20160521

地中海とカナリヤ諸島クルーズ 15: カサブランカ 3

 

< 1. 海岸で釣りを楽しむ親子 >

今日は、海岸やショッピングモールで憩う市民の素顔を紹介します。
2016年3月6日、日曜日、14:00~16:00に撮影しました。



< 2. 霊廟、Mausolée de Sidi Abderrahmane >

岩礁の上に立つ白い霊廟が晴れた空と大西洋の青さに映えていました。
多くの人が橋を往来していました。
この辺りは、高級リゾート地から外れており、市民の憩いの場のようです。
風が強いにも関わらず、多くの人々が散策を楽しんでいました。



< 3. 霊廟の周辺 >

海岸沿いの道や浜辺には、多くの市民が出ていました。


< 4. 海岸沿いの道で >
上の写真: 子供が子馬の乗馬で商売をしていました。
下の写真: 高級リゾート地寄りの歩道にたむろする若者達。



< 5. 霊廟近くの岩礁で 1 >
ここにはそれぞれ一組の夫婦らしいカップル、親子、女性が写っています。
実に、良い雰囲気です。
ここには派手さはないが、豊かな時間が流れていました。




< 6.霊廟近くの岩礁で 2 >
上の写真: 西側を見ています。
左手、すぐ近くの海岸にモロッコモールがあります。

真ん中の写真: 子供が一人で釣りをしています。
下の写真: 陸地の方を見ています。


 

海岸を写した21秒の映像です。



< 7. モロッコモール >
以下の写真は総べてこのモール内の写真です。

私はショッピングモールの1階の一部を散策しました。
入口で警備員が手荷物検査をしていました。
その対応は高圧的ではなかった。




< 8. 中央部 >
上の写真: 中央に大きな水槽があり、海の魚が泳いでいます。



モロッコモール内部を写した15秒の映像です。




< 9. 店舗 >
上の写真: 私達がアイスクリームを食べた店。
店が外側に張り出しており、眩しい陽光を感じながらのひとときでした。





< 10. 素顔 >
上の写真: 出会った親子。
お母さんに写真を撮っても良いかと聞くと、こころよくお受けしてくれた。
ところが弟の方が恥ずかしがり、お母さんの後ろに隠れてしまいました。
写っているのは兄さんの方です。

感想
真っ先に感じたのは、人々は素朴さの中に活力を秘めていることでした。
人々の肌の色は様々で、服装も様々でした。
多様さがあたりまえの世界だとも感じた。
そこには日本の様な均質な社会とは異なる世界がありました。

次回に続きます。




20160520

Bring peace to the Middle East! 13: Seeing the Middle East and Arab world in films 6: The historical backdrop


中東に平和を! 13: 映画に見る中東とアラブ世界 6: その時代背景




































< 1.  Central player of three films >
< 1. 三つの映画の主役 >

There is a common historical backdrop in the setting of “Lawrence of Arabia”, "The Four Feathers” and “The Wind and the Lion”.
It was imperialism, colonization by powerful countries.
I make the argument clear today.


既に紹介した三つの映画「アラビアのロレンス」「サハラに舞う羽根」「風とライオン」の舞台には共通する時代背景がありました。
それは帝国主義、列強による植民地化でした。
今日は、この問題を整理します。

In that time, what was taking place in the Middle East and Arab world?
この時代、中東とアラブ世界で何が起きていたのか





< 2.  Colonization >
< 2. 植民地 >
Upper map:  The greatest domain of Ottoman Empire.
Lower map:  Colonies at the time of 1914.
上の地図: オスマン帝国の最大領域。
下の地図: 1914年当時の殖民地。

An Algerian feudal lord was angry with France that continued avoiding paying a debt, and beat a consul in 1827.
France sent fleets on the pretext of it and Algeria surrendered at last by the armed forces.
France obtained Algeria without a difficulty in this way.

Egypt was ruled by the U.K. since 1882 as we saw in the case of "The Four Feathers”.

In 1911, Italy having got behind declared the war against Ottoman Empire suddenly to obtain Libya, and made it surrender.

