20131013

本の紹介: 野田正彰著「戦争と罪責」3

 

< 東京裁判 >

初回に提示した疑問の回答を私なりにまとめました。
著者の主張とは別です。

なぜ兵士は残虐行為に深入りしてしまうのか?
多くは復讐の連鎖なのですが、著者は、軍医や憲兵による虐殺行為の常態化を描くことにより、本質を曝きました。
彼らも概ね初回の行為には抵抗があるようですが、やがて自ら率先して行うようになる。
希に抵抗し続け、拒否する例もある。
戦地の軍隊ではそれが常態化しており、上層部には全く抵抗感が無い。
新参者は、残虐行為を前にして組織に順応する者かどうかを試されることになる。
この時、彼の脳裏には度胸、胆力、名誉がよぎり、後には「出世出来ない恐れ」に抗し切れなくなる。
やがて嫌悪感が薄れるに伴って、点数稼ぎの為には虐殺行為を厭わなくなる。
それが現地人への生体解剖であり、憲兵による無法逮捕やリンチとなった。



< スタンフォード監獄実験を映画化した「エクスペリメント」 >

当時の残虐行為は、日本軍に特有のものなのだろうか?
彼らの心理には、アイヒマン実験スタンフォード監獄実験に見られる-権威や役割に順応し、虐待を実行するが、その責任を他者に転嫁する様子が見られる。
その意味では、人類共通と言える。

しかし、さらにエスカレートさせてしまった理由があった。
       日本人は組織に依存し易い。普遍的な正義(罪)の観念が乏しく、本音と立前を分ける。
       長らく戦時体制下にあった。勇猛、名誉などが重視され、軍人の出世が夢でもあった。
       島国であることが隣国への差別感を高めた。侵略されず混乱なく成長してきたことによる優越感、隣国は逆であった。また中世以降、親身な付き合いが無く隔離状態。
       文民統制が未成熟だった。戦地において憲兵や軍事法廷の法務官、国内への戦況報告、本来独立性が求められるはずのものまで、すべてが軍の意向に統御された。



< 「戦場の軍法会議」 >

終戦後、なぜかくも残虐行為が漏れ聞こえないのか?
終戦後、戦時中の事実関係を調査する上で大きな壁が二つある。
北博昭著「戦場の軍法会議」にも述べられている。

       負の真実を語りたがらない。黙秘する最大の理由は家族、親族、所属団体、勤務先への配慮であり、不名誉の誹りを逃れる為です。希に了解が得られても、当事者が死亡するまでインタビューや資料公開を許可しない例が多い。
       証拠を廃却した。戦地を撤収する際、戦犯摘発を恐れ、証拠書類を組織的、徹底的に廃却した。 

しかしそれだけでは無い。
中国の捕虜収容所で改心した人でさえ、日本に帰国後、その罪責の念を無くし、黙秘を通すことが多かった。
日本では、なかなか罪の意識を持ち続けることは困難なようです。
中には晩年近くになり、自責の念に耐えられず、真実を後世に伝え、陳謝の念を相手に伝えたいと思う人々もいるのですが。
さらに負の真実を告白すること自体が現在でも誹謗中傷の的になる。

結論
えたいの知れない、負の真実を認めないムードが根深く残っているとしか言いようがない。
このことが同時期に残虐行為を行い、その後、罪責を認めたドイツとの違いだろう。



20131012

本の紹介 : 野田正樹著「戦争と罪責」2

 北支戦線

山西省で軍医として従軍したY氏の行状を追います。

彼は開業医の息子として1916年に生まれ、普通に医者を目指し医大を出た。
彼は政治や国家に関心が無く、普通に出世を望み、中国人への差別感情もあった。
伝染病棟に勤務後、真珠湾攻撃の年、25歳で軍医を志願した。
翌年、中国山西省の陸軍病院に赴任する。

