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20200509

中国の外縁を一周して 36: 木府を訪れる





*1

今回は、ナシ族の統治者木氏(モクシ)の館を紹介します。
紫禁城を小振りにしたような立派な宮殿です。

 
< 2. 散策マップ >

上: 麗江古陳の観光地図、上が北
茶色線が前回紹介した散策路、赤線が今回の木府への入場口、紺色線が次に紹介する獅子山公園への散策路です。

中央: 木府の全景、見ている方向は下地図の茶色矢印
入場口は奥の方に見える。

下: 木府の平面図、ほぼ上が北
赤線が入場までのルート。
主要な建物は、右から議事庁、万巻楼、護法殿です。


 
< 3. 忠義坊 >

上: 忠義坊の前から通路を挟んで照壁を見る。
下: 忠義坊、ここを入って行く。


 
< 4. 木府に入る >

上: 入口、平面図の議門に当たるのだろう
ここでパスポートなどを見せる。

下: 議事庁
木氏が政務を執った所。

ナシ族の首領であった木氏は元の時代13世紀より、麗江の統治を委ねられた。
以来、元、明、清の時代を22世代470年にわたって世襲統治した
木府は麗江の政治、経済、文化の中心でした。

1996年の麗江大地震で大きな損傷を受けたが、元通りに再現された。
麗江古陳の街並みも同様に再現されたものです。



 
< 5. 議事庁の前広場 >

上: 広場の両壁に建つ楼。

下: 議事庁の前から、入場口を望む。


 
< 6. 議事庁の中 >

上: 興味をそそる像。
頭の上に抱えるのは銅鼓でしょう。
銅鼓(銅製の片面の太鼓)は雲南からベトナム北部で、紀元前5世紀頃から造られた。
主に雨乞いや祖先祭祀の際、精霊に働きかける目的で作られたとされる。

下: 天井。


 
< 7. 万巻楼 >

曲阜の孔子廟を参考にして建てられた書庫。


 
< 8. 万巻楼の二階 >


 
< 9.万巻楼の二階からの眺め >

上: 北の方を見ると、玉龍雪山の峰が雲間から覗いていた。
本来は主峰が左側にそそり立つているのですが。

下: 北東を望む。


 
< 10. 護法殿 >

上: 護法殿。
木氏の私事的な話し合いがもたれた場所。

下: 万巻楼。


 
< 11. 護法殿の中 >

下: 護法殿の奥に道教が祀られていた。


 

< 12. 木府に特徴的な水路 >

湧水が豊かな麗江らしく、宮殿内には水路がはりめぐらされている。
川縁に立つ柳は中国の歴史舞台を連想させる。


* 感想 *

私は訪れる前、古くて小さな建物を想像していたのですが、敷地の広さ、建物の立派さに驚いた。
思ったより漢民族の宮殿に倣った建物だった。
もっとも漢民族の支配下にあったのだから当然かもしれないが。

麗江古陳も木府も、城壁や城砦が見当たらない。
雲南では小部族による抗争が長らく続き、8世紀以降に統一王国が形成されるようになった。
麗江は奥地だったためか、侵略されることも抗争も少なかったのだろうか?
元(フビライ)はかつて雲南からベトナムまで侵攻したことがあったが。

木府内に、十人ほどの白人観光客がいたので、声を掛けると、彼らはチェコから来ていた。
プラハやチェスキークルムロフが懐かしい。
白人の団体観光客は珍しかった。

次回に続きます。






20200504

福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる 4: 福知山の城下町





*1


今回は、福知山の城下町を紹介します。
これで福知山の紹介を終わります。


 
< 2.町歩きマップ、上が北 >

この地図は「ふくちやま まちあるきマップ 城下町歴史探訪編」を利用しています。
私は右下の福知山城から赤線に沿って北上し、No11で折り返し、No12からは黒線で城の横の駐車場に戻りました。
城を出たのが13:40、駐車場に戻ったのが15:10でした。

地図の番号について
1 福知山城、前回紹介
2 旧松村家住宅、前回紹介
3 京口門
4 明覚寺
5 明智藪、前回紹介
6 由良川堤防
7 広小路商店街
8 久昌寺
9 金毘羅神社、丹後口
10 高良厄除け神社
11 梅干し半十郎観音
12 御霊神社


 
< 3. 城下町図、上が北 >

江戸時代のものでしょう。
上の白矢印は丹後口を示す、
濃紺の線は、川と堀です。
右下の薄緑で囲まれた範囲が当時の城でした。
現在は右端のほんの一角が天守閣として再現されている。