Morocco had been an independent country for a long time, and the reason was Morocco could escape from the rule of Ottoman Empire because it was on the west edge,
However, the armed forces of powerful countries had been stationed as we saw in the case of “The Wind and the Lion”, and the scramble began.
In 1912, France divided North Africa with the U.K. and Italy, pushed out Germany attempting to interrupt, and possessed Morocco.

1827年、アルジェリアの太守が借金を踏み倒し続けるフランスに怒り、領事を叩いた。
フランスはこれを口実に艦隊を送り、ついには軍隊で降伏させた。
こうしてフランスは難なくアルジェリアを手に入れた。

エジプトは「サハラに舞う羽根」で見たように1882年から英国に支配されていた。

1911年、遅れをとっていたイタリアは、リビアを手に入れる為に突然、オスマン帝国に宣戦布告し、これを降伏させた。

モロッコは、西の端にあったおかげでオスマン帝国の支配を逃れ、長らく独立国であった。
しかし、「風とライオン」で見たように列強の軍隊が駐留し、取り合いが始まっていた。
1912年、フランスは北アフリカを英国とイタリアで分割し、割り込もうとしたドイツを排除し、モロッコを領有した。




< 3.  Middle Eastern colony >
< 3. 中東の植民地 >

The subjection of the Middle East began between 1920 and 1921, Syria and Lebanon was ruled by France, and Jordan, Palestine and Iraq was ruled by the U.K.
This stamped on the independence, the promise with the Arab of “Lawrence of Arabia”.
When the U.K. had governed Palestine, it was the beginning of the present conflict in Israel to have promised Jewish return.


In this way, powerful countries took advantage of Ottoman Empire’s weakness, had divided the Middle East and Arab world from about the 1870s, and subsequently had did the most of Africa.

中東は、1920から21年にかけて、シリア・レバノンはフランスの支配、ヨルダン・パレスチナ・イラクはイギリスの支配となった。
これは独立の為に戦ったアラブ、「アラビアのロレンス」の人々との約束を踏みにじるものでした。
英国がパレスチナを統治し、ユダヤ人の帰還を約束したことが、今のイスラエル紛争の発端になった。

こうして欧州列強は、1870年代頃より、オスマン帝国の弱体に付込み、中東とアラブを手に入れ、次いでアフリカ全土を分割していった。










< 4.  Colonies in the world in 1914 >
< 4. 1914年の世界の殖民地 >

Why did imperialism rise suddenly?
Since the mid-19th century, why did powerful countries fiercely compete for acquiring colonies by the armaments?

Some reasons.
Along with the changes of the industrial structure and economy in the powerful countries, they needed to expand the export of capital, the import of the food or raw materials, and the export of industrial products.
The domestic economy suffered from big recession many times, and the government had to turn away the people's dissatisfaction from their own countries.
The prohibition of slave trade in the mid-19th century forced the economy and trade of related countries to change.

Furthermore, a decline of the U.K., a rise of Germany and America, and advancing southward of Russia happened, and the balance of power among nations begun to collapse.
They worked synergistically and it began.

Before long, if a large amount of capital was spent in the colony and the people’s residence to the colony advanced, the powerful countries needed to keep that security.
Like this, the powerful countries came to have to continue forcing it even if the colony management was deficit.
After all, the powerful countries used tax, and flowed the people's blood, and then they oppressed many colonies.

This irrationality is due to the fact that they fall into the competition for acquiring colonies in large part with being tormented by uneasiness.


