20210129

没落を食い止める! 6: はじめに 6: 何を語りたいのか

  

 


 

*1

 

 

これまで悲惨かつ八方塞がりの日本を、

さらに日米を覆っている危うさを見ました。

今回は、この連載で語りたい事を記します

 

 

* 私の想い

 

19世紀の英国がそうだったように、日本もかつての繫栄を取り戻すことはないように思える。

私達の国は、今自滅の道を進んでいる。

取返しがつかなくなる前に転換を図るべきです。

しかし多くの人は意に介さない。

 

もし皆さんが日本の悲しい実態、さらにそれが一部の人々の望むように作られたものだと知ったら、どうでしょうか?

 

なぜ日本だけが欧米から脱落してしまったのか?

また欧米も衰退しつつあるのはなぜか?

このまま放置すればどうなるのか?

その元凶は何か、いつから始まったのか?

誰が得をし損をしているのか?

なぜこの状況から脱することが出来ないのか?

 

私はこれらを語りたい。

 

 

* 主なテーマ 

 

欧米先進国の何が悪くなっているのか?

何が悪くなったのか?

それはいつから始まったのか?

それはなぜ起こったのか?

なぜ起死回生策が失敗するのか?

行き着く先は? 

 

なぜ日本だけが先進国の中で没落を極めるのか?

日本はどれほど悪くなったのか?

日本の何処に問題があるのか?

誰がもっとも被害を受け、また恩恵を受けたのか?

 

地球規模の危機への対処について。

今、世界は迫る巨大な危機に対処出来ないでいる。

このままでは人類の崩壊を免れないかもしれない。

何処に問題があるのか?

 

(「連載 世界が崩壊しない前に」では、多くの危機について触れています)

 

私達は何を目指すべきなのか?

改革すべき基本的な要点。

改革を進めるための幾つか知見、歴史などを紹介します。

 

 

* 私が重視すること

 

私がもっとも力を入れたいのは現状分析です。

 

改革を成功させる最大のポイントは、問題点とその原因の把握だと思っています。

困難な事案ほど重要です。

 

日本の問題は世界と深く関わっている。

日本固有の問題もありますが、世界を通して見ることで、よりその欠点が明確になります。

 

文明や国の盛衰は歴史上繰り返され来ました。

世界と日本の歴史から、様々な教訓が導き出せるはずです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

20210127

国境の島、対馬を訪ねて 2: 厳原の街を歩く 1

  




*1

 

これから対馬の中心地、厳原の街を紹介します。

数回に分けて紹介しますが、今回は街の南側、中心から港までです。

この街には一千年を越える歴史があります。

 

 

 

< 2. 対馬 >

左上: 対馬全体図、上が北

赤線が航空路、黒線がバス、赤矢印が厳原を示す。

 

対馬の地形は南北82km、東西18kmと細長く、ほとんどリアス式海岸で囲まれ、山がちです。

かつて中央部は地峡で繋がっていたが、運河が開削され分離した。

また対馬は朝鮮半島まで50km、博多湾まで120kmだが、壱岐までなら50kmに過ぎない。

こうして対馬は特に古代において海上交通で重要な役割を果たすことになった。

 

右上: 厳原全体図、上が北

赤枠が今回紹介する範囲で、厳原の一部に過ぎない。

 

下: 伊丹から福岡空港に着陸

 

 

 

< 3. 対馬に至る >

 

上: 福岡空港でプロペラ機に乗るところ

離島への旅に、期待感が盛り上がる。

 

中央: 対馬空港に到着

 

下: 空港から厳原に向かう車窓風景

内陸部を走っている為か、あまり本土の風景と代り映えしない。

 

 

* 対馬の歴史は古い

 

対馬北部(上対馬)の西海岸に、対馬最古の遺跡があり、縄文早期末(約1万年前)の遺物(土器た石器)が見つかっている。

これら遺物には北九州と対馬、朝鮮半島との交流の跡が見られる。

 

一方、厳原の歴史は飛鳥時代に遡る。

朝廷が対馬の厳原に国府(行政庁)を置いたとされている。

厳原は鎌倉時代から江戸時代まで、宋氏の居館、対馬藩の城下町として発展した。

 

 

 

< 4. 厳原に到着 >

 

上: 厳原の中心地、観光情報館、ふれあい処つしま、の前から望む

中央(西側)に旧金石城庭園の楼門、左に市役所が見える。

 

