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これから2回に分けて由岐漁港を紹介します。
今回訪れた漁港の中では最も北にあります。
< 2. 散策図、上が北 >
上: 由岐漁港を俯瞰
二つの岬が漁港を挟み、島が港の入口を護っている。
しかも開口部が南を向き、紀伊水道を通る台風の風から守るには最適です。
この形は、京都丹後地方の伊根港に似ている。
下: 由岐漁港拡大
おおよそ港の中央が港町、右が東由岐で、左が西由岐です。
写真右上の隅に、大きな池「大池」があり、後に紹介します。
< 3. 港を眺める >
上: 西由岐を望む。
下: 左手に東由岐、遠方中央に箆野島(へらの)が見える。
< 4.東由岐の漁協 >
覗いたのが11時だったので、がらんとしていた。
一人の漁師が、今が旬の鰆(さわら)をさばいていた。
下: 蛸が逃げる!
ふと床を見ると、大きな蛸が逃げるように這っていた。
私が「蛸が!」と声を掛けると、漁師が素早く捕まえたところ。
< 5. 東由岐の街並みに向かう >
上: 西側を見ている。
下: 防波堤を乗り越えて、東由岐側に入ったところ。
道奥に住吉神社に向かう階段が見える(南側を見ている)。
< 6.東由岐の街並み >
昔ながらの漁師町の家が残っていると思って訪れたが、かなり改装が進んでいた。
中でも保存が良いのを撮影しました。
おそらくこの後、20年もすれば消失してしまうでしょう。
下: 赤矢印がミセ造り(蔀帳)、黒矢印が出格子です。
外観の説明を引用します。
「由岐のミセ造り(蔀帳)は、半間幅の腰高、窓につくタイプで、腰をかけるというよりは物を置いたり、作業をするためのものです。
全国的にみても珍しく、貴重な建築様式です。
出格子は取り外しできるものもあり、蔀帳のかわりに「縁台」になります。」
これらは海部郡の他の漁師町でも見られたが、ここが一番保存が良いようです。
< 7. 天神社の鳥居 >
この神社は先ほどの街並みの北側にある。
下: 鳥居の右側にハットするものがあった。
< 8. 「南海地震津波最高潮位」の碑 >
これは1946年の地震に伴う津波の高さを石碑の横線で示しているのでしょう。
記録によると
「大地震が発生し、約10分後に津波が来襲して大きな被害を受けた。
旧三岐田町分(旧由岐町より狭い)の被害は死者8人、重軽傷者24人、家屋の流失48戸、全壊66戸、半壊220戸、床上浸水618戸、床下浸水70戸、船舶の流出39隻などであった。」
< 9. 天神社の階段から望む >
上: 東由岐の街並み越しに日和佐を望む
下: 西由岐の方を望む
中央奥に城山公園の小さな岡が見える。
かつて城があった。
< 10.天神社の境内から望む >
上: ほぼ北側を望む。
下: 北東を望む
この右手、この神社のある山沿いに250m行った所に「康暦の碑」が立っている。
写真では建物で見えないが、この碑の前に「大池」がある。
この碑は「古典太平記」に記された康安元年 (1361年)の大地震大津波で亡くなっ た人々のための“供養碑”とされ、現存する日本最古のものです。
この津波で壊滅した「雪湊」の集落が沈んで出来たのが、この「大池」だといわれていて、池の底からは 「土器片」や「古銭」27枚が発見されています。
この時、1700軒も建ち並ぶ「雪湊の町」が海底に沈んだとあり、当時としては大きな港町であったことが窺われる。
次回、この「雪湊の町」について紹介します。
実は、この地方を襲った津波はこれだけではない。
1854年、安政元年の南海地震が襲った。
1944年、熊野灘で起こった東南海地震では2mの津波が日和佐を襲ったが、被害はなかった。
1960年、チリ地震による津波で由岐は30cmほど浸水した。
この地は、津波と共に生きていかなければならない。
< 11. 天神社 >
上: 境内
下: 境内から北側に降りた階段
後で気が付いたのですが、これは今後起こる東南海地震津波の非難用の階段でした。
* 感想と説明 *
当初、日本の漁村と歴史などを知りたくて訪れたが、予想外の展開になった。
それは漁村と漁業の衰退、そして津波の恐ろしさを肌で感じたことです。
一方で、日和佐の町を歩いていて少し希望を見出した。
この地域と日本の漁村と漁業について概説します。
美波町について
2006年に旧由岐町と旧日和佐町は合併し美波町になっている。
日和佐町は、海亀の産卵と薬王寺で有名です。
美波町の現在の人口は6400人だが、年々1割ほど減少している。
その内、農業就業者は4.4%、漁業就業者は美波町で5.3%だが県内の15%を占める。
漁獲量の多いものから太刀魚(22%)、カツオ類、海藻類(14%)、鯛類、貝類(37%)、ブリ類、海老類(13%)です。
( )内は徳島県内のシェアで、特産品が鮑、さざえ、伊勢海老なのがうなづける。
由岐漁港
ここは西由岐と東由岐で漁協が分かれている。
古い町並みは東由岐に残っている。
両者を比べると、漁業従事者は東93名、西58名、漁獲高(金額)は東:西で2.2:1です。
東由岐は沖合底びき網漁業が盛んで、インドネシアからの実習生3名を受け入れている。
由岐は、アワビ稚貝やヒラメ等の種苗放流事業を実施している
しかし由岐全体の漁獲高は年々1割ほど低下している。
同様に日本の漁獲量(トン)は1984年から同様に年々減少し、66%減になっているが、実は漁獲高はここ数年増加傾向にあり、54%減に留まっている。
これは遠洋漁業の落ち込みを養殖業でカバーしているからです。
ちなみに日本の水産物自給率は魚介類59%、海藻類68%です。
日本の人口減と高齢化が、この地域ではより急激に進みつつある中で、新しい動きがある。
美波町は、伊座利地区の集落再生、様々な町おこし、サテライトオフィスの誘致などに力を入れて、町の活性化に成果を出しつつある。
このことは後に紹介します。
次回に続きます。