 
< 4. 由良川堤防を行く >

上: 右に明智藪の一部、その奥に音無瀬橋が見えます。

中央: 堤の右側に明覚寺の屋根、その右奥に天守閣が見えます。

下: 由良川の下流を望む。
堤の左側に城下町が広がる。

光秀が由良川の流れ変え堤を造成し、城下町を整備してから、由良川の川湊を使って水運が発達した。
光秀築城以前の由良川は城下町を突き抜けて大きく右に曲がっていた。

 

< 5. 広小路商店街 >

堤を左側に降りて、広い商店街、広小路商店街に出た。
コロナ危機の関係でか、閉まっている店が多かった。

上: 西側、突当りに御霊神社がある。
下: 逆方向を望む、音無瀬橋が見える。

 

< 6. 広小路から右に折れる >

特に城下町の雰囲気はない。
やがて道が合流すると、寺町通りに入る。


 

< 7.寺町通りに入る >

主に通り長さ300mほどの堤側に、大小の神社仏閣が並んでいる。
南側から祇園社、常照寺、法鷲寺、祇園牛頭天王社、久昌寺、金刀比羅神と並んでいる。
寺はすべて立派で、宗派が異なる。
今なら各社コンビニが競い合ってサービスを提供しているようなものか。

上: 常照寺、日蓮宗
江戸時代、福知山城主松平家の時に現在地に移転して来た。

下: 法鷲寺、浄土宗
江戸時代、福知山藩主朽木家の位牌所として重んじられた。

光秀の後、福知山藩主の家系は7回替わり、朽木家が13代と重ね、明治維新まで続いた。


 

< 8. 久昌寺 >

上下: 久昌寺の山門と本堂、曹洞宗
もっとも立派で、福知山城主朽木家の菩提寺でした。
山門の右側にある小さな社が祇園牛頭天王社で久昌寺の鎮守社です。

 

< 9. 久昌寺の棟鬼瓦 >

上: 久昌寺の棟鬼瓦
これが寺の屋根に載っていたそうです。
今まで気にしていなかったが、寺の本堂や山門、釣鐘堂の屋根をよく見ると鬼瓦だけでなく鯱まで乗っている。

下: 地図で見ると金毘羅神社が堤の横にあるので、今一度、堤に出た


 

<  10. 金毘羅神社 >

上: 金毘羅神社、ここはかつて丹後口でした。
ここには水運の神が祀らており、水運が盛んだったことを物語っている。
写真の鳥居右横の井戸の辺りに番所があった。

旧山陰街道は、地図2のNo3京口門から城下に入り、川に沿って進んで、No9金毘羅神社(丹後口)から城下を出た。

この場所は、寺町道りから右に折れて、狭い道に入らなければならない。
当初、不思議に思ったのですが、旧山陰道から城下町が見通せな無いように意図されていたことが後で分かった。

下: 「なわむしろ」と書かれた看板
この辺り、寺町道りを過ぎて厄除け神社までのこの道の堤側は鋳物師町です。
特段、歴史を偲ばせる家屋は見当たらない。


 
< 11. 高良厄除け神社 >

境内が広い立派な神社で、今も毎年2月、市民が厄除けの輪をくぐる厄除け大祭が行われています。
江戸幕府成立の年、福知山藩主になった有馬家が、この地に鋳物師町を新設した。
この鋳物師町は低地の為に、由良川の氾濫の度に被害を受け、江戸末期に安心立命を願い厄除け神社が創建され、明治末期にこの地に移設された。
残念ながら光秀の治水工事だけでは、由良川の自然の猛威を防ぎきることが出来なかった。

 
< 12. 梅干し半十郎観音 >

新興住宅街の一角にポツリと、昔ながらの祠があり、義賊が祀られていた。
話が面白いので要約します。

江戸時代末、全国的な凶作があり、福知山藩は財政が大変苦しくなって、町民・百姓に厳しい倹約令を敷いた。

福知山の町に親分の用人棒、松岡半十郎がいました。
彼は藩にひとあわふかせてやろうと、統制売買し巨利を得ていた藩制定の問屋に押し入り、男二人を殺害して金を奪い、そのお金を生活に困っている人に施して逃げました。

しかしあえなく捕えられた半十郎は打首となった。
その際、辞世の歌として「三味線の糸より細きわが命 引き廻されて撥(バチ罰)は目の前」と残したそうです。

処刑に際し、半十郎は肌身離さず持っていた、約5cmの観音様を飲み込んで「私の好物の梅干しを墓に供えて願掛けに参ってくれるなら、首から上の病気は必ず治してあげよう」と言い残してこの世を去った。

