20170721

フランスを巡って 27: アルザスに想う








 
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今回で、アルザス地方と諸都市の紹介を終わります。
私はこの地を旅して強く印象付けられたことがある。
この地の人々の暮らしに私は平和な世界が来ることを確信した。


 

< 2. アルザスの地図、上が真北です >

上の地図: アルザスは赤線と東側の国境線で囲まれたところです。
フランスの東端にあり、ドイツとスイスに国境を接している。
赤丸はストラスブールとコルマールです。

ドイツとの国境を流れるライン川は交易を発展させ、その流域に石炭や鉄鋼の産地が連なり、産業を発展させた。
一方で、このことが絶え間ない国境紛争をもたらした。

下の地図: 赤丸はストラスブール、リグヴィル、コルマールを示す。
今回紹介する写真は、すべてストラスブール、リグヴィル、コルマール間のバスの車窓からの景色です。


 
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< 8. リクヴィル近くの村 >


 

< 9.ヴォージュ山脈の裾野からドイツ側を望む >
 
この三枚の写真はリクヴィルを発って直ぐのストラスブールに向かう時のもので、東側を見ている。
遠くに黒い森(シュヴァルツヴァルト)が見える。
これはライン川に沿ったドイツ側に160kmほど続く森です。



アルザスの運命
今まで紹介したストラスブールやリグヴィル、コルマールは実に平和そのものでした。
ストラスブールを朝夕散策しても、治安の悪さや、何らかの戦争や憎しみの傷痕などを見ることはなかった。
また多くの人種や移民が共に暮らしている。

しかし、かつてのアルザスは際限なく戦乱に巻き込まれ、領主や宗主国が交代した。
簡単に、大きな戦乱と国境の変化を紹介します。


 

< 10. 9世紀から11世紀の国境 >
赤の矢印はストラスブールを指す。

上の地図: 中部フランク王国(黄着色部)を示す。
紀元前1世紀にはローマ帝国が支配していたが、やがてゲルマン人がやって来てフランク王国を築きました。
そして9世紀に、フランク王国が三つに分割され、アルザスはライン川に沿う南北に延びる中部フランク王国の一部になった。

下の地図: 神聖ローマ帝国(赤線で囲まれた紫着色部)を示す。
10世紀になると中部フランク王国は東部フランク王国に吸収され、それが神聖ローマ帝国になり、16世紀まで続くことになった。


英仏による百年戦争(1337~1453年)の戦場はアルザスとは無縁だった。
しかし、休戦期に解雇された傭兵や敗残兵がアルザスに侵入し略奪した時期が幾度かあった。


 

< 11. 宗教改革 >

16世紀初頭に始まる宗教改革は全ヨーロッパ、さらには世界に影響を与えた。
しかしその展開は複雑で、多くの戦争を生んだ。
一般には、これはドイツ中部で生まれたキリスト教聖職者ルターが教皇を痛烈に非難したことから始まるとされている。
しかし、その萌芽はヨーロッパ各地で以前から見られた。

アルザスが宗教改革と関わるのは、最初期の農民一揆からでした。
上の地図の灰色の部分はアルザスの北方(当時はアルザス)を指し、ここで15世紀末から農民一揆が起こっていた。
1524年になるとドイツの南西部(赤色)でドイツ農民戦争(~1525年)が起こり、瞬く間に、地図の茶色部分に広がり、ストラスブールを含むアルザスも騒乱状態になった。
立ち上がった彼らは、ルターの宗教改革思想を拠り所にしていた。
この2年間で30万人が蜂起し10万人が戦死し虐殺され、アルザスでも10万人が蜂起し3万人が死んだ。

この戦乱で、ドイツは疲弊し、帝国自由都市や小領主が衰退し、領邦国家が力もつようになり、領邦国家が次のプロテスタントとカトリック間の戦争を開始した。
これが神聖ローマ帝国内で始まり、やがてヨーロッパを巻き込んだ三十年戦争(1618-1648年)になった。

