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20200613

中国の外縁を一周して 41: 束河古鎮と茶马古道博物馆




*1

今回は、麗江の別の古陳と博物館を紹介します。


 
< 2.束河古鎮の地図、上が北 >

上: 麗江全体図
赤矢印: 束河古鎮。
ここは麗江古陳から4km離れた所にあり、大きさは約1km四方です。
ここはナシ族発祥の地で、麗江古陳ほど観光化されていない。
束河古鎮の北4kmの所に、木氏の本拠地であった白砂がある。

茶色矢印: 既に紹介した黑龙潭公园。
赤矢印: 既に紹介した麗江古陳。

下: 束河古鎮の主要観光地
この範囲は束河古鎮の北西部で山裾にあり、泉が湧き出している。

A: 茶马古道博物馆
B: 四方街
C: 青龙桥
D: 九鼎龙潭


 
< 3. 駐車場から古陳へ >

麗江古陳の通りに比べ建物が古びている感じがした。
古さを残しているとも言える。


 
< 4. 茶馬古道博物館に入る >

正直に言うと、小躍りするような展示はなかった。
それでも写真パネルや幾つかの説明資料(中国語)は役に立った。

下: 茶葉を運ぶ姿が印象深い。
この姿で、普洱(プーアル)から大理、麗江、香格里拉を経由して拉薩(ラサ)までの3000kmの山道を行き来した。
小型の馬も使用したのだろうが。
このようにして茶葉を運ぶために、茶葉を円盤状に固く圧縮したのだろうか?
やっと理解出来た。

 
< 5. 茶馬街道の様子 >

上: 険しい山岳路が目に浮かぶ。

下: 左下に麗江古陳の賑わいが見える。
上には、拉薩のポタラ宮と大昭寺が見える。


 
< 6. 茶馬街道と人々 >

下: 博物館にあった街道の地図。
北部と南部に二種類の黄色線が見える。
北部の路は、良く知られた西安から蘭州を通り、中央アジアに抜けるシルクロード。
南部の路は、成都から昆明を通り、ミャンマー、インドに抜ける南方シルクロード。

黒線も主に二種類ある。
一つは成都からチベットを抜けインドに至る茶馬古道(北路)。
もう一つは、景洪から普洱、麗江を通り、後は北路と同じ路を通る茶馬古道(南路)。


* 茶馬古道 *

この道は人馬を主要な交通手段にした民間の国際商業貿易ルートで、漢族とチベット族が交流した古道でした。
主に茶と馬の交易を行うための路で、通商は唐宋時代(6181279年)に盛んとなり、明清時代(13681911年)に入って最盛期を迎え、第二次世界大戦の中後期に頂点に達した。

チベットに茶や砂糖、塩などの生活必需品を運び、チベットからは馬や牛、羊、毛皮を持ち帰ったことから、「茶馬古道」と呼ばれた。
麗江からチベットへのルートは5000m級の山々を超える厳しい道で、馬と共に人力による運搬が主流だった。

なぜ馬と茶が、こんな危険を冒し苦労してまで交換する必要があったのか?
チベット人は元々遊牧民で野菜、ビタミンBが不足していたので、これを補うのに茶は最適でした。
また馬は中国の軍隊にとって必要でした。
しかし18世紀になると中国での馬の需要は減り、羊毛や毛皮、薬用素材が主になった。

納西族の古都麗江はシーサンパンナ(雲南省最南端の西双版納)を起点する南からのルートと、四川(成都)からの東ルートの合流点で、木族王朝繁栄の源になった。
清時代以降の拉薩在住の中国商人はナシ族がほとんどで、ペイ族(白)と漢族も少数いた。


 
< 7. 四方街 >

この四方街に面した茶店で、プーアル茶を買いました。
こちらの四方街は麗江古陳に比べ、人は少ない。



 
< 8. 青龙桥 >

四方街のすぐ近くにあるこの橋を渡る。


 
< 9.九鼎龙潭へ向かう >


 
*10



 
< 11. 九鼎龙潭 >

実に水が透き通っている。
まさに麗江や束河、黑龙潭は湧水、清流によって生かされており、玉龍雪山からの水脈の賜物と言える。

次回に続きます。

20200607

世界が崩壊しない前に 28: 貧困と格差 3







*1

前回、貧困と格差は国によって作られていることを見ました。
貧困と格差は人権の問題に留まらず、危機をもたらすとしたら?