その後、祠が建てられ、梅干しが絶えないそうです。


 
< 13. 御霊神社 >

光秀が祀られている。
元々、光秀は先に紹介した常照寺に祀られていた。
一方、この地には稲荷社があった。
江戸中期、町民たちが藩主に合祀を願い、この地に創建された。
光秀は没後120年を経ても人気だったようです。
10月の御霊大祭は三丹一の大祭と呼ばれている。


 
< 14. 御霊神社を出る >

上: 神社境内から前の広場を望む、奥に音無瀬橋が見える。

下: 広場の横にある公園。
コロナによる休校のせいか、多くの小中高生が遊んでいた。

 

< 15. 新町商店街から福知山城へ >

上: コロナ危機の為か、ほとんど店が閉まっていた。
とは言っても、おそらくシャッター通りになりつつあるようです。

下: お城通りから福知山城を見上げる。
この道を進み、駐車場に向かう。


* 感想 *

今回、一番の好印象を得たのが、人の温もりでした。
まさにコロナ危機の最中なので、観光地をぶらつくことを非難されるかもしれないと思っていた。
当然、三密を避け、館内や店舗内に入るのを避けてはいたが。

寺町通りを歩いていると、わざわざ自転車を止め、私に話かける地元の年配者がいた。
彼は「どこに行かれるのですか?」と聞いてくれた。
彼は親切に教えてくれて、激励までしてくれた。

またさらに進むと、訪問販売中らしい男性がまた声を掛けてくれた。
彼は「ここは寺町と言うのですよ!」と教えてくれた。

実にありがたい。
文句では無く、歓迎してくれている。

もっとも私達夫婦は目立っていた、この城下町散策ではまったく観光客を見なかったので(城を除いて)。


各地を旅行していると、古い街並みを持つ町に地元愛を持っている人に出会うことがある。

しかし、一方で、どこも寂れて行く町の姿が目に焼き付く。
山陽地域、明石から広島までの山間や海岸沿いを電車で旅した時、北関東を車で旅した時もそうでした。

日本経済が地盤沈下し、世界経済から取り残されつつある中で、ふと足元を見ると、地方都市はどこも衰退し、再生の兆しはない。

一方、北欧や中国を巡っていると、とてつもなく広い国土で再生が進んでいる。
北欧も中国も、半世紀から30年ほどの間に活性化し、ほぼすべての町並みが急速に新たになっている。

日本と世界のギャップに唖然とする日々です。


次回から、徳島の漁村を巡りを紹介します。







20200503

世界が崩壊しない前に 23: 映画「太陽の蓋」を紹介





*1


福島原発事故を今一度教訓として欲しい!
無料動画「太陽の蓋」を紹介します。
また私の想いを詩にしました。


 
*2

* 「太陽の蓋」を見た感想 *
https://www.youtube.com/watch?v=x29d7YMhmm8

なぜ日本は、いまだに危機に上手く対応出来ないかが良くわかる。
それは体制が麻痺しているからに尽きる。

数人の首脳が全身全霊であがいても・・・
そんな虚しさの中にも光明を感じることがあった。
身を挺して原発の残った人々と陣頭指揮を執られた人が居たことを。
そして突然の巨大な災厄にもめげず、立ち向かった多くの人々がいたことを。


*「憂いの詩」 私の想いを託しました *


何を恐れるのか

座して逡巡する君よ

持して朽ち果てる故国こそ恐れよ

いま船出する時

渇きや荒波を恐れるな

出でて求めよフロンティアを

闇の中、頼れるのは己一人と覚悟して

家族を愛し、友と手を携え

いざ立ち上がれ



次回に続きます。




20200501

福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる 3: 福知山城





*1


今回から、福知山の中心部、福知山城と城下町を紹介します。
今回は主に福知山城です。


 
< 2. ドライブルートと由良川、上が北 >

上: ドライブルート
元伊勢内宮を出発して、福知山城横の駐車場までのドライブルートです。
ほとんど宮川と由良川沿いを走ります。

下: 由良川、太い青線、赤矢印が福知山。

京都府、滋賀県、福井県の府県境に源を発し、西向きに流れ、福知山で急激に折れて、北東に向きを変え、若狭湾に注ぐ。

福知山は東の綾部に続く盆地にあるが、標高の低い所では10mに過ぎない。
しかし福知山城から由良川が注ぐ若狭湾まで直線で30kmもある。
この事と折れ曲がっている事で、福知山の城下は幾度も洪水に襲われていた。


