20161019

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 3: モスクワ 2





< 1.トロイツカヤ塔からクレムリンを出る >


今日も、前回に続いてクレムリンを紹介します。
ロシアとクレムリンの歴史に簡単に触れます。





< 2. クレムリンと赤の広場の地図、地図の上が南 >

前回に続いて聖堂広場の裏手Sから、黄色の線に沿って徒歩観光した道順に従って紹介します
赤線はグム百貨店の自由散策と夕食のレストランEへの道筋です。
食事後、バスに乗ってホテルに行きました。

今回、紹介するのは番号1から4までです。



 

< 3.クレムリン内部 >

上の写真: 地図の番号1。
「鐘の皇帝」は18世紀前半に作れた世界最大の鐘だが、制作中に一部が欠けた。
右手奥に見えるのがスパスカヤ塔で、その向こうが赤の広場。
鐘の向こうの建物がロシア連邦大統領府。
しかしプーチン大統領はほとんどここにおらず、郊外の別の建物で執務をしている。

中央の写真: 「大砲の皇帝」。
16世紀後半に作られた当時世界最大の大砲で、口径が890mmある。
使用されたことはない。

下の写真: 地図の番号2から撮影。
中央にトロイツカヤ塔、右に兵器庫、左にクレムリン大会宮殿。
クレムリン大会宮殿は最も新しい建物で、1961年に完成した。
当初は、ソ連共産党大会などが行われていたが、今は国際会議場や劇場として使用されている。


 

< 4. クタフィヤ塔を出たところ >

上の写真: クタフィヤ塔を出ると広場があり、左手がロシア国立図書館、右手がモスクワ馬術学校。

下の写真: 右手がクレムリンの城壁外側に伸びるアレクサンドロスキー庭園で左手がモスクワ馬術学校
奥にこれから行くマネージ広場が見える。



 
  
< 5. クレムリン城壁周辺1 >

上の写真: 地図番号3。
兵器庫に接した塔の下に、「イタリアの洞窟」があり、右手に「ロマノフスキーのオベリスク」がある。
これらすべて、数度の戦いの破壊後に再建されたようです。

下の写真: 地図番号4の方を見ている。
城壁の角にある塔の手前に無名戦士の墓があり、その手前に英雄都市12の地名の石碑が並んでいる。

この城壁にそってアレクサンドロスキー庭園の上部(北側)が続いています。
庭園の木々は黄葉していたので、陽が差していればさぞかし綺麗だったのに、残念です。


 

 < 6. クレムリン城壁周辺2、地図番号4 >

上の写真: これは12ある英雄都市の一つで、地名ケルチを示す。
下の地図の黒丸がケルチです。

中央の写真: 無名戦士の墓の灯火を二人の衛兵が守っている。
これは第二次世界大戦で死んだ無名戦士の墓です。

下の写真: 12の英雄都市の地図。
英雄都市とは、第二次世界大戦の独ソ戦(バルバロッサ)でドイツ軍の侵入に英雄的な戦いを行った都市に与えられた名誉称号です。


ケルチについて
ここは黒海北岸のクリミア半島の海峡に面した港湾都市で苦難の歴史を負っている。

ケルチは古代ギリシャ時代より交易路の交差点として栄え、後に東ローマ帝国に支配された。
紀元9世紀に興ったキエフ大公国がこの地を支配し、この国が後のウクライナやロシアの起源となった。
後にトルコとロシアの争奪の地となり、19世紀クリミア戦争で英国によって蹂躙された。
幾たびかの戦火を生き延びたが、第二次世界大戦の独ソ戦でロシア側は16万人以上の死者・捕虜を出し、戦後、英雄都市に指定された。

1991年、ケルチはソ連崩壊に伴い独立したウクライナに属した。
しかし、2014年のウクライナ騒乱により、クリミアは独立宣言を行い、プーチン大統領はロシアへの編入を表明した。
欧米諸国はこれをロシアの侵略として非難した。




