20170621

何か変ですよ! 58:  備えて下さい!





*1


今、私は現政権の手腕を羨ましく思っています。
おそらくは多くの国民も感服していることだと思います。
もし二大政党が日本にあり、双方がこれだけの力量を持っていれば、
日本の将来は安泰でしょう。


 
*2


まえがき
巷を騒がせている森友学園や加計学園の問題は、今更、取り立ててあげつらうほどの問題でしょうか?

日本の政治文化を特徴づける三バン「ジバン(地盤)、カンバン(看板)、カバン(鞄)」で成り立つ長期政権なら、このようなことは各地で日常茶飯事です。
何を今更、驚くのでしょうか?
多少どぎつい程度でしょう。

これは首相の強力なリーダーシップの賜物だと言えます。
中央官僚だけでなく、マスコミ、マスコミの寵児、地方までその影響力は行き渡っています。
今までの官邸や野党では不可能だったのではないでしょうか?

直ぐに人気が無くなる首相が相次いぐ中で、むしろ待望の決められるリーダーの誕生、それも長期政権だと喜んでいたはずです。

この現象を好意的に捉えるなら、待ちに待った官僚の上に立つ官邸の時代が到来したと言えます。
これまでは官僚が法律を発案し作り、国会での答弁書まで作って、大臣にレクチャーしていた。
これからは逆の本来の姿になるかもしれません。

そうは言っても不安がよぎるのも事実です。
私の不安が現実とならなければよいのですが。


不安とは何か?
一番は経済的なダメージで、大恐慌の到来です。

発生する時期を明言出来ませんが、近々起こるでしょう。
問題はその規模の巨大さであり、日本がまともに被害に合うことが予想されるからです。

可能性が高いのは中国の崩壊です。
今まで、中国の崩壊について多くのエコノミストが予言して来ましたが、幸い外れています。
これらの指摘に比べれば、中国政府はうまくやって来たと思います。
しかし、現在進行中の経済悪化(国営企業の低迷、過剰設備、巨大な負債、高失業率、格差拡大、成長率鈍化)が国民の不満に火を着ければ、コントロールが効かず、一気に恐慌に陥る可能性があります。

私の知り合いで、現地で活躍する二人の中国人は、恐慌が起きても不思議ではないと思っており、資産の海外移転を考えている様子です。
現在、中国は日本の輸出額シェアで18~19%を占め、米国15~20%と肩を並べています。
つまり、以前と違って中国がこけたら日本は大きな影響をうけるのです。


さらに別の不安要因が幾つかあります、英国のEU離脱もその一つです。
おそらく米国の株価好調と利上げテンポの遅いのが災いする可能性の方が大きい。

ここ半世紀ほど欧米を中心にして7年~10年毎に金融恐慌が間違いなく発生しています。
これは米国がリードした経済・金融構造とグローバル化の副産物だが、これは何ら改善されるどころか悪化しています。
残念ながら、2007年の世界金融危機以上のものが再来するでしょう。
現状のゼロ金利であれば、実業に向かうよりも遥かに巨額資金が災いを招く投機に向かい、更なる巨大なバブルが起きるのは必然です。



 
*3


何が問題なのか?
この恐慌の大惨事と、今の政権とどのように繋がるのでしょうか?
二つの事で、今の政権は恐慌の災いをより致命的にするでしょう。

一番はアベノミクスです。
現在、ヘリコプターマネーと称して市場に大量の資金が供給されています。
確かに少ないよりは多い方が景気には良いのですが、バブルが弾けた時に被害がより甚大になります。
現在、株式時価総額は600兆円ほどありますが、おそらく下落すれば200兆円ぐらいになるでしょう。
これは繰り返して来たことですが、今回は貨幣供給量が今までと比べものにならないほど増えたので下落率は拡大し、下手をすれば株式時価総額は1/4の150兆円もあるかもしれません。

その引き金として海外発、特に隣の中国発の恐慌が起きればひとたまりもないでしょう。
さらに、日銀と政府はこれまでと違って日本株を大量に買い支えているのですから、暴落すれば我々の年金はかなり減額になる。

この時、政府は謝罪し、責任を取るでしょうか?
たとえ良心があっても無理です。
なにせ数百兆円が一瞬にのうちに消え、おそらく100兆円の血税をつぎ込んで、やっと大手金融業が助かるぐらいでしょう。

もう一つは、首相の仲良し米国大統領が人気取りの為に何をするかわからないことです。
おそらく日本は特定秘密保護法と共謀罪の成立、次いで核兵器禁止条約への不参加と米国に盲従していくことになるでしょう。