下: 茶色枠が今回紹介する範囲、上が西

散策は、観光情報館の前から下り、川に沿って船溜まり跡まで行き、また戻りました。

 

 

 

 

< 5. 観光情報館の辺り >

 

上: 向かいにあるショッピングセンター(1階)

 

下: ショッピングセンター側から観光情報館、ふれあい処つしまを望む。

ここには観光案内所、土産物屋、レストラン、展示・催事場があります。

 

今回、GO TOトラベルのクーポン券を貰ったが、使える場所はここだけだったので、昼食と土産品購入をここで済ませた。

観光案内所の人は親切で、滞在中、合計3人の方と対馬について詳しく伺うことが出来た。

観光パンフレットも揃っていた。

 

 

 

< 6. 大町通り >

 

上: 大町通りの北側を望む

左に、武家屋敷風外観のふれあい処つしまの建物が見える。

これから右側、東側に進む。

 

下: 今屋敷公園横の通り(横町通り)、防火壁美観地区

この辺りには、至る所にこのような石積みの壁が通りに沿って見える。

これは江戸時代、しばしば大火に見舞われた為、延焼を防ぐ為に作られたものが遺っている。

どうやら海峡を吹き抜ける風が強いのでしょう。

 

 

 

< 7. 川端通り >

 

横町通りを真直ぐ進むと川にぶつかり、この川沿いの道が川端通りです。

 

上: 来た道を振り返った。

 

下: 進行方向(東)を見ている。

この東西の盆地の距離は400mに過ぎない。

 

 

 

 

< 8. 二つの川 >

 

上: 川端通りの北側を望む

川の左側の高い建物がホテル対馬で、今回二泊しました。

 

下: 上の川と別の川です

古い町並みが残っている。

この川の左側の通りの対馬醤油の向こうに村瀬家土蔵がある。

 

 

 

< 9.村瀬家土蔵 >

 

通りから撮った写真ではよく見えないが、2階の窓の左右に絵があります。

これは漆喰で練り上げて立体的に描かれた龍と虎だそうです。

明治時代に描かれたものです。

 

背伸びをして写真を撮っていると、通りすがりの高齢の女性が、すまなそうに、これは大したものではありませんがと労をねぎらってくれた。

 

 

 

< 10. 地蔵さん >

 

私が歩いた範囲は、厳原の中でも地蔵さんが多い。

狭い範囲に20ヶ所はありそうです。

私が見た数ヵ所の地蔵さんには、お茶や衣が捧げられていた。

 

 

 

< 11. 中矢来と漂民屋跡 >

 

上: 中矢来(なかやらい)

中世からの船溜まり。

かつてはここに朝鮮通信使が上陸したのだろう。

 

 

下: 漂民屋跡

石積みのある所が漂民屋跡です。

その右にある建物が自衛隊の支所で、この横を通って行けるはずなのですが、案内の標識が破損していて分からなかった。

駐在の自衛官に聞いてやっと分かりました。

この場所は、海に注ぐ二つの川に挟まれた先端部にある。

 

 

* 漂民屋について

 

この漂民屋に、国境の島、大陸と関わる苦難の一端が見える。

 

この漂民屋に江戸時代、海難事故で遭難した日本と朝鮮の漂着民が一時的に収容された。

対馬藩は脱走や住民とのトラブルなどを恐れてこの地を選んだのだろう。

漂民屋の建物は戦後まで残り近隣の住民から「朝鮮長屋」と呼ばれていたらしい。

 

朝鮮の船が遭難し日本に漂着した場合、各藩は幕府の長崎奉行所に移送した。

取り調べの後、対馬藩の長崎藩邸から対馬に送られ、「漂民屋」に収容された。

ここから船便を待って釜山の対馬藩の倭館に送られ、朝鮮側の役人に引き渡し落着した。

日本の船が朝鮮で遭難した場合は、逆ルートで行われた。

 

この優れた難民送還策は一朝一夕に出来たものではない。

この遥か以前から対馬は、大陸・朝鮮半島との間で捕虜や略奪された民の奪還や返還に悪戦苦闘して来た歴史がある。

対馬は、大陸の騒乱に幾度も巻き込まれ、逆に日本の覇者が朝鮮半島侵攻の足掛かりとした地だったから。

 

対馬は、日本において戦争と平和を紡いだ稀有な地だった。

 

次回に続きます。

 

 

20210123

没落を食い止める! 5: はじめに 5: 災厄から逃れられない国

  




< 1. 災厄勃発時の首相、順番に並ぶ >

 

