle East problems, as for religion, I got worried about a deep religious antagonism and a secularization (secular politics) of Islam.
I examine the secularization (relations among religion, law and politics) by surveying the birth period of each religion from now on.

中東問題を考えた時、宗教に関して、根深い宗教対立とイスラム教の世俗化(政教分離)が気になりました。
これから宗教の誕生期を概観することにより世俗化(宗教と法と政治の関係)を考察します。




<  2. Jewish Diaspora >
< 2. ユダヤのディアスポラ >

Preface
I look back on the birth of Judaism, Christianity, Buddhism, Confucianism and Islam, so the problem become clear through comparison of these.
We already saw religious antagonism and persecution in this serialization.
I examine how each religion was predetermined to be concerned with law and politics.

Firstly I look at the benefits of religion.
The religion brings people a hope, encourages good acts and produced the society which people are helping each other.
In addition, it reduces dissatisfaction of people, increases citizen compliance, and has a effect of reducing conflict from the society.

On the other hand, the believer came to have strongly feelings of slight and hostility against different religions.
In addition, occasionally the law (religious precepts) of the sacred book couldn't respond flexibly to changes in the society, and the strong religious organization brought harm.

The religion inherits the doctrine (law) and role (social system) since the birth.
When there is only sacred book that a founder of the religion talked, it is so especially.
This is one of the reasons that cause a mismatch between modern society and religion.
However, the degree of the mismatch is not decided only with a long duration of the religion.
It changes depending on how each religion was associating with politics and law of the society.

I investigate this difference through looking back on the process of the birth period of each religion.


はじめに
ユダヤ教、キリスト教、仏教、儒教、イスラム教の誕生期を振り返り、比較することにより問題点が明瞭になります。
既に、この連載で宗教対立や迫害を見てきました。
ここでは個々の宗教が法と政治にどのように関わるように運命づけられたかを考察します。

はじめに宗教がもたらす恩恵を見ておきます。
宗教は人々に希望をもたらし、善い行いを奨励し、共に助け合う社会を生みだしました。
また人々の不満を減らし、順法精神を高め、社会から紛争を減らす効用もあった。

一方、信者は異教徒に対して蔑視や敵対の感情を強く持つようになった。
また聖典の法(戒律)が社会の変化に合わなくなったり、強力な教団が災いを生むこともあった。

宗教は誕生期の教義(法)や役割(システム)をそのまま継承し続けます。
宗祖が語ったとされる聖典がある場合はそうです。
このことが現代社会と宗教との間に齟齬をきたす理由の一つです。
しかし、その齟齬の度合いは宗教誕生の古さだけで決まるわけではありません。
それは、個々の宗教が政治や法とどのように関わって来たかで影響を受けます。

この差異を宗教誕生の過程を見ながら探って行きます。




<  3. Confucius lived during the Spring and Autumn and Warring States periods >
< 3.孔子が生きた春秋戦国時代 >

Historical backdrop that is common among the birth period of religions
I look at some common points before talking about the difference of these religions.
All societies where the religion was born were in the reform period, and advanced information had been brought to the society.
The reform period means that the society came to ruin due to a series of war or a natural disaster, and the birth of new rank or the thought had occurred due to the developing of city and economy.
The advanced information means new religion having the advanced doctrine, or civilization to bring new thought and technique.

For example.
The Judaism was born on the way of the national rebuilding from the country destroyed in the period of war.
The time of Jesus was in the period of war, and Hellenism culture had become widespread. 
The time of Buddha was in the period of war, and many freethinkers had been born.
The time of Confucius was in the period of war, and many various thinker groups had been born.
The time of Muhammad was in the period of war, and two monotheistic religions had become widespread. 


宗教の誕生期に共通する時代背景
宗教の差異を語る前に共通点を見ておきます。

宗教が誕生した社会はすべて変革期にあり、さらに先進の情報がその社会にもたらされていた。
この変革期とは、戦争や天災続きで荒廃している場合と、都市や経済が発展し新しい階層や思想の誕生があった場合などです。
また先進の情報とは、進んだ教義を持つ新興宗教や、新しい思想や技術をもたらす文明などです。

例えば以下のようなことです。
ユダヤ教は争乱の世にあって、亡国から国家再建への途上で生まれた。
イエスの時代は争乱の世にあって、ヘレニズム文化が浸透していた。
釈迦の時代は争乱の世にあって、批判的な自由思想家が誕生していた。
孔子の時代は争乱の世にあって、多様な思想家集団が誕生していた。
ムハンマドの争乱の世にあって、一神教が浸透していた。




<  4. The Bible  >
< 4. 聖書 >

The difference of the religion is affected by each society of the time
At the period of the birth, there were religions being close to politics and religions being away from it.
It depended on what the religion intended to change.