この先にあるものは、経済と軍事の共倒れでしょう。
なにせ、即決と猪突猛進の首相なのですから。


最後に一言
恐慌に備え、株から手を引き、タンス預金にすることを薦めます。
もっとも金のある人は既にタックス・ヘイヴンしているでしょうが。

詳しくはいずれ連載で扱うつもりです。


20170620

フランスを巡って 15: ポン・デュ・ガールからリヨンへ





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今日は、ポン・デュ・ガールからリヨンに至るローヌ川の河谷に広がる風景を紹介します。
これまでのプロヴァンスとはまた違う味わいがあります。
すべてバスの車窓からの景色です。




< 2. バスの走行ルート、すべて上が北 >
左図: 今回の旅行でバスが走る南仏のルートです。
赤線がこれまで紹介したルート、青線が今日紹介するルート、黄線が後日紹介するルートです。

右図: 青線が今日紹介する走行ルートです。
アヴィニョンまでがプロヴァンスで、その上からリヨンまでがローヌ・アルプ地域圏になります。

私達のバスは、ローヌ川のほとんど右側(東岸)を走りました。
また私は車内左側に座って撮影したので、特に説明が無い写真はすべて西側の景色です。
撮影したのは旅行4日目、5月20日(土)、12:50~15:35です。
写真は撮影時間順に並んでいます。

赤の矢印は、前回紹介したショーヴェ洞窟のあるPont-d'Arc です。



< 3. ポン・デュ・ガール付近 >



< 4. 今から高速道路に入ります >

午後になると、雲が増えて来ました。
一番下の写真の左側に白いキャンピングカーが1台見えます。
今回の旅行では、至るところでキャンピングカーを見ました。



< 5. ローヌ川を渡る >

一番下の写真のローヌ川の左岸に城塞らしきものが見える。




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中央の写真: これだけが進行方向右側(東側)を撮影した丘の上の町です。
13:30に撮影。

下の写真: おそらくはこの山間を30km入った所に人類最古の氷河期の洞窟壁画があるショーヴェ洞窟のPont-d'Arcがあるのでしょう。
上の写真と同時刻に西側を写した。






< 7. ローヌ川の景色 1>



< 8.ローヌ川の景色 2 >



< 9. ローヌ川の景色 3 >


< 10. リヨンに近づいた >

リヨンに近づくにつれ、火力発電所や大きな工場が出現し始めた。



<  11. リヨン市街からフルヴィエールの丘へ >

上の写真: この橋を渡るとリヨンの新市街に入る。
この橋はローヌ川に合流する直前のソーヌ川に架かっている。

中央の写真: 新市街。

下の写真: またソーヌ川に架かる別の橋を渡りフルヴィエールの丘に向かっている。



プロヴァンスに別れを告げて


< 12. プロヴァンスとは >

左上の写真: 映画「陽だまりの裸婦」
左下の写真: エズにある「ニーチェの道」

右の写真: ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂に座るマティス。
彼はこの礼拝堂のデザインを手掛けた。


今回でプロヴァンスと別れることになります。
プロヴァンスについて記します。

私がこの旅行を選んだ理由の一つに、プロヴァンスの各地を訪問できることにあった。
中でも、映画「陽だまりの裸婦」の舞台になったプロヴァンスの自然を直に見たいと思ったからでした。
この映画はルノワールが晩年、リューマチに苦しみながらも傑作「浴女たち」を生み出す状況を、陽光と緑が溢れる丘を舞台に描かれていた。
その舞台は私達が通過して来たニースの直ぐ西側のカーニュ・シュル・メールでした。

既に紹介した画家ゴッホとゴーギャン、セザンヌもプロヴァンスで暮らしいます。
不思議なことに彼ら4人はポスト印象派を代表し、プロヴァンスこそポスト印象派を育んだと言えるかもしれません。

他に画家マティスもルノワールが晩年を迎えた直ぐ北側のヴァンスで晩年を過ごしています。

また、既に紹介したエズにも哲学者ニーチェが散策した道があります。

私も陽光溢れるエクス・アン・プロヴァンスやアルルを歩いている時、さもありなんと思えた。


プロヴァンスは古代ギリシャ時代の植民市マッサリア(マルセイユ)に始まるヨーロッパ文明化への入口でした。
そしてローヌ川はその通り道でした。
ここから葡萄酒とワイン栽培、そしてキリスト教が北上し、ローマ軍のガリア支配が進みました。
やがてフランク王国が北側で興り、12世紀ともなるとヨーロッパ文明の中心は北部に移動し、今度はフランス軍がローヌ川を下り、南仏を支配するようになった。