< 7. クレムリン城壁周辺3、地図番号4と5の間 >

上の写真: アレクサンドロスキー庭園の門を出て振り返ると、トロイツカヤ塔がライトアップされており、夕闇が迫っていた。

下の写真: 城壁に沿って進むと赤の広場に至る。
中央の白と緑の塔はニコリスカヤ塔です。


ロシアの歴史
私達日本人にとって、ロシアは独裁的で侵略的な怖い国のイメージがあります。
そこで簡単に歴史を振り返ります。


 

< 8. ロシアの領土の推移 >

上の地図: キエフ大公国(882~1240年)。
ピンクがその領域。

中央の地図: モスクワ大公国(1390~1525年)。
緑がその領域。
二つの黒丸はモスクワとサンクトペテルブルグを示す。

下の地図: ロシアの領域拡大の推移。


ロシアの始まりは東スラブ人による9世紀後半に始まるキエフ大公国で、13世紀まで続きました。
この大公国は黒海からバルト海を結ぶように南北に伸びていました。
988年、東ローマ帝国からキリスト教を受け入れました。
この大公国の首都キエフは黒の矢印、重要な都市ノヴゴロドは白の矢印、先述のケルチは赤の矢印で示します。
キエフは現在のクライナの首都です。
二つの黄色の丸はモスクワとサンクトペテルブルグで、歴史に登場するのはまだ先になります。

13世紀末、モンゴルが大公国の南部を東方から侵略した。
最北部にあったノヴゴロド共和国はその支配を逃れたが、スウェーデンやドイツ騎士団の侵入に悩まされた。
やがて、その南部で接するモスクワ大公国が勢力を伸ばし、1472年イワン3世がモンゴルの支配を脱し統一を果たし、ロシア皇帝を始めて名乗った。
モスクワはカスピ海に至るヨーロッパ最長のボルガ川の水運の要衝であった。

このモスクワ大公国が周辺を併合しロシア帝国(1547~1917年)が誕生する。
1917年、第一次世界大戦中のロシア革命によって、ソ連が誕生した。
さらに1991年、ソ連崩壊により、他の共和国とロシア共和国が独立した。


クレムリンの歴史


 

< 9. クレムリンの歴史1 >

上の絵: 13世紀後半のモスクワが描かれている。
椅子に座っているのがモスクワ大公国の王だろう。

中央の絵: イワン3世の時代(1462~1505年)のクレムリン。

下の絵: イワン3世の時代の聖堂広場。
左下の人物はイワン3世で、アルハンゲルスキー聖堂の建設を監督しているようです。
前回紹介したアルハンゲルスキー聖堂の屋根の飾りと似ており、聖堂広場での配置も一致する。
この聖堂はイワン3世が命じて1505~1508年に建設された。


クレムリンは1475~1489年に掛けて、三つの教会・聖堂が最初に建築された。
続いて1485~1499年にクレムリンの20の塔が建設された。
壁の総延長は2kmを越える。
1712から1914年まで、首都がサンクトペテルブルグに遷ったので、クレムリンの増改築は停滞した。
この間の1812年、ナポレオンがモスクワを占領しクレムリンの一部が破壊された。



 

< 10. クレムリンの歴史2 >

ポーランド・モスクワ戦争(1605~1618年)はポーランド・リトアニアの軍が内戦に乗じてロシアに侵入した動乱時代と呼ばれる。
この絵は1612年、国民軍がモスクワのクレムリンを奪還し、ポーランド人を追い出している様子を描いている。
この絵は私達が歩いたトロイツカヤ塔と陸橋を描いているのだろう。
その奥に聖堂広場の教会群が見える。
この翌年より、ロマノフ王朝が始まった。




 

< 11. クレムリンの歴史 >

上の写真: 1820年当時のクレムリン宮殿。
現在はこの後地に大クレムリン宮殿が立っている。

中央の写真: 1908年当時のクレムリン。

下の写真: この絵の建物を壊して1961年に現在のクレムリン大会宮殿が建った。

中央のトロイツカヤ塔の先端にロシア帝国の国章「双頭の鷲」が乗っている。
この国章は東ローマ帝国との姻戚関係によって受け継いだ。
現在の塔の先端には赤い星が乗っている。

共産主義国家の創建者、レーニンとスターリンは共にクレムリンに住んだ。
しかしレーニンは大きな宮殿の片隅で慎ましく暮らしたが、スターリンは他をクレムリンから追い出したそうです。


次回は赤の広場の夜景やグム百貨店を紹介します。


20161016

Bring peace to the Middle East! 38: chain of retaliation 6 : the intifada

中東に平和を! 38: 報復の連鎖 6 : インティファーダ




<  1.  The poster in 1990 >
< 1.1990年のポスター >


At the time of 2003, Israeli and Palestinian together had pointed out that the intifada caused the aggravation of fighting as I already introduced in this serialization.
Today, I look back on this intifada.