着任後、まもなく「手術演習を行う。解剖室に集まれ」と告げられた。
師団の軍医達と病院長がいる部屋に、二人の農民が捕縛されていた。
二人は強制的にベッドに横たわらされ、麻酔注射を打たれた。
そして20人ほどの軍医が、それぞれ腰椎、虫垂、上腕、気管、腸の吻合手術の練習を順次行った。
三時間後、二人はまだ呼吸を続けており、生きたまま埋められないので、静脈注射でやっと殺した。

野戦病院 

< 野戦病院 >

この始めての経験を「自分が情けなくてね」と、80歳になる老医は涙を流しながら回想した。
しかし彼は3年間に7回の生体解剖を経験するが、やがて自ら計画し、憲兵隊に中国人を要求するようになる。
彼は衛生補充兵の解剖学習と度胸付けの為に、自ら一人を生体解剖し、内臓と新鮮な大脳皮質を切り取り見せた。
また求めに応じて患者から分離したチフス菌などを送り、それが細菌戦に使用された。

彼は終戦後、多くが帰国する中、現地に残った。
「憲兵とか凍傷実験をやった731部隊は悪いが、私らはそんな悪いことはしていない。」
「戦争だし命令だから、仕方がない。」
「医者だからこの地で役に立つはずだ。」
彼には、罪の意識や断罪される恐怖心はなかった。

しかし6年後、家族と共に捕虜収容所に送られ、自発的な罪状告白を徹底要求された。
ある日、彼は手紙を受けとった。
「私は、お前に息子を殺された母親だ。息子は突然、あの日の前日、憲兵隊に連れて行かれ・・・」衛生補充兵の前で行った解剖被害者の母より。
彼は、薄暗い監獄の中で、自分の行為が、如何に非道だったかを思うようになっていた。

5年後、起訴猶予で釈放され、日本に帰国し医者として働いた。
家族と仕事への配慮から秘匿していたが、6年後から平和運動に参加し、1981年、自分の戦争犯罪を本に著した。

やがて出版への反応が返って来た。
       「どうか波風の立たないように、伏してお願いする。」と一緒に解剖した軍医より。
       「見て憤慨に堪えない。売名か、軽薄極まりない。国際関係の微妙な時に・・」と罵倒する同年配より。
       「共に肉親として苦渋を飲む覚悟をしなければならぬ。よく吐露してくれた。」と医者である著者の兄より。

当時、北支那方面に数千人の軍医と衛生兵、看護婦がさらに数千人はいたが、数人が吐露しただけであった。
しかも彼らは中国の捕虜収容所で洗脳されたとして、発言の信憑性と人格を否定され続けた。




20131011

本の紹介 : 野田正彰著「戦争と罪責」 1

 

兵士は戦場でどのようにして狂気になり、また帰国後、平和な暮らしに戻っていくのだろうか?
精神医学者の著者は、元兵士の聴き取りを重ね、緻密かつ冷静に彼らの心を追う。
やがて狂気をもたらすものが判明し、一方で狂気の記憶から逃避する姿が見えてくる。
この本は戦争の真実を心の内面から知ることが出来る本です。

著者の紹介
著作を何冊か読みましたが、著者は尋常ならざる「精神」の探求者であり、警鐘者でもある。
著者は未開民族の精神病に始まり、崩壊する国(北朝鮮など)の人々、そして現代社会と個人の精神問題を探求する。
その探求手法は社会背景や歴史認識を踏まえた上で、ドキュメンタリー的に人々の心理に迫るものです。
気になる点は、探求手法が確立しておらず、体制批判が強すぎるようです。


上海事変 

< 上海事変 >

「戦争と罪責」の概要
描かれている戦争は、80年ほど前の日中戦争の中国北部が舞台です。
残虐行為を行った幾多の日本兵の回想が縦糸になり、著者の綿密な当時の状況と心理分析が横糸になっている。
著者は、1990年代より、元日本兵のインタビューを開始し、さらに中国に赴き取材を重ねた。
これには「戦争における罪の意識の研究」で文部省の研究費を受けている。
この本の価値は、個人の戦争回想録と異なり、他の元兵士、文献資料、中国側(収容所、被害者家族)の情報により、信頼性あるものとしている事です。

