20210204

没落を食い止める! 7: 現状を見る 1

  


*1

 

最初に先進国の現状を見ます。

まさに衰退しつつある文明と言えるかも。

今の日本は、例えれば先進国を押し流す濁流に、舵も櫂も無く沈むに任せている状況です。

 

 

* 世界の現状  

 

ある時期から、先進国のほとんどで経済成長が鈍化し、貧富の差が拡大し、巨大な金融危機がほぼ10年毎に繰り返すようになった

 

それに連れて米英日を筆頭に、社会の分裂が進み、右翼化し、煽情が得意なトップが歓迎され、間の協調体制に亀裂が入り、やがて抗争へと進む恐れが高まった

 

先進国が低迷する一方で、北欧4ヵ国、ベネルクス3ヵ国、スイス、カナダなどは幸福度や所得など多くのランキングで常に最上位を占めている

また多くの発展途上国は生活や衛生状態、治安等が向上し、人口増加落ち着きつつあ

中国の経済力と技術力が高まり、覇権国家間の均衡が崩れつつある。

 

要約すると、かつて繁栄した欧米先進国は、今や停滞し病んでいる。

その一方で、幾つかの先進国と多くの発展途上国は順調に発展を続けている。

 

 

* データーで確認します


 

< 2。主要国の格差の推移 >

 

1980年代から上位10%の富裕層の所得が米英日で急激に増えている。

 

ここで知って頂きたいことがある。

格差はけっして自然では無く、特に人類はここ1世紀の間、政治的に解決を図り、また敗れもしているのです。

例えば、フランスとスウェーデンは格差拡大を抑え込んでいる。

 

19世紀までは格差の大きい時代が続いたが20世前半、米独等は格差を縮小させた。

しかし二つの大戦で世界的に格差は拡大した。

だが大戦後、先進国政府は以前よりもまして格差を抑え、成長をも手に入れる偉業を成し遂げた。

 

しかしやがて逆襲が始まった。

 

 

< 3. 米国の年収推移 >

 

年収層別に年収の推移を見たグラフ。

年収が多い層ほど年収は急伸しているが、最低年収層では40年間上昇していない。

別の資料で、上位年収層を見ると、上位5%よりは1%、さらに0.1%になるほど増加は著しい。

 

2008年のリ―マンショックで、すべての層の年収が低下したが、1991年の落ち込み後も上位年収層ほど急回復しているように、現在も同じことが起きている。

 

 

 

< 4. 世界の経済成長率 >

 

このグラフはインフレ分を除いた一人当たりGDPを示しているので、もっとも実態を反映している。

 

主要先進国OECD37ヵ国の経済成長率が1970年頃から低下し続けている。

一方、中所得国や低所得国は経済を伸ばしている。

(CRB指数、商品先物の価格は世界の景気やインフレを反映する)

 

ポイントは、先進国は格差が拡大するにつれて経済が低迷していることです。

先進国は、1950と60年代、格差も少なく素晴らしい成長を遂げていたにも関わらず。

これは単なる偶然ではありません。

 

 

* わかったこと

 

私達日本人は、いつの間にか30年以上のデフレや景気低迷に慣れてしまって、幾ら日本政府が頑張っても良くならないと諦めている。

 

しかし、見てきたように1970~80年代に何かが先進国で起きた。

これが今の状況を招いていることは明白だ。

 

きっと脱出の糸口があるはずです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

20210201

国境の島、対馬を訪ねて 3: 厳原の街を歩く 2

  


*1

 

今回は、厳原の二つの城跡と御船江を紹介します。

安土桃山時代から江戸時代の対馬の姿が蘇ります。

 

 

 

< 2. 厳原の地図、上が北 >

 

上: 厳原の中心部

赤枠が御船江跡で、黄色枠が金石城跡と清水山城跡のエリアです。

 

下: 赤矢印が御船江跡

四つの突堤が見える。

赤線が徒歩ルートです。

 

 

 

< 3. 御船江跡 1 >

 