多くの人は、国が貧困と格差を是正し過ぎると、労働意欲を減じ競争心が無くなり、経済に悪影響すると信じさせられている。
だから悪化していても気にも留めない。

しかし事はそんな単純ではないし危険でさえある。
また格差が少ない国でも経済が豊かで成長している国があるので、明らかに誤解(洗脳)です。


**放置すれば騒乱や世界を後退させる引き金になる**

概ね二つのポイント、社会的なものと経済的なものがあります。

貧困な国ほど教育と医療、経済の水準が低くなり、人口増・伝染病・紛争を引き起こし易く、悪循環を招く。
外部からの衝撃、特に伝染病、大国の貿易や通貨の圧力に弱いために容易に悪化する。
こうして武力衝突、難民や伝染病などを周辺に、そして世界に広めることになる。
今回のコロナ危機で判明したように、先進国であっても格差が大きい米国や英国では弱者が感染爆発の被害者になった。


歴史を振り返れば、貧困と格差拡大は社会騒乱の引き金になっている。
それは大国や一度興隆した国ほど暴力的になるようだ。
ローマ帝国や中国の名だたる王朝が崩壊する時、格差が拡大し暴動が起きていた。

 
< 2.英国が帝国主義を終えた時期 >

グラフの赤線は英国がアフリカの支配を終えた時期を示す。
経済が後退し帝国主義に走った19世紀後半の大英帝国では、この2百年間で最も格差が大きかった
また他国よりも酷かった。

 
< 3. ドイツと日本のファシズム期 >

グラフの赤線はヒトラー総統の時代、緑の矢印は日本の大陸進出の時代を示す。
共に格差が酷い。
20世紀前半のドイツと日本は、一時の栄光の後に訪れた大恐慌が大失業をもたらし、貧困と格差による社会不安がファシズムへと突き動かした。


これは普遍的な社会現象と言え、様々な識者が警告を発している。

ある疫学者は、先進工業国23カ国を比較すると、健康指数が悪化するのは、GDPが下がった時ではなく、格差が拡大した時であることを発見した。
また同時に犯罪率、幼児死亡率、精神疾患、アルコール消費量などにも重大な影響を及ぼしている。

ある経済学者は、格差は改革の意欲をそぎ、人々の信頼を失わせ、フラストレーションを高め、政治や行政に対する信頼を失わせると指摘する。
また棄権が増え、選挙の票は金で買われ、富裕層が公的機関への支配を強めている。

まさに日米、先進国で起こっていることです。


次回に続きます。






20200529

中国の外縁を一周して 40: チベット仏教の寺






*1

今回は、麗江古陳から近いチベット仏教の普济寺を紹介します。
この地にはチベット仏教寺院が多い。
これはアジア大陸の悠々の歴史を物語っている。
少し驚いたエピソードも紹介します。

 
< 2. 地図、上が北 >

上: 麗江の位置を示す
黄色枠:麗江古陳、中央の白矢印:普济寺、白枠:束河古陳、黄色矢印:香格里拉。
雪を被った山が玉龍雪山で、その左側を上下に長江が流れている。

現在、麗江古陳からチベット圏東南端の都市、香格里拉までは長江沿いに車で200km、4時間の道のりです。
麗江からの観光ツアーがあります。
さらに香格里拉からチベットの古都ラサまではさらに車で1570km、24時間の道のりです。

今でさえ麗江からラサまでこれだけ遠いのですが、1300年以上前、道なき道を商隊や僧侶が馬や徒歩で行き交ったのです。
当時、茶葉古道は麗江を通り、左(西)に折れて、長江に沿った道だったようです。

