20150130

Traveling to Spain and Portugal 35: Shopping

スペインとポルトガルを巡る旅 35: ショッピング





< 1.  A roadside restaurant in Spain, it is same as No. 8 Fig. >
< 1. スペインのドライブイン、図8と同じ店 >

I introduce the shopping information that I haven’t introduced until now.
It is roadside restaurants and a supermarket mainly.

今までの観光案内で漏れたショッピング情報をお届けします。
主にドライブインとスーパーマーケットです。

First of all

Moving by bus, we came in roadside restaurants more than twice per 1 day, because of having rest for 20 minutes at two hour intervals.
There were some supermarkets that we could walk down, depending on our hotel.
All the shops introduced in here can do a card payment.

はじめに
バスで移動時、約2時間毎に20分間程休憩の為、1日に2回以上ドライブインや土産物屋に入ることがありました。
また宿泊ホテルによっては徒歩で行けるスーパーマーケットがありました。
紹介している店はすべてカード払いが出来ます。



< 2. New Doha international Airport >
< 2. 新ドーハ国際空港 >

There are many stores in here, the souvenir of Middle and Near East style are a little in some convenience stores.
There are many expensive stores and Western-style shops.
A large self-service shop of two photos in the upper part is convenient for the meal.

店舗は非常に多いですが、中近東らしい土産物はコンビニ内に少しある程度です。
高級店やの店が多い。
食事は上部2枚の写真に示されている大型のセルフサービスの店が便利です。



< 3.  A roadside restaurant on the way of Barcelona and Zaragoza, Spain >
< 3. バルセロナとサラゴサの途中のドライブイン、スペイン >

This became convenient and easy by connecting a souvenir shop and a self-service meal shop.
All roadside restaurants are almost such as this.
We felt grateful to our tour conductor because she advised about our souvenir purchase very well.

土産物店とセルフサービスの軽食店が併設さてれおり手軽で便利。
ドライブインは概ね同じ形式です。
添乗員が土産購入のアドバイスをしてくれるのでありがたい。



< 4.  A main street in front of Pilar church of Zaragoza, Spain >
< 4. サラゴサのピラール教会前の大通り、スペイン >

There were a lot of shops, but we had little shopping time.

非常に多くの店があったが、ショッピング時間が少なかった。



< 5.  A roadside restaurant on the way of La Mancha and Cordoba, Spain >
< 5. ラマンチャとコルドバの間のドライブイン、スペイン >

This roadside restaurant is very big, and a convenience store, a souvenir shop, and a special store of olive oil gather in here.
We were able to shop slightly slowly here.
I knew the daintiness of olive oil for the first time here.

非常に大きなドライブインで、セルフのレストラン、コンビニ、土産物店、オリーブオイル専門店が集合している。
ここでは少しゆっくり買い物が出来た。
ここでオリーブオイルの旨さを知りました。



< 6. A supermarket “Alcampo” of Granada, Spain >
< 6. スーパーマーケットのAlcampo、グラナダ、スペイン >

This supermarket is a 10-minutes' walk from our hotel (H2 Granada).
This shop is a chain store, is big, and has a number of goods.
Unfortunately the salesclerks cannot understand English, and there aren’t the notice of products and the explanation of packages by English.
This is common to a shopping center and the supermarket that we came in during our trip.

この店はホテル(H2 Granada)から徒歩10分の所にあります。
この店はチェーン店で、大型で品数が豊富です。
残念なことに、商品の掲示やパッケージの表記に英語がほとんどなく、店員は英語が解せない。
これは旅行中に訪れたショッピングセンターやスーパーに共通している。

There is not the photo.
A hypermarket Carrefour is a several minutes’ walk from Hotel (TRH Alcora) in Seville.
This hypermarket is one of chain stores of France, and is bigger than above-mentioned Alcampo.
It is a fault for we must go to this shop through a dangerous road.

In these two supermarkets, there are wines and olive oil being composed of many kinds from low price.

