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今回は、開封にある大相国寺を紹介します。
今も昔も開封で一番大きい寺です。
大相国寺について
この寺の始まりは北斉時代の555年ですが、その後廃れ、唐の時代に復活しました。
宋時代(960年-1127年)になると大相国寺(禅寺)として首都最大の寺となります。
その後、黄河の氾濫や兵火に遭い廃れました。
清朝時代の1766年になって大修復が行われ、現在まで続いています。
弘法大師(空海)は唐の時代にこの寺に立ち寄ったそうで、立像があります。
また水滸伝の舞台の一つです。
梁山泊第十三位の好漢、魯智深(花和尚)はこの寺の菜園の番人だった。
境内に彼の怪力を示す像があります。
< 2. 大相国寺の地図 >
右上: 百度地図から。
左側で上下(南北)に細長いのが大相国寺の境内です。
右上の少し離れた所に鼓楼広場があります。
散策は南側の山門Sから入り、ほぼ赤線の通りに真ん中を進み、左に折れて、出口Eから出ました。
他に出入り口は無いように思います。
右下: 寺にあった配置図。
SとEは同じで、途中、右側の鼓楼に寄っています。
< 3.山門と広場 >
上: 山門。
下: 山門側から南側を望む。
延慶観からここまではタクシーを使いました。
こちらは観光客が多かった。
< 4. 菊が綺麗でした >
開封では例年この時期に菊花展が行われます。
多くの観光地では菊が盛大に飾られていました。
< 5. 鼓楼 >
上: 外観。
下: 1階の入った正面にある像。
地蔵王菩薩と記されているが、冠にはチベット仏教の様式が伺える。
この寺を復興した清の皇帝はチベット仏教を推進していた。
< 6. 天王殿 >
上: 外観。
下: 内部の像。
中央に1体、それを囲む4体の像は四天王像のようだが、所持品が異なるので、日本でおなじみの組み合わせ(持国天、増長天、広目天、多聞天)と異なるようです。
通常、四天王像は山門と本殿の間にあります。
北宋の時代、北方の遼の像や四川省の石窟では日本人好みの尊さや思慮深さを感じさせる仏像が造られていたが、ここで見るものはかなり作風が異なり、粗雑な感じさえする。
これらは寺が復興された後、ここ三百年以内に造られたものでしょう。
韓国の比較的新しい四天王像の顔もこれらに似ていたように思う。
なぜこのように凡庸な姿になってしまったのか。
中国の仏像彫刻が日本に影響を与え、また素晴らしく感じられるのは概ね唐代まででしょう。
中国の宗教としては仏教熱は唐代までで、やはり儒教が中心で、そして道教が勢い付き、仏教は衰退していった。
権力者の庇護がなくなり、仏師の技術が衰え、制作費も乏しかったのだろう。
さらに仏教は道教などと混淆し世俗化して行く中で、仏像の顔は崇高なものから親しみ易いものになったのだろう。
不思議なことに、韓国でも中国でも日本に馴染みのある端麗な顔の仏画が残されているのだが。
この謎はまだ解けない。
< 7. 大雄宝殿 >
上: 外観。
下: 中国式の太くて長い線香。
ほとんどは観光客だが、数本の線香を捧げて黙々と祈願している女性がいた。
黄色い服を着ているのは僧侶か、寺の使用人のようです。
< 8. 大雄宝殿の三世仏 >
上: 三世仏。
仏像三体の組み合わせで、仏様の過去・現在・未来を表す。
中央は釈迦如来で左右に薬師如来、阿弥陀如来だそうです。
下: 三世仏の裏側。
日本やタイなどの仏像(光背)の裏側に多くの小さな仏像が集められていることがあるが、ここでは派手に飾らている。
ここでも祈りを捧げている人がいた。
< 9. 羅漢堂 >
上: 外観。
有名な千手観音が見られる堂です。
中央に千手観音がある八角堂があり、それを囲むように別棟の八角形の回廊があり、中に五百羅漢像が並べられている。
< 10. 千手観音と羅漢像 >
上: 千手観音。
同じ形をした4面の千手観音からなる。
銀杏の一木彫りで、高さ7m、金箔貼りの像です。
18世紀、復興後の作品です。
下: 回廊の羅漢像。
< 11. 蔵経楼と資聖閣 >
上: 手前が蔵経楼で、奥の高い塔が資聖閣です。
下: 蔵経楼内部の像。
中国で玉の像を見かけることはあるが、緑色をした像はタイで見かける様式でした。
< 12. 出口に戻る >
上: 蔵経楼の前を振り返る。
下: 出口に向かう途中で、振り返ると資聖閣が見えた。
想像していたものより大きな境内でした。
宋時代の面影がほとんど無いのは残念ですが、中国では古い物が完全に残っていることは稀なので仕方ない。
それでも多くの仏像や、三百年前の姿を見れたことは有難い。
開封府のテーマパークよりは、少しは本当の歴史に触れられた気がする。
次回に続きます。