下: チベットと雲南省、四川省間の主要な道
左上の雅安から始まる道が四川省成都に通じる。
左下に延びる道が、プーアル茶の産地で有名な普洱に通じる。


 
< 3. 古城忠义市场を出発 >

古城忠义市场の前は、すでに都市部の街並みです。
ここから西側の山に向かってタクシーで向かいます。


 
< 4. 普济寺に到着 >

普济寺は麗江にあるチベット仏教5大寺院―玉峰寺、福国寺、指云寺、文峰寺の一つです。
私がチベット寺院に連れて行ってくれとガイドに頼んで、来たのがこの寺です。
この寺は麗江古陳から最も近いが、他の寺院の方が有名です。

下: 普济寺の門
木々に覆われた小高い丘の上に建っています。
この寺は一辺70mほどの壁に囲まれています。
門の両側に大きなマニ車が見える。
ここの創建は清朝の乾隆帝の時代、1771年で、後に数度修復されている。




 
< 5. 境内に入る >

私達が入った時は、住職以外に人はいなかった。
古い建物が境内を囲み、大きくない境内は樹木で一杯でした。
春になると梅の花が綺麗だそうです。
この地域の寺には紅梅が多いようです。


 
*6

 
< 7. 本堂に入る >

上: 入り口の左にあるマニ車
信者がこれを回すと、回した数だけお経を読んだことになり、功徳があるとされる。
側面にマントラ(密教の真言)が古いインド文字で刻まれている。
この筒の中には経典が納められている。

左下: 右が入口

右下: 内部に入ると目の前に、天井から吊り下がっている布が目に入る。
どうやらチベットのタルチョーのようだ。
タルチョーは祈祷旗で、五色の青・白・赤・緑・黄の順に並び、それぞれが天・風・火・水・地を表している。
これが筒状に、2段に重ねられている。



 
< 8. 正面 >

上: 正面の奥を見ている
狭い堂内はカラフルで、壁一杯に掛け軸や写真、絵が飾られている。
仏画の掛け軸はタンカと呼ばれる。
正面は観音像のようです。
逆三角形の顔の輪郭と耳まで覆う大きな冠はチベット仏像の特徴です。
左下に釈迦如来像らしいものが見える。

下: 正面の左側を見る
奥に千手観音像が見える。
チベット仏教では釈迦像や如来像よりも観音像が重視されているようです。


 
< 9. 右側面を見る >

 タンカが沢山見られる。


 
< 10.明王像か >

上: 仏像の表情は眉がつり上がり、怒りの様相をし、また鎧を纏っているので明王像らしい。
また獣に乗って従えているように見える。

明王像は、インドで仏教が衰退する直前の7世紀頃、最後に花開いた密教と関りがあります。
日本の密教は弘法大師が広めたことで知られています。
密教は、それまでの悟りや戒律重視の仏教から、祈祷や呪文が重用される世俗的なものになりました。
この時に、仏教以外のヒンドゥー神や様々な守護神などが仏像に加わりました。
その一つが明王像で、悪魔を降伏させる怒りの表情を持っている。

チベットに仏教が広まったのは、7世紀のチベット統一王朝成立時なので、密教が主になったのです。


下: 本堂の屋根





 
< 11. 住職家族の住まい >

本堂の隣、壁を隔てて住職の住まいがあります。
久しぶりに、古い住宅をまじかで見ました。



* 歴史を想う *

今回の中国旅行では、4種類の寺院―道教の道観(開封)、仏教寺院(開封)、モスク(蘭州)、チベット寺院(麗江)を見た。
また麗江ではナシ族の宗教、トンパ教の一端を見た。
様々な宗教が習合し、像や装束、建物などが影響され文化の混淆を見ることが出来た。

この地のチベット仏教やトンパ教を見て、大きな時の流れとアジアの交流について感じることがある。
麗江にチベット仏教が伝わったのは、おそらく茶葉古道を通じてだろう。
これは険しいアジアの屋根を2000kmも隔て行き交っての事だった。

一方、北のシルクロードから伝わった仏教が中国の大平原で漢文化と混淆し、道教と共にこの地に遡上するようになった。
これは昆明、大理(雲南)を経て入って来たのかもしれない。
しかし長江は香格里拉や麗江から四川省や武漢を経て上海で太平洋に注ぎ、これも経路の一つだったかもしれない。