The Judaism abandoned old religion, and intended to rebuild formerly nation together.
The Christianity criticized the Judaism associated with authority, but found a way out by associating with the Roman Empire.
The Buddhism criticized the Brahmanism associated with royal families and went away from politics.
The Confucianism hoped to revival of formerly ancient religion, and entrusted royal families with it.
The Islam abandoned old religion, and intended to found an unified country together.


宗教の差異は当時の社会の影響を受けている
その誕生期に、政治に近い宗教と、政治から遠ざかっている宗教がありました。
それはその宗教が何を変革することを目的にしていたかに関わりました。

ユダヤ教は、古い宗教を捨て、一丸となって国家を再建することでした。
キリスト教は権力と結びついたユダヤ教を批判したが、ローマ帝国と結びつくことで活路を開いた。
仏教は王家と結びついたバラモン教を批判し、政治から遠ざかった。
儒教は、いにしえの宗教の再興を願い、それを王家に託した。
イスラム教は、古い宗教を捨て、一丸となって統一国家をつくることでした。




<  5.  Baptism of an emperor of Rome  >
< 5. ローマ皇帝の洗礼 >

This continues the next time.

次回に続きます。




20161218

ドラマ「東京裁判」を見て


 *1



今日は、素晴らしい再現ドラマ「東京裁判」を紹介します。
これはNHKのテレビ番組で、この12月12~15日に放送されたものです。
YouTubeで「東京裁判 NHKドラマ」が見れます。



< 2. 実在の主役達 >

上の写真: 東京裁判の被告席。
中央の写真: 東条内閣。
下の写真: 東京裁判の11人の判事達。



はじめに
東京裁判は、勝者の意趣返し、または戦争否定に繋がったと評価が分かれている。
また私にとって東京裁判はいつか全貌を知らなければならない課題でした。

それは、「日本を戦争へと突き進ませた状況をどう見るか?」でした。
言い換えれば、「戦争の責任は国の指導者、国際状況、国民のいずれがより重いのか?」になる。

今一つは、「国際法(国家間で作った条約など)に期待を託せるのか?」でした。
言い換えれば、「国際法で国家や戦争を裁くことが可能か?」になる。

その答えは先送りになったが、私はドラマに救われた思いがした。
ドラマでは各国から派遣された11人の判事が「日本の戦争」に真剣に取り組み、篤く議論する姿が描かれていた。
彼らは「悲惨な戦争の再発防止」「残虐行為への懲罰」「厳密な法適用」「戦争への根源的な問い」など、それぞれの信条に従い議論し、ぶつかりまた協力して行く。
そして半年で終わるはずの裁判は2年半に及んだ。

超難題を抱える裁判の裏側を、各国の名優が演じ切った。
素晴らしい人間ドラマです。


東京裁判について、マイペディアよりコピー

「極東国際軍事裁判が正称。
1946年1月19日連合国最高司令官マッカーサーの命令で設立された極東国際軍事裁判所が日本の戦争指導者に対して行った裁判。
原告は米・英・中・ソのほか7ヵ国。
同年5月3日より東京市谷で開廷。
裁判長はオーストラリアのウェッブ。
首席検察官は米国のキーナン。
戦争犯罪を〈平和に対する罪〉〈殺人の罪〉〈通常の戦争犯罪と人道に対する罪〉に分けて満州事変以来の日本軍閥の侵略を追及。
19481112日判決。
東条英機ら7名が絞首刑,荒木貞夫ら16名が終身禁錮。
ニュルンベルク裁判とともに二大国際裁判といわれる。」


日本の戦争
満州事変に始まり日中戦争へ、さらに真珠湾攻撃から太平洋戦争へと突き進んだ。
そして、最後は日本全土の空襲と原爆投下で終戦となった。
この第二次世界大戦で世界の人口の2.5%(民間人5500万人、軍人2500万人)が死んだ。



< 3.日本の戦争 >




< 4. ドラマのシーン 1>

上の映像: 判事達が裁判に臨むシーン。
先頭にいるのはオーストラリアのウエッブ裁判長。

下の映像: 判事全員が被告人の罪の有無、量刑について議論するシーン。

初めは、まとまっているように見えたが、やがて亀裂が走り始める。
その一つの論点は「平和に対する罪」で被告を裁けるかどうかでした。

実は、世界はながらく戦争を国家の権利(自衛権)と見なしていたのです。
どう法律家があがいても、戦争する国を止めることが出来なかったからです。
一方、戦闘手段の制限は12世紀頃から国際法として徐々に発展し、戦争犯罪が確定していった。
しかし、世界は第一次世界大戦後の壮絶な殺し合いを経験し、戦争を違法とするパリ不戦条約を発行した。
しかし、これは不完全であり、また戦争を再発させてしまった。
その反省から、第二次世界大戦中の1995年に連合国が中心となり「平和に対する罪」を規定した国際軍事裁判所憲章を急遽作った。