これまで日本の異様な社会状況を一瞥して来ました。

それは腐敗政治、狂信化するウヨ、真実を伝えないマスコミ、

歪められた教育でした。

今回は、列島を立て続けに襲う災厄を振り返ります。

 

 

 

< 2.災厄の写真、順番に並ぶ >

 

 

* 世界に類を見ない不幸な国

 

日本は1991年、1995年、2008年、2011年、2020~21年に巨大な災厄に見舞われている。

30年間に5度も、そして今も喘いでいる。

 

1番目、バブル崩壊後の8年間で1000兆円を越える土地・株の資産が失われた。

平均1家族2千万円にのぼる暴落は、国民に長期の経済停滞を強いたが、バブル時、投機家はこれを凌ぐキャピタルゲインを得ていた。

 

2番目、阪神・淡路大震災では死者が6千人を越え、兵庫県の被害総額は10兆円だった。

 

3番目、リーマン・ショック後、経済はマイナス成長になり、元に戻るまでに5年を要し、160兆円もの国民所得が失われた。

これが経済を更に突き落とした。

 

4番目、東日本大震災では死者が2万人を越え、原発事故は世界を震撼させた。

その被害額は原発関連で11兆円、総額36兆円とされる。

 

5番目、新型コロナの感染は現在進行中で、凡そ今後数年間で凡そ200兆円を越える国民所得が失われるだろう。

 

上記の経済損失はほんの一例に過ぎす、さらに頻発する台風・地震の被害も加わり、発展の巨大な足枷となった。

 

これらは、突然の天災と海外が元凶と思われがちですが、実はかなり人災の面が強い。

 

 

 

< 3.災厄と経済停滞 >

赤は金融危機、ピンクは天災、紫はパンデミック。

 

* 何故なのか?

 

バブル崩壊では、バブルを放置した非もあるが、その以前に日銀と政府が米国から要求された内需拡大(財政投資と通貨増発)に前のめりになったことが大きい。

今日銀は同じ轍を踏もうとしている。

 

阪神・淡路大震災は正に寝耳に水でした。

 

リーマン・ショックでは、日銀が上記の反省から緊縮していた事で、欧米ほどの甚大な被害を逃れたが、それでも金融偏重の経済が災いした。

 

東日本大震災では、大津波に加えて原発事故が被害を甚大にした。

 

原発の危険性は以前から指摘されていた。

国会において電源停止の危険性が指摘され、また各地で原発停止の訴訟が行われていた。

これだけ地震が頻発していても、政府や裁判所はすべてを無視し、また退けた。

実は、ここにも政府とマスコミ・裁判所の癒着が壁となって立ちはだかっている。

 

極めつけは、新型コロナの猛威です。

 

日本人は東アジア人と同じ体質(ファクターX)と考えられるが、グラフで一目瞭然のように感染状況は日増しに群を抜いて悪化している。

これは政府が台湾・中国・韓国と異なる対応に固執した結果です(PCR検査軽視など)。

 

 

 

 

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* 日本が没落せざるを得ない理由が見えて来る

 

1. 政府は、金融危機や天災、パンデミックへの事前対策を無視して来た。その主因は強固な議員・産官学・マスコミの腐敗に尽きる。

 

2. 例え失敗しても、産官学・マスコミ・司法が一体となって、政府の不備を隠蔽し、擁護し続ける(大本営発表と酷似)。

 

3. これに加え、米国盲従と米国流の経済システムが経済・社会を没落させている。

 

こうして経済は衰え、政治は危機に対応出来なくなっていった。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

20210121

国境の島、対馬を訪ねて 1: はじめに

  

 

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私は2020年10月1~3日、長崎県の対馬と壱岐を旅して来ました。

やっと念願の対馬を訪れることが出来ました。

これから歴史ロマン溢れる二つの島を紹介します。

 

 

* 旅行の概要

 

トラピックスの二泊三日のツアーです。

1日目は、伊丹から飛行機を乗り継いで対馬に到着し、二泊二日、バスで対馬を観光しました。

三日目、朝からフェリーで壱岐に渡り、半日観光し、ジェットフォイルで福岡港に到着後、飛行機で伊丹に戻りました。

 

通常、関西から対馬への旅行は、不便な為、効率よく旅行出来ませんでした。

しかし今回は、国と長崎県から離島支援やGo To支援により航空便を使って本来の半額以下で無駄なく周遊出来ました。

 

天気もほとんど快晴に恵まれました。

 

* 対馬と壱岐の魅力

 

日本の古代史に興味がある人にとって、対馬は外せない。

先ず、「魏志倭人伝」に対馬国と壱岐国があったと記されている。

当然、奈良の大和朝廷が大陸と通交するには対馬は欠かせなかったはずです。

何せわずか海上50kmの先には朝鮮半島があるのですから。

大陸の神話や仏教が対馬を経由して伝わったことは疑いない。

 

大陸の文明や文化が列島に浸透する時、対馬はどのような役割を果たしたのか?

