20161218

ドラマ「東京裁判」を見て


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今日は、素晴らしい再現ドラマ「東京裁判」を紹介します。
これはNHKのテレビ番組で、この12月12~15日に放送されたものです。
YouTubeで「東京裁判 NHKドラマ」が見れます。



< 2. 実在の主役達 >

上の写真: 東京裁判の被告席。
中央の写真: 東条内閣。
下の写真: 東京裁判の11人の判事達。



はじめに
東京裁判は、勝者の意趣返し、または戦争否定に繋がったと評価が分かれている。
また私にとって東京裁判はいつか全貌を知らなければならない課題でした。

それは、「日本を戦争へと突き進ませた状況をどう見るか?」でした。
言い換えれば、「戦争の責任は国の指導者、国際状況、国民のいずれがより重いのか?」になる。

今一つは、「国際法(国家間で作った条約など)に期待を託せるのか?」でした。
言い換えれば、「国際法で国家や戦争を裁くことが可能か?」になる。

その答えは先送りになったが、私はドラマに救われた思いがした。
ドラマでは各国から派遣された11人の判事が「日本の戦争」に真剣に取り組み、篤く議論する姿が描かれていた。
彼らは「悲惨な戦争の再発防止」「残虐行為への懲罰」「厳密な法適用」「戦争への根源的な問い」など、それぞれの信条に従い議論し、ぶつかりまた協力して行く。
そして半年で終わるはずの裁判は2年半に及んだ。

超難題を抱える裁判の裏側を、各国の名優が演じ切った。
素晴らしい人間ドラマです。


東京裁判について、マイペディアよりコピー

「極東国際軍事裁判が正称。
1946年1月19日連合国最高司令官マッカーサーの命令で設立された極東国際軍事裁判所が日本の戦争指導者に対して行った裁判。
原告は米・英・中・ソのほか7ヵ国。
同年5月3日より東京市谷で開廷。
裁判長はオーストラリアのウェッブ。
首席検察官は米国のキーナン。
戦争犯罪を〈平和に対する罪〉〈殺人の罪〉〈通常の戦争犯罪と人道に対する罪〉に分けて満州事変以来の日本軍閥の侵略を追及。
19481112日判決。
東条英機ら7名が絞首刑,荒木貞夫ら16名が終身禁錮。
ニュルンベルク裁判とともに二大国際裁判といわれる。」


日本の戦争
満州事変に始まり日中戦争へ、さらに真珠湾攻撃から太平洋戦争へと突き進んだ。
そして、最後は日本全土の空襲と原爆投下で終戦となった。
この第二次世界大戦で世界の人口の2.5%(民間人5500万人、軍人2500万人)が死んだ。



< 3.日本の戦争 >




< 4. ドラマのシーン 1>

上の映像: 判事達が裁判に臨むシーン。
先頭にいるのはオーストラリアのウエッブ裁判長。

下の映像: 判事全員が被告人の罪の有無、量刑について議論するシーン。

初めは、まとまっているように見えたが、やがて亀裂が走り始める。
その一つの論点は「平和に対する罪」で被告を裁けるかどうかでした。

実は、世界はながらく戦争を国家の権利(自衛権)と見なしていたのです。
どう法律家があがいても、戦争する国を止めることが出来なかったからです。
一方、戦闘手段の制限は12世紀頃から国際法として徐々に発展し、戦争犯罪が確定していった。
しかし、世界は第一次世界大戦後の壮絶な殺し合いを経験し、戦争を違法とするパリ不戦条約を発行した。
しかし、これは不完全であり、また戦争を再発させてしまった。
その反省から、第二次世界大戦中の1995年に連合国が中心となり「平和に対する罪」を規定した国際軍事裁判所憲章を急遽作った。

それに加え、様々な論点が波乱を呼んだ。



< 5.ドラマのシーン2 >

一番上の写真: オランダのレ-リンク判事と竹山道雄(「ビルマの竪琴」の著者)との交友。
レ-リンク判事はパール判事に感化され、後に判決に対する反対意見書を提出した。
彼は事後法の問題は逃れえるが、日本の指導者への極刑は過ぎると反対した。
ドラマでは、彼が中心になっているように思える。

二番目の写真: 英国のパトリック判事(中央)が中心となって日本の戦争指導者に断固、極刑を課する多数派を結成する。
アメリカ、中国、フィリピン、ロシア、カナダ、ニュージーランドがこれに同調し、弱腰の裁判長の追い出しや判決文作成を担った。
彼らは国際軍事裁判所憲章の順守とニュルンベルク裁判の成果を損ねないことを盾にした。
そこには各国の事情や個人の偏見や復讐心が垣間見えた。