写真はありませんが、セビージャのホテル(TRH Alcora)から徒歩数分の所に大型スーパーCarrefourがあります。
この店は、フランスのチェーン店で前述のAlcampoよりまだ大きい。
この店に行くのに、危険な車道を行かなければならないのが欠点です。

この二つのスーパーマーケットにはワインやオリーブオイルの安価なものから多種類あります。




< 7. Shopping in Ronda, Spain >
< 7. ロンダでのショッピング、スペイン >

We enjoyed a stroll through the streets and a shopping because we had free time of one hour after lunch here.
A wife bought a pretty bag in the shop of the lower photo, and we realized that it was made in China later.

ここでは昼食後、1時間の自由時間があったので、町歩きとショッピングを楽しめた。
妻が、下の写真の店でかわいいバッグを買って、後で見たら中国製でした。




< 8.  A roadside restaurant in Spain on the way of Porto and Salamanca >
< 8. ポルトからサラマンカの間、スペイン側のドライブイン >

In this trip, this roadside restaurant became the last.

今回の旅行で、ドライブインはこれが最後になりました。



< 9.  Supermarkets in front of our hotel in Segovia >
< 9. セゴビアのホテルの前にあるスーパー >

Several supermarkets formed a line directly across from our hotel (Puerta da Segovia).
These were small, but the selection of products like the local shop was good.
In addition, it was the last chance to buy the thing that we had not bought.

Souvenirs that we enjoy after returning home

In Spain:  honey, olive oil, and dried fig coated with chocolate.
In Portugal:  Porto(wine), coaster of picture tile, canned food of octopus soaked in olive oil, tea bag of honey tea.

宿泊ホテル(Puerta da Segovia)の真向かいにスーパーが数軒並んでいます。
小さいが、地元の店らしい品揃えが良かった。
また買い残したものを最後に買うチャンスでした。

帰国後楽しんでいる土産品
スペインで: 蜂蜜、オリーブオイル、チョコレートでコーティングした干しイチジク。
ポルトガルで: ポルトワイン、絵柄タイルのコースター、蛸のオリーブ漬けの缶詰、蜂蜜茶のティ―バック。




20150129

社会と情報 39: 新聞は誰の味方か 3






< 1. 西山事件を扱ったドラマ、山崎豊子原作  >

前回に続いて、主要新聞の事件報道を追います。
記者が見た新聞業界の内実は今回で一端終了します。


以下の四つの事件報道から見えるもの
はじめに、三つの事件で検察の横暴と暴力、マスコミが加担する例を見ます。
最後に、地方で起きた一事件を巡る加熱報道がもたらす悲劇を見ます。
今回は様々な資料を使いました。
大手新聞二社については仮称ABで扱い、後に種明しします。



<  2.  飯塚事件を扱った映画 >

     「飯塚事件」
1963年、会計事務所の4人の職員が脱税教唆の容疑で逮捕され、7年後に無罪。
この無罪獲得までの闘いが小説「不撓不屈」になり映画化もされた。

問題は、検察と国税庁が一緒になって、この会計事務所の顧客先に顧問契約の打ち切り、はては脱税証言をすれば税務調査に手心を加える等の卑劣な手段を使い立件を図ったことです。
結果は、会計事務所所長の粘り勝ちで、国会議員が国税庁の横暴を追及し、手打ちとなった。

     「西山事件」
1972年、日米間の沖縄返還協定をめぐる密約を毎日の西山記者がスクープした。
しかし彼は首相が米国と裏取引した密約を暴露したことにより、執行猶予1年の有罪判決を受けた。

判決では報道機関が適正な手段を使うならばこの秘密文書の告発は問題ないとし、彼の卑劣な行為だけを問題にした。
その判決主旨は、密約情報を持ち出した外務省の女性事務官を彼がたぶらかし、彼女の人格を傷つけたことだとしている。

検察は政府上層部(首相?)の意向を受け、「不倫関係による卑怯な入手」を前面に出し彼を追いつめた。
裁判では密約の有無に触れず、マスコミを通じて、彼は破廉恥な記者として社会に印象づけられた。
おかげで、首相と政府は密約の追及をはぐらかすことが出来た(密約はあった)。

この手の個人攻撃に対して、個人が独りで大組織に立ち向かうのはほぼ不可能です。
米国でも似たことは起きるが、マスコミが国や大企業の脅し(裁判)に抗して告発者を保護し、報道することになる。

