20170716

何か変ですよ! 63: 近視眼的





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今、行われている施策が如何に近視眼的な術かを見ます。
これらは愚策ではあるが、繰り返される故に一層悲しい。


はじめに
ふるさと納税や核兵器禁止条約反対、気候変動取り組みのパリ協定離脱には共通するものがある。
これらは疑わない人々にとって喜ばしいことかもしれない。

実は、これらに共通するものがある。
これら施策は人々に手っ取り早く利益や安心、繁栄をもたらすと思わせる効果がある。
ほんとうにそうだろうか?


 
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*ふるさと納税
今、凄い勢いで寄付額が増えています。
2015年の寄付総額1700億円で、ここ数年は毎年3から4倍と加速度的に増大しています。
この理由は、この制度に高額所得者優遇の構造があるからです。

これを放置すれば、数年後には総額数兆円を越え、景気刺激策として良策ではない上に二つの問題を引き起こします。

一番の問題は、この寄付が高額所得者の消費増大ではなく節税策として使われ、その不足分を国民が広く負担しなければならいことにあります。
言い換えれば、唯でさえ税収が少ないのに、高額所得者の贅沢品(返礼品)購入費を皆の税金で補填し、税金が必要な所に届かないことです。
もう一つは、確実にゆっくり進む格差拡大です。

残念ながら、多くの人は気づかないままです。

この悪弊は高率の返礼品と節税効果(寄付)のセットにあります。
どちらかが無くなれば、弊害は無くなるのですが。

この問題のポイントは、一見、即効性のある経済浮揚策に見えるものの、効果は薄く、長期的には社会に歪をもたらすことです。
実は、この手の施策は日本、特に米国で半世紀の間にわたり積み重ねられ、これが今回のトランプを生んだ一つの要因になっています(注釈1)。


 
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*核兵器禁止条約の不参加
核兵器禁止条約は、核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関するものです。
この条約は2017年7月7日、国連で122ヵ国により採択された。
核保有国やそれに連なる38ヵ国が反対し、16ヵ国が棄権している。
当然、日本政府は米国の核の傘に入っているので反対した。

これに対する主な意見。
米国の核兵器によって日本が守られている以上、米国を裏切ることは出来ない。
唯一の被爆国が、核兵器廃絶への道を主導するどころか、裏切っている。
核保有国が参加していない条約なんか実効性がない。

例えれば、この条約は強盗団が銃放棄を拒否しているのに、一般の人が率先して銃の不使用を宣言しているようなものです。
それなのになぜ、多数の国がこの無謀で無益と思える条約に尽力したのでしょうか?
彼らは、なぜ日本のように全人類の数倍を瞬時に抹殺できる最強の核兵器で守ってもらうことを考えないのでしょうか?(笑い)

だが、一方で不安もある。
核拡散防止条約(核保有を5ヶ国に限る条約、1968年発行)以来、核保有国は9ヶ国になり、更に増えるでしょう。
米国の核兵器で、北朝鮮の核攻撃から日本を守れるでしょうか?
守ってくれるのは迎撃ミサイルなどであって核兵器ではない。
もし核兵器に抑止力が期待出来るとするなら、米国内の銃所持は抑止力とならず、なぜ殺人の増大を招いているのでしょうか?
北朝鮮はこの条約に賛成しており、まさに張本人が抑止力を否定している。
まさに軍拡競争への皮肉です。

こうしてみると、現状を放置することは核戦争の危機を一層の深めることになると考える国があっても不思議ではない。
彼らは最強の核兵器で守られることよりも、最悪の核兵器を無くすことで、人類の安全を守ろうしたのです。
それでもなぜ核保有国などの参加が見込めない条約を成立させようとしたのでしょうか?

歴史にヒントがあります。
第二次世界大戦後の国連憲章制定時、米ソの離脱を引き留める為に、悪弊が予想された集団安全保障と拒否権の採用に多くの中小国は妥協しなければなりませんでした。
その結果、機能しない国連になったと言えるでしょう。
もっとも、米ソの離脱の方がさらに悪い結果を招いた可能性はある。
その点、今回の核兵器禁止条約ではそのようなことにならない(注釈2)。

この122ヶ国の行為、多数の中小国が大国に「ノー」を突き付けたことは、歴史上の画期と言えるでしょう。
私は、これに人類が憲法を生み出した契機となった1215年の英国でのマグナカルタを想起する。
これはほんの一歩に過ぎないが、こうして人類はより民主的な社会を推し進めてきたのです。