この本から何が見えて来るのか?
       なぜ兵士は残虐行為の深みに埋没してしまうのか?
       残虐行為は、組織的なものか、または個人的なものか、さらに文化に根ざしているのだろうか?
       終戦後、帰国した兵士のほとんどからなぜ残虐行為の事実が漏れ聞こえてこないのか?

今後、数回に分けて、著書から要約したいと思います。






20131010

Go around the world of Buddha statues 2:  The philosophizing statues of Miroku Bosatsu(Maitreya)

Miroku Bosatsu statue in Koryu-ji(temple), woodwork, the first of the 7th century, in Kyoto

< Miroku Bosatsu statue in Koryu-ji(temple), woodwork, the first of the 7th century, in Kyoto >

The philosophizing statues of Miroku Bosatsu(Maitreya) are a kind of the Buddha statues that are well known in Japan.
The mysterious statues show some creed of the Buddhism.


日本で良く知られた仏像に弥勒菩薩半跏思惟像があります。
この神秘的な像は、仏教の教えを示しています。


“The Thinker” on “The Gates of Hell” was made by Rodin in 1902.

< “The Thinker” on “The Gates of Hell” was made by Rodin in 1902. >
It was worrying on the gate of the hell and grimacing.
Difference between the countenance of the philosophizing statue and it is a lot.

地獄の門にて思い悩み、苦痛に歪む顔がそこにはある。
半跏思惟像の表情とは大きな違いがある。


the Miroku Bosatsu statue in Koryu-ji 

< the Miroku Bosatsu statue in Koryu-ji >
The right leg of the statue is set to the floor, a fingertip touches the cheek lightly and the philosophizing face smiles faintly
The Miroku Bosatsu was a Bodhisattva that was promised to become the Buddha, and was considered to be the Savior those days.
People thought it important to realize the truth like a Buddha, in order to live in pure and fortunate land.
Therefore, the posture that the Buddha or Bodhisattva was philosophizing in was important.
However, probably, the Bodhisattva under training was asked for a posture different from the completed Buddha.

Is this posture unique to Japan?

右足を床におき、指先が軽く頬に触れ、思索する顔には、微かな微笑みがある。
弥勒菩薩は、仏陀になることが約束された菩薩で、当時、救世主と考えられた。
本来、仏陀は真理を悟ることにより、人々が幸せな仏国に住むことが出来ると訴えた。
従って、悟りを得んが為に思索する姿は仏陀にも菩薩にも重要であった。
しかし修行中の菩薩には、完成した仏陀と異なる、この姿勢が求められたのだろう。

この姿は日本独自のものだろうか?


This gilt bronze is a Miroku Bosatsu statue in South Korea.

< This gilt bronze is a Miroku Bosatsu statue in South Korea.  >
Buddhism had spread in the Korean Peninsula, and many philosophizing statues of Miroku Bosatsu were made in the 5 6th century, then some part of it were brought to Japan.

朝鮮半島では仏教が普及し、5~6世紀に多くの半跏思惟像が作られ、一部が日本にもたらされた。


Miroku Bosatsu statues in China

< Miroku Bosatsu statues in China
Left statue:  a Cave in the Dunhuang in the first of the 5th century, Gansu.
Right statue:  the ruins of a temple in the middle of the 6th century, Shandong.
It is from the Silk Road in Central Asia that Buddhism reached China, and Buddha statues and Buddhist paintings began to be made from the middle of the 4th century in Dunhuang of a desert oasis.
In China and South Korea, the philosophizing statues of Miroku Bosatsu were also made together with many Buddha statues.

