20200613

中国の外縁を一周して 41: 束河古鎮と茶马古道博物馆




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今回は、麗江の別の古陳と博物館を紹介します。


 
< 2.束河古鎮の地図、上が北 >

上: 麗江全体図
赤矢印: 束河古鎮。
ここは麗江古陳から4km離れた所にあり、大きさは約1km四方です。
ここはナシ族発祥の地で、麗江古陳ほど観光化されていない。
束河古鎮の北4kmの所に、木氏の本拠地であった白砂がある。

茶色矢印: 既に紹介した黑龙潭公园。
赤矢印: 既に紹介した麗江古陳。

下: 束河古鎮の主要観光地
この範囲は束河古鎮の北西部で山裾にあり、泉が湧き出している。

A: 茶马古道博物馆
B: 四方街
C: 青龙桥
D: 九鼎龙潭


 
< 3. 駐車場から古陳へ >

麗江古陳の通りに比べ建物が古びている感じがした。
古さを残しているとも言える。


 
< 4. 茶馬古道博物館に入る >

正直に言うと、小躍りするような展示はなかった。
それでも写真パネルや幾つかの説明資料(中国語)は役に立った。

下: 茶葉を運ぶ姿が印象深い。
この姿で、普洱(プーアル)から大理、麗江、香格里拉を経由して拉薩(ラサ)までの3000kmの山道を行き来した。
小型の馬も使用したのだろうが。
このようにして茶葉を運ぶために、茶葉を円盤状に固く圧縮したのだろうか?
やっと理解出来た。

 
< 5. 茶馬街道の様子 >

上: 険しい山岳路が目に浮かぶ。

下: 左下に麗江古陳の賑わいが見える。
上には、拉薩のポタラ宮と大昭寺が見える。


 
< 6. 茶馬街道と人々 >

下: 博物館にあった街道の地図。
北部と南部に二種類の黄色線が見える。
北部の路は、良く知られた西安から蘭州を通り、中央アジアに抜けるシルクロード。
南部の路は、成都から昆明を通り、ミャンマー、インドに抜ける南方シルクロード。

黒線も主に二種類ある。
一つは成都からチベットを抜けインドに至る茶馬古道(北路)。
もう一つは、景洪から普洱、麗江を通り、後は北路と同じ路を通る茶馬古道(南路)。


* 茶馬古道 *

この道は人馬を主要な交通手段にした民間の国際商業貿易ルートで、漢族とチベット族が交流した古道でした。
主に茶と馬の交易を行うための路で、通商は唐宋時代(6181279年)に盛んとなり、明清時代(13681911年)に入って最盛期を迎え、第二次世界大戦の中後期に頂点に達した。

チベットに茶や砂糖、塩などの生活必需品を運び、チベットからは馬や牛、羊、毛皮を持ち帰ったことから、「茶馬古道」と呼ばれた。
麗江からチベットへのルートは5000m級の山々を超える厳しい道で、馬と共に人力による運搬が主流だった。

なぜ馬と茶が、こんな危険を冒し苦労してまで交換する必要があったのか?
チベット人は元々遊牧民で野菜、ビタミンBが不足していたので、これを補うのに茶は最適でした。
また馬は中国の軍隊にとって必要でした。
しかし18世紀になると中国での馬の需要は減り、羊毛や毛皮、薬用素材が主になった。

納西族の古都麗江はシーサンパンナ(雲南省最南端の西双版納)を起点する南からのルートと、四川(成都)からの東ルートの合流点で、木族王朝繁栄の源になった。
清時代以降の拉薩在住の中国商人はナシ族がほとんどで、ペイ族(白)と漢族も少数いた。


 
< 7. 四方街 >

この四方街に面した茶店で、プーアル茶を買いました。
こちらの四方街は麗江古陳に比べ、人は少ない。



 
< 8. 青龙桥 >

四方街のすぐ近くにあるこの橋を渡る。


 
< 9.九鼎龙潭へ向かう >


 
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< 11. 九鼎龙潭 >

実に水が透き通っている。
まさに麗江や束河、黑龙潭は湧水、清流によって生かされており、玉龍雪山からの水脈の賜物と言える。

次回に続きます。

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