20200323

中国の外縁を一周して 28: 五泉山公园から蘭州空港まで





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今回は、商店街、五泉山公园、大型ス―パー、蘭州空港を紹介します。
また中国でお世話になった現地ツアー会社も紹介します。
これで蘭州の紹介は終わります。


 
< 2.五泉下広場近くの商店街 >

ここは前回紹介した五泉下広場を山側に歩いて直ぐの商店街です。
歩いたのは1時半頃でしたが、買い物客はそこそこいました。
売っているものは野菜や果物が多く、衣類、葬式で燃やす紙銭もありました。
中国らしく、店先が道路まで大きくはみ出している。
中国にはスーパーがたくさん出来ているが、このような昔ながらの商店街も市民に利用されている。


 

< 3. 五泉山公园 >

上: 商店街の続き。

下: 五泉山公园の前の広場。

蘭州の観光名所の一つで、北側の山裾にある旧跡を中心とした公園です。
総敷地面積27万㎡の中に、5つの泉、数多くの仏教建築や仏像群、動物園まであります。
ここには明代に遡る仏教建築があるそうです。



 
< 4. 五泉山公园 >

上: 五泉山公园の前の広場。

下: 北門を抜け、五泉山公园内に入った。
中央の奥に霍去病の銅像が見える。
紀元前120年、漢の将軍霍去病が匈奴遠征中、ここで泉を見つけ、軍隊の水不足を救った伝説が残っています。
霍去病は若くて勇猛な将軍と史記に記されています。


 
< 5. 五泉の一つ >

園内の所々で銀杏が黄金色に輝いていました。
私が歩いたのは、ほんの一部に過ぎません。

下: 五泉の一つ。


 
< 6. 浚源寺 >

上: 前述の泉の右手(西側)に浚源寺が見える。

下: 浚源寺に入る。

 
< 7. 浚源寺の境内 >

上: 入って来た門を振り返った。

下: 本殿。
この日は、毎年行われる仏教信者の集まりがありました。
多くは年配の女性信者ですが僧侶姿の男性も見られました。

共産主義国家で仏教の行事に多くの信者が集まることに少し驚きました。
けっこう信仰の自由があります。


 
< 8. 北門を出た所 >

上: 本殿の仏像。

下: 北門側から広場を望む。
この右手の小綺麗な店で、孫への土産、可愛い毛糸の手袋を買いました。
ガイド曰く、この店は日本に輸出する品質と同等の物を置いているそうです。
若い現地の女性も買いに来ていました。


 
< 9. 大型スーパー >

上: 五泉山公园の広場。

公園内や広場に居る人に少し違和感を感じた。
ここを通ったのは2019年10月23、水曜日の2時半頃でした。
観光シーズンが終わり、平日でもあり、観光客はほとんど見られなかった。
孫や子供を連れた家族、若いカップル、年寄りが少ない。
しかし中年の男性が多い。
服装から言って、市民なのだが、なぜこれだけの人がここにいるのか?
分からない。
定年を迎えた人々なのか?

下: 大型スーパーの华润万家(天水路店)
蘭州大学の前にある大きなスーパーです。
土産を買いたいと頼んだら、現地ガイドがここに連れて来てくれた。
蘭州名物としてワインと干した果実や氷砂糖が入ったお茶を買いました。

妻は安いバッグを買いました。
バッグは安いのですが、妻の好みのデザインでは無かった。
おそらく日本で日本人向けの中国製バックを買う方が、無難で価格も同じぐらいだと思う。
妻は中国で二つバッグを買ったが、結局、日本で安い中国製を買い直しました。


 
< 10. エアポートバスで空港へ向かう車窓から 1 >

中心街の眺め。

先ほどの大型スーパーから700m離れた所に民航售票处(城关区东岗西路588号)があり、ここからエアポートバス(兰州机场大巴 1号线)に乗って、空港に行きます。
30分毎に出発し、乗車時間は1時間15分ほどです。
料金は30元で安い。