この普济寺を建立したのは清朝の皇帝でした。
13世紀、モンゴル帝国はチベットを征服した折、それまでの原始宗教からチベット仏教を国教にします。
この後、北方や中央アジアにチベット仏教が広まった。
その後、北方の満州民族である清王朝が中国全土を支配した。
このことで、清王室の中にはチベット仏教を篤く信仰する人物が出た。
こうしてこの地には幾重にも宗教や文化が交錯することになった。

さらに不思議な事がある。
実は、遺伝子分析によると日本人(大和、アイヌ、琉球の民族)にもっとも近縁なのはチベット人で、分岐は3.5万年以前だそうです(所説あり)。
これは氷河期の事で、日本列島に新人類が住み始める前のことです。
その後も様々な交流が見られる。

かつて日本の水耕稲作はインド東端のアッサム地方から長江沿いに伝わったとされたが、現在の起源は長江中下流域のようですが、どちらにしても長江が関わっている。
またイザナギとイザナミが出てくる国生み神話の起源は、長江中流域にあるとの説もある。

訪れた成都の金沙遺跡と出雲大社の両遺構から復元された神殿が実によく似ている。
これも長江流域で見つかっている紀元前5千年前の高床式住居と日本の高床式から発展した神社建築様式の繋がりを示しているのだろうか?

身近なものにも驚きがあった。
アイヌのムックリ(口にくわえて鳴らす楽器)と同じような物を、この麗江(ナシ族)でも見ました。
調べてみると中国南部から東南アジアに広く分布しているようです。
不思議な事に、韓国、中国北方、アイヌ以外の日本では見られないのです。

こうしてみると、日本人や文化が長江流域と深く関わっていることを感じさせる。
この奥まった高原地帯の雲南、麗江は実に興味深い。



* 驚いたエピソード *

麗江古陳と他の観光地への移動では、ガイドがライドシェア(滴滴出行など)でタクシーなどを呼ぶのですが、今回は問題が発生した。
この寺から次の束河古陳まで移動するために車を呼ぶんのですが、幾ら待っても応じる車がないのです(辺鄙だからでしょう)。
そうこうするうちに、一人の中年女性が寺に車でやって来ました、
ガイドは帰ろうとする彼女に乗車を頼みました。
少しの交渉時間を経て、載せてくれることになりました。

私は、これまで親切な人に出会っていたので、てっきり善意で無料と踏んでいたのですが。
彼女は、お金を要求し、一人数十元で三人分要求している。
私はお金を支払い彼女の乗用車に乗りました。
移動は近いので、直ぐ着きました。

私達は助けられたのですが、それにしても彼女の勘定高いのには驚いた。
また辺鄙な観光地でのライドシェアやタクシーを呼ぶのは困難だと知りました。
バス交通の確認と、初めからチャーター車の利用を考えないといけないようです。