もう一つの問題は、毎日がこのスクープを大きく扱わず、焦って西山記者が議員に依頼し国会で追及した。
しかし、それが仇となり告発者が特定されてしまったことです。
新聞社が告発していれば匿名が可能だったはず。


    

*「村上ファンド事件」 (著書「官報複合体」を参考)
2006年、村上ファンドがニッポン放送株でインサイダー取引したとして逮捕され有罪確定。

彼は逮捕される数時間前、日頃、取材で顔見知りになっていた著者に電話を掛けて来た。

村上:「きょう、生まれて初めて公の場でウソをつきます」
著者:「えっ? どういうことですか?」
村上:「罪を認めるということです。・・記者会見をしますので、ぜひ来て下さい」
著者:「インサイダー取引をやったのですか?」
村上:「新聞を見たでしょう? 罪を認めなければ、僕のほかにも幹部が逮捕をされてしまう。・・本当のところをわかってくださいね」

検察から流された「徹底した逮捕起訴は確実」の情報が躍る新聞を見て、彼は仲間と会社を守ろうとした。

ポイント: この三つの事例から、検察の横暴と恐ろしさ、個人の抵抗が如何に困難か、それに加えてマスコミが如何に無力で、むしろ同調し弱者を追い込んでいるかがわかる。


    

     「津山主婦行方不明事件」の報道 (私が直に聞いた話)
2002年、岡山で医師(高橋幸夫)の妻が行方不明となり、口座から大金が引き出され、いまだ犯人と妻が見つからない未解決事件です。

2013年、私は講演会でこの医師(「全国犯罪被害者の会」幹事)の悲痛な訴えを聞いた。
彼は、当時の過剰で被害者を踏みにじるマスコミ取材に怒りを露わにし、11年経っても治まらないトラウマに苦しんでいた。

事件当時、彼は度重なる取材の自粛を県警通じて「記者クラブ」に訴えた。
A社を幹事会社とする県警記者クラブは、直ぐに反応して以下の申し合わせを行った。

「妻の妙子さんが行方不明という状況の中、幸夫さんの肉体的・精神的疲労もピークに達していて、度重なる取材に対し、『これ以上の取材はやめてほしい』と悲痛な声を上げているということです。
・・・
以下の事を申し合わせました。
1. ・・・
2.本人以外への取材に関しても、良識を持って取材活動を行う。
3.幸夫さんに対して、会見を開いてもらえるよう、クラブとして交渉を行い、出来る限り早期の実現に向けて努力する。
・・・
『本人への過熱取材の背景には、県警からの情報の過小さがある』という認識もあり、県警に対して、・・情報の提供を強く要望する・・・ 」

しかし、この申し入れの11日後、容疑者に近い人物が自殺し、これにより手掛かりは断たれた。
以前から警察はこの人物の身辺捜査を行っていたのだが、A社が自殺の前日に、この人物を2回電話取材していた。
この取材が原因で未解決事件になったとまでは断定できないが、被害者の医師は、当時の過熱取材と報道が事件解決の道を閉ざしたと訴えた。

ポイント: 新聞は、往々にして事件解決や人権を無視してまでも執拗な取材と報道を行い、犯罪を扇情的に扱う傾向がある。
それが視聴者の耳目を集め、新聞の発行部数増につながると信じるからです。
新聞社によって犯罪を扇情的に扱う度合いは異なる。
また犯罪の主体が、国家や企業等による組織的ものか、また与党側か野党側か、はたまた周辺で起きる利己的なものかでも、新聞社によって対応は異なる。


最後に
3回の連載で取り上げた8件の事例を見ると、日本の主要新聞が如何に本来の姿から逸脱しているかがわかります。
つまり権力(「記者クラブ」を有する大組織)との繋がりを優先するあまり、本来、第四の権力となって国民の為に監視すべき立場を放棄しています。
結局、このことが弱者や人権を無視することに繋がっています。

このことは新聞社によって多少異なっていました。
また新聞社の官僚体質とは異なる次元で起きていることもわかりました。
この違いを生む原因については別に取り上げます。