左図: 甘粛省、敦煌莫高窟、菩薩半跏像、5世紀初め。
右図: 山東省、龍華寺遺跡、6世紀中頃。
中国に仏教が伝わったのは中央アジアのシルクロードからで、4世紀中頃から砂漠のオアシス敦煌に仏像や仏画が作られ始めた。
中国と韓国では、多くの仏像に混じって半跏思惟像も作られた。

About India in the birthplace of Buddhism
Buddha played an active part in the Ganges middle region around the 5th century B.C. 
The Buddha statue has begun to be made from the end of the first century.
At the beginning, the area where the Buddha statue was made briskly was in Gandhara, Pakistan.


仏教発祥の地、インドでは・・。
お釈迦様は紀元前5世紀頃、ガンジス川中流域で活躍した。
釈迦は悟りを完成させた仏陀として崇拝され、紀元1世紀末から、仏像が作られ始めた。
当初、仏像が盛んに作られた地域が、パキスタンのガンダーラでした。


the philosophizing statues of Miroku Bosatsu in Gandhara, Pakistan

the philosophizing statues of Miroku Bosatsu in Gandhara, Pakistan >
A: the 23rd century.  B: unclear.  C: the 23rd century.
Although everything is doing the same posture, it differs from the countenance of Japan delicately.

A: 2~3世紀。B: 時期不明。C: 3~4世紀。
これらの像も同じ姿勢だが、日本の像の表情とは微妙に異なっている。

Summary
Although there is a little difference in the countenance and the form of the fingertip among them, the philosophizing statues of Miroku Bosatsu have a lot in common with the dress, and the posture.
Buddhism was introduced into Japan from India via Central Asia, China, and the Korean Peninsula after 500 years.
Although the Buddhist scriptures played an important role for transmitting the creed, these Buddha statues would assure people of the divine favor more than it.



まとめ
若干、顔つきや指先に違いが見られるが、総べての半跏思惟像には服装やポーズに共通するところがあった。
仏教は500年を経て、インドから中央アジア、中国、朝鮮半島を経由して日本に伝来した。
その教えが伝わるには経典も重要な役割も果たしたが、これら仏像は、それ以上に人々に御利益を確信させたことだろう。















20131008

History of sickness and medical art 11 : Ancient Egypt 1

Surgical instrument of ancient Egypt 

< Surgical instrument of ancient Egypt >

I introduce sickness and medical art of ancient Egypt. 

数回かけて、病と医術を見ます。


Imhotep

< Imhotep
He was a higher flamen, the first-ever pyramid designer, and a superior physician. He was deified behind. 

イムホテプは高級神官、史上初のピラミッド設計者、優れた内科医で、後に神格化された。


Step Pyramid in Sakkara, Cairo

< Step Pyramid in Sakkara, Cairo >
King Djoser's Step Pyramid which he designed in the middle of the 27th century BC. 

彼が設計した紀元前27世紀中頃のジェセル王の階段ピラミッド。

Preface
The medical art of Egypt developed highly by the religious dynasty that continued for 3000 years.
The mural painting of the sepulcher, the papyrus, and tens of thousands of mummies clarify a situation of those days.
The oldest papyrus document of medical art was of the 20th century BC.
In the order from the old thing, they were written about obstetrics and gynecology, animal medicine, surgery, the prescription collection, and the magic.
The documents had included description that will go back to 4000 years BC.
The documents had included strong things of magical factor and religious factor, but there was the thing which was not so.

Herodotus had written about Egypt of the 5th century BC.
" Medicine is subdivided very much and the doctor treats only the illness of one kind, respectively. Many doctors are everywhere. There is the doctor of the eyes, the head, the belly, or the tooth, and there also is specialized doctor in case patient can't tell a wrong part. ..."