2003年当時、既に紹介したようにイスラエルとパレスチナの人々が共に、インティファーダが状況の悪化を招いたと指摘していました。
今日は、このインティファーダを振り返ります。





<  2.  Intifada  >
< 2.インティファーダ >


About the intifada of Palestine
This means two popular uprisings that happened in Palestine against the occupation of Israel.
Israeli and Palestinian caused four Middle East wars and Lebanese War so far.

In December of 1987, when a traffic accident happened in Gaza Strip under the occupation by Israel, the public caused the protest movement with stone-throwing and going on strike.
And it expanded to the West Bank.
The intense suppression of Israel in this time caused international criticism, and the movement burnt low when Middle Eastern peace negotiations began in 1991.

However, the second intifada began when Sharon (later the prime minister) entered Al-Aqsa Mosque with many guards in 2000.


パレスチナのインティファーダについて
これはパレスティナで起きたイスラエル占領に対する2度の民衆蜂起をさす。
これまでに4度の中東戦争とレバノン戦争を起こしていた。

1987年12月、イスラエル占領下のガザ地区で起きた交通事故を機に,大衆の投石,ストなどによる抗議行動が発生,ヨルダン川西岸地区にも拡大した。
この時のイスラエルの激しい鎮圧は国際的非難を呼び,1991年に中東和平交渉が始まると運動は下火になった。

しかし、2000年、シャロン(後に首相)が多数の護衛兵と共にアル・アクサーモスクに入場すると、第2次インティファーダが始まった。




<  3. Al-Aqsa Mosque >
< 3. アル・アクサーモスク  >

What did the intifada bring about?
 "The inhabitants confront the tyrant with a stone, and the Israel forces wipe out women and children with latest weapon.", this news and video spread around the world.
And the world opinion drew Israel into a negotiation of Middle Eastern peace.

Then, following Oslo agreement was concluded in 1993.
1. Mutually, Israel approves PLO as Palestinian autonomous government, and PLO approves Israel as a nation for the first time.

2.The Israel forces withdraws provisionally from the occupied territory, meanwhile, Israel accepts self-government of Palestine.

3.In future we will discuss about the border, the return of refugees, and the position of Jerusalem

This agreement was epoch-making, but the self-government range of Palestine had been decreased to 5% of the whole land substantially.

In 1995, middle-of-the-road Prime Minister Rabin was assassinated, and a hawkish party held the political power of Israel.
Then, the Israeli settlement movement to the West Bank were accelerated, and then division and rule of Palestine deepened more due to the separation barriers of 440 km, and the checkpoints of more than 70.

At that time, Sharon, the leader of Likud marched with 1,000 guards into the mosque which was a sacred place of Islam.
He showed that all of Jerusalem was under the control of Israel.
Against this provocation, Palestinian new groups did a severe reaction.
And Israel used the overwhelming military capability, then Palestine countered with a gun and a suicide bombing and they entered into all-out war.


インティファーダがもたらしたもの
「石つぶてで圧政者に立ち向かう住民と、それを最新兵器で女子供含め掃討するイスラエル軍」の映像が世界に流れ、国際世論はイスラエルを中東和平に引き込んだ。

そして1993年、以下のオスロ合意がなされた。
1.イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として初めて相互に承認する。

2.イスラエル軍は占領地から暫定的に撤退し、その間、パレスチナの自治を認める。

3.両者の境界、難民の帰還、エルサレムの地位等については今後協議する。

合意は画期的だったが、実質、パレスチナの自治範囲は全土の5%になっていた。

1995年、穏健派のラビン首相が暗殺され、タカ派がイスラエルの政権を握る
と、イスラエルのヨルダン川西岸への入植は加速され、440kmの分離壁、70を越える検問所によって、パレスチナ人の分断と支配はより深まった。