なぜ帝国主義が勃興したのか
19世紀中期以降、なぜ列強は軍事力によって植民地獲得にしのぎを削ったのだろうか。

いくつかの理由
列強の経済と産業構造の変化に伴い、列強は資本輸出、食料と原料輸入、工業製品輸出の拡大が必要になった。
その国内は幾度も大不況に見舞われ、政府は国民の不満を外部に逸らす必要があった。
19世紀半ばの奴隷貿易の禁止は、該当国の経済と貿易に変革を迫った。

さらに、英国の衰退、ドイツと米国の台頭、ロシアの南下など、国家間の均衡が崩れ始めた。
これらが相乗して始まった。

やがて植民地に多額の資本が投入され、国民の居留が進むと、列強はそれらの安全を守る必要が生じた。
こうなると植民地経営が赤字であろうが、列強はそれを強行し続けなければならなくなった。
結局、列強は税金を使い、国民の血を流したあげくに植民地を虐げることになった。

この不合理は、列強が不安に苛まれ、領土獲得競争に陥ったことが大きい。






< 5.  The imperialism caused the World War >
< 5. 帝国主義は世界大戦を招いた >

Lesson of the history

As described above, the imperialism made the independence reproduction (democracy and economic independence) of the ex-colony difficult.

However, there is more.
The competition for acquiring colonies converged to the opposition between the two huge groups (Triple Entente, Triple Alliance) before long.
In Balkan Peninsula, as one bullet desiring for national liberation was shot, the two huge groups fought to the full extent of the power, and Europe became weak.

After all, they checked opponents by territory expansion and armaments reinforcement, and destroyed themselves due to have depended on expansion of the alliance.

In the days of the law of the jungle, there were some countries that did not this folly in Europe.
It is Switzerland or Sweden.

This continues next time.

歴史の教訓
既に見たように、帝国主義はかつての植民地の自立再生(民主主義、経済自立)を困難にした。

しかしそれだけではない。
領土分割競争は、やがて2大陣営(三国協商、三国同盟)による対立へと収束していった。
そうしてバルカン半島での民族解放を求める一発の銃弾から、2大陣営が死力を尽くし戦い、欧州は弱体化した。

結局、列強は領土拡大と軍事力増強で相手を牽制し、さらに同盟拡大に頼ったことにより、自滅した。
これは今風に言えば、抑止力を高め集団的自衛権を行使したことになる。
第二次世界大戦後、国連でこの過ちを二度と犯すまいと議論されたのだが・・・・

当時、弱肉強食の時代にあって、この愚を犯さない国が欧州内にあった。
それはスイスやスウェーデンなどです。

次回に続きます。





20160519

Visiting from Tajima shore to Tango Peninsula 1: First



    

We traveled in San-in from May 12, 2016 to 14.
I enjoyed hot spring and Japanese food along with looking for original scenery of Japan.
Today, it is the digest

2016年5月12日から14日にかけて、山陰を旅行しました。
日本の原風景を探しながら、温泉と日本料理を味わって来ました。
今日は、そのダイジェストです。





< 2.  Our traveling area >
< 2. 旅行した所 >
Upper map:  The yellow frame is the range of following map.
Lower map:  A yellow line is the route that we drove, and the range that I took a picture.
Red dot is places to stay.

上の地図: 黄色の枠が下の地図の範囲です。
下の地図: 黄色の線が今回、私達がドライブした道筋で、写真撮影をした範囲です。
赤丸は私達が宿泊した場所です。




< 3.  Scenery of mountainous district >
< 3. 山地の風景 >
These mountains and trees were just the season of fresh green.
まさに山と木々は新緑の季節でした。




< 4.  Appearance of a fishing village
< 4. 漁村のたたずまい >




< 5.  Hot spring resort >
< 5. 温泉地 >
Our Japanese trip is always accompanied by hot spring, moreover a kaiseki ryori ( an elegant Japanese meal served in delicate courses) and a morning bath are indispensable.
I very yearned for Japanese food used of seafood when I ate European dishes in the cruise of the Mediterranean Sea.
I introduce at a later date the dish that our hotels served.