これまでに訪れた、エズ、モナコ、ニース、エクス・アン・プロヴァンス、アルル、アヴィニヨン、ポン・デュ・ガールはすべてこれら歴史の足跡を残していた。


このプロヴァンスを訪れて、今一番感じていることは・・・
このフランス旅行で、私はフランスの歴史を肌に感じ、さらに現在の移民問題とストラスブールの数世紀わたる民族混合(独仏の争い)についても何かヒントを得たいと思っていました。

ところが予想外なことに、このプロヴァンスこそが、それこそ2000年近くも民族混合があった地域なのだと知って驚いた。
それは短期間のサラセン人を除くと東西北部のヨーロッパ人による領土の奪いなのですが。
それにしても、現在、彼らは完全に混血し、平和に暮らしているように見えた。

日本列島に生きる日本民族からすれば理解出来ない戦争と平和の問題です。


次回に続きます。




20170619

フランスを巡って 14: ポン・デュ・ガールの水道橋






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今日は、巨大なロ―マ時代の水道橋を紹介します。
わざわざこの為だけにバスは山間に入りました。
はたして期待に違わぬものなのでしょうか?


水道橋の観光
訪れたのは旅行4日目、5月20日(土)、11:00~12:40です。
徒歩観光の後半、レストランで昼食をとりました。
この日もほとんど雲の無い、素晴らしい天気でした。


 
< 2. ポン・デュ・ガールの地図、すべて上が真北です >

上の地図: 青線がバスのルートです。
赤線は建設当時の水道橋のおおよそのルートです。

下の地図: 水道橋の見学コースを示しています。
赤線はバスの駐車場Sから、案内所を通り、そして水道橋を渡り、レストランまでのルートを示す。
青線は昼食後、バスの駐車場Fまでのルートです。


 
< 3. 水道橋の資料 >

左の地図: 黒線が建設当時の水道橋のルートです。
この水道橋は町ユゼス近郊の水源から都市ニームまで全長約50kmあり、平均斜度は1kmあたり24.6cmです。
驚くべきは、山や谷を幾度も通り、この少ない斜度で長距離、給水出来ていたことです。

右の断面図: 数字の単位はmです。
水道橋は3層からなり、最大高さは水面から47m、私達が歩いたのは下層の上で、その高さは22mです。


 
< 4. アヴィニョンからポン・デュ・ガールまでの景色 >

上の写真: ローヌ川。

下2枚の写真: ブドウ畑が広がり、進むに連れ標高が上がって来た。


 
< 5. 案内所から水道橋へ >


 
< 6. 水道橋の全貌が見えて来た >

下の写真: 今来た道を振り返る。


 
< 7. 水道橋 1 >

水道橋を渡っている時、実は、私はそれほど驚かなかった。
なぜならスペイン、ゼゴビアの水道橋の方が巨大で美しいと思ったからでした。
しかし、帰国後、調べて行くうちに勘違いに気付いた。

先ず大きさなのだが、確かに渡っている所から見上げた高さは24mで、ゼゴビアの地上高さ30mよりは低いが、水面からの高さは47mもあり、遥かに高い。
またこちらの導水路のある上層の長さは275m(川幅より広い)で、ゼゴビアのは728mもあった。
しかし、建設当時の水道橋の総延長は、ゼゴビアで17km、ポン・デュ・ガールは50kmと、こちらも大きい。

だが、ゼゴビアの水道橋の方が美しいと思ったのは、橋脚の基部の幅が2.4mと薄く、今にも倒れると思わせるほどのスリムなスタイルに感銘したからでした。


 
< 8. 橋が架かるガルドン川 >

上の写真: 橋から下流を望む。

下の写真: 上流を望む。


 
< 9. 水道橋 2 >


 
< 10. 川原に降りて >

上の写真: ボート遊びをする人々。
下の写真: 川原で遊ぶ子供達。


 
< 11.水道橋 3 >


 
< 12. レストランでの昼食 >

全3品が順に並んでいます。


追記

 
< 13. ポン・ダークの洞窟 >

水道橋の案内所でパンフレットを漁っていると、下の絵が目に飛び込んできました。

これは人類最古の洞窟壁画で、ショーヴェ洞窟300点の絵の一つです。
ショーヴェ洞窟は世界遺産です。
この洞窟壁画を保護するために、この公開を禁止し、この近くのポン・ダークに巨大なレプリカ洞窟を作り、2015年から公開されている。
ポン・デュ・ガールから北方50kmほどの山中にこの展示施設(上の写真)があります。