下の地図は1650年における、宗派間の色分けです。
ストラスブールを含む橙色はルター派のプロテスタント、周りを囲む草色はカトリック、下側の肌色はカルヴァン派のプロテスタントです。

実は、この後、アルザス一体(フランス東部)の領有権は細切れになり錯綜し、複雑な状況が1634年から1697年まで続きます。

一つ目は、1634年、スウェーデンがフランスにアルザスを全委譲した。
これは三十年戦争の間、アルザス(ストラスブールなど)はプロテスタントの雄スウェーデンから軍事援助を受けていたことによる。

二つ目は、1648年、三十年戦争の講話条約でアルザスが神聖ローマ帝国内からフランスに割譲された。

三つ目は、フランスのルイ14世が領土拡大に乗り出し、1673年、コルマールを奇襲し要塞を解体、1681年、ストラスブールを占拠し、1697年にはアルザス全域がフランス領となった。


 

< 12.フランス革命戦争、1792~1802年 >

フランスで1789年に革命が起きると、周辺の王国はフランス王家を守る為に介入も辞さないと宣言した。
これを受けてフランスはオーストリアに宣戦布告し、ついには12ヵ国を相手に戦争することになった。
初期は劣勢であったが、義勇兵の参加と国家総動員などが功を奏し、やがて東方に領土を広げる侵略戦争へと変貌した。

上の絵: 初期の闘いでフランス軍が勝利したヴァルミーの戦い。

下の地図: フランス革命戦争による領土拡大図の一部。
赤矢印がストラスブール、白矢印がヴァルミー、黄矢印がパリです。

この革命と戦争によって、ストラスブールは略奪され、アルザスは荒廃し、数万人が難民となってドイツに流れた。
また軍人が力を持ち、ナポレオンの帝政を招くことになった。


 

< 13. 普仏戦争、1870~1871年 >

三十年戦争後、神聖ロ―マ帝国は300以上の小国と帝国自由都市の集合体に解体されていたが、19世紀後半にはプロイセン王国がドイツの北方を占め、さらなる領土拡大を目指していた。
フランスはこの挑発に乗って、準備万端のプロイセンに宣戦布告し、一時はパリも占領されるほどの大敗を期した。
こうしてアルザスは隣のロレーヌと共にまたドイツ(プロイセン)に併合された。

上の絵: リヒテンベルクへの攻撃。
プロイセンの連合軍がストラスブール近郊の山城を攻撃している。

中央の地図: アルザスとロレーヌでの普仏軍の対陣を示す。
赤がフランス軍、灰色の丸がプロイセン連合軍です。
黄矢印がリヒテンベルクです。

下の地図: 1871年の領土。
水色がプロイセン連合軍の領土で、アルザスとロレーヌが含まれている。



 

< 14. 西部戦線、1914~1918年 >

第一次世界大戦での西部戦線を示す。
赤線が塹壕のラインで、多くの死者を出したが、ドイツ軍の攻勢を英仏軍がここで防いだ。
ドイツ領であったストラスブールは戦火を免れたと思われる。

第一次世界大戦でのドイツの敗戦を受けて、1919年よりアルザスとロレーヌは再びフランス領となった。


 

< 15. 第二次世界大戦、1939~1945年 >

上の地図: フランス国境の青線がマジノ線です。
これはフランスが対独防衛のため築いた大要塞線で、国境地帯に約400km にわたり建設された。
しかし1940年、赤の矢印の防衛ラインを独軍に突破された。
この時、フランス軍はストラスブールを無人状態で放棄した為、ナチスドイツが占領した。
黄矢印がストラスブール。