三番目の写真: インドのパール判事。
彼は当初から、法の恣意的な適用に断固反対し、1235ページに及ぶ別個の判決文を提出した。
日本の行った戦争犯罪を裁くことは可能だが、法のプロが事後法の「平和に対する罪」を適用することがあってはならないとした。
また焦土と化した日本を見て、欧米先進国の身勝手さと思い上がりを痛烈に批判した。
それは原爆投下、また世界に害悪をもたらした帝国主義、日本を軍事大国に追い込んだかもしれない行為を顧みない姿勢です。

四番目の写真: フランスのベルナール判事。
彼も法律家として、東京裁判が正当化出来ないとして、反対の立場から意見書を提出した。



<6.資料 >

上の地図: 第二次世界大戦での日本の最大占領地。
中央の写真: マッカーサーと天皇。
二人は東京裁判での日米の主役でした。

下の写真: 実写フイルム。
東京裁判で日本側弁護人となった米国のブレイクニーの口からから発せらた驚くべき言葉。
「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。」


あとがき
私はこの手のNHKの活躍を誇り思い感謝します。
これまでもNHKは、ベトナム戦争や日本の戦争について徹底した調査を行い、分かりやすい形で放送して来た。
このドラマはオランダ、カナダとの共同制作で、8年もの歳月をかけたらしい。

ドラマで描かれた赤裸々な葛藤や苦悶、断固意思を貫く人々が絡み合う血の通った論争シーン、どれもが私を魅了した。

一方で残念なこともある。
無理だとは思うが、国際法の今後、「世界が国家の不正義を裁くこと」の意味を語って欲しかった。

残念ながら、現在の状況を見るとパール判事の言った、「世界はまだ未成熟である」が70年後も変わらないようです。
相変わらず、大国は恣意的な戦闘や軍事援助を行い続け、止める算段がないどころか、深みにはまるばかりです。

お読みいただき感謝します。



20161217

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 17: バスの車窓から見たエストニア 1







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今日は、ナルヴァからタリンまでの景色を紹介します。
2016年9月30日の午後、バスは210kmの道のりを走りましたが、1時間ほどで日が暮れたので、写真はナルヴァから50kmぐらいまでになります。


 
< 2.地図、共に上が北 >

上の地図: エストニアを示す。
エストニアは東にロシア、南にラトビアと接し、海を挟んで北にフィンランドがあります。
人口は134万人で、面積は北海道の6割です。

下の地図: バスの走行ルート。
赤丸がナルヴァ、黄丸が首都タリンで、宿泊はタリンです。
矢印がトイレ休憩のガソリンスタンドOlerexi Sillamäe tanklaのある町で、ナルヴァから25kmぐらいです。




 
< 3. ナルヴァの町 1 >

ナルヴァは人口66000人の町で、オイルシェールが産出され、エストニア屈指の工業地帯になっている。



 
< 4. ナルヴァの町 2 >

幹線道路を抜けていく分には、町は古さを感じさせなかった。


 

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のどかな景色が続く。
この日、走ったナルヴァまでのロシア側よりも森林が少ないように思うが、
それでも遠方には深い森林が広がっている。
耕作地のようだが、ロシアもエストニア側でも実っている作物をほとんど見ることはなかった。
この辺りの冬の最低気温(夜)は-8℃で、積雪になる。

こちらでもロシアと同様に密集した農家の集落を、幹線道路からほとんど見ることがない。


 
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< 7. 休憩したガソリンスタンドから 1>


 
< 8. 休憩したガソリンスタンドから 2 >

上の写真: このバスは都市間を走るバスのようで、ガソリンスタンドの横に待合室がある。
今回の旅行で立ち寄ったガソリンスタンドにはトイレだけでなくレストランや売店があった。
これも旅の楽しみの一つです。

下の写真: アパートの団地のようです。



 
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上の写真: ガソリンスタンドを横切る地元の人々。


 
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上の写真: ガソリンスタンドの町を過ぎた所にある川。
下の写真: 夕日が沈んで行く。
これ以降は闇の中をバスは走り続けることになる。


次回に続きます。




20161216

Bring peace to the Middle East! 52: religion and persecution 6: Persecution of Jewish people 4

中東に平和を! 52: 宗教と迫害 6: ユダヤ人の迫害 4



 
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We were looking at the situation of persecution of Jews until now.
This time, I chase why establishment of Christianity provoked the persecution of Jews.
This is the last time.