ショーヴェ洞窟の凄いのは約32000年前のもので、有名なラスコーやアルタミラの洞窟壁画よりも2倍ほど古く、多様な動物が描かれていることです。

それが、この近くにあるのですが、残念ながら素通りです。
もし、自由な旅行をされるのなら検討されると良いと思います。


次回に続きます。


20170618

フランスを巡って 13: 要塞都市アヴィニョン 2



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今日は、アヴィニョン旧市街の今を紹介します。
主に自由散策で見た中央市場や時計広場の光景です。



 
< 2. ロシェ・デ・ドン公園 1 >

上の写真: 公園の展望台から東側を見下ろしています。
見えているのはアヴィニョン旧市街です。

下の写真: 展望台。
写真は展望台の東北端から南側を写しており、右奥、木立の上に黄金の聖母像が見える。


 
< 3. ロシェ・デ・ドン公園 2 >

上の写真: ノートル・ダム・デ・ドン大聖堂を後部側面から見ている。

下の写真: ロシェ・デ・ドン公園の入り口にある彫刻。
上の写真の大聖堂の右側にある。


 
< 4.時計台広場から自由散策を始めた >

9:30から10:20まで自由散策を愉しみました。
最初、レアル中央市場に行き、ショッピングした。
時計台広場から中央市場まで8分ほどです。
後は時計台広場に戻り、集合待ちの間、広場の様子を眺めていました。




 
< 5.レアル中央市場に向かう 1 >

 
< 6.レアル中央市場に向かう 2 >

上の写真: サンピエトロ大聖堂。
遡れば教会は7世紀に始まるのですが、サラセン人に破壊された後、この大聖堂は14世紀から再建され始めたゴシック建築です。

今までの記事で謝らなければないことがあります。
それはイスラム教徒(サラセン人など)との関連です。
プロヴァンスの歴史を調べていると、各地の町や地中海の港がイスラム教徒に襲撃されたとの記述が多くありました。
私は、イスラム教徒が地中海で覇権を握ったのは、東地中海とジブラルタル海峡だけだと勘違いしていました。
これまでの歴史的な解説で、イスラム教徒の進攻を過小評価していました。


 
< 7.レアル中央市場に入る >

土曜日の午前9:40頃に入ったが人は少なく、観光客を見なかった。
私達は現地の果物と名物のお菓子を買って、後ほど食べた。


 
< 8.レアル中央市場の中 >

見ていると何でも欲しくなり食べたくなるが、お腹にも限度がある。



 
< 9.レアル中央市場から時計広場に向かう >

上の写真: 中央市場前の花屋。


 
< 10. 時計広場に戻る >

上の写真: 時計広場から南側に延びるメインストリートを望む。
この先には立派な城門、その向こうにアヴィニョン国鉄中央駅がある。
前日はこの通りに面したレストランで夕食をとった。
写真はその時のメイン二品です。




 
< 11.時計広場にて 1 >

上の写真: 広場の南側から北側を見ている。
フランスの町の中央広場には必ずと言っていいほど、メリーゴーランドがありました。

下2枚の写真: 広場で見かけた人々。
左側は夫婦のようで、黒を基調にした服でゆったりと旅行を楽しんでいるようでした。
右側は地元の人が、あれよあれよと言う内に集まり、談笑を始めた所です。
私はファッションには疎いのですが、着こなしが様になっていると感じました。


 
< 12.時計広場にて 2 >

この建物は時計台広場の北端にあるレストラン(Le Lutrin)で、18世紀のスペイン領事館だった。
ふと見上げると、マリア像らしきものがありました。

ヨーロッパを旅行していると、キリスト教と言いながら、マリア像の多さに驚く。
そこに根強い聖母信仰を感じ、仏教の観音信仰を思わせる。
本来、観音様は菩薩で男性だが、そこには女神や母性を感じさせるものがあり、根強い人気がかってはあった。

この中世の宗教都市は、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラとは大きく異なる雰囲気がある。
こちらは教皇庁の聖職者や官僚で富栄えた町だが、サンティアゴ・デ・コンポステーラは巡礼の人々で栄えた町と言える。
前者は巨大な宮殿と部外者を寄せ付けない城壁に象徴され、過去のものになっているが、後者は多数の教会が建ち並び、今でも巡礼者が絶えない。

ここを発って、ローマ時代の巨大な水道橋を見る為に、ポン・デュ・ガールに向かいます。

次回に続きます。