1945年、敗戦と共に、占領されていたアルザスとロレーヌはまたフランスに戻った。

下の写真: ストラスブール北側にあるマジノ線を見る連合軍兵士。



今、想うこと
団体の観光旅行ではあるが、ストラスブールやアルザスの他の町も出来る限り見て廻ったつもりです。
しかし、戦争の爪痕やフランスとドイツ両民族の軋轢を感じるものはなかった。

この地をよく案内している添乗員と日本人の現地ガイドに、ストラスブールやアルザスでの両民族の仲違いについて聞いた。
しかし二人共、まったくそんな事は聞いたことが無いと明言した。
まったく私の質問が的外れだった。

既に見たように、アルザスとストラスブールは数多くの戦火、混乱、破壊、略奪、殺戮に苛まれ、その後は民族や言語が異なる国家に組み込まれて来た。
特にドイツ圏とフランス圏とは幾度も入れ替わった。

アルザスは17世紀中頃までドイツ圏に属していたので、ドイツ圏の文化(家屋)や言語(アルザス語を併用)が根付いている。
おそらく食事もだろう。

それにしても、ドイツへの帰属願いや分離独立、ドイツ系とフランス系の人々にいがみ合いの無いのが不思議です。
傍から見る分には、年月が互いの不和を洗い流したゆえか、はたまたフランスが適切な融和策を執ったゆえか、どちらか分からない。
ストラスブールには欧州議会、欧州評議会、欧州人権裁判所、欧州合同軍の本部が置かれており、欧州統合の象徴であり中心と言える。

少なくとも言えることは、これだけの憎しみを生んだ苦難を経験しても、何事もなかったように平和に暮らせることです。

ただ心残りは、市民がどのように平和を紡いで来たのが分からなかったことです。
それでも私は、一つの大きな旅行の目的を果たしてほっとしている。
旅は素晴らしい!!


次回に続きます。








20170720

デマ、偏見、盲点 19: 既成概念を打破する



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世の中が保守的になってくると、人々は益々既成概念に囚われることになる。
必ずしも革新が良いわけではないが、発展が阻害されることになる。
今回は、既成概念を疑い打破することをお薦めします。
世の中を良くするヒントが見つかるかもしれません。


はじめに
人類は、長年信じられて来た既成概念を打破し、新しい取り組みを続けてこそ進歩を遂げることが出来た。
一方で大失敗をしたこともある。

既成概念を捨て新概念を生み出し成功している例を挙げます。

私有権(所有権)、訴訟権、仇討ち禁止、拷問禁止、商業手形発行、憲法制定、宗教改革、企業の無限責任から有限責任へ、<< 家族間の弁済責任(親の借金を子が弁済)の禁止 >>、三権分立、特許制度、奴隷制廃止、議会制民主主義、年金制度、所得税、累進課税、国連創設、普通選挙、金本位制離脱、軍の文民統制、労働基本権、化学兵器禁止条約・・・、ときりがない。

ひとつひとつに長期間にわたる生みの苦しみがあった。
既得権益層と新興勢力の対立、権力者と民衆の対立、国家間の対立などを乗り越え、平和や繁栄、安全、生活向上を求め大いなる決断と合意を繰り返して来た。

一方、新しい主義やシステムを過信し苦渋をなめた例を挙げます。
これは明確に失敗とは認識されていないが、人々に大きな損失をもたらしたと言える。
帝国主義、共産主義、ファシズム、2007年の世界金融危機を招いた金融手法が大きなものでしょうか。

既に見たように人類史は改革の積み重ねであり、既成のものから脱皮し続ける歴史でもありました。
その過程で失敗があっても、多くは改良し、稀に廃止することにより乗り越えて来たのです。
新規の技術や生産物は無数に生み出され、不要になったものや危険なものは使わなくなった。

それでは現実に常識として受け入れられている概念を一つ取り上げてみましょう。



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莫大な国の累積財政赤字
著名な政治家や経済学者の中には、財政健全化の為に増税するのは愚の骨頂で、むしろ赤字を拡大させてでも大幅な財政出動で、景気を浮揚させるべきだと言う。
これにより景気が良くなれば税収増となり、問題は解決すると言う。