現状維持では改善を望めない状況で、とりあえず米国追従で条約反対に回った日本の行為は、世界が団結して平和を掴む気運を削いでしまった。
日本は唯一の被爆国なのだから、なおさらです。

この問題のポイントは、一見、平和の為と映るものの、むしろ不安要因を増大させ、さらには平和と世界の協同化を後退させていることです。


 
*4


*気候変動取り組みのパリ協定離脱
これはいつか来た道であり、また始まったのか大国のエゴと言わざるを得ない。

「米国と市民を守るという重大な義務を果たすため」
「我々は、よその指導者や国にもう笑われたくない」
「私はパリではなくピッツバーグの市民を代表するために選ばれた」
「パリ協定によって米国は国内総生産(GDP)3兆円と650万人の雇用を失う」

これはパリ協定離脱時のどこかの大統領の発言です。
この発言には、前回見た視野の狭さと狭い仲間意識が露骨に表れています。

南太平洋の島々の水没、南極やアルプスの氷河の融解は現実です。
例えば、30年後に地球の温暖化を認めてから、クーラーで地球を冷房しようとでも言うのでしょうか?
またパリ協定に合意した197ヶ国は自国の経済や雇用への影響を無視したのでしょうか?
日本を考えれば、一部の産業にデメリットはあっても全体では乗り越えて来たことがわかります。

かつての大統領や議会も自国の産業、石油・石炭産業を守る為に批准しなかったことがあった。
選挙での人気取りの為とは言え、欧米が身勝手な論拠を振りかざして大国のエゴを剥き出しにすることは今に始まった事ではないが、今の米国は世界一の経済大国だけに影響が甚大です。
単に協力しないと言うより、世界を苦境に陥れるものです。


この問題のポイントは、一見、雇用の為と見せかけるものの、実際は一部産業の保護でしかなく、世界を取返しのつつない危機へと陥れる軽挙妄動にすぎないのです。


おわりに
実に残念なことなのですが、これらの施策は国民に絶大な人気を博した国のトップが推し進めて来たことなのです。

それでは、事が失敗すれば、誰が責任を取るのでしょうか?
国のトップの軽挙妄動を断罪するのですか?
それともトップを信じた国民が断罪されるべきなのでしょうか?


皆さんならどうしますか?



注意1
米国で景気浮揚策と謳われ、半世紀の間に積み上げられた施策―金融規制緩和、課税の累進性排除、セーフティーネットの停滞、により格差が拡大し、白人労働者の状況が悪化した。
これがすべての原因ではなく、欧米先進国が共に進めて来た一連の施策の結果と言える、ただ米国が主導して来たとは言える。
これが今回の大統領選でのポピュリズムの台頭に繋がった。

日本も遅ればせながら歩調を合わせていたが、今や加速度的に追従している。


注釈2
この条約は既にある核拡散防止条約に影響を及ぼさず、また平和のための原子力を放棄している訳では無い。


20170715

フランスを巡って 24: 可愛い町、コルマール



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今回は、アルザスワインの産地の中央に位置するコルマールを訪れ、木骨組み家屋の街並みを楽しみます。
ここはストラスブールから南に70kmの所にあり、ヴォージュ山脈の麓にあります。
訪問したのは、旅行6日目、5月22日(月)、11:30~13:40です。
この日も快晴に恵まれました。


 

< 2.コルマールでの徒歩観光ルート、上が真北です >

写真下側の橋のSから観光を始め、黄線の道を上側のレストランRまで行きました。
このレストランで昼食をとり、次の観光地へと移動しました。
番号1~12は写真で紹介するスポットです。


 

< 3.バスから見たコルマール >

バスで郊外からコルマールの中心部に入って行った時の車窓からの眺め。

下の写真: Place Rapp
フランス革命で活躍したコルマール生まれの軍人Rappの像が立っている。


 

< 4. プチットベニス >

上と下左の写真: 地図番号1。
小舟の遊覧船が発着していた。




 
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< 6. 運河沿い >

下の写真: 地図番号2。
右手の建物は市場ですが、この時は閉まっていた。


 

< 7.旧税関 >

上の写真: 15世紀に建てられた旧税関。
シュウェンデイの噴水の広場に面している。
屋根にはボーヌで見た釉薬瓦による模様が見られるが、こちらはアルザスの鱗状瓦です。

下の写真: シュウェンデイの噴水。地図番号3.
シュウェンディは、神聖ローマ帝国の将軍で、像の右手に掲げるのはぶどうの苗木。この像はコルマール出身で自由の女神の作者、バルトルディが製作したものです。


 
< 8. バルトルディ美術館 >

左上の写真: バルトルディ美術館。地図番号6.