上と中央: 湾岸を通る道路上から海側と御船江側を望む。

上の写真の左奥に厳原の金石城跡がある。

中央写真の右が御船江、左は川。

 

下: 御船江の奥の方を見ている

右に少し突堤が見えるが、思ったより浅い。

 

 

 

< 4. 御船江跡 2 >

 

上: 突堤が見える

ここは対馬藩の御用船を係留した船溜まりです。

現在の遺構は寛文3年(1663)に造られました。

築堤の石積みは当時の原形を保ち、正門、倉庫、休息の建物跡が残っている。

満潮時には木造の大船が出入でき、干潮時には干上がるように出来ている。

現在これほど原形を遺している所は全国でも珍しい。

 

中央: 御船江から湾に出る水路

水路の幅は最小約7mで、上の写真の小舟がある突堤間の広さは奥行きが約30m、幅が約8mです。

これから言うと船は最大で長さ27m、幅5mぐらいだったかもしれない。

この大きさの船で江戸や朝鮮半島まで行ったのだろう。

 

 

下: 御船江から出た湾側

 

 

 

< 5. 当時を偲ばせるもの >

 

上: 他の藩で使われた御座船の模型

これと似た船が対馬藩で使われたことだろう。

 

下: 1800年頃の厳原の古地図

左下に御船江が見える。

中央の一文字の堤が見える所が中矢来で、漂民屋も見える。

朝鮮通信使は、ここに着岸して広い通り(馬場筋通り)を北上し、直ぐ左に折れて金石城に入った。

 

 

< 6. 金石城と清水山城 >

 

上: 黄線が山頂に沿って築かれた清水山城、赤枠が金山城(かねいし)です。

清水山城は三つの曲輪からなり、左から一の丸で始まる。

上部の黄矢印の方向、金山城から北に馬場筋通りを1.7km行った高台にかつて浅原城(さじきばら)があり、現在は自衛隊駐屯地になっている。

青矢印が宗氏菩提寺の万松院(ばんしょういん)、ピンク矢印が歴代藩主墓所です。

これら造営はすべて歴代宋氏による。

 

私達はピンク線に沿って右から左に進みました。

 

 

下: 金石城の古絵図、1804~1817年

赤矢印が櫓門、青矢印が「からめ手門」、茶色矢印が心字池のある金石城庭園です。

私達は黄色線に沿って右から左へと進みました。

 

 

 

< 7. 金石城の楼門 >

 

この門は1990年に再現されたものです。

 

上: 右の山頂に、わずかに石積みが見えているのが清水山城の一部です。

 

下: 左の道を真直ぐ進むと万松院に着く。

 

 

 

< 8. 万松院が見えた >

 

上: 奥に万松院の正門が見えた

川沿いに真っ赤な彼岸花が今を盛りとたくさん咲いていた。

 

下: からめ手門の石垣が見える

万松院の前の広場の右側にある。

 

 

 

 

< 9.からめ手門 >

 

上: 小川を渡る橋の上から万松院を望む。

この橋が金石城の南西の端になる。

 

下: 基礎になる石垣しか残っていない。

 

櫓門から「からめ手門」まで凡そ250mです。

10万石の対馬藩としては堅牢さを感じさせない平城です。

1665年、朝鮮通信使を迎える為に、戦国時代16世紀はじめに造営された金石屋形を城郭に改造した。

対馬藩は石高の割に、農地が少なく実際の石高が遥かに少なかったので、豪勢な城を造る事は出来なかっただろう。

宗氏は前述の浅原城を造り居館としていた。

 

 

 

 

 

< 10. 資料、すべて拝借した写真 >

 

上: 心字池のある金石城庭園

 

上から二つ目: 清水山城の「一の丸」

標高208mの峰に三つある曲輪の最も西のもの。

明や朝鮮の軍が、ここまで侵入することを想定していたのだろう。

 