既に日本が長年やって来た公共投資(土木・建築事業が無駄だっのかも)で赤字を増大させて来たのだが、まだ足りたいないと言う。

また、リフレ策が成功することにより経済成長とインフレの相乗効果で、いつしか累積債務が減少し、危険水域を脱すると言う。
現在、アベノミクスに、これらの良い兆しが見えていないが、成功は疑いないと言う。

ここで落とし穴があるか探ってみましょう。

当面、日本の累積財政赤字はGDPの250%程度になり、仮に危険水域は300%だとします。
アベノミクスが期待出来る一つのポイントは、インフレによって数十年後の累積財政赤字額が今の数分の1になることです。
これは単純な理屈で、順調に理想的な経済成長が実現さえすれば可能でしょう。

少し先のことを考えましょう。

今後、経済成長率よりもインフレ率が高くなると、未来の生活水準が今よりも低下することになる。
例えば経済成長率1%、インフレ率3.5%が30年続くと、生活水準は1/2になる。
この数値が逆転すれば生活水準は2倍になり、累積財政赤字額は1/3以下の可能性もある(通常、金利も上がるので赤字額の減り方は少なくなる。)。

しかしまだ以下の危険が存在する。注釈1

*累積財政赤字の更なる増大はいつか取り付け騒ぎを起こす。
赤字はすべて国内債務で、国民は従順で国を信任し続けるはずだから取り付け騒ぎは起こらないと言う。
確率は低いが、株式や土地の暴落のパターンを見ると、信任の崩れる時が来る可能性はある。

*恐慌の影響が大きい。
日本自身でなくても中国や米国、EUで恐慌が起きる可能性を無視してはならない。
ほぼ10年毎に起きているので、繰り返す可能性は高い。
アベノミクスにより日本の経済と金融の体質(恐慌への耐性)が悪化しており、他国発の恐慌にさらに脆くなって行くと予想される。

*リフレ策で財政赤字を解消させる姿勢は、健全財政への意欲を低下させる。
政府は無駄遣いと赤字国債発行を続け、さらに日銀による国債直接引き受けが常習化することによりハイパーインフレを招くだろう。

つまり、仮に現役世代には良策であっても、未来の世代には愚策かもしれない。
私の推測では、日本の所得の推移は現役世代で横ばいか若干恩恵を受けるかもしれない。
しかし、その一方で未来世代は横ばいか悪化を経験するかも知れない。
今より国の財政・金融の体質が劣化していく可能性が高いからです。

私の推測通りに事が進むとは断言出来ないが、起こりうる不幸を考えると、以下の事が重要になる。



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我々は如何にすべきなのか
この問題の本質は、現役世代が借金で消費(浪費)して、その弁済を未来世代に押し着けていることです。
実は、このことを既成概念として我々は受容してしまっているのです。

既に見たように、人類は親の借金を子供に返済させることを禁止するようになって久しい。
数十年先の人々が文句を言わないからと言って、未来世代に弁済義務を押し付けることは、時代に逆行している。

ここでもきっと為政者達は経済の永続的な発展の為には、エゴを捨てるべきだと言うでしょう。
しかし、これを受け入れれば入れるほど、政府のモラルハザード「倫理の欠如」は劣化するでしょう。

この悪い例が、金融恐慌の度に、放埓三昧で暴利を貪った巨大金融業や金融家を数兆円から数十兆円の税金で毎回救済しなければならなかったことです。
残念なことに、現状では救済せずに倒産させると被害は更に拡大してしまいます。
これを知っているからこそ、彼らは幾度も繰り返す常習犯になってしまったのです。