 
< 11. エアポートバスで空港へ向かう車窓から 2 >

上: 高速道路に入る。

中央: 黄河を渡り、北に向かう。

下: 黄河を渡ると、間もなく荒涼とした低い山並みが続きます。


 
< 12.エアポートバスで空港へ向かう車窓から 3 >

上: 山肌はすべて、今にも土が崩れそうで、それを防ぐ為に植林が行われているが、カバー仕切れないようです。
このような景色が延々と続く。
山は手を抜くと今にも砂漠の山になってしまいそうです。

中央: バスの車内。
左の窓ガラスは砂塵を受けて曇っている。
空港近くになると、かなりの間、砂嵐が吹き荒れ、視界がかなり不良になった。
バスはそれでも走り続けたが。

この砂塵舞う山岳地帯を、かつて遊牧民や騎馬民族が隆盛を極め、往来していた。
万里の長城はここよりも北側にあって、さらに1000kmも西側まで延びていた。


下: 写真のように、今は高速道路がこの地帯を縦貫している。
他にも工事中の道路があった。


 
< 13. 蘭州中川空港に到着 >

上: 私は進行方向左の席、つまり西側しか写真を撮っていない。

しかし空港に近づくと東側に驚くべき光景を見た。
砂塵が舞う高原(ここの高度は2000mぐらいか)に、突如として巨大な都市が出現したのです。
建築中らしい高層ビルが幾層にも連なる光景が砂塵の向こうに十数分も続いた。
後で調べると、その範囲は長さ15km、幅5kmもあり、高層ビルだけで1000棟は優に超えるでしょう。
中国のエネルギー、開発力を見せつけられた。
これが今回のコロナ対策で、巨大な隔離病棟を10日ほどで幾つも建築してしまうことに現れている。

衛星写真を調べるにあたって気付いたことがあった。
この地域は百度地図の衛星写真が不鮮明になっている。
おそらく、この地域に中国軍の基地があるためだろう。
グーグルマップの衛星写真は鮮明だが、残念ながら中国では不正確で経路案内には使えない。


下: 向かいに見えるのが、蘭州中心部と往来する列車の駅でしょう。


 
< 14. 現地ツー会社 >

左上: エアポートバスを最初に降りて直ぐのターミナル入口。
この空港には二つのターミナルがあるのですが、私が乗る中国東方航空は第二ターミナルにあり、その前に降りた。

右上: カウンターに向かう。
無事、Eチケットから搭乗券の手続きが出来た。
このフロアで夕食をとりました。


下: 蘭州、成都、麗江で使った現地ガイドの「CHINA8」ホームページ。

これまでの私の中国旅行はほとんどがツアー観光でした。
今回初めて、現地ガイドを利用することにし、インターネットで調べた。
するとこの会社が、最も安くて、各地のツアーが希望通りに出来ることが分かった。
この「CHINA8」は各地ツアー会社の連盟です。

長所
日本語表示のホームページ。
旅程の希望や変更を日本語のメールで事前に交渉できる。但しすぐに返事が来ないこともある。対応の丁寧さは各会社で異なる。
価格設定が分かり易く、また安くできる。
現地ツアーの選択幅が広い。例えば、車と日本語ガイド、ガイドだけ、車だけ、時間や行く先も自由に選べる。
ツアー後の支払いが明朗会計。予想通りで超過はなかった。但し、多くは中国元の現金払い(事前に通知有)。
概ね親切で、土産物屋に強引に連れて行かれることはなかった。

気になるところ
年寄りに気を使った案内が出来ないようだ。歩行距離が少ないように駐車場を選ぶとか。
ガイドにより、日本語の習熟度が異なり、また現地の歴史の知識にも差がある。

全体の感想
普通に現地を観光するには、この会社を使うのが良いでしょう。
観光地、地元の生活、買い物を知りたいなら充分でしょう。
親切に対応してくれるのがうれしい。

