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今日は、中世の施療院オテル・デュ―観光に立ち寄ったボーヌの町を紹介します。
ここには思わぬ中世の町の風情が残っていました。
この地の風景はワインとブルゴーニュ公国、修道院によって作られたと言えます。
< 2。 ボーヌの旧市街地図 >
上が真北です。
城壁で囲まれたボーヌの旧市街は直径約800mと小さい。
私達が歩いた範囲は赤線で、ほんの一部です。
黒の矢印は観光のメインである施療院オテル・デュ―を示している。
青線は観光後、昼食の為に丘の上のレストランに行った時のバスルートで、この時、撮った写真も紹介しています。
ボーヌの町
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上の写真: バスのフロントガラス越しに。
ボーヌの旧市街に向かっている。
下の写真: 駐車場から施療院オテル・デュ―に向かう途中。
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上の写真: 施療院オテル・デュ―。
下の写真: 施療院オテル・デュ―の前の広場から。
この町の建物の屋根や瓦組に特徴がある。
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この写真からNo8の上の写真までは自由散策で歩いた時の写真です。
No.2の地図の赤線部分です。
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下の写真: 観光後、城壁の外側をバスで通過した際に撮った写真。
No.2の地図の青線上で撮影。
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No.8の下の写真と同様。
古い堡塁や城壁、門が残っている。
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丘の上のレストランに向かう途中の風景。
旧市街を離れると、直ぐにブドウ畑が広がった。
ここはブルゴーニュ・ワイン産地の真っ直中です。
ボーヌとブルゴーニュ
後にボーヌの施療院オテル・デュ―を紹介しますが、この施療院設立には興味ある歴史的背景があります。
この地の歴史はワインとブルゴーニュ公国、修道院と深く関わっている。
< 11. ボーヌの歴史 >
左上の地図: フランスのワイン産地。
右の地図: ブルゴーニュ・ワインとボージョレ・ワイン産地を拡大。
一番上に黒丸で示した都市ディジョン、次いでボーヌ、一番下にリヨンがあります。
二つの修道会発祥の地を赤枠で示しています。
上からシトー会、下ってクリュニー会です。
左下の地図: 15世紀に最大版図を誇ったブルゴーニュ公国。
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A: ブルゴーニュ公国の紋章。
B: イエスとワイン。
C: この地にクリュニー修道院が最初に建てられた。
D: この地にシトー修道院が最初に建てられた。
ボーヌは古代ローマ時代からの足跡を残し、11世紀にデイジョンが首都になるまで、ブルゴーニュ公の居所だった。
フランス王家と連なるブルゴーニュ公国(843-1477年)はフランドル(注釈1)を手に入れてフランス王家に次ぐ勢力を誇るようになった。
一方、フランス王家は英国と百年戦争(1337-1453年)を戦っており、弱体化していた。
ブドウ栽培はローマ時代、地中海沿岸に広がり、アンフォラ(素焼きの壷)でヨーロッパ各地に供給されていた。
しかし2世紀以降、寒冷地用の品種が作り出され、ブドウの栽培はローヌ川からソーヌ川を北上していった。
さらに二つの修道会がこの地域の発展に貢献した。
10世紀初め、ブルゴーニュ公の寄進により荒地のクリュニーにクリュニー修道院が創建された。
これは12世紀の最盛期には1200もの修道院を管轄下に置いた。
だが、この繁栄は堕落を生んだ。
11世紀末、これに異議を唱え、徹底した禁欲と難行苦行を行う一人の修道士が葦の原に小修道院(No.11の右地図のシトー会)を作った。
これがシトー修道会となり、ブルゴーニュ公や多くの人々から尊敬を集めるようになった。
これら修道院は寄進された多くの土地を自ら開墾し、農作物栽培とワイン醸造の改良を行い、農民を指導した。
キリスト教徒にとってワインは聖餐においてイエスの血であり、修道院にとっては旅人や訪問客をもてなす重要な飲料であった。
こうして、ブルゴーニュは三つの要素が組み合わさり、その景観と歴史を形作って行った。
そしてボーヌはその中心に位置し、ワインと公国の歴史を背負っているのです。
いずれ施療院オテル・デュ―を紹介します。
注釈1
フランドルはオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域。
中世に毛織物業を中心に商業、経済が発達し、ヨーロッパの先進的地域として繁栄した。