右上の写真: コルマールの入口のラウンドアバウト(環状交差点)に立っている自由の女神。

左下の写真: 通りで見かけた店舗の飾りつけ。

右下の写真: 店の看板。地図番号10.
アルザス地方(コルマール、リクヴィルなど)の多くの店にこのような看板が架かっている。
これはコルマール生まれの絵本作家アンシの絵です。





 

< 9. 商人通り >

上の写真: 旧税関建物をくぐり抜けたら直ぐ見える商人通りの建物。
地図番号4.

左下の写真: 15世紀のプフィスタの家。地図番号5.

右下の写真: 13世紀のドミニカン教会。地図番号8.


 

< 10. サン・マルタン大聖堂 >

上の写真: 13世紀のサン・マルタン大聖堂。
これはゴシック建築で、建築は1234年に始まり1365年に完成している。

ところでコルマールも1226年に自由都市になっている。
つまり、この大聖堂の建設は自由都市になってから始めたことになる。
ストラスブールの大聖堂に比べ、これは建築工期が半分で規模も小さい。
両都市を見て、大聖堂のある広場が共に小さいことがわかる。
これは自由都市が、聖域としての広場を重視しなくなったからかもしれない。

下の写真: 通りの左側の手前近くに三階建てのアンシ博物館が見える。


 
*11

上の写真: Têtes 通りの商人の家。地図番号10.

下の写真: 元修道院で現在は美術館。地図番号11.
私は修道院が人里離れた所に建てられるものと思っていたが、修道会によっては村や町に造られ、地域の発展と共にあったのだろう。


 

< 12. 運河、地図番号12. >

上の写真: 遠くに大聖堂の尖塔が見える。


 

< 13. レストラン >

上の写真: 中央の3階建の建物が昼食を食べたレストランです。
コルマール観光はここで終えて、食事後、駐車場まで行き、バスで次のリクヴィルに向かった。

下の写真: レストランに置かれていたアンシの絵皿。


次回に続きます。


20170713

フランスを巡って 23: ストラスブール旧市街2





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今回はストラスブールの旧市街観光の後半、主に大聖堂を紹介します。
この大聖堂の建築には市民の篤き思いが込められていた。




< 2. ノートルダム大聖堂 >

高さが142mもあり、前の広場が狭いので、離れた通りの間からしか全高が写せない。






< 3. 正面 >

聞きしに勝る高い尖塔です。
赤い砂岩が使われているので、独特の雰囲気がある。
ゴシック建築の特徴が良く表れている。

下の写真: 中央の入口。



< 4. 正面中央入口の彫刻 >

正面中央の入口の彫刻。
無数の彫刻で埋め尽くされている。

上の写真: 中央入口扉の直ぐ上の彫刻。
キリストの生涯が描かれている。

下の写真: 中央入口の右側の彫刻。



< 5. 内部 1 >

上の写真: 身廊の入口側から内陣側を見ている。
下の写真: 側面。
側廊の壁はステンドグラスで埋め尽くされている。




< 6. 内部 2 >

左上の写真: 正面入口の上にバラ窓が見える。

右上の写真: 身廊の内陣側(聖域側)を見ている。

左下の写真: 側廊を見ている。

右下の写真: ロマネスク様式のクワイヤ(聖域の前部)





< 7. 天文時計 >

左上の写真: 大オルガン。

右上の写真: 赤色が際立つステンドグラス。
大聖堂内のステンドグラスの多くは14世紀のものです。

下左の写真: 最後の審判の様子を表わした天使の柱。
最後の審判は教会でよく見るが、このようなものは珍しい。
この右に天文時計がある。

下右の写真: 高さ18mの天文時計。
毎日違った時刻に、様々な人形たちが生き生きとした動きをしながら時を告げる。
この時計は閏年などの天文データーを計算し、惑星の位置まで示す。
これは19世紀中頃のものだが、16世紀にも天文時計は作らており18世紀後半まで使われていた。