最後に
彼らガイドの話によると、現在の日中関係を反映して、日本の観光客が激減しているそうです。
どうか皆さんも中国に旅行し、彼らガイドを利用してください。
彼らが失業してしまうと、今後不便になりますよ。


次回に続きます。





20200321

早春の淡路島 :  国営明石海峡公園と諭鶴羽山




*1

今回は、早春の淡路島の花と自然を紹介します。
2020年3月17日と20日に訪れました。
両日とも素晴らしい快晴に恵まれました。

 
< 2. 訪問地、上が北 >

上: Aが国営明石海峡公園、Bが諭鶴羽山。

下: 赤矢印が諭鶴羽山、B1が諭鶴羽山ダム、B2が上田池ダム。
ここに来た目的は、約二十年前に登った諭鶴羽山にもう一度登りたったからです。
しかし、失敗しました。
私の勘違いで、諭鶴羽ダムから登れると思っていたのですが、途中で道が無くなり、引き返しました。
次いで、車で上田池ダムへ移動し、そこから登り始めましたが体力が持たず、諦めて途中から下山しました。
約4時間半かけて、15km歩きました。



 

< 3. 国営明石海峡公園のMAP >

地図を二分割し、右側(東)を上に左側(西)を下にしています。

私は上の右側のゲートから入り、黒線に沿って一周して戻って来ました。
途中、連絡口ゲートから夢舞台を少し散策し(茶色線)、また公園内に戻りました。


 
< 4. 「大地の虹」辺り >

早咲きのチューリップが咲いていました。
3月17日は平日であり、コロナウイルスの関係もあるのか園内の人影はまばらでした。


 
< 5. 「花の丘道」 >

上: 「大地の虹」辺り。
下: 「花の丘道」。
色々な種類の桜が咲いていました。



 
< 6. クリスマスローズ >

下: クリスマスローズ。


 
< 7. 「月のテラス」 >

上: 「月のテラス」から大阪湾、紀伊水道を望む。
チューリップの季節には、ここ一帯が色とりどりの花で満たされます。

下: 「空のテラス」から「せせらぎ広場」と大阪湾、神戸を望む。



 

< 8. 「せせらぎ橋」からの眺め >

上: 「せせらぎ橋」からの眺め。
下: 「案内所」の前辺りの水仙。



 
< 9.諭鶴羽ダムから登り始める >

アドバイスがあります。
諭鶴羽ダムは桜の名所で、湖岸を囲むように桜が咲きます。
しかし周囲を巡る道路は非常に狭く、対向車線が有りません。
ニ三十台の駐車場は、ダム湖の奥にあります。
従って、車は湖岸を時計周りで走行すべしと現地の人に教わりました。
この日は、桜は未だでした。


 
< 10. 鬱蒼とした林間を抜けると >

鬱蒼とした林間を抜けると、視界が開け、沢づたいにゆっくり登って行きます。
残念ながら、途中で道が無くなり、引き返しました。



 
< 11. 上田池ダムから登り始める >

上: 遠くにダムが見える。
ダム近く、道路沿いの空きスペースに車置き、湖岸沿いに歩き始めた。
この辺りに駐車場が無いので、ハイキングするには問題があります。
いっそのこと、車で頂上まで行く方が良いようです。
私達が歩いて行く間に、6台ほどの車が上に向かって行きました。




 
< 12. 椿が多かった >

途中、一か所、農家らしい廃屋がありました。


 
< 13. 役行者の碑 >

上: 途中、役行者の碑を見ました。
この辺りから、沢を越えて諭鶴羽山頂に向かう道があるようです。
おそらくかなり険しい山道になるでしょう。
頂上近くに諭鶴羽神社があり、諭鶴羽ダムからも行ける裏参道があるらしいのですが、分からなかった。
修験者の道が、山頂に向かって幾本もあったようです。