私が残念に思うのは、「記者クラブ」等の官公庁と新聞社の癒着構造が、常々、世界や良識ある記者達に批判されているにも関わらず、平然と続けられていることです。


次回から、新聞と検察が、どのように泥沼にはまっていったかを見ます。

種明し、A社は読売です。




20150126

社会と情報 38: 新聞は誰の味方か 2

     

前回に続いて、主要新聞の事件報道を追います。


事件報道から見えるもの
今回も、前回に続き著書「官報複合体」から記事を引用します。
大手新聞二社については仮称ABで扱い、後に種明しします。


< 2. 下記事件の無罪記事の扱い >

*「山口組絡みの資金洗浄事件」の報道
2004年、クレディ・スイス元行員道傳(どうでん)篤が逮捕され、2007年無罪。

「一連の手法は、金融のプロで元クレディ・スイス行員道傳容疑者が考案し、自ら実行していた。海外を舞台にしたブラックマネー洗浄の手口の全容が明らかになったのは始めて」
「年間数十億のノルマがあり、・・スイスに送金すれば、自分の実績も上がると考えた」
A社は起訴の翌日、こう報じた。
翌年もA社は、この事件を特集し被告を犯人扱いし責めた。

それでは無罪判決後、A社は犯人扱いした記事を訂正し謝罪しただろうか。
A社も含め主要紙は、無罪確定を知らせるベタ記事(図2)以外には報じていない。

道傳によれば、新聞は彼や親族、彼を支持する人々に一切取材せず、警察・検察ばかり取材していた。
「約十ヶ月に及ぶ拘留を含め、逮捕から三年三ヶ月が経過し、その間に失ったものはあまりに大きく、無罪判決を受けたからといって率直に喜べる状況ではありません。・・捜査機関が私の話に耳を傾けてくれていれば・・」
道傳は無罪判決後、これを記者クラブに配布し、毎日と日経だけが紹介記事を載せた。

ポイント: Aは検察の意向を汲んだ報道に終始し、被告を犯人扱いした。
無罪確定後、Aは犯人扱いした誤報を批難されないようにその報道を小さく扱った。
これは他社も同様ですが。

新聞は容疑者を犯人に仕立て扇情的に書くことに熱心でも、正義が正しく行われているかには関心が低い。
検察の誤認が発覚(無罪確定)すると新聞社は検察を責めても、被告に誤報を謝罪し名誉回復に務めるよりは知らぬ存ぜぬを決め込む。

記者クラブ所属の新聞は、検察を疑い調査することで検察に嫌われたくない。
これでは正義の最高権力(検察)が冤罪起こしたり腐敗したりしても暴かれず、改善されることはない。
これでは「記者クラブ」を持つ官庁や団体の退廃を食い止めることを新聞に期待出来ない。
一度、被告になった弱者は、味方が失われ孤独の内に冤罪を受け入れるか、例え無罪になっても名誉回復がおぼつかない。


次に検察に葬られた例を見ます。



    

     三井環事件」の報道
2002年、大阪高検元部長三井が詐欺容疑で逮捕され懲戒免職、上告するも2008年最高裁で実刑確定。

毎日「明治以来の不祥事」。
A社「今回の事件ほど、国民の検察に対する信頼を損なったものはない」
B社「日本の検察官の信頼を著しく失墜」
日経「歴代の検察首脳の責任は極めて重い」
いずれも逮捕から2ヶ月以内の記事で、「悪徳検事三井」と名指しした。

実はこの事件には裏があった。
三井はかねてより、水面下でマスコミに接触し、「検察内部で調査活動費が裏金として職員の私的な飲食代やゴルフ代に消えている」と訴えていた。
しかしマスコミは内部告発者には冷淡で、やっと彼は実名を条件にテレビB社「ザ・スクープ」の取材を取り付けた。
しかし、その当日、彼は些細な別件で逮捕され、6年間も検察とマスコミを敵に回し、ついに闘い敗れた。

後日、彼は振り返り語った。
「逮捕された時に、いかにひどく報道されていたかを知って驚愕。マスコミにも怒りが湧いてきた」

ポイント: この事件には二つの問題があります。
一つは、日本のマスコミが内部告発者を信用せず避ける傾向にあることです。
既にこの連載「社会と情報 2~9と27」で取り上げたように、米国での内部告発は企業や国家の大規模な不正を暴き社会を救い、評価されています。