次回に続きます。








20200515

徳島の海岸と漁村を巡って 3: 由岐漁港 2





*1


今回は由岐港の後半、西由岐を紹介します。
この漁港を歩き、
切実な現実と興味深い歴史を知ることになりました。


 
< 2. 散策マップ、上が北 >

上の白枠が下の地図の範囲を示す。
赤線が前回紹介した東由岐、ピンク線が今回紹介する散策ルートです。
西由岐はピンク線の下側、港の左(西側)の町です。

S:スタート地点
A: 東由岐漁協
B: ミセ造りなどが見られる古い町並み
C: 天神社
E: かつて由岐城があった城山公園
F: 八幡神社


 
< 3. 不思議なもの >

上: 写真中央、小山の斜面を覆うコンクリート壁に金属製の階段と回廊が見られます。
はじめ分からなかったのですが、後に驚きの事実を知ることになりました。

下: 小魚(イワシ?)の出荷作業が行われていた。


 
< 4. 広い通り >

上: ほぼ中央、南北に延びるもっとも広い通り。
北方向を見ており、真直ぐ行くとJR牟岐線の由岐駅に出会う。

下: 東西に延びる通り
中央に見えるのが城山公園がある丘です。
丘の上が平らになっており、かつて由岐城があった。
城の名残りは無いそうです。

 
< 5. 八幡神社 1 >

上: この道を進むと右手、丘の中腹に八幡神社があります。
この左手が城山公園の丘で、かつては両側の丘は繋がっていた。

下: 八幡神社の下に来ました。

 
< 6. 八幡神社 2 >

上: 八幡神社の境内
実は、私はこの境内が由岐城跡だと勘違いしていて、それらしいものを探したが見つからなかった。
そこでさらに裏山まで踏み込みました。
帰宅後、城山公園が城跡だと知ったのですが。

下: 境内の右側に細い登り道があったので、進みました。
すると、この道の右側に看板(写真中央)があり、赤字で「想定 津波高さ」と書いてありました。
その看板の位置から眼下(東側)を見下ろすと、町のすべてが水面下に没することが分かった。
一瞬、寒気がした。


 
< 7. 八幡神社の岡からの眺め >

上: 前述の看板の位置からの眺め

下: 岡から西側を眺めた。


 
< 8. 丘を西側に降りる >

上: 墓地が斜面一杯に広がっていた。

下: ちょうど、丘を下りきり、振り返ったところ。


 
< 9. 西由岐を行く >

上: 八幡神社が見える

下: 漁港に出てから、来た道を振り返った。


 
< 10. 漁港に戻った >

上: 西由岐側を望む
右側、自転車が置いてある向こう側で、ワカメの天日干しが行われていた。
黒いビニールのようなもので上部を覆っていた。
10分ほどの間に、二人がワカメの干し具合を調べに来ていた。

下: 東由岐の方を見た

私は、ここで持参の弁当を食べた後、次の港に向かった。



* 由岐を歩いて *

様々なことを知り、実感することが出来た。

 
< 11. 東南海地震による津波の恐ろしさ >

上: 散策している時に見つけた表示板
これによると青色で示されるているように、すべての街並みが水面下に沈む。

赤色部分が高台で、写真で見た金属製の階段のあった場所です。
八幡神社、天神社、城山公園も標高は高くて10mほどしかありません。
しかし最大津波高さは、下の図(赤矢印)にあるように徳島県沿岸は20mを越えると予想されています。

最大津波高さは防波堤などで抑制され、浸水深さは最大10mと想定されているようです。
徳島県のH24年の想定では、美波町の津波による死亡者は2300人だそうです。

しかし素人の私ですが、この港にそのような防御効果があるとは思えない。
さらに、津波の第一波(+20cm)は地震発生の12分後、最大波は29分後だそうです。
高齢者が多い中で、どれだけの人が高台に逃げれるのか?

如何に日本が脆弱かを知ることになった。




< 12. いにしえの海路 >

今回訪れた海部郡の港は、古くから海路としても使用されていた。

平安時代、紀貫之が土佐(高知)での国司の任務を終え京都に帰ります。この時、2ヵ月の船旅となり、この様子を「土佐日記」に残しました。
船の航行は海岸に沿い、座礁と海賊を避けながら、多くの港に停泊し、風待ちも行わなければならなかった。
左下地図の赤線が凡その航路で、実際は黒点の港にそれぞれ1から10泊しています。
右下地図の赤丸は予想された寄港地で、下は高知県野根(徳島県宍喰の隣)、上は日和佐(由岐と同じ美波町)です。


 
< 13. 鎌倉時代から戦国時代 >

上: 屋島の戦い
由岐の港は、鎌倉時代には雪の浦や雪湊と呼ばれていた。
源平合戦、屋島の戦いから逃げた平維盛は「平家物語」によると、南下し、
雪の浦(東由岐の大池の辺り)から船で鳴門、和歌山の方に向かったとされている。

下: 戦国時代末期の四国の勢力図
当時、由岐の辺りは三好勢が支配していたが、長曾我部が勢力を伸ばし、海部郡一帯の城を南側から攻め落としていった。
この時、由岐城も降伏し、その後、城主の由岐有興は別の戦いで討ち死にしている。
海部郡にはかつて20を越える城があった(多くが城跡)。
今回は日和佐城を眺めることが出来た。