それに加え、様々な論点が波乱を呼んだ。



< 5.ドラマのシーン2 >

一番上の写真: オランダのレ-リンク判事と竹山道雄(「ビルマの竪琴」の著者)との交友。
レ-リンク判事はパール判事に感化され、後に判決に対する反対意見書を提出した。
彼は事後法の問題は逃れえるが、日本の指導者への極刑は過ぎると反対した。
ドラマでは、彼が中心になっているように思える。

二番目の写真: 英国のパトリック判事(中央)が中心となって日本の戦争指導者に断固、極刑を課する多数派を結成する。
アメリカ、中国、フィリピン、ロシア、カナダ、ニュージーランドがこれに同調し、弱腰の裁判長の追い出しや判決文作成を担った。
彼らは国際軍事裁判所憲章の順守とニュルンベルク裁判の成果を損ねないことを盾にした。
そこには各国の事情や個人の偏見や復讐心が垣間見えた。

三番目の写真: インドのパール判事。
彼は当初から、法の恣意的な適用に断固反対し、1235ページに及ぶ別個の判決文を提出した。
日本の行った戦争犯罪を裁くことは可能だが、法のプロが事後法の「平和に対する罪」を適用することがあってはならないとした。
また焦土と化した日本を見て、欧米先進国の身勝手さと思い上がりを痛烈に批判した。
それは原爆投下、また世界に害悪をもたらした帝国主義、日本を軍事大国に追い込んだかもしれない行為を顧みない姿勢です。

四番目の写真: フランスのベルナール判事。
彼も法律家として、東京裁判が正当化出来ないとして、反対の立場から意見書を提出した。



<6.資料 >

上の地図: 第二次世界大戦での日本の最大占領地。
中央の写真: マッカーサーと天皇。
二人は東京裁判での日米の主役でした。

下の写真: 実写フイルム。
東京裁判で日本側弁護人となった米国のブレイクニーの口からから発せらた驚くべき言葉。
「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。」


あとがき
私はこの手のNHKの活躍を誇り思い感謝します。
これまでもNHKは、ベトナム戦争や日本の戦争について徹底した調査を行い、分かりやすい形で放送して来た。
このドラマはオランダ、カナダとの共同制作で、8年もの歳月をかけたらしい。

ドラマで描かれた赤裸々な葛藤や苦悶、断固意思を貫く人々が絡み合う血の通った論争シーン、どれもが私を魅了した。

一方で残念なこともある。
無理だとは思うが、国際法の今後、「世界が国家の不正義を裁くこと」の意味を語って欲しかった。

残念ながら、現在の状況を見るとパール判事の言った、「世界はまだ未成熟である」が70年後も変わらないようです。
相変わらず、大国は恣意的な戦闘や軍事援助を行い続け、止める算段がないどころか、深みにはまるばかりです。

お読みいただき感謝します。



20161217

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 17: バスの車窓から見たエストニア 1







*1

今日は、ナルヴァからタリンまでの景色を紹介します。
2016年9月30日の午後、バスは210kmの道のりを走りましたが、1時間ほどで日が暮れたので、写真はナルヴァから50kmぐらいまでになります。


 
< 2.地図、共に上が北 >

上の地図: エストニアを示す。
エストニアは東にロシア、南にラトビアと接し、海を挟んで北にフィンランドがあります。
人口は134万人で、面積は北海道の6割です。

下の地図: バスの走行ルート。
赤丸がナルヴァ、黄丸が首都タリンで、宿泊はタリンです。
矢印がトイレ休憩のガソリンスタンドOlerexi Sillamäe tanklaのある町で、ナルヴァから25kmぐらいです。




 
< 3. ナルヴァの町 1 >

ナルヴァは人口66000人の町で、オイルシェールが産出され、エストニア屈指の工業地帯になっている。



 
< 4. ナルヴァの町 2 >

幹線道路を抜けていく分には、町は古さを感じさせなかった。


 

*5

のどかな景色が続く。
この日、走ったナルヴァまでのロシア側よりも森林が少ないように思うが、
それでも遠方には深い森林が広がっている。
耕作地のようだが、ロシアもエストニア側でも実っている作物をほとんど見ることはなかった。
この辺りの冬の最低気温(夜)は-8℃で、積雪になる。

こちらでもロシアと同様に密集した農家の集落を、幹線道路からほとんど見ることがない。


 
*6


 
< 7. 休憩したガソリンスタンドから 1>


 
< 8. 休憩したガソリンスタンドから 2 >

上の写真: このバスは都市間を走るバスのようで、ガソリンスタンドの横に待合室がある。
今回の旅行で立ち寄ったガソリンスタンドにはトイレだけでなくレストランや売店があった。
これも旅の楽しみの一つです。

下の写真: アパートの団地のようです。



 
*9

上の写真: ガソリンスタンドを横切る地元の人々。


 
*10

上の写真: ガソリンスタンドの町を過ぎた所にある川。
下の写真: 夕日が沈んで行く。
これ以降は闇の中をバスは走り続けることになる。


次回に続きます。