日本人の旅には温泉が付きもので、会席料理と朝風呂は不可欠です。
クルーズでヨーロッパ料理を食べていると無性に海の幸の日本料理が恋しくなりました。
旅館で出た料理を後に紹介します。




< 6.  Enjoying San-in shore
< 6. 山陰海岸を楽しむ >

We enjoyed the superb view of the shore on a pleasure boat from Hamasaka Port.
浜坂港で遊覧船に乗り、海岸の絶景を楽しみました。



< 7.  Aspect of shore >
< 7. 海岸の表情 >




< 8.  An original scenery of Japan >
< 8. 日本の原風景 >
The rice field being on a small cape, and many houses standing on the coastal slope remain the mode of old living of Japan.
岬の上に作られた水田、海沿いの斜面に並ぶ家々は、日本の昔の暮らしを物語っています。




< 9.  Ine-wan bay >
< 9. 伊根湾 >
This fishing port is famous for the funaya houses (there is a boathouse in a private house), and the mode comes from blessings bestowed by nature.
ここは舟屋で有名な漁港で、その姿は自然が生んだ良港の賜物です。




< 10.  Daijo-ji Temple in Kasumi >
< 10. 香住の大乗寺 >

It was lucky to have visited this temple.
In the old main temple, there are a lot of paintings of painter Oukyo Maruyama of the middle of the Edo era, and we can see it as the sliding panel paintings of each room.
I introduce it at a later date.

This continues the next.

この寺に出会えたことは幸運でした。
この古い寺の本堂に江戸中期の画家円山応挙と一門の絵が多数あり、それも各部屋の襖絵として見ることが出来ます。
後に、詳しく紹介します。


次回に続きます。





20160518

地中海とカナリヤ諸島クルーズ 14: カサブランカ 2


 

< 1. 旧メディナの時計台、The Old Medina。地図No7 >

今日は、私が見たカサブランカの全体像を紹介します。




< 2. カサブランカの地図、上が北です >
3本の線が、徒歩やバスから見た所です。
赤線は海岸沿いの10kmの道で、後半はリゾート地帯になっている。
青線の道は不確かなのですが、高級住宅街がありました。
緑線はカサブランカの中心部です。
数字は、写真撮影のおおよその位置を示します。



< 3. 港の近く >
上の写真: 地図No1。左側にGare de Casa-Port駅、右に行くと国連広場、Station Place des Nations Unies

下の3枚の写真: 地図No1~2。旧メディナ、The Old Medina、の壁が見える。
この一帯は、貧しい人々が暮らす地域のようです。



< 4.ハッサン2世モスクの近く >
上の写真: 地図No2。ハッサン2世モスクの駐車場から西側を見る。
中央の写真: 地図No2~4。内陸側の街並み。
下の写真: 地図No2~4。内陸側の邸宅街。
港から離れるにしたがって、家並みが立派になっていく。




< 5. コルニッシュ通り、Boulevard de la Corniche >
上の写真: 地図No3。サウジアラビア王家のモスク。Mosquée Al Saoud.
毎年、サウジ王家は近くの別荘に来るそうで、モロッコ王家と親しい。

下の2枚の写真: 地図No3から4の途中まで。高級ホテル、レストラン、カフェが並ぶ高級リゾート地。
風は強いが、日曜日なので多くの市民が海岸に来ていた。




< 6. モロッコモール、Morocco mall >
上の写真: 地図No3~4。内陸部と結ぶ市電。
真ん中の写真: 地図No3~4。モロッコモールの内陸部側に広がる街並み。
下の写真: 地図No4。海の端にあるモロッコモール。
水族館、映画館を併設した北アフリカ最大のショッピングセンター。

次回、このモールと海岸で憩う人々を詳しく紹介します。



< 7.高級邸宅街、地図No5付近 >
上の写真: 海岸の道路から内陸部に入る。
真ん中の写真: イベントを行っていた。
下の写真: 高級住宅街。



< 8.中心部、地図No6付近 >
上の写真: ハッサン2世通り、Avenue Hassan II
真ん中の写真: フランス植民地時代、1930年に建てられたサクレ・クール大聖堂、Cathedrale Sacre Coeur

下の写真: アラブ連盟公園、Ligue Arab Park



< 9.国連広場付近、地図No7付近 >
上の写真: 国連広場。Station Place des Nations Unies
真ん中の写真: 国連広場近くの土産屋に行く。