そんな折、シャロン・リクード党首が護衛兵1000名を連れてイスラムの聖地であるモスクに乗り込んだ。
彼はエルサレムのすべてがイスラエルの支配下にあることを見せつけた。
この挑発に対して、パレスチナの新手のグループが過激な反応をした。
そしてイスラエルは圧倒的な軍事力を行使し、パレスチナは銃と自爆テロを激化させて、全面戦争へと突入した。




<  4.  Autonomous areas of the Palestinians are green, and they haven't a police authority on the half part of it. >
< 4. パレスチナ自治区は緑色、警察権の無い地域も含む >

Why do they fall into such futile impasse?
Israel builds checkpoints and separation barriers, in addition, Israel does military strikes and stays their troops.
Israel have explained the reason is because Palestinian breaks a promise and repeats terrorism.
On the other hand, the territory of Palestine continues to decrease to 9% even if including the incomplete autonomous districts, in comparison with two years (1946) before the founding of the nation of Israel, because the settlement movement and the occupation of Israel advances.
Furthermore, Israel have blocked information, supplies, water, and jobs from the Palestinian people.

The dissatisfaction went off accidentally, and the first intifada spread at a stretch, but the people still could do self-control.
However, in the situation that continues to worsen, the radicals who could not be satisfied with previous leadership PLO responded to a provocation of Israel, and blasted.
As a result, Israeli control advanced as expected.


なぜこのような不毛な隘路にはまり込むのか
イスラエルはパレスチナが約束を守らず、テロを繰り返すから、検問所や分離壁を設け、軍事攻撃と駐屯を行うと説明する。
一方、パレスチナの領土はイスラエル建国の2年前(1946年)に比べ、イスラエルの入植と占領が進み、不完全な自治区をいれても9%と減る一方だった。
さらにパレスチナの人々は、情報、物資、水、仕事を遮断されてしまった。

第一次インティファーダは溜まった不満が暴発し、一気に拡大したが、まだ民衆には自制心があった。
しかし、悪化し続ける状況で、それまでの指導部PLOに満足できない過激派がイスラエルの挑発にまんまと乗って暴発した。
こうして、イスラエルの想定通りに支配が進むことになった。


A matter for regret
Against Israel that has the overwhelming military capability and was supported by advanced countries, Palestine and Arab are inferior with economic force and military capability, and also cannot form a coalition together and only do patchwork response.
This was similar to the Middle East war.
Israel strengthened the control, and Palestine deepens division and isolation.
They went into an inescapable plight.

This continues the next.


残念なこと
圧倒的な軍事力と先進国の支援があるイスラエルに対して、パレスチナとアラブ側は、経済力と軍事力で劣るだけでなく、まとまりにかけ、その場限りの対応に終始している。
これは中東戦争でも同様でした。
パレスチナは支配を強化され、分断と孤立を深め、追い込まれ続けている。
まるで蟻地獄に落ち込んだようだ。


次回に続きます。


20161012

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 2: モスクワ 1







< 1.ブラゴヴェシチェンスキー聖堂、地図2のD >

今日は、最初の訪問地モスクワを紹介します。
空港からモスクワのクレムリンまでの車窓の眺めとクレムリンの聖堂広場を紹介します。


はじめに
私達の飛行機はドバイ空港の混雑で出発がかなり遅れて、クレムリン到着は5時になり、また曇天だった為、薄暗い中での観光になった。
教会の閉館時間が迫り、拝観出来たのは一つだけだった。

しかし、良いこともあった。
それは次回紹介する赤の広場のイルミネーションを見ることが出来たことです。




< 2. 地図1: 空港からクレムリンまで >
衛星写真はすべて上が北です。

上の写真: 到着したドモジェドヴォ空港からモスクワ中心部クレムリンまで約45km。

下の写真: S印は赤の広場を示す。
その下側の三角形の茶色の城壁で囲まれた部分がクレムリンです。
さらに下側を流れるのがモスクワ川です。




< 3. 地図2:クレムリン内の聖堂広場 >

私達は左上のクタフィヤ塔から入場し、トロイツカヤ塔をくぐり、クレムリン内に入った。
そして白い近代的な建物のクレムリン大会宮殿(下側)と兵器庫の間を通り、聖堂広場に向かった。