しかし日本では、いまだに内部告発が組織の裏切りや犯罪と見なされる。
さらに告発には実名が要求され、それが知れると告発者は以後冷遇され続ける。
多くの記事が匿名扱いなのに、なんと不条理なことか。

これは日本の国民性に「強い村意識」があり、良く言われる「社会人でなく会社人」になってしまうことを指します。
これは心理学で言う「帰属意識が高い」ことによる悪い面が出たからです。
当然、良い面もあります。

しかしもう一つ重要なことは、新聞が大組織(「記者クラブ」を有する官公庁や団体、企業
)に損害をもたらす内部告発に関わらないことで、今後の情報提供を円満に続けようとの意図が働くからです。

さらに問題なのは、大組織の横暴を暴露しないだけでなく、同調あるいは傍観し続けていることです。
この場合、内部告発を企てた途端、被告人は些細な罪で起訴され、検察とマスコミから徹底的に名誉を傷つけられ、その告発の信憑性を奪われたことです。
これは大組織が内部告発者を潰す常套手段です。
よく使われる例に、告発者の異常な性癖や不倫、使い込みなどの悪評流布、さらに家族や協力者への脅迫があります。
この手段を大組織は影響力と資金力を駆使して行うことが可能で、これは万国共通で連載いくつか紹介しました。
マスコミ(新聞も)が、悪意の有無は別にして、これに加担する結果になっているのです。


次回、弱者を追い詰める大組織とそれに同調し傍観する新聞の姿勢を追います。

種明し、A社は読売、B社は朝日です。



20150124

社会と情報 37: 新聞は誰の味方か 1


< 1. 著書 >

主要な新聞の事件報道を追うことにより、ある問題が浮かび上がってきます。
この問題を元日経記者の著作から見ます。

著書 : 「官報複合体」
著者 : 牧野洋。日経新聞と雑誌「日経ビジネス」の記者、海外駐在員、編集委員を経てフリーランス。現在、米在住。
出版社: 講談社。2012年刊。
補足 : アマゾンのカスタマーレビューの評価(23件)は4。



< 2. 記者クラブ >

はじめに
前回見た朝日の官僚臭さは願い下げだが、主要各社の報道記事を見ると、どれも同じ穴のむじなであることがわかる。
結論から言えば、共通の根がより大きな災いを生み、さらに別の問題も見えてくる。
3回にわたってみていきます。

共通の根とは著書が「官報複合体」と呼ぶ、日本が百年も引きずって来た悪習「記者クラブ」(全国に約800存在)が代表的なものです。
この著書から、各社の記事要約を引用し検討します。
簡潔にするため、私は引用文を大幅にカット&ペーストを行っていますので、ご了承下さい。
この著作を読んだ限りでは、著者は日本の新聞業界全般を批判しており、不偏不党であると思われます。

各社の事件報道から見えるもの
大手新聞二社については仮称ABで扱い、後で種明しします。



< 3. SPEEDIデーターの扱い >

     「原発事故で官僚が情報隠蔽」の報道
これは2011年3月11日の福島原発事故でのSPEEDIデーター公開が遅れた件です。
時を逆に追っていきます。

2011年8月、ニューヨーク・タイムズが報じた。
「日本は原発事故のデーターを隠蔽し、住民を危機に陥れた」
「拡散予測データーは中央官僚の判断で公開されなかった」

日本の報道はどうだったのだろうか?
遡って6月、「情報提供に及び腰な政府の姿勢が目立った」とA社が報じ、主要各紙も政府を批判した。

5月27日、B社が報じた。
「放射線測定値、バラツキなぜ、・・・、自治体任せ」

5月16日発売の週刊現代が最初に情報隠蔽を暴露した。
「あなたの町の『本当』の放射線量は実はこんなに高い―」

6月14日、この暴露を受けて文科省は都合の悪いデーター(各地の地上1mの放射線量)の公表を始めた。

ポイント: 主要新聞は、情報発信側(政府、省庁、団体)の情報を疑わず、虚偽を暴くことに消極的です。
しかし記者クラブに属さない雑誌各社は、時にその欺瞞を暴くことになる。
これは「記者クラブ」が情報発信側(この場合、文科省)と馴れ合い、癒着している為に起こる。