今まで、ユダヤ人迫害の経緯を見て来ました。
今回は、キリスト教の誕生がユダヤ人迫害に如何に結びついたかを追います。
これで最後となります。


 
*2


Process of the establishment of Christianity 
When Jesus was born, the history of the Judaism was already over one thousand years. 
He criticized decayed Jewish rabbis and the law overemphasis of the Judaism, and the  Jewish believers who sympathized with him increased.
The Jewish ruling class incriminated Jesus as a leader of revolts to the governor-general of the Roman Empire, and he became the crucifixion (about A.D. 30).


キリスト教成立の経緯
イエスが生まれた時は既にユダヤ教の歴史は千年を越えていました。
彼はユダヤ教の腐敗した祭司達や律法偏重を批判し、それに共感するユダヤ人信徒も増えて行きました。
ユダヤ人の支配層はイエスを反乱の指導者としてローマ帝国の総督に訴え、彼は磔刑(紀元30年頃)になった。


 
*3

Jesus' resurrection caused an enthusiastic faith in resurrection in Palestine, and Christianity even extended to the gentile of the Roman Empire by activity of St. Paul etc. before long.
In 66 A.D., the Jewish-Roman wars of aiming for independence arose, but the Jews were defeated.
Therefore the Temple in Jerusalem was destroyed, and Jewish people again had to break up.
The region of the Roman Empire had been an emperor worship in those days, but the Judaism had been allowed, and early Christianity was considered one part of it.
The Christians were often persecuted because they were a heretic for Judaism and doubtful pagans for the people of Rome.
In addition, the Roman Empire also persecuted Christians because having been determined as seditious groups to not obey the emperor worship.
However, in the Rome society in a declining mode, the people who looked at large number of Christianity martyrs were attracted by Christianity.

At last, at the end of fourth century, the Roman Empire certified Christianity as the national religion in order to take in Christians who increased, and prohibited other religion.
After this, the Christianity grew mature in Europe, and extended to the world 


イエスの復活によりパレスチナに熱烈な復活信仰が起こり、やがてパウロなどの活躍によりローマ帝国内の非ユダヤ人にもキリスト教は広まっていった。
しかし、紀元66年、独立を目指したユダヤ戦争の敗北によってエルサレム神殿は破壊され、ユダヤ人はまたも離散することになった。

当時、ローマ帝国は皇帝崇拝であったが、ユダヤ教は認めれらており、初期のキリスト教はその一部と見なされていた。
キリスト教徒はユダヤ教にとって異端者であり、ローマの民衆にとって怪しげな異教徒であったので、度々迫害された。
またローマ帝国はキリスト教徒が皇帝崇拝に従わない不穏分子であったので、これまた迫害した。
しかし、衰退し続けるローマ社会にあって多数のキリスト教殉教者を見た民衆はキリスト教に惹かれていくことになった。

ついに4世紀末、ローマ帝国は増大するキリスト教徒を取り込む為に、これを国教とし他の宗教を禁止した。
この後、キリスト教は西欧で成熟し世界へと広まっていった。


 
*4

During this time, what had happened to Christianity?
After the destruction of the Temple in Jerusalem, in the stream of making the comeback, the Judaism assumed Christianity heresy and Palestinian Christianity fell into a decline.
Along with a progress of missionary work to the Jews (Greek speaker) that broke up and gentile at each place, the doctrine and customs of various paganism came to mix with Christianity. 
In addition, an increasing number of Jewish conversion to Christianity caused regression toward Judaism.

Church fathers of Christianity at each place had to deal with troubles from within and without, made a definite distinction between heresy and orthodoxy, and did explanation for the persecution to the emperor.
They did theorization and unification of the doctrine, then established the confession of faith and the Bible.  Annotation 1.
In this way, an unified church system was completed in the about third century.  Annotation 2.

Syncretism and opposition almost happened among much religion, as if the birth of the Islam, the Buddhism, and the Taoism.
However, the intensity of the heresy was different among each religion.


この間に何が起きたのか
エルサレム神殿の破壊後、ユダヤ教は再起を図る中でキリスト教を異端とし、パレスチナのキリスト教は衰退していった。
各地に離散したユダヤ人(ギリシャ語話者)や非ユダヤ人への布教が進む中で、異教の教義や習俗がキリスト教に混じることになった。
またキリスト教へのユダヤ人の入信は、ユダヤ教への後戻りを招き始めた。


各地のキリスト教の教父達は、異端と正統の区別や、皇帝への迫害の弁明などの内憂外患に対処した。
彼らは教義の理論化と統一を行い、信仰告白と聖書を確立した。注釈1.
こうして3世紀頃には一体化された教会制度が成立した。注釈2.