< 4.空港からモスクワ中心部まで 1 >

上の写真: ドモジェドヴォ空港。
空港周辺は鬱蒼とした森林とのどかな田園地帯です。




< 5.空港からモスクワ中心部まで 2 >

やがて高層のアパートが増えて来ますが、建物は無味乾燥で古いものが多い。





< 6.空港からモスクワ中心部まで 3 >
すべてモスクワ川です。

下の写真: モスクワ川に立つピュートル大帝像。

ここまで来ると人口1200万人の大都会を彷彿とさせます。




< 7. クレムリンに到着 >

上の写真: モスクワ川に沿って続くクレムリンの城壁。
下の写真: トロイツカヤ塔がクレムリンの入り口。




< 8. トロイツカヤ塔の直前 >

上の写真: アレクサンドロスキー庭園を見下ろす。
下の写真: クタフィヤ塔の向こうに市街が広がる。



< 9. 聖堂広場に向かう >

上の写真: パトリアーシエ宮殿の下をくぐると、聖堂広場に出る。地図2のA。
下の写真: イワン大帝の鐘楼。地図2のB。





< 10. 聖堂広場の真ん中から >

上の写真: 奥にパトリアーシエ宮殿、右手にイワン大帝の鐘楼、左手にウスペンスキー大聖堂(地図2のC)が見える。
時間が間に合っていれば、ウスペンスキー大聖堂の内部に入った。

下の写真: 内部を見ることが出来たアルハンゲルスキー聖堂。地図2のE。





< 11. アルハンゲルスキー聖堂内部 >
内部は撮影禁止なので、画像をhttp://archangel-cathedral.kreml.ru/から借用した。

アルハンゲルスキー聖堂について
これは天使ミカエルを祭ったロシア正教会の聖堂です。
現在の建物は14世紀の大聖堂のあった場所に16世紀初め建設された。
壁面を埋め尽くすフレスコ画は16から17世紀に制作された。
奥の部屋との仕切りになっているイコノスタシスには17~19世紀のイコンがはめ込まれている。
ここには17世紀までの54名の皇帝や王が埋葬されている。

上の写真: 華麗なイコノスタシス
中央の扉を開けると最も神聖な場所に至る。
この扉の上にキリストと聖母マリアの絵が連なっている。
さらに最後の晩餐の小さな絵が扉のすぐ上にあり、これは正教会の決まりだそうです。

下の写真: 出口に向かって壁面右側上部に最後の審判の絵がある。


思うこと
私が正教会の内部を見るのはモンテネグロのコトル以来ですが、これほど絵画で埋め尽くされた建物を見るのは初めてだった。

特に印象深かったことは、「最後の晩餐」と「最後の審判」が重要な場所に描かれていることでした。
「最後の晩餐」はイエスが信じる人々に恩寵(パンと葡萄酒:血と肉)を与える重要なシーンです。
「最後の審判」はイエスが再臨し、良き人々を永遠に救うことを意味する。

信者は扉に向かって礼拝するとき、神の恩寵の思い、また退出する時には、最後の審判による永遠の安らぎを確信することになる。



次回に続きます。

20161011

Bring peace to the Middle East! 37: Thank for your answers.

中東に平和を! 37: ご意見に感謝します





*1


I had precious answers to my questions from the world.
I'm grateful for your kindness.
This time, I introduce these answers and write my impression.

前回お願いした質問に対して世界から貴重なご意見を頂きました。
ご厚意に感謝します。
今回は、寄せられたご意見を紹介し、私の感想も記します。


Preface
Last time, I asked you the questions what causes a quagmire of the conflict, and what is an obstacle to the peace.
Because I summarize these answers with poor English, I apologize in advance.