 

また対馬は常に外国との戦いにおいて前線基地であった。

古くは唐と戦った白村江の戦い、次いで大軍に侵略された元寇の役、倭寇の基地、秀吉の朝鮮征伐、そして日露戦争でのバルチック艦隊撃破などが対馬と関わった。

一方、江戸時代、朝鮮通信使はこの対馬を経由して江戸まで行き来した。

 

隣国との争いと和平の狭間にあって、この島はどう生き抜いたのだろうか?

 

ここ数年、対馬は韓国人観光客で賑わって、様々な噂が飛び交っていた。

ヨーロッパで幾つかの国境の町を見て来たが、国境の島では何が起きていたのか?

 

最後に、海峡に浮かぶ島、その山と海、暮らしに惹かれるものがある。

 

こうして対馬への想いを深め、この旅を経て、多くのことに巡りあった。

 

壱岐は、古代から遣唐使までの歴史ロマンに溢れているのですが、今回はわずかしか観光していませんので、詳しくはお伝え出来ません。

 

 

 

 

 

< 2. 対馬と壱岐、上が北 >

 

上: 矢印の二つの島が対馬と壱岐です

 

下: 対馬の主な観光地

対馬はほぼ一日半の観光でしたが、ほぼ地図上の観光地を巡る事が出来ました。

 

 

< 3. 対馬に到着 >

 

上: プロペラ機が今まさに対馬空港に着陸するところ

 

中央: 小茂田浜神社 (こもだはま)

元寇(文永の役)の際、討ち死にした対馬の武将を祀った神社。

すぐ横の海岸が、元寇の古戦場、小茂田浜です。

 

下: 椎根の石屋根倉庫

非常に珍しい建築様式。

 

上記二ヵ所は、対馬の南西部にあります。

 

 

 

 

< 4. 厳原 1 >

 

厳原(いづはら)は対馬の南東部の港に面した対馬の中心地です。

鎌倉時代以降、城下町として発展した。

 

上: 厳原の大通り

 

中央: 厳原八幡宮神社

 

下: 武家屋敷跡

 

 

< 5. 厳原 2 >

 

上: お船江跡(おふなえあと)

写真の右手が対馬藩の藩船が使用した船着き場の跡。

 

中央: 旧金石城庭園

対馬藩の宗家が戦国時代から江戸時代かけて築いた城の庭園や櫓門が復元されている。

 

下: 宗家墓所

対馬藩宗家の菩提寺、万松院から石段を登り詰めた所にある巨大な墓所。

 

 

 

< 6. 花鳥風月 >

 

上: 対馬海峡を照らす月光

 

中央: 国分寺

厳原にあるこの寺には、江戸時代、朝鮮通信使の客館があった。

重厚な山門や鐘楼が当時を偲ばせてくれる。

 

下: 季節外れの桜が、島のあちこちで咲いていた。

 

 

 

< 7. 島の北部 >

 

上: 比田勝港

漁港、また釜山港を結ぶ連絡船の商港として北部の中心地。

 

中央: 日露友好の丘

日露戦争時の心温まる逸話が残るこの地に、大きな碑が建てられている。

 

下: 韓国展望所

展望所から朝鮮半島を望む。

晴れてはいたが、釜山が見えたかどうかは微妙でした。

 

 

 

< 8. 対馬の中央部 >

 

対馬がくびれて、上対馬と下対馬がかろうじて繋がっている辺りは、海岸線が入り組んでいる。

 

上: 和多都美神社

日本神話の最初に登場する綿津見神(わたつみのかみ)がこの神社を造ったとされている。

この社は平安時代には朝廷から認定されていた。

中央の朝廷から遠く離れたこの島に、最古層の神話に纏わるものがある。

 

中央: 烏帽子岳展望所

360度の眺望が素晴らしい。

 

下: 万関橋の上から

これは浅茅湾と三浦湾の間に開削された万関瀬戸と呼ばれる運河に架かる橋です。

 

 

 

< 9. 壱岐に向かう >

 

上: 厳原港に別れを告げて

 

中央: 猿岩

高さ45mの巨大な猿?

