20171201

フランスを巡って 47: シャルトル 1



*1


今日は、シャルトルの町と大聖堂の外観を紹介します。
この大聖堂は初期ゴシック建築とステンドグラスの青色で有名です。
この日も、快晴で爽やかな観光になりました。


 
< 2. 地図、上が北 >

上の地図: 赤丸のシャルトルはパリの西90kmのところにあり、途中にベルサイユがあります。
シャルトルの南にはロワール川沿いの都市オルレアンがあります。
シャルトルの人口は4万人と大きくはなく、広大な麦畑の中に浮かぶ島のような都市です。

下の衛星写真: 私達は街の中央広場でバスを降り、S点から徒歩で大聖堂を見学して、また戻りました。


 
< 3. ゴシック大聖堂の由来 >

上の地図: ゴシック建築が始まる当時のフランス(カペー朝)領土の変遷図。
カペー朝の領土は青、英国系は赤。
赤丸がシャルトル、茶色丸がパリ。

下の絵 : ゴシック建築とその前のロマネスク建築の特徴を示す。


私は以前から、ゴシック建築がなぜこの地で花開いたかのが気になっていました。
その経緯を簡単にまとめておきます。

ゴシック建築は、パリ北側の郊外にあるサン・ドニ王室修道院聖堂の1136年からの部分的改築に始まった。
ここは歴代フランス君主の墓所でした。

これに続いて、シャルトルのノートルダム大聖堂(マリアに捧げれらた)は、サン・ドニに続いて1145年から建築が始まった。
しかし途中の大火災で西側正面を残して全焼し、1194~1220年に再建が成った。
この大聖堂は現存する初期ゴシック建築物で最古であり最上級の建築になる。
その後、この建築様式はフランス全土からヨーロッパに広まり、ルネサンス期まで続いた。

それではなぜこの地にゴシック建築が花開いたのか?

フランク王国が三つに分裂して出来た西フランク王国も987年に断絶し、その後、カペー朝がフランス王家を継承し14世紀まで続いた。
このカペー朝は設立当初、権力基盤が弱く、パリ周辺のみ(左地図の青部分)を領有するだけであった。

しかしカペー朝は周辺の教会勢力(司教座)を支配下に置いており、特にサン・ドニ修道院の修道院長シュジェールがこの王朝の伸張に尽力することになった。
この修道院長がサン・ドニ修道院の内陣(祭祀の中心的な場所)と周歩廊を画期的な空間へと改造し、これがゴシック建築の緒となった。
彼の指示によって。ロマネスクの重厚で狭く暗い部屋は、神の光が差す温かみのある空間へと変貌した。
そしてこの修道院長の友人であったシャルトルの司教は大聖堂をゴシック様式で建築した。

つまり成長期にあった王朝とキリスト教会が一緒になってフランスを盛り上げる為に、神の国の新しい教会を体現したと言えそうです。


 
< 4.広場で >


 
< 5.広場から大聖堂へ >

 
< 6. 大聖堂 >

左下の写真: 西正面の左の塔にはゴシック建築の美しさがある。
右下の写真: この像は焼け残ったことによりゴシック最初期の作品となった。
これらはロマネスクの像に比べ、写実的になりつつある。


 
< 7. 西正面(ファサード) >


 
*8.



 
< 9. 大聖堂周辺の街並み >


 
< 10. シャルトルの町 >

次回に続きます。



20171121

フランスを巡って 46: シャルトルへ





*1


今日は最後の宿泊地パリを目指し、途中、シャルトルの大聖堂を訪問します。
ロワール渓谷からイル・ド・フランスの大穀倉地帯に入って行きます。
この日も快晴でした。



 

< 2. バス走行ルート >

旅行日10日目、2017年5月26日(金)、朝8時にホテルを出発し、シャルトルの町に到着したのは午前10時過ぎでした。

今回紹介する写真にはロワール渓谷のものはなく、出発後1時間を経たボース平野を抜け、シャルトルの町に入った写真です。


 

< 3.静寂に包まれたトゥールの町 >

朝8時、ホテルをツアーバスで出発した。


 

< 4. ボース平野 >

出発後1時間を経る頃には起伏の残る平野から、只々広大な平野が広がっていました。


 

*5


 
*6


 