上から三つ目: 18世紀の釜山浦草梁倭館図

対馬藩は朝鮮との交易を一手に引き受けており、朝鮮半島で三つの倭館を運営していた。

釜山の倭館は長崎出島の25倍以上の広さを有し、常時400~500人が滞在していた。

幕府は鎖国をしてはいたが、この交易は別だった。

 

下: 朝鮮通信使の船

全長三十数mはあったらしい。

 

 

* 宋氏、対馬藩と城について

 

宋氏は、代々朝鮮半島との交易と日本の中央政府との外交交渉を一手に引き受けて来た。

多くの朝鮮半島との紛争に巻き込まれ、また紛争の調停に重要な役割を果たしてきた。

この重要な役割があればこそ、関ヶ原で西軍に付きながらも宗氏は改易を逃れた。

 

対馬の宗氏の歴史は古く、渡来系の秦家の末裔で12世紀に遡る。

実は、宗氏は途中から平家の末裔と称し、厳原の西部に安徳天皇御霊墓地がある。

南北朝時代、一度、守護から外されたが、直ぐに再任され明治維新まで存続した。

 

前述の清水山城は、秀吉が朝鮮出兵に際し、中継拠点として宗氏に造営を命じたものだが、撤退後はすぐに廃城となった。

この時、第一軍出兵では小西軍の7000人に次いで対馬軍は5000人が駆り出された。

人口の少ない対馬では健康な男は、ほとんどいなくなっただろう。

(現在の人口は日本12000万、対馬3万で、1600年頃で日本2000万人とするなら、当時対馬は5000人となる)

戦争により主要な収入源である貿易が絶たれる一方、朝鮮語を話せる対馬の人が通訳として駆り出された。

 

対馬はこのような苦渋を幾度もなめることになった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

20210129

没落を食い止める! 6: はじめに 6: 何を語りたいのか

  

 


 

*1

 

 

これまで悲惨かつ八方塞がりの日本を、

さらに日米を覆っている危うさを見ました。

今回は、この連載で語りたい事を記します

 

 

* 私の想い

 

19世紀の英国がそうだったように、日本もかつての繫栄を取り戻すことはないように思える。

私達の国は、今自滅の道を進んでいる。

取返しがつかなくなる前に転換を図るべきです。

しかし多くの人は意に介さない。

 

もし皆さんが日本の悲しい実態、さらにそれが一部の人々の望むように作られたものだと知ったら、どうでしょうか?

 

なぜ日本だけが欧米から脱落してしまったのか?

また欧米も衰退しつつあるのはなぜか?

このまま放置すればどうなるのか?

その元凶は何か、いつから始まったのか?

誰が得をし損をしているのか?

なぜこの状況から脱することが出来ないのか?

 

私はこれらを語りたい。

 

 

* 主なテーマ 

 

欧米先進国の何が悪くなっているのか?

何が悪くなったのか?

それはいつから始まったのか?

それはなぜ起こったのか?

なぜ起死回生策が失敗するのか?

行き着く先は? 

 

なぜ日本だけが先進国の中で没落を極めるのか?

日本はどれほど悪くなったのか?

日本の何処に問題があるのか?

誰がもっとも被害を受け、また恩恵を受けたのか?

 

地球規模の危機への対処について。

今、世界は迫る巨大な危機に対処出来ないでいる。

このままでは人類の崩壊を免れないかもしれない。

何処に問題があるのか?

 

(「連載 世界が崩壊しない前に」では、多くの危機について触れています)

 

私達は何を目指すべきなのか?