< 4. 村木被告と証拠改竄の検察官 >

*「郵便不正事件」の報道
2009年5月、厚労省村木元局長が逮捕され、翌年無罪、さらに大阪地検の証拠改竄発覚。

「キャリア官僚の逮捕にまで発展し、事件は組織ぐるみの様相を見せている。なぜ不正までして便宜を図ったのか。・・疑いを持たれてしまった事実は重い」
B社は逮捕1ヶ月後に社説でこう書いた。

2010年9月、村木に無罪判決。
B社はその11日後、主任検事の証拠改竄疑惑をスクープ、これにより最高検察庁が動き、上告されず冤罪事件を免れた。

ポイント: 逮捕当時、B社は検察の思惑をそのまま報じ、自ら調査報道せず被告を犯人扱いした。

この手の記事の多くは、誰(検察)の思惑かを明示せず、信頼できそうな噂話(笑い)として書かれる。
これだと誤報であっても責任逃れし易く、記者は取材努力をせずに又聞き情報などを容易に取り上げることが出来る。
さらに意図的な情報、例えば検察に都合の良い思惑を流して恩を売ることも可能になる。
これが匿名の情報発信元や記事が多い理由です。
しがって、TVで以下のセリフをよく使うコメンテーターはむしろ眉唾だと言える。
「私は情報筋から内々(匿名)でよく情報が貰えるので・・・」

B社は後に証拠改竄スクープで彼女の名誉挽回に貢献したとはいえ、汚点は消えない。
他社も同様であるが。
もし彼女が検察と徹底抗戦しなければ、また改竄事実が発覚していなければ、冤罪になっていたかもしれない。
日本は有罪確定率が非常に高いが、この官報複合体(警察・検察と記者クラブ)に一因があるのだろう。

次回、無罪でもハッピーエンドにならなかった例を紹介します。

種明し、A社は読売、B社は朝日です。



20150122

Go around the world of Buddha statues 21: the encounter with Buddha statue and Hindu statue


仏像を巡って 21: 仏像と神像の出会い




Siva

< 1. Siva >
< 1. シバ神 >

This time, I introduce how Buddhism and Hinduism were affected mutually along with the development of the statue in India.
There is a mystery common to the history of religions in it.

今回は、インドでの彫像の発展に伴って仏教とヒンドゥー教がどのように関わったかを見ます。
そこには世界の宗教史に共通する不思議があります。


The statue of the rise period of Buddhism

仏教興隆期の彫像


Yaksi images were carved to a stone pillar, Bharhut in India, the beginning the 1st century B.C.

< 2.  Yaksi images were carved to a stone pillar, Bharhut in India, the beginning the 1st century B.C. >
< 2. 石柱に彫られたヤクシー像、バールフット出土、インド、前1世紀初め >

Commentary:  This railing surrounded the Stupa (pagoda), and Yaksi (goddess of fertility) of a folk belief were arranged at the pillar as a guardian deity.
This became the four heavenly kings that protect north, south, east and west afterward.
This is thing of the earliest stage that God and Buddha were carved in India.

解説: この柵(欄楯)はストゥーパー(仏塔)を囲っていたもので、その柱に民間信仰の神ヤクシー(豊穣の女神)等を守護神として配していた。
これが後に東西南北を守る四天王(毘沙門天、増長天)になった。
これはインドで神や仏が彫られた最初期のものです。


A biography of Buddha” Brahma and Indra entreat Buddha to preach”, Gandhara in Pakistan, about the 1st century >

< 3. A biography of Buddha” Brahma and Indra entreat Buddha to preach”, Gandhara in Pakistan, about the 1st century >
< 3. 仏伝「梵天勧請」、ガンダーラ出土、パキスタン、1世紀頃 >

Commentary:  In the lower left, Bo-ten joins his hands in prayer to Buddha on bended knees, and the other side is Taishaku-ten.
Bo-ten is called Brahma in Brahmanism, and Taishaku-ten is Indra.
Indra was a courageous God and was the top of all Gods in the Brahmanism era, but the position lowered in the Hinduism era.
In the first Buddhist scriptures, the aspect that Gods of Brahmanism entreat Buddha to preach was described.