はじめに
前回、何が中東の紛争を泥沼化させ、平和の障害になっているのかを質問しました。
ご意見を、拙い英語力で要約しますので、失礼になることを謝罪します。

Summary of these answers

From a Muslim woman in the Middle East
About the reason that the war continues.
A:  Most of the people do not accept the different point of views of each other.
B:  Politics is corrupt, and the top is only enthusiastic about maintaining his power.
C:  There is not freedom.

Furthermore, she added this.
D:  Islam is perfect but we are not.
E:  Not all people follow the rules of Islam.

My impression
I think as if I heard a true voice.
It is analogous to the answer of this serialization,” Bring peace to the Middle East! 19,20: Israeli-Palestinian conflict 1,2: voices of the young 1,2”.
Opposition and corruption flourishes in her society, and despair and distrust cover the society.
Her answer explains well my impression that I felt faltering society when I visited Cairo once.
She has an implicit trust in the Islamic religion, but I feel slight uneasiness about it.

I thank her heartily.


寄せれらたご意見のポイント

中東に住むムスリマ女性より
戦争が起きている理由について
A: 多くの人は互いの異なる意見を受け入れない。
B: 政治が腐敗し、トップは権力維持に奔走している。
C: 社会に自由がない。

さらにこうも付け加えていました。
D: イスラム教は完璧だが、私達はそうではない。
E: すべての人がイスラムの掟に従うとは限らない。


私の受けた印象
まさに真実の声を聞いた思いがします。
この連載、「中東の平和を! 19、20: イスラエルとパレスチナの紛争 1、2: 若者の声 1、2」で紹介した若者の意見に通じます。

彼女の住む社会には対立と腐敗が蔓延し、絶望と不信感が社会を覆いつくしている。
私が以前、カイロを訪れた時に感じた停滞している印象を、彼女の意見はよく説明している。
彼女はイスラム教に篤い信頼を寄せているが、私は一抹の不安を感じる。

彼女に心より感謝します。


From a Hindu man in India
He wrote many opinions by the long sentence.
I couldn't completely understand the sentence, but I extract opinions that I focus on from it.

A:  The peace does not come unless the consciousness of the fighting person changes.
As an example, he mentioned that conqueror King Asoka in ancient India became a believer in religion and stopped the war.

B:  The main reason of the Middle East conflict is Islamic fundamentalism.


My interpretation
He is pessimistic about the solution to Middle East conflict.
He seems to give out advice to me, “ Do not underestimate war, and do not be biased toward one side.”
In the background, there seems to be difference between India that was invaded by Islamic forces once and peace-addicted Japan.

His opinion is always philosophical and I feel the difference in religious viewpoint.
Because our discussions often did not mesh in despite of praying for world peace together, I realize the difficulty of conflict resolution.

I thank my friend heartily.

At the end
I hope to think and talk with people of the world, and have continued this blog.
This wish seemed to have come true this time.

This continues next time.


インドに住むヒンドゥー教徒男性より
彼は長文で多くの意見を書いてくれました。
私はその文を完全に理解出来ていませんが、気になる事だけを抜粋します。

A: 戦う者の意識が変わらない限り平和は来ない。
例として、インドの征服者アショカ王が宗教に帰依した事例を挙げています。

B: 中東紛争の主因にイスラム原理主義を挙げています。


私の解釈
彼は中東紛争の解決には悲観的です。

彼は、私に戦争を甘く見るな、一方に偏って見るなと訴えているようです。
その背景に、平和ボケの日本とイスラムに侵略されたインドの違いがあるようです。

彼の意見は、いつも哲学的で、宗教的立場の違いを感じます。
共に、世界の平和を願いながら、いつも議論が嚙み合わないことに、紛争解決の困難さを実感します。

友人に心より感謝します。


最後に
私は世界の人々と共に考え、語り会うことを願って、ブログを続けて来ました。
今回、その願いが叶ったようです。

今後も、精力的に続けるつもりですので、よろしくお願いします。


次回に続きます。


20161007

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 1: はじめに





< 1. 霧に包まれたビルニュス歴史地区 >


私達はバルト海に面する国々を訪れました。
大国ロシアとヨーロッパの端にある小国バルト3国、ポーランドを巡りました。
サンクトペテルブルグの黄葉と黄金に輝く宮殿、世界遺産の中世の街並み、ユーラシア大陸の自然を愉しみました。
今日は、この旅行の概要を紹介します。