改革すべき基本的な要点。

改革を進めるための幾つか知見、歴史などを紹介します。

 

 

* 私が重視すること

 

私がもっとも力を入れたいのは現状分析です。

 

改革を成功させる最大のポイントは、問題点とその原因の把握だと思っています。

困難な事案ほど重要です。

 

日本の問題は世界と深く関わっている。

日本固有の問題もありますが、世界を通して見ることで、よりその欠点が明確になります。

 

文明や国の盛衰は歴史上繰り返され来ました。

世界と日本の歴史から、様々な教訓が導き出せるはずです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

20210127

国境の島、対馬を訪ねて 2: 厳原の街を歩く 1

  




*1

 

これから対馬の中心地、厳原の街を紹介します。

数回に分けて紹介しますが、今回は街の南側、中心から港までです。

この街には一千年を越える歴史があります。

 

 

 

< 2. 対馬 >

左上: 対馬全体図、上が北

赤線が航空路、黒線がバス、赤矢印が厳原を示す。

 

対馬の地形は南北82km、東西18kmと細長く、ほとんどリアス式海岸で囲まれ、山がちです。

かつて中央部は地峡で繋がっていたが、運河が開削され分離した。

また対馬は朝鮮半島まで50km、博多湾まで120kmだが、壱岐までなら50kmに過ぎない。

こうして対馬は特に古代において海上交通で重要な役割を果たすことになった。

 

右上: 厳原全体図、上が北

赤枠が今回紹介する範囲で、厳原の一部に過ぎない。

 

下: 伊丹から福岡空港に着陸

 

 

 

< 3. 対馬に至る >

 

上: 福岡空港でプロペラ機に乗るところ

離島への旅に、期待感が盛り上がる。

 

中央: 対馬空港に到着

 

下: 空港から厳原に向かう車窓風景

内陸部を走っている為か、あまり本土の風景と代り映えしない。

 

 

* 対馬の歴史は古い

 

対馬北部(上対馬)の西海岸に、対馬最古の遺跡があり、縄文早期末(約1万年前)の遺物(土器た石器)が見つかっている。

これら遺物には北九州と対馬、朝鮮半島との交流の跡が見られる。

 

一方、厳原の歴史は飛鳥時代に遡る。

朝廷が対馬の厳原に国府(行政庁)を置いたとされている。

厳原は鎌倉時代から江戸時代まで、宋氏の居館、対馬藩の城下町として発展した。

 

 

 

< 4. 厳原に到着 >

 

上: 厳原の中心地、観光情報館、ふれあい処つしま、の前から望む

中央(西側)に旧金石城庭園の楼門、左に市役所が見える。

 

下: 茶色枠が今回紹介する範囲、上が西

散策は、観光情報館の前から下り、川に沿って船溜まり跡まで行き、また戻りました。

 

 

 

 

< 5. 観光情報館の辺り >

 

上: 向かいにあるショッピングセンター(1階)

 

下: ショッピングセンター側から観光情報館、ふれあい処つしまを望む。

ここには観光案内所、土産物屋、レストラン、展示・催事場があります。

 

今回、GO TOトラベルのクーポン券を貰ったが、使える場所はここだけだったので、昼食と土産品購入をここで済ませた。

観光案内所の人は親切で、滞在中、合計3人の方と対馬について詳しく伺うことが出来た。

観光パンフレットも揃っていた。

 

 

 

< 6. 大町通り >

 

上: 大町通りの北側を望む

左に、武家屋敷風外観のふれあい処つしまの建物が見える。

これから右側、東側に進む。

 

下: 今屋敷公園横の通り(横町通り)、防火壁美観地区

この辺りには、至る所にこのような石積みの壁が通りに沿って見える。

これは江戸時代、しばしば大火に見舞われた為、延焼を防ぐ為に作られたものが遺っている。

どうやら海峡を吹き抜ける風が強いのでしょう。

 

 

 

< 7. 川端通り >

 

横町通りを真直ぐ進むと川にぶつかり、この川沿いの道が川端通りです。

 

上: 来た道を振り返った。

 

下: 進行方向(東)を見ている。

この東西の盆地の距離は400mに過ぎない。

 

 

 

 

< 8. 二つの川 >

 

上: 川端通りの北側を望む

川の左側の高い建物がホテル対馬で、今回二泊しました。

 

下: 上の川と別の川です

古い町並みが残っている。

この川の左側の通りの対馬醤油の向こうに村瀬家土蔵がある。

 

 

 