 
< 14.沢づたいにのぼるが、果てしない >

いくら歩いても、谷間を行くだけで、見晴らしは良くならない。
もっと上まで行けば見晴らしの良い道に出れるのですが、とうとう諦めました。
諦めた場所近くに標識「奥滝」がありました。


 
< 15. 来た道を戻ります >


 
< 16. ダムからの眺め >

上: つつじが咲いていました。
中央: 上流側を望む。
下: 下流を望む。
三原平野の向こうに、瀬戸内海が見える。


次回に続きます。




20200319

世界が崩壊しない前に 7: 罠に嵌った人々







20世紀最大の罠と言えば、ファシズムへの暴走でしょうか。
人々は危機を脱しようとして、より悲惨な危機に陥った。
日本も同じですが、ドイツを見ます。


特報!!
 
< 2.いつか来た道 >


当時の状況
・ 巨額の戦後賠償と世界恐慌による大量の失業
・ 革命後の社会民主主義政権は安定せず、軍部の復権が進んでいた
・ 共産革命とソ連への恐怖が高まっていた

一人の天才アジテーター、ヒトラーが出現した。
彼は、かつてのドイツ帝国領土を取り戻し、共産主義者とユダヤ人を排除すべきと訴えた。
彼は清廉な人物と見なされ、若者に絶大な人気があった。
彼が行う政策、国民運動や大規模公共事業は功を奏し経済が好転した。
これでナチ党は国民の支持を得て国会の議席を伸ばしていった。

当時、政治を掌握していたのは元軍人の大統領でした。
彼は自ら任命した首相に政治を任せ、まだヒトラーを信用していなかった。
だがこの非力な首相は、人気のあるヒトラーの抱き込みを図った。

大統領が高齢で弱気になったと見るや、ヒトラーは一気に政権掌握に動いた。
彼は部下に国会議事堂を放火させ、それを共産主義者のせいにし、彼らの議員職を剥奪します(緊急事態条項と同じ)。
そしてナチスは過半数を占める第一党となり、ヒトラー総裁を決議させた。

この後、第二次世界大戦へと一気に突き進むことになる。
やがてユダヤ人追放が始まり、彼らの莫大な資産は国民に分配され、虐待や虐殺への批判は起きなかった。
同様の手口は中世スペインでもあった。

この間、ヒトラーを支えた巨悪があった。
ドイツのメディア王は彼を応援した(フォックスニュースや読売と類似)。
ドイツの鉄鋼王(兵器王)も彼を支えた。
英米系の大企業は、戦後までこの鉄鋼王に巨額資金を提供し利益を得ていた。注1.


ポイント

・ 国民は騙されたと言うよりヒトラーに狂信し続けた。
・ 安直な危機打開策が、最悪の被害を招いた。
・ 一部の国民は命を賭して抵抗したが制圧され、暴走を止めることは出来なかった。



次回に続きます。


注1. 「オリバー・ストーンの『アメリカ史』講義」p391より。




20200317

中国の外縁を一周して 27: 兰州西关清真大寺と蘭州牛肉麺


 
*1


今回は、イスラム寺院と蘭州ラーメンを紹介します。


 
< 2. イスラム寺院に向かう >

イスラム寺院が見える通りで車を降り、ここから歩いて行きます。
上下の写真は、この通りの東西方向を撮ったものです。
今まさに、地下鉄工事がこの通りで進んでいます。

下の写真に、兰州西关清真大寺が見えます。


 
< 3. 大病院が見えた >

歩いて行くと、人混みが増えて来ました。
大病院でした。
病院の入り口は、人で一杯でした。
まだコロナウイルスが始まっていませんでしたが。





 
< 4.兰州西关清真大寺 >

おそらく蘭州市で最大のモスクでしょう。
夜はライトアップされ綺麗だそうです。
言い伝えでは明時代まで遡るらしいが、清の時代、1687年に創建され、1729年に再建された。
甘粛省には回族が5%おり、東の端になる蘭州にも同率ぐらい暮らしているでしょう。
回族は言語・形質的には漢民族でイスラム教を信仰する民族です。
回族は中国ムスリム2000万人の半分を占める。