< 7. シャルトルの町 >

シャルトルの町に入って来ました。
かわいい家並みが続きます。



 
*8

 
< 9. シャルトルの中央広場に到着 >

次回に続きます。



20171115

何か変ですよ! 84: 何が問題か? 7



*1


前回、今の若者の政治意識とその背景について語りました。
しかし、その説明は不完全で、中途で終わっていました。
今回は、この補足と右翼化について考察します。


はじめに
今の若者の政治意識には無関心か右翼化が顕著です。

この無関心の理由として、私は先進国に共通している政治への不信感(無党派層)の増大を挙げました。
当然、日本は戦後、欧米と併進して来たのですから免れることは出来ません。

さらに日本に顕著な若者の人口比率の低下が、政治意識の低迷を招いていると指摘しました。
この影響の逆の証左として、団塊の世代による学生運動を例示しました。
この学生運動に懲りた政府は学校教育において生徒の目を政治から逸らすようにして来ました。
これが他の先進国に比べ政治への無関心を増長させた。

以上が、前回の要点です。

ただ、前回の説明で分かり難いのは、途中に非正規雇用の問題を入れた事かもしれません。
今の若者は他人から自身の政治意識が低いと言われてもピンと来ないでしょう。
そこで、あなた方の未来はかつてないほど悲惨であることを例示して、この状況においても今の政治に異論を唱えないのは政治意識が低いことになると知って欲しかった。

しかし、右翼化の説明を前回行っていませんでした。


 
*2


右翼化している実感はあるのか?
最初に日本のみならず世界が右翼化していることを確認します。

当然ですが、多くの右翼化している人々にとって自身は正常であり、偏っていないと思われているはずです。
一部の人は、これを認識しているか、確たる信念をお持ちのことだと思います。
これは左翼化も同じですが、今は世界が右翼化しています。

世界の右翼化とは、とりあえず愛国主義(自民族優先)、さらには強権(武力も含む)による排他主義の横行と言えます。
これは欧州での右翼政党の台頭、そして米国のトランプ大統領、日本の安倍首相の誕生の経緯や言動から明瞭です。
そして、この三つの現象は呼応するように起きました。
当然、右翼政党の党首とこれら首相や大統領は非常に気が合い、当然、オバマやメルケルとは合わない。

彼らの発言の「イスラム教徒を追い出そう」と「メキシコ人は強姦犯だ」が人気を博するのは社会が右翼化しているからです。
首相の国連演説での「多くの日本人が北朝鮮に拉致されたまま」と「私の討論をただ一点、北朝鮮に関して集中せざるを得ません」も同様の効果があります。
もっとも、この発言をそう理解しない人もいるはずです。

それではなぜ世界も日本も右翼化してしまったのでしょうか?


 
*3


なぜ世界は右翼化したのか?
この背景は複雑ですが、世界を見渡すと、ここ30年ほど大きな戦争は無いが、至るところで紛争が多発し、長期化するようになりました。
その結果、難民が増大し、これがまた対立を招いています。
これが欧米の右傾化に関わっている。

実は、このことを的確に指摘していた人物がいた。
サミュエル・P・ハンティントンは1996年の著書「文明の衝突」で、今後世界は文明間で紛争を激化させるとした。
この本は世界の右傾化の背景、つまり文明や宗教間の対立が深まる経緯をうまく説明しています。

「文明の衝突」のポイントを要約しておきます。
1.20世紀前半に、多くの国が西欧の植民地支配から脱し、これらの国は低迷や成長を経験した。

2.グローバル化によって異文明間で深い接触が起こり、拒否反応が現れた。

3.イスラムの人口増加が他の文明を凌ぎ、また若者人口も増え、社会は熱気を帯び、前述の要因も加わり自文明への自覚が深まり、1980年代より宗教復興運動がイスラム圏で起こった。

4.紛争が起きると世界の同一宗教圏から義勇兵と兵器、資金が紛争当事者に送られ紛争が拡大し長期化するようになった。これを可能にしたのもグローバル化です。

5.冷戦終了(1989年)により、イデオロギー対立は紛争の原因で無くなった。

6.アフガニスタン戦争でのソ連軍撤退(1989年)が、ムスリムの団結(義勇軍派遣など)が勝利を生むとの確信をイスラム圏に与えた。
 
7.紛争への肩入れはどの宗教圏(キリスト教、ユダヤ教など)も行っているが、イスラム圏は石油産出などで経済力をつけ、紛争への援助が潤沢になった。

8.紛争を多発させる要因として、西欧のキリスト教圏とかつての植民地のイスラム圏の怨念があり、さらに米国の度重なる軍事介入(湾岸、イラクなど)が憎しみを増大させた。