< 9.村瀬家土蔵 >

 

通りから撮った写真ではよく見えないが、2階の窓の左右に絵があります。

これは漆喰で練り上げて立体的に描かれた龍と虎だそうです。

明治時代に描かれたものです。

 

背伸びをして写真を撮っていると、通りすがりの高齢の女性が、すまなそうに、これは大したものではありませんがと労をねぎらってくれた。

 

 

 

< 10. 地蔵さん >

 

私が歩いた範囲は、厳原の中でも地蔵さんが多い。

狭い範囲に20ヶ所はありそうです。

私が見た数ヵ所の地蔵さんには、お茶や衣が捧げられていた。

 

 

 

< 11. 中矢来と漂民屋跡 >

 

上: 中矢来(なかやらい)

中世からの船溜まり。

かつてはここに朝鮮通信使が上陸したのだろう。

 

 

下: 漂民屋跡

石積みのある所が漂民屋跡です。

その右にある建物が自衛隊の支所で、この横を通って行けるはずなのですが、案内の標識が破損していて分からなかった。

駐在の自衛官に聞いてやっと分かりました。

この場所は、海に注ぐ二つの川に挟まれた先端部にある。

 

 

* 漂民屋について

 

この漂民屋に、国境の島、大陸と関わる苦難の一端が見える。

 

この漂民屋に江戸時代、海難事故で遭難した日本と朝鮮の漂着民が一時的に収容された。

対馬藩は脱走や住民とのトラブルなどを恐れてこの地を選んだのだろう。

漂民屋の建物は戦後まで残り近隣の住民から「朝鮮長屋」と呼ばれていたらしい。

 

朝鮮の船が遭難し日本に漂着した場合、各藩は幕府の長崎奉行所に移送した。

取り調べの後、対馬藩の長崎藩邸から対馬に送られ、「漂民屋」に収容された。

ここから船便を待って釜山の対馬藩の倭館に送られ、朝鮮側の役人に引き渡し落着した。

日本の船が朝鮮で遭難した場合は、逆ルートで行われた。

 

この優れた難民送還策は一朝一夕に出来たものではない。

この遥か以前から対馬は、大陸・朝鮮半島との間で捕虜や略奪された民の奪還や返還に悪戦苦闘して来た歴史がある。

対馬は、大陸の騒乱に幾度も巻き込まれ、逆に日本の覇者が朝鮮半島侵攻の足掛かりとした地だったから。

 

対馬は、日本において戦争と平和を紡いだ稀有な地だった。

 

次回に続きます。

 

 

20210123

没落を食い止める! 5: はじめに 5: 災厄から逃れられない国

  




< 1. 災厄勃発時の首相、順番に並ぶ >

 

これまで日本の異様な社会状況を一瞥して来ました。

それは腐敗政治、狂信化するウヨ、真実を伝えないマスコミ、

歪められた教育でした。

今回は、列島を立て続けに襲う災厄を振り返ります。

 

 

 

< 2.災厄の写真、順番に並ぶ >

 

 

* 世界に類を見ない不幸な国

 

日本は1991年、1995年、2008年、2011年、2020~21年に巨大な災厄に見舞われている。

30年間に5度も、そして今も喘いでいる。

 

1番目、バブル崩壊後の8年間で1000兆円を越える土地・株の資産が失われた。

平均1家族2千万円にのぼる暴落は、国民に長期の経済停滞を強いたが、バブル時、投機家はこれを凌ぐキャピタルゲインを得ていた。

 

2番目、阪神・淡路大震災では死者が6千人を越え、兵庫県の被害総額は10兆円だった。

 

3番目、リーマン・ショック後、経済はマイナス成長になり、元に戻るまでに5年を要し、160兆円もの国民所得が失われた。

これが経済を更に突き落とした。

 

4番目、東日本大震災では死者が2万人を越え、原発事故は世界を震撼させた。

その被害額は原発関連で11兆円、総額36兆円とされる。

 

5番目、新型コロナの感染は現在進行中で、凡そ今後数年間で凡そ200兆円を越える国民所得が失われるだろう。

 

上記の経済損失はほんの一例に過ぎす、さらに頻発する台風・地震の被害も加わり、発展の巨大な足枷となった。

 

これらは、突然の天災と海外が元凶と思われがちですが、実はかなり人災の面が強い。

 

 

 

< 3.災厄と経済停滞 >

赤は金融危機、ピンクは天災、紫はパンデミック。

 

* 何故なのか?