 
< 14. 由岐漁港 >

由岐港の歴史から漁師の活躍、漁業の発展が見えて来る。

A: 明治時代の漁師の船、カンコ船(手漕ぎで帆の無い全長7~8m)?
B: 石垣弥太郎
C: 楠本勇吉
D: 延縄漁
E: 毎年10月に由岐で行われる伊勢海老祭り


由岐・志和岐の二人の漁師がフロンティアとなった。

石垣弥太郎は明治21年、カンコ船十隻を従え博多へ出向きました。
鯛の一本釣りではうまくいかず空しく由岐へ舞い戻りましたが、「レンコ」(鯛)のほか「アカモノ」(体表が赤色)が釣れるのを知った弥太郎は、挫けることなく毎年レンコ延縄(図D)に挑戦した。
明治35年には一本釣りの全盛期を迎え、後に以西底引網(九州西岸以西で行われる)へと発展する。
彼が正に北九州の漁場開拓を行ったと言える。

カツオ、マグロ漁船員であった楠本勇吉は、明治35年、カツオ漁を目指して岩手県大船渡村へ渡りました。
現地は沿岸漁業の不振で悩んでいましたが、勇吉は意外に豊富な「アカモノ」に目をつけ、故郷でやっていた「てんてん釣り」の漁法を指導した。以後漁獲量は飛躍的に伸び、彼の滞在は28年にも及んだ。

この事例を見ていると、明治期に既に地元の沿岸漁業に見切りをつける漁師がいたこと、また遠方へ進出する気概があったこと、さらには漁法の改革が進んでいったことがわかる。
当時、漁業権や縄張りの争いは無かったのだろうか?


次回に続きます。



20200510

徳島の海岸と漁村を巡って 2: 由岐漁港 1





*1

これから2回に分けて由岐漁港を紹介します。
今回訪れた漁港の中では最も北にあります。


 
< 2. 散策図、上が北 >

上: 由岐漁港を俯瞰
二つの岬が漁港を挟み、島が港の入口を護っている。
しかも開口部が南を向き、紀伊水道を通る台風の風から守るには最適です。
この形は、京都丹後地方の伊根港に似ている。

下: 由岐漁港拡大
おおよそ港の中央が港町、右が東由岐で、左が西由岐です。
写真右上の隅に、大きな池「大池」があり、後に紹介します。


 
< 3. 港を眺める >

上: 西由岐を望む。

下: 左手に東由岐、遠方中央に箆野島(へらの)が見える。


 
< 4.東由岐の漁協 >

覗いたのが11時だったので、がらんとしていた。
一人の漁師が、今が旬の鰆(さわら)をさばいていた。

下: 蛸が逃げる!
ふと床を見ると、大きな蛸が逃げるように這っていた。
私が「蛸が!」と声を掛けると、漁師が素早く捕まえたところ。


 
< 5. 東由岐の街並みに向かう >

上: 西側を見ている。

下: 防波堤を乗り越えて、東由岐側に入ったところ。
道奥に住吉神社に向かう階段が見える(南側を見ている)。


 
< 6.東由岐の街並み >

昔ながらの漁師町の家が残っていると思って訪れたが、かなり改装が進んでいた。
中でも保存が良いのを撮影しました。
おそらくこの後、20年もすれば消失してしまうでしょう。

下: 赤矢印がミセ造り(蔀帳)、黒矢印が出格子です。

外観の説明を引用します。
「由岐のミセ造り(蔀帳)は、半間幅の腰高、窓につくタイプで、腰をかけるというよりは物を置いたり、作業をするためのものです。
全国的にみても珍しく、貴重な建築様式です。
出格子は取り外しできるものもあり、蔀帳のかわりに「縁台」になります。」