9.紛争を長引かせる要因として、イスラム圏には調停を主導出来る覇権国がないことがある。他の宗教圏ではヒンドゥー教のインド、正教会のロシア、キリスト教の一体化した欧米がその役割を担う。
 
これらが世界各地に紛争を多発させ社会経済を疲弊させ難民を増やし、その結果、欧州国内に排他的なムード(右傾化)をもたらした。



 
*4


さらに一歩踏み込んで
米国や日本、中国の右傾化には上記とは異なる要因も働いています。

米国は著しい経済格差が国内の分断を招いています。
経済大国になった中国は、資源確保などもあり覇権を目指し右傾化を強めることになった。
日本は、東アジアの周辺諸国の台頭と米国の軍事戦略の一環で右傾化しています。
ハンチントンはその著書で、米国は日本の中国寄りを阻止することが必要だと説いている。
日本は1世紀前から世界の最強国、英国に始まりドイツ、米国へといとも簡単に宗旨替えを行って来た。

これらが加わり、徐々に対立を煽り煽られて右傾化した世界にあって日本も右傾化を強めることになった。
そして日本の若者の一部が右傾化に強く染まっていったのです。
保守化(体制維持)するのはどちらかと言えば高齢者に多いが、愛国主義から強く排他的になるのは若者に多くなる。


 
*5


最後に
私はハンチントンの説を全面的に肯定しませんが、その著書の500頁に及ぶ洞察力と論理展開には驚嘆しました。

彼の説で気になることを数点挙げておきます。
一つは、「文明の衝突」が各宗教圏の対立に起因すると言う説明が弱いように思う。
その論拠は実際の戦闘集団の対立関係から推測出来るのですが、さらに社会学的、宗教心理学的、経済的な分析が欲しかった。

今一つは、論述の多くは戦争の開始と拡大に重点があり、仲裁関係の記述が少ないことです。
実際、著者が言うように終息を迎えた紛争は少ないのだが。
これは平和解決学の視点が弱く、戦争と外交の分析としては偏っているように思う。

しかし著者が唱える「文明の衝突」を回避する手段には重要なものがある。

一つ目は、米国が他国の紛争に軍事介入しない事。
二つ目は、紛争の調停をスムーズにする為に、イスラム圏の代表国を安保理の理事国などに加えることです(主要国による任期制の交代)。


 
*6


次回に続きます。





20171114

フランスを巡って 45: トゥールへ





*1


今日は、シャンボール城を出て、ホテルがあるトゥールまでの眺めを紹介します。
この日はキリスト昇天祭の休日で、ロワール川で憩う市民の姿が印象的でした。
撮影したのは2017年5月25日の17時から20時までと、翌朝の朝6時台です。


 

< 2.バスのルートとトゥールの地図、上が北です >
上の地図: シャンボール城からトゥールまでのバスのルート。
ほとんどロワール川沿いを走りました。

下の衛星写真: HはホテルH、Sは市庁舎、Rは夕食のレストランを示しています。
レストランはメインストリートにあり、またホテルの直ぐ隣が鉄道駅です。
さらに北側にロワール川が流れています。


 

< 3. シャンボール城付近の村 >


 
*4

 

< 5. ロワール川1 >

上と下の写真: 自然豊かな堤や河川敷に多くの車が見えます。


 
< 6. ロワール川2 >

中央の写真: 川遊びをしているようだが、何をしているかは分からない。

下の写真: 河原でくつろぐ人々とキャンピングカーが見える。
フランスの至る所で、走っているキャンピングカーや何十台も駐車しているキャンピングカーを見た。
羨ましい限りです。


 

< 7. ロワール川3 >

家族で楽しんでいるサイクリングを見ました。


 

< 8. ロワール川4 >

上と中央の写真: 河原の砂地や林で、たくさんの家族で休日を楽しんでいた。


 

< 9. トゥールに到着 >

上の写真: 右手中央が鉄道駅、左側にホテルが見える。

下の写真: 左手中央が市庁舎です。


 

< 10. 市庁舎前のメインストリート >

上の写真: メインストリートの街路樹の下に設けられたレストランのテラス席。
地図のRです。
私達はこの一角で夕食をとりました。



 

< 11. 鉄道駅1 >

翌朝、朝6時台に訪れました。



 

< 12. 鉄道駅2 >

下の写真: 1台のピアノが置いてありました。
旅の思い出に弾けたらどんなに良いだろう・・・
まったく弾けないのが残念です。


 

< 13. 鉄道駅3 >


次回に続きます。