午後、もう一度国連広場を訪れると、たくさんの人出がありました。
別に紹介します。



< 10. 旧メディナ、The Old Medina、地図No7 >
総べて旧メディナ内のスークの様子。
ここは商品の品質が悪く、夜の治安が非常に悪いと添乗員から忠告された。
閑散としており、興味を惹くものはなかった。

感想
カサブランカは私が思っていたより発展しおり、全体としては清潔感があった。
建物を見ていると、貧富の差がかなりあるようで、貧しい人々が取り残されている感じがした。
人々の服装は、現代的なものから民族的なものまで、これまた混在している。
私は治安が悪くない印象を持ったのですが、現地ガイドは、私が国連広場から市電には乗って南側に行きたいと言うと、治安が悪いので行かないように忠告した。

次回から、カサブランカの人々の憩う姿を紹介します。









20160516

Bring peace to the Middle East! 12: Seeing the Middle East and Arab world in films 5: The Wind and the Lion

中東に平和を! 12: 映画に見る中東とアラブ世界 5: 風とライオン



*

I introduce the film “ The Wind and the Lion” starring Sean Connery today.
The film is based on a kidnapping that happened in Morocco.
One Arabic patriarch defied Europe and America.

今日は、ショーン・コネリー主演の映画「風とライオン」を取り上げます。
これは、モロッコで起きた誘拐事件の映画化です。
一人のアラブの族長が欧米に挑んだ。



< 2. Setting of the film >
< 2. 映画の舞台 >

The black dot is the town Tangier where the kidnapping case happened.
Raisuli who caused the incident was a patriarch of Rif area (above red line).
In this area, many revolts happened against the rule of powerful countries in Europe.

黒丸が誘拐事件の起きた町タンジールです。
事件を起こしたのはリーフ地方(赤い線より上)の族長ライズリーでした。
この地方では、欧州列強の支配に対して幾度も反乱が起きている。

Summary of the film
Production ―
The U.S. made it in 1975.

Contents ―
The setting was the time that powerful countries in Europe competed with each other in order to rule the North Africa.
The Kingdom of Morocco that lasted for nearly 400 years had formed a friendship with Europe for a long time, but the independence began to be violated from the late 19th century.

In 1904, Raisuli that had Mohammed’s blood line kidnapped American Eden mother and children for aiming at elimination of foreign power.
As soon as the U.S. President Roosevelt scheduled to have re-election knew this, he dispatched the Marine Corps to Morocco for the rescue.

Raisuli released the mother and children subject to the withdrawal of the foreign soldiers, but he was arrested by the armed forces of Germany and France.
This was a betrayal by a Moroccan feudal lord of his relatives.
Mrs. Eden received protection of the United States Marine Corps to rescue Raisuli, subordinates of Raisuli increased more, and the rescue succeeded after a heroic fight.


映画の概要
―製作―
米国、1975年。

―内容―
舞台は欧州列強が北アフリカの支配を巡って凌ぎを削っていた時代です。
400年近く続くモロッコ王朝は、長らく欧州と友好政策を採っていたが、19世紀後半から独立が侵され始めていた。

1904年、モハメッドの血を引くライズリーは、外国勢力の排撃を目指し、米国のイーデン母子を誘拐し連れ去った。
再選を控えていた米国大統領ルーズベルトはこれを知ると、奪還のためにすぐさま海兵隊をモロッコに派遣した。

ライズリーは外国兵の撤退を条件に母子を釈放したが、ドイツとフランスの軍隊に捕らえられた。
これは身内のモロッコ太守の裏切りであった。
イーデン夫人は、ライズリーを救出する為に米国海兵隊の援護を受け、さらにライズリーの部下も加わり、壮烈な戦いの末に救出は成功した。


Story
ストーリ


< 3. Raisuli >
< 3.ライズリー >

He is a Berber and was able to speak English.
The Berber had been an indigenous people before Arab came over, and is Muslim.
They occupy the half of population of Morocco, and the royal family that has lasted until today is Berber.