 
< 3. 由良川の眺め >

由良川の東岸から撮影。
上から順に、下流側、真横、上流(福知山城方面)を見ている。


 
< 4. 旧山陰街道と明智の丹波攻め、上が北 >
赤矢印が福知山。

上: 旧山陰街道
京都から亀山、福知山を抜け、山陰側の鳥取、米子を通り、次いで山陽側に向かい津和野、最終、山口小郡に辿り着く。
福知山から若狭湾に出て丹後に近い旧宮津街道もあった。
福知山は交通の要衝だった。

下: 明智の丹波攻め
福知山が発展する端緒は明智光秀がここに「福智山城」を造ったことにある。

16世紀後半、明智は信長に命じられ、丹波攻略を始める。
最初、福知山城(旧横山城)の南にある強敵の黒井城を攻める。
しかし背後から八上城の裏切りに遭い苦戦し、信長の命で石山本願寺との戦いに向かいます。
再度、亀山城の攻略から始め、西に順次、城を落とし、最後に黒井城を攻め落とし、丹波攻略を3年かけて終えます。

そして亀山城と福知山城を築城し、光秀は亀山城を丹波攻めの拠点とし、娘婿に福知山城を与えた。
光秀は福知山城築城の際、大規模な治水工事を行い、善政を敷いたことでで住民から慕われ、今に「福知山音頭」に唄われ続けている。

福知山音頭(江戸時代に出来た)
「 福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ
明智光秀丹波を拡め ひろめ丹波の福知山
お前見たかや お城の庭を 今が桔梗の花ざかり
・・・・・・・・               」

その二年も経たない内に、近畿一円を任されていた光秀は本能寺の変を起こし、滅亡した。

江戸時代、福知山城は福知山藩の居城でした。


 
< 5. 福知山城に到着 >

上: 城のすぐ横にある無料駐車場。
売店やレストラン、トイレもあります。

下: 駐車場から太鼓橋を渡って城に向かう。



 
< 6. 太鼓橋の頂点から >

上: 太鼓橋の頂点からの眺め

下: 城壁の坂道に来た。
これを登って、天守閣に向かい直ぐに着いた。


 
< 7.天守閣 >

天守閣にはコロナの関係で入場出来ませんでした。
この天守閣は1986年に再建されたものです。
構造は鉄筋コンクリート造ですが、外観は忠実に再現されているとのことです。
木張りの外壁が美しく、優しさすら感じる。



 
< 8. 転用石 >

天守台と本丸の石垣は当時のもので、「野面積み」「乱石積み」「穴太積み」と呼ばれる自然石をそのまま利用している。
また寺などの石造物が大量に使用されており、「転用石」とも呼ばれている。
下の写真の所々に見られる。

私は天主台の石積みにある小さな自然石に触ってみたが、今にも抜けそうで不安に感じた。
逆に言えば、素晴らしい石積み技術と言える。


 
< 9.表側 >



 
< 10. 豊磐井 >

上: 井戸の深さは50mあり、海面下7mに達する。


 
< 11. 天守閣の敷地から望む >
見ている方向は、次の地図の矢印通り。

上: 黒矢印、ほぼ東を望む。
中央: 赤矢印、由良川の上流を望む。
下: 茶色矢印、城下町を望む。
遠くに由良川の堤が見える。
私が散策するのは、主にこの写真の右半分です。


 
< 12. 福知山の中心部、上が北 >

矢印の中心に福知山城があり、東側から来た由良川が急激に折れ曲がって北上し、さらに土師川(ハゼ)が南側から合流している。


 
< 13. これから城下町を散策 >

上: 城を下って、北側に進みます。
写真の奥に見える小さな陸橋を渡り、由良川の堤に向かいます。

下: 旧松村家邸宅。
これは堤から迫り出した土地に建っています。
明治時代以降、大規模な築堤工事を請け負った松村組が、堤防の安全性を証明するために、この地に家を建てたそうです。




 
< 14. 明智藪(蛇ヶ端御藪) >

光秀が福知山城を築城する際、由良川の向きを変え、巨大な築堤を行い、
城下を洪水から守ろうとした。
さらに堤防の前に、この竹藪を造り、由良川の水流の衝撃を和らげるようにした。