私が町を観光している間、思ったよりムスリムの服装(つばなしの帽子、へジャブなど)の人を見かけなかった。




 
< 5. 兰州西关清真大寺に入る >

門をくぐり、前庭に入る。
前庭に数人の信者らしき老人が椅子に座り、のんびりと過ごしていた。

今まで、トルコやモロッコ、エジプト、ボスニアヘルツェゴビナなどでモスクを見て来たが、建築様式や配置が異なる。
尖塔と半球ドームのモスクの組み合わせはおなじであっても、モスクへの階段が如何にも中国王宮風でした。
面白いのは、階段に盆栽が並んでいることです。
今回、中国の寺院を巡っているとホントに多くの盆栽を見ました。

モスクの中には入れませんでした。
特に女性はダメなようです。



 
< 6. 兰州西关清真大寺のモスク >

下の写真は、モスクの階段前から入り口の方を見下ろした。


今回の中国旅行の目的の一つに、地方の少数民族の状況を知りたかったことがありました。
中でも回族には、強制収容所(中国側発表で職業訓練所)の問題や、過去にテロと弾圧のニュースがありました。
蘭州のある甘粛省は、暴動のニュースがよく知られた新疆ウイグル自治区の東隣にあります。

私が日中一日、観光した分には異常さや緊張感はまったくありませんでした。
警察官が警備の為に街中に立っている姿をまったく見かけませんでした。
現地の人の感想では、取り締まりをしたおかげで、安心出来るようになったとのことです。
もともとこの地は平穏だったのかもしれませんが。
日本で治安を危惧していたが、まったくの杞憂に過ぎなかったようです。

日本人とって、蘭州は砂漠に隣接する山間の都市、かつてのシルクーロードの古い街ぐらいのイメージしかない。
しかし、ここも中国の大躍進を受けて、間違いなく発展していた。
将来、この地が世界のレアメタルや石油生産を担うようになるかもしれない。
けして無縁ではいられない。


 
< 7. 五泉山公園の前 >

イスラム寺院を離れ、五泉山公園の前に来ました。
車を降りて、昼食のレストランまで歩きます。
この辺りも高層のビルはあるが、少し古い感じがします。

下: 五泉山公園の前の広場が見える。
私が立っている所は陸橋の上です。
下は幹線道路と列車の線路です。




 
< 8. 五泉山公園の前の陸橋 >

陸橋を渡り、五泉下広場に向かいます。


 
< 9. 五泉下広場 >

大きい広場ですが、少し殺風景な気がしました。
広場を様々な店舗が囲んでいます。
この広場の北端の角にあるラーメン店に行きます。


 
< 10. 金强牛肉面 >

現地ガイドが昼食にこの店を選んでくれた。
13:00過ぎに入ったのですが、広い店内のテーブルは勤め人などでほぼ満席でした。
メニューは何種類かあり、妻と私の分で二種類注文した。
スープの味はさっぱりしていて、ほど良く、辛い分も私にはぎりぎりセイフでした。
麺も違和感はなく、美味しかった。
驚いたのは、スープの量が多く、肉が少ないことでした。
ガイドの話では、元々蘭州牛肉麺の肉の量は多く無いそうです。
一番驚いたのは、一杯100円以下だったことです。
他のメニューを加えても、一人150~200円ぐらいで済みます。
今回の中国旅行で、最も安く、美味しく、腹一杯になった料理でした。

この店は、現在5~10万元(75~150万円)で加盟店を募集しており、急拡大中です。
繁盛間違いなしです。


次回に続きます。





20200314

世界が崩壊しない前に 6: 罠を知る





*1

前回、私達が原発に呪縛されていることを見ました。
これと似た国を越える罠もある。


米ソ軍拡競争を見ます。

突然、現れたソ連のゴルバチョフが、米国に核戦力削減を提案し、核軍縮条約締結が成った。
しかし、この後が続きませんでした。
それはなぜか?