解説: 向かって左下にひざまずいて釈迦に合掌する梵天、その反対側に帝釈天。
梵天はバラモン教ではブラフマン神、帝釈天はインドラ神です。
インドラは武勇神で、バラモン教時代には最高神だったが、ヒンドゥー教時代になるとその地位は低くなった。
最古層の仏典に、バラモン教の神々が釈迦に教えを請う様子が「梵天勧請」や「帝釈窟説法」に書かれています。


Seated Buddha Triad, Ahicchatra in India, the 2nd century 

< 4.  Seated Buddha Triad, Ahicchatra in India, the 2nd century >
< 4. 仏三尊像、アヒチャトラー出土、インド、2世紀 >

Commentary:  In the left, a statue that wears a scarf and is western-style guards Buddha with having a vajra( beetle).
This became guardians of the temple( Kongorikishi of Nandaimon in Todai Temple) afterward.
The right seems to be Bodhisattva.

解説: 向かって左、スカーフを巻いた西域スタイルの金剛杵を持つ像は仏陀を警護している。
これが後に仁王像(東大寺南大門の金剛力士)になる。
右は菩薩風です。

The rise period of Buddhism, from the 1st century B.C. to the 2nd century A.D.

The birth of Buddha statue was caused by a religious movement of Indian people and the culture policy of a dynasty, and was influenced by western statue expression. Afterward, it developed rapidly from the 1st century to the 2nd century.
Before the birth of Buddha statue, deity statues for a folk belief and simple clay dolls were made.
However, the gods of Brahmanism having the history of 1,000 years were not molded before the birth of Buddha statue.

仏教興隆期、紀元前1世紀から紀元後2世紀まで
仏像誕生はインド民衆の宗教運動と王朝の文化政策が原動力となり、さらに西方の彫像表現が触媒となり、紀元1から2世紀、急速に発展して行きました。
仏像誕生前にも民間信仰の神像や素朴な土人形は造られていました。
しかし既に千年の歴史を持つバラモン教の神々は、仏像誕生以前には造形されていなかった。

Actually, beginning to make God statue of the Brahmanism was the first in No.3 fig. and No.4 fig. almost.
While Brahmanism that was formerly prosperous by uniting with royal families had been losing substance, Buddhism won the heart of the people.
Therefore, the Buddhism took in Gods of the Brahmanism in Buddhist scriptures and showed it to the relief engraving afterward.

In the relief engraving, a lot of the Gods help Buddha, ask him for teaching, and follow him.
It showed that Buddha was more dominant than God of Brahmanism.

バラモン教の神像が造られ始めたのは、実は図3、4の浮き彫り等が最初なのです。
かつては王家と一体となり隆盛を誇っていたバラモン教が形骸化していく中で、仏教が民衆の心を捉え隆盛していきました。
そこで仏教はバラモン教の神々を経典に取り入れ、後に浮き彫りに表したわけです。
多くはバラモン教の神が釈迦を助け、釈迦に教えを請い、付き従う姿で表されています。
それはバラモン教の神よりも釈迦が優位にあることを示すためでした。


The statue of the rise period of Hindooism

ヒンドゥー教興隆期の彫像


Ajanta Caves and Ellora Caves 

< 5.  Ajanta Caves and Ellora Caves >
< 5. アジャンター石窟とエローラ石窟 >

Upper fig.: One of Ajanta Caves. This caves were dug as Buddhist temple in sequence from the 1st century B.C. to the 7th century.
Lower fig.:  It is a Hind temple of Ellora Caves. 
This caves developed as Buddhist temple first, as Hindu temple in the 7-9 century successively, and as Jain temple afterward.