 

下: はらほげ地蔵

海女の里の海岸に佇む6体の地蔵。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

20210119

没落を食い止める! 4: はじめに 4: 抜け出せない悪循環

  






< 1. 教育行政を牽引?する人々 >

 

 

これまで悲惨な社会状況を見て来ました

これすべきですが、残念ながら不可能です。

回復を不可能にしている悪循環があるからです。

 

 

* 自浄作用を奪う悪循環!

 

日本の経済と社会は30年以上前から、明かに没落を始め、それは先進国でも際立っています。

本来なら、没落を招いている政府、少なくとも汚職や腐敗を嘘で取り繕う政府を信任出来ないと選挙で拒否しても当然なのだが。

 

政府は言い逃れに徹し、ほとんどの国民は我関せずで無視を続ける。

政府が自国の社会経済の悪化を示す数値や指標をいくら隠蔽し誤魔化しても、世界が公表する指標を少しでも見れば真実は分かります

 

それでは、なぜ国民は気付こうとせず、無視を決め込むのだろうか

 

確かにパトロネージュ、言い換えれば三バン(地盤・看板・鞄)に代表される我田引水型の政治文化からいつまで経っても抜け出せないのが大きい。

 

だが見方を替えれば、国民が政治に関心を持たず、政治に無気力だからです。

 

これは日本の投票率の低さに如実に表れています。

ちなみにスウェーデンの投票率は高齢者ほど高く、若者でも80%以上です。

北欧では中学時代から学校の授業で政治討論を始め、政治意識を高めることにより高い投票率と政治腐敗の無い社会を創ったと言えます。

 

それでは日本も教育改革を行い、若者の政治意識を高めれば良いではないかと皆さんは思うはずです。

それが出来ないのです。

 

 

*2

 

 

*3

 

日本国民の政治意識の低さは、政府の望むところなのです。

けっして日本文化のせいではないのです。

 

発端は、敗戦後、米国の指示もあり日本政府は国民が社会意識を持たないように仕向けて来たのです(エジプトなど世界中の植民地で広く行われた)。

これは米国が日本の共産主義化や労働運動を恐れたからでした。

残念ながら、日本では一党長期支配が続き、この教育政策は改まることがなかった。

 

日本人は、学生や一般人(特に女性)が政治談議することに違和感を覚えるはずです(昔は違ったが)。

実は、これが世界から遅れている証しなのです。

他の先進国ではデモは当然ですし、日本女性が北欧人と結婚すると、家庭で政治談議が出来ずに困る事にもなります。

 

さらに、最近はマスコミも政府の報道抑圧に飼いならされてしまっている。

 

つまり日本では、選挙を通じた自浄作用が働かないのです。

こうして国の中枢は腐敗し続けるのです。

いつかは国民も気付くでしょうが、後の祭りです(太平洋戦争と同じ)。

 

今の一党長期支配が続く限り、学校教育と低い政治意識の悪循環を断つことが出来ないのです。

 

 

次回に続きます。

 

 

 

20210116

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 17: 旅行記の終わりに

  


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今回は吉野川の渓谷大歩危と池田うだつの町並みを紹介します。

最後に、今回の旅行の感想を記します。

永らくお付き合いありがとうございました。

 

 

 

< 2. 旅程、共に上が北 >

 

上: 赤枠が今回の旅行範囲です。

オレンジ枠は前回の旅行範囲、海部郡の海沿いです。

 

下: 上の赤枠を拡大した。

旅行記は青線のAから始まり、Fで終わります。

 

 

 

< 3. 大歩危 >

 

ここは吉野川の上流で、奇岩の渓流で知られている。

遊覧船やラフティングを楽しむことが出来ます。

写真は道の駅 大歩危から撮りました。

 

 

 

< 4. 阿波池田うだつの町 >

 

ここは本町通りで、撮影は三好教育センター辺りで行いました。

今回の旅行で訪れた脇町や貞光に比べ、残っている伝統的な家屋が少なく、昔の面影はほとんど無い。

1ヶ所、目を引いたのは阿波池田たばこ資料館だけでした。

 

 

< 5. 阿波池田たばこ資料館 >

 

かつてこの本町通りは、たばこの取引で栄えていた。

近くに、かつて吉野川の最上流の川湊があり、ここは交通の要衝だった。

この資料館は幕末から明治にかけて繁盛した刻み煙草の製造業者の建物でした。

 