当時、米国は自画自賛していた。
「ソ連は我々の軍拡競争に負けて経済的に弱ったのだ。
だから宇宙にまで軍拡すれば、遂にソ連はねをあげる。
平和になるぞ!」
人々は、軍拡競争こそが軍拡を終わらせ、危機は回避されると信じた。

しかし、30年後の今、間違いだと分かるはずです。


 

何が起きていたのか?

当時の米国大統領はレーガン、次いで父ブッシュでした。
ホワイトハウスはまったくソ連を信用せず、相変わらず軍備増強と軍事支配拡大で押し切ろうとした。

一方、ゴルバチョフは政治刷新の手腕を認められて、トップに立つことは出来たが、立場は危ういものでした。
彼が前例のない大幅な軍事的妥協(アフガニスタン撤退も)を提案すると、当然、軍部や保守派からの猛反発に晒された。

米国は、これ幸いと不平等な兵削減をソ連に迫り、また南米への軍事介入を進め、ソ連の制止も聞かず湾岸戦争に突入します。

湾岸戦争は、子ブッシュもやった人気取りの可能性が高い。
米国の駐イラク大使は、クウェートとイラクで緊張が高まっていた時、フセインに告げていた。
「ブッシュ大統領は、イラクの友好が優先であり、友人でないクウェートとの国境紛争には何の意見も持っていない」と。注1.
この戦争で大統領の人気は鰻登りとなった。

米国の中東やアジアへの軍事介入の経緯と、世界断トツトップの米国の軍需産業の伸張を知れば、頷けるはすです。


もし1980年代末、ホワイトハウスがゴルバチョフを信じ協力していれば、彼はクーデターで辞任することもなく、戦争は減っていたかもしれない。

結局、国民は真実から遠ざけられ、政府に振り回されている。


次回に続きます。


注1.「オリバー・ストーンの『アメリカ史』講義」p397より。


20200312

中国の外縁を一周して 26: 敦煌艺术馆と蘭州博物館






*1

今回は、二つの博物館を紹介します。
珍しい物を見ることが出来ました。


当初、蘭州に行く最大の目的は炳霊寺石窟で、それがダメなら甘粛省博物館と思っていたのですが、両方とも訪れることが出来なかった。
しかし中国旅行直前に現地ガイドと観光地の選定をメールでしていると、敦煌艺术馆が急浮上しました。
この博物館は最近出来て、ガイドブックにも載っていない。
ここで敦煌の莫高窟を紹介している。
かつて莫高窟に憧れていたが、見学は諦めていました。
しかし今回、雰囲気を味わうことが出来、ラッキーでした。

甘粛省博物館はシルクロード、漢民族と西方・北方民族が織りなす文化と歴史を知るには恰好の巨大な博物館です。
有名な展示物は「馬踏飛燕」でしょうか、これは「汗血馬」が空を駆ける姿を表現したものです。
漢民族の馬は北方騎馬民族の馬に比べ貧弱でした。
漢の時代、シルクロードの西方に優れた馬「汗血馬」がいることがわかった。
その後、蘭州で馬の飼育が盛んに行われた時代があった。



 
< 2. 仏教美術―壁画と仏像の宝庫、巨大な石窟群 >

左からシルクロード沿いにある敦煌の莫高窟、蘭州の炳霊寺石窟、天水の麦積山石窟です。
洛陽の龍門石窟は、シルクロード沿いにはなく王朝の首都近郊に造営された。
私は龍門石窟だけを以前見学している。
これら石窟の壁面には仏画が描かれ、仏像が掘り出されている。
中に僧侶らが修行や祈りの生活を続けた痕跡が残っている。

なぜこの地には数百もの石窟群からなる仏教遺跡が幾つもあるのでしょうか?
これら四つの石窟群は4~5世紀に造営が始まり、石窟によっては元から清の時代まで造営や改修が続き数百から千近くまで増えた。