多くの宗教、仏教、道教、イスラム教の誕生時にも、既存宗教との間で習合や対立が起こった。
しかし、異端への激しさは宗教によって程度の差があった。


 
*5


Peculiar things in Christianity
I think that it is related to "Jesus' resurrection" and "the Catholic Church" that Christianity is strict with the heresy in particular.

The miracle called "Jesus' resurrection" is hard to believe to our pagan, but Christian is  most attracted.
If it becomes the Jew to have murdered Son of God Jesus, the hatred reaches a peak.

Furthermore, the existence of the unified church of the Roman Empire conduced to an succession of the firm doctrine, furthermore, the posture to eliminate heresy was also maintained strongly.
Thus, the persecution continued for 2000.


begin a different theme from the next time.


キリスト教に特有なこと
私は、キリスト教が特に異端に厳しいのは「イエスの復活」と「カトリック教会」に関係すると考える。

異教徒には信じがたいイエスの復活という奇跡は、最もキリスト教徒を魅了する。
その神の子イエスを殺したのがユダヤ人となれば、憎しみは頂点に達する。

さらにローマ帝国の一体化された教会の存在は、ゆるぎない教義の継承と共に、異端を排する姿勢も貫かれた。
こうして、迫害が二千年も続くことになった。


これで「宗教と迫害」は終わり、次回より別のテーマを始めます。


注釈1.
信仰告白は、教会などで自身の信仰を神と人とに告白することです。

カトリック教会の信仰告白の例: 使徒信条

「天地の創造主、全能の父である神を信じます。

父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます

聖霊を信じ、
聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます
アーメン。」

私が太字にしました。

注釈2.
ここで言う教会制度とは、キリスト教圏のすべての教会とそれを監督する司教らが一人の教皇を頂点に一体化されていることを指します。
時には全域から司教以上が集まり公会議を開き、教義・典礼・教会法について話し合うことも行われた。




20161214

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 16: ナルヴァ城




*1

今日は、エストニアとロシアの国境にあるナルヴァ城を紹介します。
この小さな城は素晴らしい景観に恵まれるだけでなく、バルト三国を象徴する歴史を秘めていました。
訪れた時は夕暮れが迫っていたが、秋晴れでした。


ナルヴァ(Narva)について
エストニアの都市ナルヴァは、かつて「バルト海の真珠」と称される美しい街並みを誇った。
しかし第二次世界大戦時、ソ連の爆撃で歴史的な街並みの多くは失われた。
人口は約66000人で、人口規模ではタリン、タルトゥに次ぐエストニア第3の都市です。




< 2. ナルヴァ城の外壁 >

この城はナルヴァ川を挟む検問所の直ぐ横にあり、ナルヴァの町をナルヴァ川の対岸のロシアから守るように立っている。
この城も第二次世界大戦で半壊状態になったが、修復されて博物館になっている。



 

< 3. ナルヴァ城(ヘルマン城) 1 >

上の写真: 城壁をくぐると左手にレストランがある。
この建物の直ぐ右手の木の向こうにレーニン像が立っている。
後に、このレーニン像がこの町の複雑な事情を教えてくれることになる。

中央の写真: この中心的な城は博物館になっているがツアーでは入場しなかった。

下の写真: この城の向こうに、対岸のロシア側の城(イヴァンゴロド要塞)が見える。


ナルヴァ城について
ここに最初に城を築いたのはデーン人(デンマークに居たノルマン人)で、1256年でした。
そして14世紀の初めに最初の石の城が完成した。
その後、ドイツのリヴォニア騎士団がこの城を1346年に購入し、その後長く所有することになった。


この地の観光情報
*ナルヴァ市の広報HP: ナルヴァやナルヴァ城の紹介もあり、英語表記選択可。

*ナルヴァ博物館HP: ナルヴァ城、博物館の紹介、英語表記選択可。

*ナルヴァ土塁の解説: 絵図などの資料が豊富、但しエストニア語表記?