< 8. 正面右手の入口 >

左上の写真: 正面右手の入口の全景。

右上の写真: 尖塔の先。
八角形をした不思議な形をしている。

下の写真: 扉の左右8体の全身像の彫刻は聖書の「十人の処女のたちのたとえ」を表わしている。
右手が賢い女性で、左手が愚かな女性です。




< 9. ロアン宮 >

上の写真: 大聖堂側面を南側から望む。

下の写真: 大聖堂の南隣にあるロアン宮。
18世紀の司教の宮殿。
テラスの直ぐ前をイル川が流れる。




< 10. イル川  >

上の写真: イル川の桟橋。
下の写真: イル川に沿った通りの広場から大聖堂を望む。




< 11. イル川に架かる橋から >

上の写真: 下流(東側)を望む。
遊覧船がここから発着している。
左手直ぐ奥にロアン宮がある。

下の写真: 川の右手にあるのが14世紀に始まる税関倉庫。
12世紀にはストラスブールはヨーロッパの交易センターになり、この倉庫は18世紀末まで使われた。



ストラスブールとノートルダム大聖堂



< 12. 1000年頃の神聖ローマ帝国の領土, by wikimedia  >

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。




< 13. フランスの教会建築, by http://www.paradoxplace.com >

フランスの代表的な教会建築を示す。
色によって年代と様式がわかる素晴らしい図です。
赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。


ノートルダム大聖堂はストラスブールの市民が建てたと言える。

この大聖堂の高さ142mは1647年から1874年まで世界で最も高い建物でした(1647年に別の教会の高い尖塔が焼け落ちた為)。
これほど高い大聖堂が、なぜこの地に建ったのか?

この建物はロマネスク様式(注釈1)とゴシック様式(注釈2)が混在している。
これはこの建築が1176年に始まり、ようやく1439年に完成したことと関係する。

ゴシック様式の教会建築はフランスのパリ近郊で1140年代に始まり、瞬く間にフランス、次いで周辺諸国へと広がった。
それまではロマネスク様式でした。
一方、ストラスブールは17世紀末まで神聖ローマ帝国内にあって、着工時まだゴシック様式への関心が低く、建築はロマネスク様式で始まった。
しかし1220年、フランスのシャルトルの大聖堂がゴシック様式で再建が終了したことにより、1225年、ストラスブールは途中で建築方針を大転換した。

なぜ建築期間が263年もかかったのだろうか?
4世紀以来、ストラスブールに司教座がおかれ、この都市は司教と教会参事会(主に貴族)に支配されていた。
ところが、12世紀以降、都市が毛織物業と交易で発展すると商人らが力を持ち始めた。
ついに1262年、この都市はこれを弾圧しようとする司教の軍隊を破り、自由都市となった。注釈3.
こうして市民による市参事会がストラスブールを自治することになり、都市内の教会運営や大聖堂建築も継承することになった。

最初、大聖堂の建築は司教らが住民から税を取り立てて進められた。
途中から、ゴシック様式への変更があり、尖塔を高くすることが可能になった。
この後、ストラスブールの市民(商人やギルド)が資金を集めて、建築を続行し、それも最大高さを誇る大聖堂を目指した。
そして、3世紀の間、資金を集めては造り続け、ついに完成させた。
残念ながら、資金不足の為に、本来二つある尖塔が一つになったのだろう。



< 14. 15~16世紀のストラスブール >

上の図: 1493年当時のストラスブールの俯瞰図。
下の図: 1572年当時のストラスブールの城郭図。


この間にも戦争は度々起き、城郭を拡張整備しなければならなかった。
そして大聖堂が完成した次の16世紀にはドイツに始まる宗教戦争に巻き込まれ、17世紀末にはフランスの領土になった。

私が凄いと感じたのは、自らの都市の誇りの為に、莫大な経費と時間をかけてヨーロッパ随一の大聖堂を完成させたことです。
他の都市、特に自由都市でも同様なことが起こったことでしょう。
この気概、これほどの篤い信仰心は我々日本人には無いように思う。

もう一つ注目したいことは、この自由都市の発展が、政教分離の原型になっていることです。
既に、市民自らが相容れない聖職者(司祭)を追い出し、逆に意に沿った聖職者を教会に招聘していたことです。
このことが、16世紀に始まる宗教改革で、ストラスブールがプロテスタント改宗をスムーズに行えた理由の一つだろう。


次回に続きます。



注釈1
ロマネスク様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に半円アーチが使われ、壁に窓が少ない。

注釈2
ゴシック様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に尖頭アーチ、天井に交差した補強リブ、外壁に直行した支えの梁と壁が使われている。
これにより建物が非常に高く造れ、外壁に多くのステンドグラスを嵌め込むことが出来る。

注釈3
これら自由都市は、司教らの統制から逃れる為に、皇帝直属になった。
しかし、後に皇帝の権威低下により、独立性の高い都市になっていた。