当時、南下していた北方遊牧民族(匈奴、鮮卑ら)は中国の北半分からシルクロード一帯を占拠し分立していた。
彼らは漢民族の文化、特に仏教を積極的に受容し石窟の造営を始めた。

仏像は主にこのシルクロードを通じて中国に伝わり、既に中国でも製作は始まっていた。
インドでは仏像誕生後、一度廃れていたが、5世紀になるとヒンドゥー教と競うように、巨大な石窟群を開窟するようになった。
こうしてシルクロードの石窟にも、インドの様式が取り入れられるようになった。


 
< 3.蘭州の街 >

白塔山から敦煌艺术馆まで。


 
< 4. 敦煌艺术馆に到着 >

下: 中央に見える1階の建物が博物館です。
入口が中央に見える。


 

< 5.石窟内の壁画 1 >

それぞれ石窟の一部の壁画を再現している。
様々な年代の様式が見られる。

上: 天井の壁画。
中央: 側壁。
この二つは初期の物でしょう。

下: これはどうやら西夏(11~13世紀)のものでしょう。
この作風は遼時代(10~13世紀)のものに似ている。
前者はチベット系で後者は北方系(契丹)だが、南北で境界を接していた。


 
< 6. 石窟内の壁画 2 >

中央: チベット仏教の影響がみられる。


 
< 7. 仏像 >

上: 初唐時代の彩色塑像。
下: 北魏時代の塑像。
造営初期の4~6世紀の仏像で、顔の形が細長い。
衣の表現はマトゥラー仏に似て薄く襞が少ない。


 
< 8. インド風の石窟 >

北魏時代のもので、石窟全体を再現している。
この原型はインドの石窟群に見られるもので、礼拝者が仏像の安置された祠を周回出来るようになっている。
祠は掘り出されているので天井は繋がっている。
私はレプリカであっても初めて見ることが出来たので嬉しかった。


全体の感想
展示のコンセプトは石窟の部分的な再現にあるようで、全体の雰囲気を容易に掴むことが出来る。
この便利な地、蘭州で手軽に敦煌莫高窟を楽しめるのは有難い。

少し残念なのは、少しレプリカが雑なように思う。
表記は中国語だけです。
今後増えるかもしれないが、現時点で展示が少なめです。






 
< 9. 蘭州博物館 >

上: 入り口。
省都の博物館でありながら、小さい。
それでも見る価値はあると思います。

中央: 半山類型(馬家窯文化)の彩陶鼓。
左に写っている土器が太鼓です。
土器の下部に皮などを被せ、紐で無数の突起に縛ったらしい。
5000~4000年前のものらしい。
西安から遠く離れたこの乾燥した地に、人々が文化を育んでいたとは思いもよらなかった。

下: これは浮橋で、前回紹介した中山橋(黄河第一橋)の前進にあたるものです。
黄河の両岸にそれぞれ二本の鉄の杭を打ち、縄を張り、小舟を繋いだ。



 
< 10. 金城 >

蘭州が初めて行政区になったのは前漢の時代(紀元前1世紀)で、金城県と呼ばれた。
この城の模型は、初期の金城県の城を示しているのでしょう。
今の蘭州中心部より西側にあった。



 
< 11. 発展した蘭州 >


何時から今の蘭州中心地に移ったかはわかりませんが、黄河に面して巨大な城砦となった。
下の写真の左下に水車が見える。

玄奘三蔵などはこの城を通って、西域を目指したのでしょう。


全体の感想

写真を載せていませんが、遊牧民の文化が中国初期の土器に影響を与えた袋状の三本足の土器もありました。
展示品は少ないが、西域と接する文化を少しは感じることが出来た。

見学途中、突如、蘭州のテレビ局のインタビューを受けた。
蘭州の感想を尋ねられたが、適当に褒めるだけで終わった。
なにせ来たばかりなので。
最近は日本人の観光客が少ないようで、驚いていた。


次回に続きます。