 

* 今回の旅行を振返って

 

 

 

< 6. 脇町と沈下橋 >

 

: 脇町のうだつの町並み

良く保存されていた。

下: 吉野川の沈下橋

四十年の間、いつ来ても変わることのない穏やかな大河が迎えてくれる。

 

 

思いで深いのは、吉野川の水運と街道によって発展した商家の伝統的な町並み三ヵ所を見学出来たことでした。

 

脇町、貞光、池田のうだつの町並みを堪能しました。

 

脇町は、古くは戦国時代に端を発し、三好長慶(天下取りを争う)、次いで稲田家(蜂須賀家家老)が有数の城下町から川湊に面した商家街へと発展させた。

貞光は、剣山に源を発する渓流と吉野川の合流地で、山の産物の交易によって発展した。

池田は、吉野川最上流の川湊と、周辺のタバコ栽培によって、商いの町として発展した。

 

江戸時代に遡る古い商家が町並みとして保存されていることに感動した。

一方で、その町並みに暮らす人々やその周辺の寂れ具合にやり切れないものを感じた。

最近、日本の地方の街並みを見て回ると特に感じるようになった。

 

今回、これら三つの町が吉野川と旧街道、高い山からの支流、かつての居城の関りで発展した事を知った。

また「うだつ」の形成過程や地域による違いも面白かった。

 

 

 

< 7. 貞光と剣山 >

 

上: 貞光の元庄屋の家

町の中にある庄屋屋敷というのも興味深かった。

 

下: 剣山山頂から下山道を望む

私にとっては30年以上ぶりの登山で、二度目の訪問でした。

登り切れた事に感謝しています。

 

 

 

< 8.祖谷渓 >

 

上: 剣山リフト乗り場近くから祖谷渓を見下ろす。

 

下: 奥祖谷二重かずら橋

 

今回、奥祖谷と祖谷のかずら橋の両方を紹介しました。

私は祖谷渓には、五回以上は来ているでしょうか。

私はこの地に惹かれるものがある。

 

私の中学時代だったかもしれないが、この祖谷の平家落人を扱った映画を見た覚えがある。

それ以来、この陰影のある奥深い山里に、古く神秘的なものを抱くようになった。

 

 

 

 

 

< 9. 落合集落 >

 

今回は、妻と二人だけの旅行だったので、私の気の赴くままに、念願の平家の落人伝説を追うことが出来た。

想い始めて、50年を経て、やっと険しい路に入り込んだ。

この期を逃せば、後が無いと感じたからもしれない。

 

上: 落合集落

 

下: 近くの山里

 

この奥深く急斜面に広がる山村の人々の暮らしが気になった。

住まう人は減ってはいるはずだが、それでも畑作業中の姿を少しは見ることが出来た。

 

この山里の暮らし、特に作物、水源、交易について今回幾分理解出来た。

 

 

< 10. 安徳天皇ゆかりの地 >

 

平家の落人村は全国にあるが、安徳天皇に纏わる地は多くは無く、まして赤旗がある所はさらに少ない。

やはり少しは信じたくなってしまう。

 

それにしても、日本と言う国は不思議だ。

敵に追われて人里離れて逃げ込み隠れ住んだ人々が、後に、その血筋を尊び誇る姿に、何か違和感を感じる。

 

これがヨーロッパではどうだろうか?

英雄や奇跡を起こした人ならいざ知らず、負け組を誇るとは・・。

世界各地の先住民や少数民族も、多くはその過去に僻地への逃避行があった。

一方日本では、負け組の家系を誇りながら中央との交流も続ける。

 

対馬にも安徳天皇が逃れて来たと言う伝説があり、この天皇が当地を治めた宗家の祖先になったとされている。

日本は、いつの時代も「名」(家名や血筋)が重要なようです。

 

そんな不思議を感じる旅でもありました。

 

 

* 最後に

 

前回、徳島、海部郡の5ヶ所の漁港を訪れた。

今回の祖谷川沿いの山里や吉野川沿いの町並みと比べると、海部郡の漁港の寂れ具合が残念でならない。

 

この違いはなぜ起きるのだろうか?

本来、海沿いの方が便利で産業の立地にも適しているはずだが。

祖谷は自然と歴史の観光資源を上手く生かしたからなのだろうか?

それとも、漁業政策の拙さが災いをもたらしているのだろうか?

 

今回は、答えを得ることが出来なかった。

 

皆さん、ありがとうございました。