はじめに
エジプトの医術は3千年続いた王朝と強固な国家宗教によって高度に発展した。
墓室の壁画とパピルス、数万体のミイラが当時の様子を明らかにしてくれる。
医術の最古のパピルス文書は、前20世紀のもので、古いものから産婦人科、獣医学、外科、処方集、呪法が書かれていた。
その文書には紀元前4000年に遡る記述もある。
医術は、呪術的や宗教的な色彩の強いものもあるが、そうでないものもあった。

ヘロドトスが前5世紀のエジプトについて書いている。
「医術は非常に細分化されており、医師はそれぞれ一種類ずつの病気しか治療しない。いたるところに大勢の医師がいる。目の医師もいれば、頭の医師、歯の医師、腹の医師、どこが悪いかわからない場合の医師もいる。・・・」

Doctor
The doctor was employed by the nation.
There were the doctor belonging to the flamen, the ordinary doctor, the doctor chief, the doctor's management supervisor, the Minister of Health, and the doctor of many levels of king's palace.
The doctor was specialized highly, and was divided into the general, the ophthalmology, the digestive organ, the anus, the illness of uncertain cause, the dentistry, the medical test, and the occupational disease.
The medical care was free for campaigner and journeyer, but at times the doctor had gotten many rewards.
The doctor studied in the house of the life that attached to some shrines, and heard the experience of the aged, and learned the old documentaries of library.
The knowledge of dissection was based on livestock and the old literature, but was not based on making mummy.
In the medical examination, the doctor investigated carefully a patient's appearance, the body odor, the conscious, etc., and recorded them.
Furthermore, the doctor measured bodily temperature and heart race, and performed percussion, and observed urine, defecation, phlegm.
Finally, the doctor evaluated the possibility of medical treatment to three steps, and notified of it in writing.




医師は国家に雇われていた。
神官に属する医師、普通の医師、医師長、医師の監督官、厚生大臣、さらに王宮の医師にも階層があった。
医師は高度に専門化され、一般、眼科、消化器、肛門、原因不明の病気、歯科、医学検査、職業病に分かれた。
医療は、従軍や旅行などで無料だが、医者がたっぷり報酬を貰えることもあった。
医者はいくつかの神殿に付属した生命の家で修行し、老人の経験談を聞き、また図書館の古文書から学んだ。
解剖の知識は、ミイラ作りからではなく家畜と古文献に基づいていた。
医師は診察に当たって、患者の外見、意識、体臭などを克明に調べて記録した。
さらに体温と脈拍を測り、打診を行い、尿、排便、痰の状態を観察した。
最後に治療の可能性を三段階に評価し書面で告知した。


A old papyrus document

< A old papyrus document >
A description of bronchial asthma in the 17th century BC 

紀元前17世紀の気管支喘息の記述。




When treating according to the sacred medicine document, the doctor was not penalized even if he failed, but when acting contrary to the prescription, he was condemned to the death penalty.
There were the surgery assistant, the masseur, and the male nurse helping the doctor.

Next time, I write about treatment and drug.


医師は神聖な医術書に従って治療を行っておれば、失敗しても咎められず、もし定めに反した処方で失敗すれば死刑に処せられた。
医師を手伝う男性の看護人、外科助手、マッサージ師、俗人の臨床医がいた。

次回は、治療、薬剤について書きます。



20131005

A castle and a city of the Middle Ages: Český Krumlov 2


Church of St. Vitus and Moldau    

< Church of St. Vitus and Moldau    >

This time, I introduce the cityscape and the four seasons with the photographs.

今回は、街並みと四季の写真を紹介します。


Stairs to go to Krumlov castle 

< Stairs to go to Krumlov castle  >


A fountain and the main square 

< A fountain and the main square >


 cityscape

 cityscape

< cityscape >


 A restaurant, a souvenir shop, a bookstore 

< A restaurant, a souvenir shop, a bookstore  >


 The color of trees

< The color of trees >


The color of the seasons: from the official homepage 

< The color of the seasons: from the official homepage >
In this HP, we can look the photograph of a theater, the garden of the castle, and the event including Christmas.
If you go to Czech Republic, please go to there, and enjoy it.