これらは海部郡の他の漁師町でも見られたが、ここが一番保存が良いようです。


 
< 7. 天神社の鳥居 >

この神社は先ほどの街並みの北側にある。

下: 鳥居の右側にハットするものがあった。



 
< 8. 「南海地震津波最高潮位」の碑 >

これは1946年の地震に伴う津波の高さを石碑の横線で示しているのでしょう。

記録によると
「大地震が発生し、約10分後に津波が来襲して大きな被害を受けた。
旧三岐田町分(旧由岐町より狭い)の被害は死者8人、重軽傷者24人、家屋の流失48戸、全壊66戸、半壊220戸、床上浸水618戸、床下浸水70戸、船舶の流出39隻などであった。」


 
< 9. 天神社の階段から望む >

上: 東由岐の街並み越しに日和佐を望む

下: 西由岐の方を望む
中央奥に城山公園の小さな岡が見える。
かつて城があった。


 
< 10.天神社の境内から望む >

上: ほぼ北側を望む。

下: 北東を望む
この右手、この神社のある山沿いに250m行った所に「康暦の碑」が立っている。
写真では建物で見えないが、この碑の前に「大池」がある。

この碑は「古典太平記」に記された康安元年 (1361年)の大地震大津波で亡くなっ た人々のための“供養碑”とされ、現存する日本最古のものです。
この津波で壊滅した「雪湊」の集落が沈んで出来たのが、この「大池」だといわれていて、池の底からは 「土器片」や「古銭」27枚が発見されています。
この時、1700軒も建ち並ぶ「雪湊の町」が海底に沈んだとあり、当時としては大きな港町であったことが窺われる。
次回、この「雪湊の町」について紹介します。

実は、この地方を襲った津波はこれだけではない。
1854年、安政元年の南海地震が襲った。
1944年、熊野灘で起こった東南海地震では2mの津波が日和佐を襲ったが、被害はなかった。
1960年、チリ地震による津波で由岐は30cmほど浸水した。

この地は、津波と共に生きていかなければならない。


 
< 11. 天神社 >

上: 境内

下: 境内から北側に降りた階段
後で気が付いたのですが、これは今後起こる東南海地震津波の非難用の階段でした。


* 感想と説明 *

当初、日本の漁村と歴史などを知りたくて訪れたが、予想外の展開になった。
それは漁村と漁業の衰退、そして津波の恐ろしさを肌で感じたことです。
一方で、日和佐の町を歩いていて少し希望を見出した。

この地域と日本の漁村と漁業について概説します。

美波町について
2006年に旧由岐町と旧日和佐町は合併し美波町になっている。
日和佐町は、海亀の産卵と薬王寺で有名です。
美波町の現在の人口は6400人だが、年々1割ほど減少している。
その内、農業就業者は4.4%、漁業就業者は美波町で5.3%だが県内の15%を占める。
漁獲量の多いものから太刀魚(22%)、カツオ類、海藻類(14%)、鯛類、貝類(37%)、ブリ類、海老類(13%)です。
( )内は徳島県内のシェアで、特産品が鮑、さざえ、伊勢海老なのがうなづける。

由岐漁港
ここは西由岐と東由岐で漁協が分かれている。
古い町並みは東由岐に残っている。
両者を比べると、漁業従事者は東93名、西58名、漁獲高(金額)は東:西で2.2:1です。
東由岐は沖合底びき網漁業が盛んで、インドネシアからの実習生3名を受け入れている。
由岐は、アワビ稚貝やヒラメ等の種苗放流事業を実施している
しかし由岐全体の漁獲高は年々1割ほど低下している。

同様に日本の漁獲量(トン)は1984年から同様に年々減少し、66%減になっているが、実は漁獲高はここ数年増加傾向にあり、54%減に留まっている。
これは遠洋漁業の落ち込みを養殖業でカバーしているからです。
ちなみに日本の水産物自給率は魚介類59%、海藻類68%です。

日本の人口減と高齢化が、この地域ではより急激に進みつつある中で、新しい動きがある。
美波町は、伊座利地区の集落再生、様々な町おこし、サテライトオフィスの誘致などに力を入れて、町の活性化に成果を出しつつある。
このことは後に紹介します。

次回に続きます。