上図: アジャンター、26窟。この石窟群は、前1世紀から7世紀頃まで仏教寺院として次々と掘られていった。
下図: エローラ、16窟のカイラサナータ寺院(ヒンドゥー教)。この石窟群は初期に仏教、7~9世紀にヒンドゥー教、後にジャイナ教の寺院として発展した。


Siva and Vishnu 

< 6.  Siva and Vishnu >
< 6. シヴァ神とヴィシュヌ神 >

Left fig.: Shiva is called Daikoku-ten in Buddhism. in Ellora Caves, the late stage of the 6th century.
Right fig.: Vishnu is called Kichijo-ten in Buddhism. about 401 year.
Commentary :  In this era, Siva, Vishnu and Brahma became the three great Gods of Hindooism.
Hindu God has much avatar, and the Vishnu of the right fig. has head of wild boar and stamps a bad dragon.
Furthermore, this Vishnu changed to Buddha also.


左図: シヴァは仏教では大黒天。エローラ石窟、6世紀後半。
右図: ヴィシュヌは仏教では吉祥天。ウダヤギリ石窟、401年頃。
解説: この時代になると、シヴァとヴィシュヌ、ブラフマーがヒンドゥーの三大神となっていた。
ヒンドゥー神はそれぞれに多くの化身が可能で、右図のヴィシュヌは猪の頭を持ち、悪龍を踏みつけている。
さらにこの神は釈迦にも化身した。

The rise period of Hindooism
Brahmanism was stimulated by the prosperity of Buddhism, and reformed by taking in Gods of a folk belief positively from about the 5th century B.C.
On the other hand, Buddhism reached the prosperity with the birth of Buddha statue, but began the decline before long.
Before long, the Brahmanism was reborn to Hinduism in about the 5th century, and came to get over Buddhism.

Hindu statue that once had served only to enhance Buddha statue’s greatness came to be outstanding as simple substance gradually.
Before long, Caves that were dug in each place changed from Buddhist temple to Hindu temple.

ヒンドゥー教興隆期、紀元後5世紀以降
バラモン教は仏教の隆盛に刺激され、紀元前5世紀頃から民間信仰の神々を積極的に取り入れ変革を遂げた。
一方、仏教は仏像誕生と共に隆盛を迎えたが、やがて衰退を始めた。
やがて紀元5世紀頃にはバラモン教はヒンドゥー教へと生まれ変わり、仏教を凌ぐようになっていた。

それまで仏像の添え物だったヒンドゥー神像は、徐々に単体として目立つ存在になっていった。
やがて各地に作られていた石窟も仏教からヒンドゥー教の寺院へと変わっていった。

Subsequent deployment

その後の展開


Indra and Taisyaku-ten 

< 7.  Indra and Taisyaku-ten >
< 7. インドラと帝釈天 >

Left fig.: A current picture of Indra in India.
Right fig.:  Taisyaku-ten in Japan (Indra).

左図: インドでの現在のインドラ図。
右図: 日本の帝釈天(インドラ)。


Hokke-do of Todai Temple

< 8. Hokke-do of Todai Temple 
< 8. 東大寺法華堂 >
Commentary:  Two statues of Four Heavenly Kings is arranged in right and left from the outside to protect a principal statue, and two statues of Konngourikishi were located on the inner side of these.

解説: 本尊を守護するように外側から2体の四天王、その内側に金剛力士が左右に配されている。

Summary

Two impressive things happened here.
At first, priests seem resistant to express the Buddha by iconography. 
However, as people had desired the material symbol, the expressing by iconography had developed rapidly with getting the example of competitive religion or outside world.

Two competitive religions take in the Gods of opponent religion.
I was not able to state it clearly this time, but each religion had internalized the opponent doctrine with taking in God statues, and had come to accommodate a request from people more.


まとめ
ここで印象的なことが二つ起こっていました。
一つは、最初、僧侶達は神や仏を図像表現することに強い抵抗があります。
しかし民衆が明確な象徴を望む中で、外界や競合する宗教の手本を得て図像表現は急速に発展します。

今一つは、競合する宗教同士が、相手の神々を取り込んでいくことです。
今回は明示できませんでしたが、多くは神々と共にその教義も取り入れ、より民衆に応えるようになります。

The religion in the world has developed through the competition and the mixture such as the relation of Buddhism and Hindooism.

世界各地の宗教も、このような神仏習合と競合を経て発展して来たのです。