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今日はシグツーナの後半です。
ここにはヴァイキング時代を偲ばせる遺跡があります。
少しヴァイキング時代に思いを馳せます。
< 2.散策ルート、上が北 >
今回紹介するのは黄線のF、G,H,Iです。
この道の北側がヴァイキング時代の王都の中心地だったところです。
< 3. 教会跡、Sankt Pers kyrkoruin >
上の写真: 南北に延びる広い道を少し上ると左手の木立の中に石積みの廃墟が見えた
下の写真: それが教会跡、Sankt Pers kyrkoruinです。
この建物は1100年頃に建設された。
< 4. 教会跡、Sankt Pers kyrkoruin >
倒壊の危険があるため柵で囲まれ、入ることが出来ない。
地図のBの位置。
実は、ここで私は自らトラブルを引き起こしてしまった。
林に入り、遺跡の写真を撮っていると、奥から子供たちの笑い声が聞こえて来ました。
そこには小学校の校庭があり、多くの子供達が楽しそうに遊んでいました。
私は校庭の様子、遊ぶ子供達を撮り始めました。
すると離れた校舎から二人の女性が猛烈な勢いでこちらに走って来るのが見えました。
彼女達は厳しい口調で、写真を消せと攻め立てました。
彼女らは私の横に立ち、子供達が写っている写真が消されていくのを一枚一枚確認し続けました。
私は焦り、幾度もミスをしながらやっと作業を終えました。
この時、彼女達の厳しい口調は消えていました。
恥ずかしさと口惜しさが込み上げて来ましたが、私が言えるのは「サンキュー」だけでした。
子供の写真を無許可で撮ることは北欧では不可です。
< 5. 住宅街 >
地図の黄線のFからHの間。
上の写真: 教会跡の近く。
下の写真: 前回紹介したタウンストリートStora gatan側(湖側)を見ている。
< 6.二つの教会跡 >
上の写真: Sankt Lars kyrkoruin、地図のG。
この建物も1100年代に建設された。
下の写真: Sankt Olofs kyrkoruin、地図のI。
この建物の建築は12世紀前半に始まりました。
周囲はお墓で、同じ敷地内にSankt Mariakyrkanがあります。
< 7. Sankt Mariakyrkan >
地図のIの右側(東側)。
この教会は1230年代に建築が始まった。
* シグツーナの歴史
シグツーナの歴史はスウェーデン・ヴァイキングの歴史でもあります。
< 8. ルーン石碑 >
地図のH、Sankt Lars kyrkoruinの前に二つありました。
シグツーナの石碑は11世紀後半に造られた。
これら石碑には模様と共に、ルーン文字で故人の事績が刻まれている。
元々、文字は赤色に着色されていた。
ルーン文字はゲルマン民族の古代文字から派生したもので、北欧ではアルファベットが24から16文字になり、刻印し易い直線的な文字になった。
北欧では口頭伝承が重視されていたので、ヴァイキング時代の文字はこれら石碑に残るだけとなった。
やがてキリスト教が浸透するとラテン語が普及しルーン文字は廃れた。
したがってヴァイキング時代の歴史は、ヴァイキング時代(800-1050年)が終わってから書かれた叙事詩サガ(12-13世紀)などから知ることになる。
左上の石碑: U390の碑文はSven と Ulv の二人男の鎮魂の為に建てられたようです。
興味深いのは、この碑を建てたUlvの妻Frödisは、赤毛のエリックErik the Redの娘だと言うことです。
この赤毛のエリック(ヴァイキング時代の950年頃-1003年頃)はノルウェー人でアイスランドに入植し、さらにグリーンランドを発見している。
さらに彼の息子Leif Eriksonが1000年頃に北米大陸を発見しVinlandと名付け、上陸している(入植は失敗)。
なんと彼女もこの北米の地の探検隊に参加したとサガに書かれており、親子揃って旺盛な冒険心を持っていることに驚かされます。
また彼女がスウェーデンのこの地に碑を建てていることに、ヴァイキングの行動範囲の広大さがわかります。
下の地図: Erik the RedとLeif Eriksonの航路がわかります。
渡海した船は当然、ヴァイキングの船(約40~80人乗りのオールと帆柱付き)でした。
ノルウェーから北米大陸のVinlandまで直線距離で40万kmはあり、彼女は北海を往復して、さらにシグツーナまで来ているのです。
< 9. ルーン石碑の分布 >
スカンディナヴィアでは、およそ6千のルーン石碑が見つかっているが、そのうち3千はスウェーデンで発見されている。
上の地図: スカンディナヴィア全体のルーン石碑分布。
赤の部分が石碑の多い所で、ここがヴァイキング時代に栄えていた地域となる。
下の地図: シグツーナのルーン石碑分布。
私が見たのは二つに過ぎない。
このルーン石碑の密集しているところが、ヴァイキング時代の中心地だった。
< 10. ヴァイキング時代に栄えていた町 >
上の地図: スカンディナヴィア全体図。
スウェーデン・ヴァイキングの初期の中心地はバルト海に浮かぶ島ゴットランド(右下)のVisbyとメーラレン湖のBirkaでした。
やがてメーラレン湖で王権が誕生し、11世紀初めに三代目の王オーロフ・シュートコーヌングOlof Skötkonungがシグツーナに拠点を移した。
彼はキリスト教の洗礼を受けたスウェーデン最初の王でした。
それまでは異教が崇拝され、異教の寺院が各地に建っていた。
こうしてこの小さな町に7つのキリスト教会が建つことになったのです。
しかし1世紀もすると拠点は北部のウプサラ Uppsala(かつて異教の聖地)に移り、さらに13世紀半ば以降はストックホルムが中心地となった。
下の地図: メーラレン湖。
この湖は海上交易に有利だった。
ストックホルムが栄えるのはヴァイキング時代が終わり、ハンザ同盟の活躍でバルト海の交易が盛んになり、ここが同盟都市となってからです。
< 11. シグツーナの再現 >
上の図: 王都シグツーナの様子。上が北。
ドットの範囲が当時の中心地。
今の湖岸のラインはヴァイキング時代より後退しており、水深は浅くなっている。
これは当時が温暖期にあたり、また氷河期終了後から続いている大地の上昇によるものです。
この面積から察すると、王都の人口は多くて1~2千人に過ぎなかったでしょう。
シグツーナはこの王都になった1世紀以内に、東方のヴァイキングにより破壊され焼失の憂き目に合っています。
下の図: ヴァイキングの町ビルカの再現模型。
ビルカも島の湖畔の一角に出来た町で、おそらくシグツーナもこのようだったのでしょう。
< 12. シグツーナ >
左上の絵: 王都の再現図。
図11の上の図のドット範囲を東側から見ている。
右上の写真: 発掘された人形頭部。
ヴァイキングの兜を被っている。
下の写真: スウェーデンで最初に発行された硬貨。
王オーロフによって995年、シグツーナで造られた。
硬貨にはラテン文字でオーロフ王と書かれている。
貨幣経済は遅れていたが、以前、硬貨はイスラム圏や西欧から入手していた。
次回に続きます。