彼はベルベル人で、英語が話せた。
ベルベル人はアラブ人がやって来る前の先住民で、イスラム教徒です。
彼らはモロッコの人口の半数を占め、現在に続く王家もベルベル人です。




< 4.  Mrs. Eden >
< 4.イーデン婦人 >

She was kidnapped, but she was attracted by his personality.
彼女は誘拐された。
しかし、彼女は彼の人柄に惹かれて行く。



< 5.  President Roosevelt >
< 5.ルーズベルト大統領 >

These are the president doing his election campaign, and a scene of the dispatch of Marine Corps.
遊説中の大統領と海兵隊の出動シーン。



< 6.  Dramatic rescue operation >
< 6. 救出劇 >

Mrs. Eden who was angry at betrayal led the Marine Corps to rescue him.
Berber goes toward the rescue.
The Marine Corps attacks a palace.

A letter from Raisuli arrived to Roosevelt who became the winner.
"I (Raisuli), like the lion, must remain in my place, while you, like the wind, will never know yours."

At the last, Raisuli leaves on the back of sun falling into the desert.

裏切りに怒ったイーデン夫人が救出を先導する。
救出に向かうベルベル人部族。
海兵隊が宮殿を攻める。

勝者となったルーズベルトの下にライズリーからの書簡が届く。
「あなたは風のごとく、私はライオンの如し。・・」

ラストで、ライズリーは砂漠に落ちる夕陽を背景に去って行く。

People who defied powerful countries
In the Rif area of Morocco, Berber fought against Spain (1893, 1909, 1920) three times.
In 1920, a patriarch Abd el-Krim beat off Spain for a period of time in the third fight, and he founded a republic.
However, he was beaten by French military, and the republic collapsed in 1925.
This became the pioneer of national liberation movement of Morocco.

列強に抗った人々
モロッコのリーフ地方では、ベルベル人が三度スペイン(1893、1909、1920年)と戦った。
1920年、族長アブド・アルカリームが蜂起した三度目の戦いでは、一時はスペインを追いやり、共和国を建国した。
しかし介入したフランス軍に敗れ、1925年に共和国は崩壊した。
これはモロッコの民族解放運動の先駆けとなった。




 7.  Abdelkader El Djezairi and his fight 
< 7. アブド・アルカーディールと戦い >
Two of lower pictures:  It is Battle of Smala in 1843, and a series of pictures.
下の二枚の絵: 1843年のBattle of Smala。続きの絵です。

Abdelkader El Djezairi is called the father of national liberation movement.
Novelist Victor Hugo described him as " A valiant military officer and dignified religious leader".

When France began to invade Algeria, he who was a leader of Islam declared jihad against it.
In 1831, their liberation army made an attack against a Foreign Legion first, and French military was made complete fools of by them.
At the peak, they had 12000 soldiers, and gained control of 2/3 of the territory.
However, the French military thoroughly burnt down villages being in favor of the liberation army and massacred these villagers.
Thus, the support of the people collapsed, and the whole family of about 60,000 was driven into the desert.
In 1842, they got away into Morocco and plotted a comeback.
However, in 1847, they suffered crushing damage and surrendered after the fight during sixteen years.

France released him though confined him at first, and he became a recipient of a decoration.
He got respect from an ally and enemy.

This continues next time.


民族解放運動の父と呼ばれている人物がアブド・アルカーディールです。
小説家ヴィクトル・ユーゴーは彼を「凛々しい軍人、威厳のある宗教指導者」と形容した。

フランスがアルジェリアを侵略し始めると、イスラム教の指導者であった彼はジハードを宣言した。
1831年、彼ら解放軍は外人部隊への襲撃を皮切りに、盛時には12000の兵を要し、フランス軍を翻弄し、領土の2/3を制圧した。
しかしフランス軍は、開放軍に味方する村々を徹底的に焼き払い、村人を殺戮していった。
こうして民衆の支持は崩れ、6万人ほどの一族郎党が砂漠に追い込まれ、1842年にはモロッコに逃れ、再起を図った。
しかし1847年、壊滅的な損害を受け、16年間の戦いの末に投降した。

彼は幽閉されるも釈放されフランスから受勲されるなど、敵味方から敬意を払われた人物だった。


次回に続きます。