これだけでも、光秀はなかなかの知恵者だったと思った。


次回に続きます。



20200429

中国の外縁を一周して 33: 东巴文化博物馆から麗江古陳まで






*1

今回は、ナシ族の文化・宗教が分かる东巴文化博物馆を紹介します。
その後、黑龙潭の東岸から玉河广场へ戻り、さらに丽江古陳の中心部、四方街へと向かいます。
途中、1回目の夕食場所も紹介します。


 
< 2.东巴文化博物馆 >

ここは黑龙潭の北側の門を出た所にあります。
小さな建物ですが、納西族(ナシ)、東巴教(トンパ)、トンパ文字の資料が丁寧に展示されています。

上: 入り口。

左下: 納西族の民族衣装。
庶民の普段着のようです。
町で見かけましたが、今は観光用に着ている。

右下: 火葬罐(缶なら金属容器のはずだが、土器のようだ)
説明文が読めないので定かではないのですが、これは火葬後の骨や灰などを収めた壺でしょう。
実は、この壺にナシ族の特徴が現れています。

中国は古来より土葬で、特に儒教によって強まりました。
(現在は衛生上の理由で禁止されています)
火葬の風習は、火葬が盛んであったインドで誕生した仏教が中国にもたらしました。
この地はチベットに隣接し、茶葉街道による交流も盛んだったので、チベット仏教の影響を受けていた。


ナシ族の人口は30万人で、雲南省の西北部から四川省西南部にかけての山間丘陵部や山間低盆地に住んでいる。
麗江古陳はかつて少数民族のナシ族の王都で、現在でもナシ族の人々が多く居住している。
またナシ族のほかに幾つかの少数民族が居住し、漢族より少数民族人口の多い地域となっている。
現在、麗江市の人口は110万人で、観光地、リゾート地として発展しており、外部からの人口流入が多いようです。

 
< 3. トンパ教 >

トンパ教はナシ族の宗教で、当地のシャーマニズムとアニミズムを起源に、チベット仏教などの影響を受けて出来た。
宗教儀式を司るトンパ(シャーマン)のみが、象形文字のトンパ文字を使い教義や伝承を代々伝えて来た。
したがって一般に使われる文字ではなかった。

左上: シャーマンの衣装だろう。

右上: ナシ族の兵装だろう。
この装束は、横山光輝の「三国志」、孔明の南征(雲南北東部)のシーンで、描かれたいたような気がする。

左中央: 仏教で言う卒塔婆のようなものでしょう。
トンパ文字が記されています。

右中央: トンパ文字が書かれた書物、おそらくトンパ教の経典でしょう。

下: 降魔杵
おそらくシャーマンが使う魔除けの道具でしょう。




 
< 4. シャーマンと儀式 >

上: トンパ教の祭式場を再現。
これから言うとトンパ教の寺院らしいものは無く、必要に応じて庭先などで行われたのだろう。

左下: 代々のシャーマン。
冠の形がチベットの仏像のものとよく似ている。

右下: 儀式の一つ。


 
< 5. 湖の東岸を戻って行きます >



 
< 6. 古楽器を演奏する人々 >

上: アンプを使用しているので、絶えなる音色が湖面を渡って広がっていた。

下: 麗江で紅葉を期待していたのですが、あまりなかった。


 
*7


 
< 8.锁翠桥 >

上: この橋の下が、湖から麗江古陳へと流れる川の始まり。


 
< 9. 玉河广场に戻った >

上: 広場の人だかりは出発時よりも増えていた。

下: 玉河广场のすぐ横にある中国風のフードコート。
日本の大型スーパーのフードコートと形態は似ているが、木造なのが良い。


 
< 10. 軽く夕食 >

出来るだけ色々食べ歩きたかったので、この日はここも含めて夕食を3ヶ所で食べた。
夕方5時頃でしたが、客は少なかった。
料理の種類は多いが、多くの食材が不明、味も分からない。
それでも妻が翻訳機を使い、色々注文してくる。
数皿食べたが、美味いと言うより、珍しく面白いに尽きる。


 
< 11. 玉河广场から四方街への通り >

この通りがメインで、道幅が広い。
菊が盛大に飾られており、実に綺麗です。
ツアー客が、どんどん増えて来た。
どうやら夜が、四方街観光の愉しみのようです。


 
< 12. 通りの両側は売店で埋め尽くされている >

民族衣装、宝飾品、食べ物、民芸品など多彩です。
ショッピング好きにはたまらないでしょうね。
ここでは中国製だから安いと言うことはない。


 
*13

黑龙潭からの川の流れです。


次回に続きます。