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今回は、福知山の城下町を紹介します。
これで福知山の紹介を終わります。
< 2.町歩きマップ、上が北 >
この地図は「ふくちやま まちあるきマップ 城下町歴史探訪編」を利用しています。
私は右下の福知山城から赤線に沿って北上し、No11で折り返し、No12からは黒線で城の横の駐車場に戻りました。
城を出たのが13:40、駐車場に戻ったのが15:10でした。
地図の番号について
1 福知山城、前回紹介
2 旧松村家住宅、前回紹介
3 京口門
4 明覚寺
5 明智藪、前回紹介
6 由良川堤防
7 広小路商店街
8 久昌寺
9 金毘羅神社、丹後口
10 高良厄除け神社
11 梅干し半十郎観音
12 御霊神社
< 3. 城下町図、上が北 >
江戸時代のものでしょう。
上の白矢印は丹後口を示す、
濃紺の線は、川と堀です。
右下の薄緑で囲まれた範囲が当時の城でした。
現在は右端のほんの一角が天守閣として再現されている。
< 4. 由良川堤防を行く >
上: 右に明智藪の一部、その奥に音無瀬橋が見えます。
中央: 堤の右側に明覚寺の屋根、その右奥に天守閣が見えます。
下: 由良川の下流を望む。
堤の左側に城下町が広がる。
光秀が由良川の流れ変え堤を造成し、城下町を整備してから、由良川の川湊を使って水運が発達した。
光秀築城以前の由良川は城下町を突き抜けて大きく右に曲がっていた。
< 5. 広小路商店街 >
堤を左側に降りて、広い商店街、広小路商店街に出た。
コロナ危機の関係でか、閉まっている店が多かった。
上: 西側、突当りに御霊神社がある。
下: 逆方向を望む、音無瀬橋が見える。
< 6. 広小路から右に折れる >
特に城下町の雰囲気はない。
やがて道が合流すると、寺町通りに入る。
< 7.寺町通りに入る >
主に通り長さ300mほどの堤側に、大小の神社仏閣が並んでいる。
南側から祇園社、常照寺、法鷲寺、祇園牛頭天王社、久昌寺、金刀比羅神と並んでいる。
寺はすべて立派で、宗派が異なる。
今なら各社コンビニが競い合ってサービスを提供しているようなものか。
上: 常照寺、日蓮宗
江戸時代、福知山城主松平家の時に現在地に移転して来た。
下: 法鷲寺、浄土宗
江戸時代、福知山藩主朽木家の位牌所として重んじられた。
光秀の後、福知山藩主の家系は7回替わり、朽木家が13代と重ね、明治維新まで続いた。
< 8. 久昌寺 >
上下: 久昌寺の山門と本堂、曹洞宗
もっとも立派で、福知山城主朽木家の菩提寺でした。
山門の右側にある小さな社が祇園牛頭天王社で久昌寺の鎮守社です。
< 9. 久昌寺の棟鬼瓦 >
上: 久昌寺の棟鬼瓦
これが寺の屋根に載っていたそうです。
今まで気にしていなかったが、寺の本堂や山門、釣鐘堂の屋根をよく見ると鬼瓦だけでなく鯱まで乗っている。
下: 地図で見ると金毘羅神社が堤の横にあるので、今一度、堤に出た
< 10. 金毘羅神社 >
上: 金毘羅神社、ここはかつて丹後口でした。
ここには水運の神が祀らており、水運が盛んだったことを物語っている。
写真の鳥居右横の井戸の辺りに番所があった。
旧山陰街道は、地図2のNo3京口門から城下に入り、川に沿って進んで、No9金毘羅神社(丹後口)から城下を出た。
この場所は、寺町道りから右に折れて、狭い道に入らなければならない。
当初、不思議に思ったのですが、旧山陰道から城下町が見通せな無いように意図されていたことが後で分かった。
下: 「なわむしろ」と書かれた看板
この辺り、寺町道りを過ぎて厄除け神社までのこの道の堤側は鋳物師町です。
特段、歴史を偲ばせる家屋は見当たらない。
< 11. 高良厄除け神社 >
