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今日は、エストニアとロシアの国境にあるナルヴァ城を紹介します。
この小さな城は素晴らしい景観に恵まれるだけでなく、バルト三国を象徴する歴史を秘めていました。
訪れた時は夕暮れが迫っていたが、秋晴れでした。
ナルヴァ(Narva)について
エストニアの都市ナルヴァは、かつて「バルト海の真珠」と称される美しい街並みを誇った。
しかし第二次世界大戦時、ソ連の爆撃で歴史的な街並みの多くは失われた。
人口は約66000人で、人口規模ではタリン、タルトゥに次ぐエストニア第3の都市です。
< 2. ナルヴァ城の外壁 >
この城はナルヴァ川を挟む検問所の直ぐ横にあり、ナルヴァの町をナルヴァ川の対岸のロシアから守るように立っている。
この城も第二次世界大戦で半壊状態になったが、修復されて博物館になっている。
< 3. ナルヴァ城(ヘルマン城) 1 >
上の写真: 城壁をくぐると左手にレストランがある。
この建物の直ぐ右手の木の向こうにレーニン像が立っている。
後に、このレーニン像がこの町の複雑な事情を教えてくれることになる。
中央の写真: この中心的な城は博物館になっているがツアーでは入場しなかった。
下の写真: この城の向こうに、対岸のロシア側の城(イヴァンゴロド要塞)が見える。
ナルヴァ城について
ここに最初に城を築いたのはデーン人(デンマークに居たノルマン人)で、1256年でした。
そして14世紀の初めに最初の石の城が完成した。
その後、ドイツのリヴォニア騎士団がこの城を1346年に購入し、その後長く所有することになった。
この地の観光情報
*ナルヴァ市の広報HP: ナルヴァやナルヴァ城の紹介もあり、英語表記選択可。
*ナルヴァ博物館HP: ナルヴァ城、博物館の紹介、英語表記選択可。
*ナルヴァ土塁の解説: 絵図などの資料が豊富、但しエストニア語表記?
*Wikipediaのナルヴァ城(Hermann Castle):英語表記のみ。
< 4. ナルヴァ城 2 >
中央の写真: ナルヴァ川の対岸にロシアの城塞が対峙している。
左の橋は、私達が通過して来た国境の橋で、その右手の建物はロシア側の検問所です。
私達がバスに乗って橋を通過する時、多くの一般人が徒歩で行き来するのを見た。
彼らはロシア人で、エストニア側のスーパーなどでショッピングする為だそうです。
下の写真: ナルヴァ川の上流側の岸から二つ城塞を写しているライブカメラの映像。
この写真は2016年12月13日、8時10分のもので、現地気温マイナス12℃と表示されていた。
日本との時差はマイナス7時間です。
ライブカメラ: NARVA CASTLE AND IVANGOROD FORTRESS
< 5. ナルヴァ川 >
上の写真: 対岸はロシアです。
下の写真: 川の右手はエストニア側です。
低くなった陽の光を浴びて黄葉が輝き、空と川面はあくまでも青く映え、冷たい川風が吹き抜けていきます。
心洗われる一時でした。
エストニアの歴史について
< 6.ナルヴァとエストニアの歴史 >
上の写真: ナルヴァ城を矢印で示しています。
写真上側はおおよそ東方向で、中央を流れるナルヴァ川の左が下流で、下側がエストニアになります。
中央の写真: ナルヴァ城(ヘルマン城)を矢印で示しています。
かつてエストニアの都市ナルヴァは大きな城壁で囲まれていた。
私達が見たのは、破壊後のほんの一部なのです。
対岸の城塞はロシア側のイヴァンゴロド要塞で、1492年にロシアによって造られた。
下の写真: これはエストニアの支配者の移り変わりを示す年表です。
年表を見ると、支配者の移り変わりに驚かされる。
13世紀から西欧各地のキリスト教団(司教と騎士団)とデンマークが支配し、
16世紀からスウェーデンとポーランドが、18世紀からロシアが支配した。
さらに20世紀に入ると、一度独立を果たすが、ドイツ軍とソ連による支配を受けた後、再度独立を果たし、今に至っている。
バルト三国の数奇な運命は、バルト海に面し、ロシアに繋がっていることによる。
端的に言えば、これらの国は西欧のキリスト教団の侵略を受けた後、西欧(ドイツ)の商人によって栄えた。
これがヨーロッパ化とキリスト教化を生んだ。
これらの国が小さく南北三つに分かれたのは、北欧(スウェーデン、フィンランド)と東欧(ポーランド)の文化が両側から影響したからです。
バルト三国は各々の異なる言語を持つが、幸いなことにキリスト教徒の国で共通し、周辺国もキリスト教国(正教会)です。
但し、北部はプロテスント、南部はカトリックと異なる。
< 7. ナルヴァの戦い >
上の絵: 1700年のナルヴァの戦いの絵と思われる。
これは大北方戦争中(1700年~1721年)、ロシア軍がナルヴァに進攻しスウェーデン軍との戦いです。
右手遠方に城塞が見える。
ロシア帝国が、サンクトペテルブルグ発展の端緒になる城塞建築はこの大北方戦争の為でした。
下の写真: ナルヴァ城での戦闘シーンの再現のようです。
< 8. ナルヴァの俯瞰図 >
上の絵: これも1700年のナルヴァの戦いの絵です。
ロシア軍がナルヴァ城を取り囲んでいる。
下の絵: 繁栄している19世紀半ばのナルヴァの様子らしい。
< 9. エストニアの歴史地図 >
上の地図: 1260年の支配地図。
13世紀になると西方から騎士団や十字軍が侵攻して来て、エストニア軍は戦うが破れ、エストニアはローマ教皇の下、6つのキリスト教団の司教領、リボォニア帯剣騎士団などに分割された。
下の地図: 1260年~1410年の支配地図。
これはバルト三国の支配を争った一方の勢力であるドイツ騎士団(チュートン騎士団)の支配地域を示す。
< 10. バルト三国の歴史地図 >
上の地図: 1560年~1711年のエストニア。
スウェーデンに分割支配された。
下の地図: 現在のバルト三国。
あとがき
私はなぜレーニン像がナルヴァ城の中庭に立っているのか不思議に思った。
その像の下半分が写真3の一番上の写真に微かに見える。
バルト三国は第二次世界大戦後の独立に至るまで、ソ連に辛酸を舐めさされた。
その彼らがレーニン像を撤去しないことに疑問を感じた。
実は、ナルヴァのエストニア人は大戦時、ドイツ軍によって強制避難させられ、ソ連占領後も帰還を許されなかった。
その後、ナルヴァは工業で栄え始めると、ロシア語系住民が大挙移住して来た。
そして現在、ナルヴァの人口の95%はロシア語系住民が占めている。
ソ連の爆撃で廃墟となった町をロシアの人が再建して来たのです。
説明してくれた現地ガイドもロシアからの移民を親に持つていたのです。
彼は複雑な気持ちだと言っていた。
このような民族の混住がロシア周辺で起こり、紛争の火種になっているのかと思うと怖くなった。
次回に続きます。