Wikipediaナルヴァ城(Hermann Castle):英語表記のみ。




< 4. ナルヴァ城 2 >

中央の写真: ナルヴァ川の対岸にロシアの城塞が対峙している。
左の橋は、私達が通過して来た国境の橋で、その右手の建物はロシア側の検問所です。

私達がバスに乗って橋を通過する時、多くの一般人が徒歩で行き来するのを見た。
彼らはロシア人で、エストニア側のスーパーなどでショッピングする為だそうです。

下の写真: ナルヴァ川の上流側の岸から二つ城塞を写しているライブカメラの映像。
この写真は2016年12月13日、8時10分のもので、現地気温マイナス12℃と表示されていた。
日本との時差はマイナス7時間です。

ライブカメラ: NARVA CASTLE AND IVANGOROD FORTRESS




< 5. ナルヴァ川 >

上の写真: 対岸はロシアです。
下の写真: 川の右手はエストニア側です。

低くなった陽の光を浴びて黄葉が輝き、空と川面はあくまでも青く映え、冷たい川風が吹き抜けていきます。
心洗われる一時でした。



エストニアの歴史について


 

< 6.ナルヴァとエストニアの歴史 >

上の写真: ナルヴァ城を矢印で示しています。
写真上側はおおよそ東方向で、中央を流れるナルヴァ川の左が下流で、下側がエストニアになります。 

中央の写真: ナルヴァ城(ヘルマン城)を矢印で示しています。
かつてエストニアの都市ナルヴァは大きな城壁で囲まれていた。
私達が見たのは、破壊後のほんの一部なのです。

対岸の城塞はロシア側のイヴァンゴロド要塞で、1492年にロシアによって造られた。


下の写真: これはエストニアの支配者の移り変わりを示す年表です。
年表を見ると、支配者の移り変わりに驚かされる。

13世紀から西欧各地のキリスト教団(司教と騎士団)とデンマークが支配し、
16世紀からスウェーデンとポーランドが、18世紀からロシアが支配した。
さらに20世紀に入ると、一度独立を果たすが、ドイツ軍とソ連による支配を受けた後、再度独立を果たし、今に至っている。

バルト三国の数奇な運命は、バルト海に面し、ロシアに繋がっていることによる。
端的に言えば、これらの国は西欧のキリスト教団の侵略を受けた後、西欧(ドイツ)の商人によって栄えた。
これがヨーロッパ化とキリスト教化を生んだ。
これらの国が小さく南北三つに分かれたのは、北欧(スウェーデン、フィンランド)と東欧(ポーランド)の文化が両側から影響したからです。

バルト三国は各々の異なる言語を持つが、幸いなことにキリスト教徒の国で共通し、周辺国もキリスト教国(正教会)です。
但し、北部はプロテスント、南部はカトリックと異なる。




 

< 7. ナルヴァの戦い >

上の絵: 1700年のナルヴァの戦いの絵と思われる。
これは大北方戦争中(1700年~1721年)、ロシア軍がナルヴァに進攻しスウェーデン軍との戦いです。
右手遠方に城塞が見える。

ロシア帝国が、サンクトペテルブルグ発展の端緒になる城塞建築はこの大北方戦争の為でした。

下の写真: ナルヴァ城での戦闘シーンの再現のようです。




< 8. ナルヴァの俯瞰図 >

上の絵: これも1700年のナルヴァの戦いの絵です。
ロシア軍がナルヴァ城を取り囲んでいる。

下の絵: 繁栄している19世紀半ばのナルヴァの様子らしい。



 

< 9. エストニアの歴史地図 >

上の地図: 1260年の支配地図。
13世紀になると西方から騎士団や十字軍が侵攻して来て、エストニア軍は戦うが破れ、エストニアはローマ教皇の下、6つのキリスト教団の司教領、リボォニア帯剣騎士団などに分割された。

下の地図: 1260年~1410年の支配地図。
これはバルト三国の支配を争った一方の勢力であるドイツ騎士団(チュートン騎士団)の支配地域を示す。



 

< 10. バルト三国の歴史地図 >

上の地図: 1560年~1711年のエストニア。
スウェーデンに分割支配された。

下の地図: 現在のバルト三国。


あとがき
私はなぜレーニン像がナルヴァ城の中庭に立っているのか不思議に思った。
その像の下半分が写真3の一番上の写真に微かに見える。
バルト三国は第二次世界大戦後の独立に至るまで、ソ連に辛酸を舐めさされた。
その彼らがレーニン像を撤去しないことに疑問を感じた。

実は、ナルヴァのエストニア人は大戦時、ドイツ軍によって強制避難させられ、ソ連占領後も帰還を許されなかった。
その後、ナルヴァは工業で栄え始めると、ロシア語系住民が大挙移住して来た。
そして現在、ナルヴァの人口の95%はロシア語系住民が占めている。
ソ連の爆撃で廃墟となった町をロシアの人が再建して来たのです。

説明してくれた現地ガイドもロシアからの移民を親に持つていたのです。
彼は複雑な気持ちだと言っていた。

このような民族の混住がロシア周辺で起こり、紛争の火種になっているのかと思うと怖くなった。

次回に続きます。