旅行の概要
旅行の日程は2016年9月28日から10月5日です。
(株)ジャンボツアーズのツアーに参加しました。
モスクワに飛び、地図の赤丸の各都市に6泊し、黒丸を含めて7箇所を観光し、ワルシャワを発ちました。
添乗員が同行し、各地では現地ガイドの説明を受けました。


 

< 2. 訪問地の地図 >

モスクワとサンクトペテルブルグの間は新幹線で移動しました。
サンクトぺテルブルグからワルシャワまでは観光バスで移動しました。
総距離は2200kmを越えます。


この旅行の目玉
丸印の観光地について
No1: クレムリンを中心にモスクワ観光。
No2: 2つの宮殿とエルミタージュ美術館を含むサンクトペテルブルグ観光。
No3: 国境の河岸に立つナルヴァ城観光。
No4: エストニアの首都タリン、バルト海の交易で栄えた旧市街地を徒歩観光。
No5: ラトビアの首都リガ、ロシアとヨーロッパの中継貿易で栄えた旧市街地を徒歩観光。
No6: リトアニアの首都ビリニュス、苦難の歴史を生き抜いた旧市街地を徒歩観光。
No7: ポーランドの首都ワルシャワ、破壊から蘇った旧市街地を徒歩観光。


秀逸だったこと
至る所で黄葉が見頃を迎えていた。
新幹線と観光バスの車窓から眺めは、ユーラシア大陸の大平原を堪能させてくれた。
5つの都市で、一つの巨大デパート、3つの大型スパー、一つの中央市場を訪問し、買い物をした。
現地ガイドとの説明や対話を通じて、この国の歴史を身近に感じることが出来た。



 


< 3. モスクワ >

上の写真: クレムリン。
下の写真: 赤の広場近くの通り。




 


< 4. サンクトペテルブルグ >

上の写真: エルミタージュ美術館。
下の写真: エカテリーナ宮殿。


 


< 5. ペテルゴーフとナルヴァ >

上の写真: ペテルゴーフにあるピュートル大帝の夏の宮殿。
下の写真: エストニア側のナルヴァ城から見た対岸のロシア側の要塞。


 

< 6. 丘から見下ろしたタリンの旧市街 >

街の向こうにバルト海が広がり、その先にフィンランドの首都ヘルシンキがある。



 

< 7. リガ >

上の写真: アールヌーヴォーの街並み(ユーゲントシュティール建築群)。
下の写真: ブラックヘッドの会館。



 

< 8. ショッピング >

上の写真: サンクトペテルブルグのホテル近くの大型スーパー。 
下の写真: リガの中央市場。


 

< 9. ビリニュスの夜景 >

上の写真: 大聖堂。 
下の写真: 旧市街地への散策の帰り道。




 


< 10. ビリニュス >

上の写真: 聖アンナ教会。
下の写真: 聖ペテロ・パウロ教会。



 


< 11. ワルシャワ 1 > 

上の写真: 旧市街地の王宮広場。
下の写真: ワジェンキ宮殿。



 


< 12. ワルシャワ 2 >

上の写真: ランドマークの文化科学宮殿。
下の写真: 旧市街で出会った笑顔が素敵なグループ。



 

< 13. 車窓からの眺め 1 >

上の写真 : 新幹線から。
中央の写真: 観光バスからペテルゴーフ近郊。
下の写真 : ペテルゴーフとナルヴァの間。



 


< 14. 車窓からの眺め 2 >

上の写真 : ナルヴァからタリンの間。
中央の写真: タリンからリガの間。
下の写真 : ビリニュスからワルシャワの間


思ったこと
バルト3国とポーランドの旧市街の街並みに、かつての繁栄と苦難の歴史が刻まれていた。
それはこの地域がロシアとドイツに挟まれたバルト海沿岸であったことによる。
さらにこの地域の自然とスカンジナビア半島の影響が民族形成を複雑にした。

旧市街を歩き、バスの車窓の景色を眺めながらこれらの国々の成り立ちに思いを巡らした。


次回より、この旅行記の連載を始めます。