当然、世代間の弁済義務を放棄する権利があっても良いはずです。
政府が行政改革をせず、湯水のように税金をばら撒き、赤字を増やし続けるなら、国民は泣き寝入りするべきではない。
本来は選挙で政策変更を勝ち取るべきですが、議員達はしがらみがあり真剣には考えない(既得権益や選挙地盤との慣れ合い、惰性など)。


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されば国民は、一点突破で国に直接猛省を促すべきです。
その方法は、皆さんが貯金を下ろすことです(本当は保険の解約も必要なのですが)。

政府が赤字国債を発行できるのは、国民の貯金が銀行や農協にあるからです。
現状では市中銀行が政府が発行する国債を引き受ける為には国民の預金が必要なのです。
これに抵抗する為に行うのです。
しかし政府発行の国債を日銀が直接引き受け続けるならば、国民の抵抗は無駄になります。
従って早く事を起こさないと、日本の将来は益々危険なものになるでしょう。注釈2.
以下のグラフにその兆候が現れています。



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現在、1年定期の利率など知れています。
まして前回の金融恐慌が2007年なのですから、どこかで恐慌がそろそろ起きても不思議ではありません。
貯金を1年ぐらい下ろしても痛くも痒くもないでしょう。
皆が一斉に1年ぐらい解約するだけで良いのです。

これによって政府は国債発行の危さを実感し、真剣に税の無駄使いと適正な税制(累進制のある所得税など)を目指し、赤字国債の発行を抑えるようになるかもしれません。
それが皆さんの孫やひ孫を救うことになるでしょう。

尚、国債解約の取り付け騒ぎは起こらないでしょう、著名な経済学者が太鼓判を押しているのですから。


大事なことは、現状を疑い、未来を真摯に憂うことです。
いつも社会の悪化は、振り返れば小さな兆しが既にあったのです。
その芽を見つけて前もって摘むことが必要なのです。



注釈1
私はアベノミクス(リフレ策と大規模な財政出動)がまったくの愚策だとは思わない。
しかし、たとえ国民は一度好転を味わったとしても、挙げた三つの問題が発生し、従来より窮地に追い込まれる可能性が高いと考えます。
今の政府はこのことを厳密に検討せず、人気取りの為に猪突猛進しているように思える。

その典型的な悪例の一つに、幾度も指摘している「ふるさと納税」がある。
政府内で現状の返礼品競争と急増する額を施行前に予想出来る人、議員は無理でも官僚などにいたはずです。
それを官邸が抑え込んだのでしょう。
これを決断と実行の内閣と考えるのは早計です。
国民が地方自治体や民間企業を潤す良い施策と信じていることを良いことに、弊害には知らぬ振りです。
この手の姿勢、決断力と実行力をひけらかし、その実、稚拙であることが多い。
もしうまくいかなければ事実を隠蔽し、嘘をつき、過大に他を責め立てることが目立つ。

おそらくこの姿勢が続く限り、施策全体が信用出来ないものとなるでしょう。



注釈2.
本来、中央銀行(日銀)は中央政府から独立した機関であり、物価と金融システムの安定を図ることにより国民経済の発展に貢献するものです。
この目的の為に日銀は国の中で唯一紙幣(通貨)の発行が許されているのです。

通常であれば、日銀は景気刺激策の一環として市中銀行から国債の一部を買取り、通貨を銀行に供給し、間接的に国内の通貨流通量を増加させることをしてきました。
しかし、現在、上記グラフのように日銀は間接に、また政府から直接に国債を大量購入しています。

これが進むと、政府の財政規律が緩み、いつかは好きなだけ国債を発行するようになり、後にハイパーインフレが襲うことになります。

歴史的な反省から、これを避ける為に、世界では中央銀行を政府から独立した機関としたのです。
現状では、政府と日銀が一体となっているため、政府は国債発行と言うより、むしろ紙幣(通貨)を直接発行していると変わらない。
大規模な財政出動を増税無しにするには、手っ取り早い手のなのですが。

これは危険なことなのです。
単に1強では済まされない問題です。