境内が広い立派な神社で、今も毎年2月、市民が厄除けの輪をくぐる厄除け大祭が行われています。
江戸幕府成立の年、福知山藩主になった有馬家が、この地に鋳物師町を新設した。
この鋳物師町は低地の為に、由良川の氾濫の度に被害を受け、江戸末期に安心立命を願い厄除け神社が創建され、明治末期にこの地に移設された。
残念ながら光秀の治水工事だけでは、由良川の自然の猛威を防ぎきることが出来なかった。
< 12. 梅干し半十郎観音 >
新興住宅街の一角にポツリと、昔ながらの祠があり、義賊が祀られていた。
話が面白いので要約します。
江戸時代末、全国的な凶作があり、福知山藩は財政が大変苦しくなって、町民・百姓に厳しい倹約令を敷いた。
福知山の町に親分の用人棒、松岡半十郎がいました。
彼は藩にひとあわふかせてやろうと、統制売買し巨利を得ていた藩制定の問屋に押し入り、男二人を殺害して金を奪い、そのお金を生活に困っている人に施して逃げました。
しかしあえなく捕えられた半十郎は打首となった。
その際、辞世の歌として「三味線の糸より細きわが命 引き廻されて撥(バチ罰)は目の前」と残したそうです。
処刑に際し、半十郎は肌身離さず持っていた、約5cmの観音様を飲み込んで「私の好物の梅干しを墓に供えて願掛けに参ってくれるなら、首から上の病気は必ず治してあげよう」と言い残してこの世を去った。
その後、祠が建てられ、梅干しが絶えないそうです。
< 13. 御霊神社 >
光秀が祀られている。
元々、光秀は先に紹介した常照寺に祀られていた。
一方、この地には稲荷社があった。
江戸中期、町民たちが藩主に合祀を願い、この地に創建された。
光秀は没後120年を経ても人気だったようです。
10月の御霊大祭は三丹一の大祭と呼ばれている。
< 14. 御霊神社を出る >
上: 神社境内から前の広場を望む、奥に音無瀬橋が見える。
下: 広場の横にある公園。
コロナによる休校のせいか、多くの小中高生が遊んでいた。
< 15. 新町商店街から福知山城へ >
上: コロナ危機の為か、ほとんど店が閉まっていた。
とは言っても、おそらくシャッター通りになりつつあるようです。
下: お城通りから福知山城を見上げる。
この道を進み、駐車場に向かう。
* 感想 *
今回、一番の好印象を得たのが、人の温もりでした。
まさにコロナ危機の最中なので、観光地をぶらつくことを非難されるかもしれないと思っていた。
当然、三密を避け、館内や店舗内に入るのを避けてはいたが。
寺町通りを歩いていると、わざわざ自転車を止め、私に話かける地元の年配者がいた。
彼は「どこに行かれるのですか?」と聞いてくれた。
彼は親切に教えてくれて、激励までしてくれた。
またさらに進むと、訪問販売中らしい男性がまた声を掛けてくれた。
彼は「ここは寺町と言うのですよ!」と教えてくれた。
実にありがたい。
文句では無く、歓迎してくれている。
もっとも私達夫婦は目立っていた、この城下町散策ではまったく観光客を見なかったので(城を除いて)。
各地を旅行していると、古い街並みを持つ町に地元愛を持っている人に出会うことがある。
しかし、一方で、どこも寂れて行く町の姿が目に焼き付く。
山陽地域、明石から広島までの山間や海岸沿いを電車で旅した時、北関東を車で旅した時もそうでした。
日本経済が地盤沈下し、世界経済から取り残されつつある中で、ふと足元を見ると、地方都市はどこも衰退し、再生の兆しはない。
一方、北欧や中国を巡っていると、とてつもなく広い国土で再生が進んでいる。
北欧も中国も、半世紀から30年ほどの間に活性化し、ほぼすべての町並みが急速に新たになっている。
日本と世界のギャップに唖然とする日々です。
次回から、徳島の漁村を巡りを紹介します。