このHPで、城の劇場と庭園、またクリスマスなどイベントの写真を見ることが出来ます。

皆さんもどうかチェコに行かれたら、楽しんで来て下さい。





















20131003

A castle and a city of the Middle Ages: Český Krumlov 1


Krumlov Castle

< Krumlov Castle >

At the end of October 2009, I visited this city of the world heritage of Czech Republic in East Europe.
It seemed that I slipped back in time to the medieval small kingdom.
The scenery of this city is different from the big city of the Middle Ages of Europe.

200910月末、チェコ南部の山間部にある世界遺産の小さな町を訪れた。
まるで中世の小国にタイムスリップしたようでした。
この町には、ドイツの中世大都市にない趣があります。


The red mark shows Český Krumlov. 

 The red mark shows Český Krumlov. 


 a bird's-eye view:  the old city is inside of the bending river. A castle is outside of upper part river.

< a bird's-eye view:  the old city is inside of the bending river. A castle is outside of upper part river.

This city that was surrounded by Moldau is a diameter of about 250 m.
The city and the castle begin in the 13th century, and the atmosphere of the early medieval period is left.
The scale of a castle is large and is looking down on the small city from heights.
The curved river functioned as a fosse, and three bridges were built.
This river passes through this city and Prague of the capital, and finally came to the North Sea.
Moldau is famous in the symphony "My country" of Smetana.
This place was in an important place of the traffic from the ancient times, and the amber of the Baltic Sea would have been carried to Rome through here.
Although this city developed with handicraft and commerce medieval times, it was left behind before long in the times.
Therefore the cityscape remained without receiving a change greatly.
This whole area was called Bohemia from ancient times, and was the place where Slav intermingles with Germanic peoples of the Holy Roman Empire.
Because of that, this area early was civilized among countries of Eastern Europe, but there was much misfortune.
In the 15th century, the forest of this south Bohemia became a lodgment area of Protestant (The Hussites ) of a religious war.


この町はモルダウ川の湾曲部に囲まれた直径250mほどの大きさです。
この町と城は13世紀に始まり、中世ルネサンスの趣を残している。
城の規模は大きく、高台から小さな町を見下ろしている。
湾曲した川が掘りの役目をし、三つの橋が掛けられている。
この川は、この町と首都プラハを通り、やがて北海に抜ける。
このモルダウ川はスメタナの交響曲「我が祖国」で有名です。
この地は古代より交通の要衝で、バルト海の琥珀がローマに運ばれたことだろう。
この町は、中世、手工業と商業で発達したが、やがて時代に取り残され、街並みが大きく変化を受けずに残った。
この地域一帯は古来ボヘミアと呼ばれ、神聖ローマ帝国のゲルマン人(ドイツ人)とスラブ人が混じり合う所だった。
おかげで東欧の中では文明化されるのが早かったが、不幸も多かった。
15世紀、この南ボヘミアの森は宗教戦争でプロテスタント(フス派)の拠点となった。


going a ground of south Bohemia

< going a ground of south Bohemia 


viewing the old city of Český Krumlov from the castle. A tower of church is seen in the center. 

 viewing the old city of Český Krumlov from the castle. A tower of church is seen in the center. 


The leaves just are turning yellow, and an angler is in the Moldau.

< The leaves just are turning yellow, and an angler is in the Moldau.


The bridge links a garden and the castle of right side. 

 The bridge links a garden and the castle of right side. >


I look up at a tower of the castle from the courtyard of it.

< I look up at a tower of the castle from the courtyard of it. >


pictures of the wall surface in the castle

< pictures of the wall surface in the castle >

Next time, I introduce photograph of cityscape and four seasons.

次回は、街並みと四季の写真を紹介します。