 

バブル崩壊では、バブルを放置した非もあるが、その以前に日銀と政府が米国から要求された内需拡大(財政投資と通貨増発)に前のめりになったことが大きい。

今日銀は同じ轍を踏もうとしている。

 

阪神・淡路大震災は正に寝耳に水でした。

 

リーマン・ショックでは、日銀が上記の反省から緊縮していた事で、欧米ほどの甚大な被害を逃れたが、それでも金融偏重の経済が災いした。

 

東日本大震災では、大津波に加えて原発事故が被害を甚大にした。

 

原発の危険性は以前から指摘されていた。

国会において電源停止の危険性が指摘され、また各地で原発停止の訴訟が行われていた。

これだけ地震が頻発していても、政府や裁判所はすべてを無視し、また退けた。

実は、ここにも政府とマスコミ・裁判所の癒着が壁となって立ちはだかっている。

 

極めつけは、新型コロナの猛威です。

 

日本人は東アジア人と同じ体質(ファクターX)と考えられるが、グラフで一目瞭然のように感染状況は日増しに群を抜いて悪化している。

これは政府が台湾・中国・韓国と異なる対応に固執した結果です(PCR検査軽視など)。

 

 

 

 

*4

 

* 日本が没落せざるを得ない理由が見えて来る

 

1. 政府は、金融危機や天災、パンデミックへの事前対策を無視して来た。その主因は強固な議員・産官学・マスコミの腐敗に尽きる。

 

2. 例え失敗しても、産官学・マスコミ・司法が一体となって、政府の不備を隠蔽し、擁護し続ける(大本営発表と酷似)。

 

3. これに加え、米国盲従と米国流の経済システムが経済・社会を没落させている。

 

こうして経済は衰え、政治は危機に対応出来なくなっていった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

20210121

国境の島、対馬を訪ねて 1: はじめに

  

 

*1

 

 

私は2020年10月1~3日、長崎県の対馬と壱岐を旅して来ました。

やっと念願の対馬を訪れることが出来ました。

これから歴史ロマン溢れる二つの島を紹介します。

 

 

* 旅行の概要

 

トラピックスの二泊三日のツアーです。

1日目は、伊丹から飛行機を乗り継いで対馬に到着し、二泊二日、バスで対馬を観光しました。

三日目、朝からフェリーで壱岐に渡り、半日観光し、ジェットフォイルで福岡港に到着後、飛行機で伊丹に戻りました。

 

通常、関西から対馬への旅行は、不便な為、効率よく旅行出来ませんでした。

しかし今回は、国と長崎県から離島支援やGo To支援により航空便を使って本来の半額以下で無駄なく周遊出来ました。

 

天気もほとんど快晴に恵まれました。

 

* 対馬と壱岐の魅力

 

日本の古代史に興味がある人にとって、対馬は外せない。

先ず、「魏志倭人伝」に対馬国と壱岐国があったと記されている。

当然、奈良の大和朝廷が大陸と通交するには対馬は欠かせなかったはずです。

何せわずか海上50kmの先には朝鮮半島があるのですから。

大陸の神話や仏教が対馬を経由して伝わったことは疑いない。

 

大陸の文明や文化が列島に浸透する時、対馬はどのような役割を果たしたのか?

 

また対馬は常に外国との戦いにおいて前線基地であった。

古くは唐と戦った白村江の戦い、次いで大軍に侵略された元寇の役、倭寇の基地、秀吉の朝鮮征伐、そして日露戦争でのバルチック艦隊撃破などが対馬と関わった。

一方、江戸時代、朝鮮通信使はこの対馬を経由して江戸まで行き来した。

 

隣国との争いと和平の狭間にあって、この島はどう生き抜いたのだろうか?

 

ここ数年、対馬は韓国人観光客で賑わって、様々な噂が飛び交っていた。

ヨーロッパで幾つかの国境の町を見て来たが、国境の島では何が起きていたのか?

 

最後に、海峡に浮かぶ島、その山と海、暮らしに惹かれるものがある。

 

こうして対馬への想いを深め、この旅を経て、多くのことに巡りあった。

 

壱岐は、古代から遣唐使までの歴史ロマンに溢れているのですが、今回はわずかしか観光していませんので、詳しくはお伝え出来ません。

 

 

 

 

 

< 2. 対馬と壱岐、上が北 >

 

上: 矢印の二つの島が対馬と壱岐です

 

下: 対馬の主な観光地

対馬はほぼ一日半の観光でしたが、ほぼ地図上の観光地を巡る事が出来ました。

 

 

< 3. 対馬に到着 >

 

上: プロペラ機が今まさに対馬空港に着陸するところ

 

中央: 小茂田浜神社 (こもだはま)

元寇(文永の役)の際、討ち死にした対馬の武将を祀った神社。

すぐ横の海岸が、元寇の古戦場、小茂田浜です。

 

下: 椎根の石屋根倉庫

非常に珍しい建築様式。

 

上記二ヵ所は、対馬の南西部にあります。

 

 

 

 

< 4. 厳原 1 >

 

厳原(いづはら)は対馬の南東部の港に面した対馬の中心地です。

鎌倉時代以降、城下町として発展した。

 

上: 厳原の大通り

 

中央: 厳原八幡宮神社

 

下: 武家屋敷跡

 

 

< 5. 厳原 2 >

 

上: お船江跡(おふなえあと)

写真の右手が対馬藩の藩船が使用した船着き場の跡。

 

中央: 旧金石城庭園

対馬藩の宗家が戦国時代から江戸時代かけて築いた城の庭園や櫓門が復元されている。

 

下: 宗家墓所

対馬藩宗家の菩提寺、万松院から石段を登り詰めた所にある巨大な墓所。

 

 

 

< 6. 花鳥風月 >

 

上: 対馬海峡を照らす月光

 

中央: 国分寺

厳原にあるこの寺には、江戸時代、朝鮮通信使の客館があった。

重厚な山門や鐘楼が当時を偲ばせてくれる。

 

下: 季節外れの桜が、島のあちこちで咲いていた。

 

 

 

< 7. 島の北部 >

 

上: 比田勝港

漁港、また釜山港を結ぶ連絡船の商港として北部の中心地。

 

中央: 日露友好の丘

日露戦争時の心温まる逸話が残るこの地に、大きな碑が建てられている。

 

下: 韓国展望所

展望所から朝鮮半島を望む。

晴れてはいたが、釜山が見えたかどうかは微妙でした。

 

 

 

< 8. 対馬の中央部 >

 

対馬がくびれて、上対馬と下対馬がかろうじて繋がっている辺りは、海岸線が入り組んでいる。

 

上: 和多都美神社

日本神話の最初に登場する綿津見神(わたつみのかみ)がこの神社を造ったとされている。

この社は平安時代には朝廷から認定されていた。

中央の朝廷から遠く離れたこの島に、最古層の神話に纏わるものがある。

 

中央: 烏帽子岳展望所

360度の眺望が素晴らしい。

 

下: 万関橋の上から

これは浅茅湾と三浦湾の間に開削された万関瀬戸と呼ばれる運河に架かる橋です。

 

 

 

< 9. 壱岐に向かう >

 

上: 厳原港に別れを告げて

 

中央: 猿岩

高さ45mの巨大な猿?

 

下: はらほげ地蔵

海女の里の海岸に佇む6体の地蔵。

 

 

次回に続きます。