20170715

フランスを巡って 24: 可愛い町、コルマール



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今回は、アルザスワインの産地の中央に位置するコルマールを訪れ、木骨組み家屋の街並みを楽しみます。
ここはストラスブールから南に70kmの所にあり、ヴォージュ山脈の麓にあります。
訪問したのは、旅行6日目、5月22日(月)、11:30~13:40です。
この日も快晴に恵まれました。


 

< 2.コルマールでの徒歩観光ルート、上が真北です >

写真下側の橋のSから観光を始め、黄線の道を上側のレストランRまで行きました。
このレストランで昼食をとり、次の観光地へと移動しました。
番号1~12は写真で紹介するスポットです。


 

< 3.バスから見たコルマール >

バスで郊外からコルマールの中心部に入って行った時の車窓からの眺め。

下の写真: Place Rapp
フランス革命で活躍したコルマール生まれの軍人Rappの像が立っている。


 

< 4. プチットベニス >

上と下左の写真: 地図番号1。
小舟の遊覧船が発着していた。




 
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< 6. 運河沿い >

下の写真: 地図番号2。
右手の建物は市場ですが、この時は閉まっていた。


 

< 7.旧税関 >

上の写真: 15世紀に建てられた旧税関。
シュウェンデイの噴水の広場に面している。
屋根にはボーヌで見た釉薬瓦による模様が見られるが、こちらはアルザスの鱗状瓦です。

下の写真: シュウェンデイの噴水。地図番号3.
シュウェンディは、神聖ローマ帝国の将軍で、像の右手に掲げるのはぶどうの苗木。この像はコルマール出身で自由の女神の作者、バルトルディが製作したものです。


 
< 8. バルトルディ美術館 >

左上の写真: バルトルディ美術館。地図番号6.

右上の写真: コルマールの入口のラウンドアバウト(環状交差点)に立っている自由の女神。

左下の写真: 通りで見かけた店舗の飾りつけ。

右下の写真: 店の看板。地図番号10.
アルザス地方(コルマール、リクヴィルなど)の多くの店にこのような看板が架かっている。
これはコルマール生まれの絵本作家アンシの絵です。





 

< 9. 商人通り >

上の写真: 旧税関建物をくぐり抜けたら直ぐ見える商人通りの建物。
地図番号4.

左下の写真: 15世紀のプフィスタの家。地図番号5.

右下の写真: 13世紀のドミニカン教会。地図番号8.


 

< 10. サン・マルタン大聖堂 >

上の写真: 13世紀のサン・マルタン大聖堂。
これはゴシック建築で、建築は1234年に始まり1365年に完成している。

ところでコルマールも1226年に自由都市になっている。
つまり、この大聖堂の建設は自由都市になってから始めたことになる。
ストラスブールの大聖堂に比べ、これは建築工期が半分で規模も小さい。
両都市を見て、大聖堂のある広場が共に小さいことがわかる。
これは自由都市が、聖域としての広場を重視しなくなったからかもしれない。

下の写真: 通りの左側の手前近くに三階建てのアンシ博物館が見える。


 
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上の写真: Têtes 通りの商人の家。地図番号10.

下の写真: 元修道院で現在は美術館。地図番号11.
私は修道院が人里離れた所に建てられるものと思っていたが、修道会によっては村や町に造られ、地域の発展と共にあったのだろう。


 

< 12. 運河、地図番号12. >

上の写真: 遠くに大聖堂の尖塔が見える。


 

< 13. レストラン >

上の写真: 中央の3階建の建物が昼食を食べたレストランです。
コルマール観光はここで終えて、食事後、駐車場まで行き、バスで次のリクヴィルに向かった。

下の写真: レストランに置かれていたアンシの絵皿。


次回に続きます。


20170713

フランスを巡って 23: ストラスブール旧市街2





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今回はストラスブールの旧市街観光の後半、主に大聖堂を紹介します。
この大聖堂の建築には市民の篤き思いが込められていた。




< 2. ノートルダム大聖堂 >

高さが142mもあり、前の広場が狭いので、離れた通りの間からしか全高が写せない。






< 3. 正面 >

聞きしに勝る高い尖塔です。
赤い砂岩が使われているので、独特の雰囲気がある。
ゴシック建築の特徴が良く表れている。

下の写真: 中央の入口。



< 4. 正面中央入口の彫刻 >

正面中央の入口の彫刻。
無数の彫刻で埋め尽くされている。

上の写真: 中央入口扉の直ぐ上の彫刻。
キリストの生涯が描かれている。

下の写真: 中央入口の右側の彫刻。



< 5. 内部 1 >

上の写真: 身廊の入口側から内陣側を見ている。
下の写真: 側面。
側廊の壁はステンドグラスで埋め尽くされている。




< 6. 内部 2 >

左上の写真: 正面入口の上にバラ窓が見える。

右上の写真: 身廊の内陣側(聖域側)を見ている。

左下の写真: 側廊を見ている。

右下の写真: ロマネスク様式のクワイヤ(聖域の前部)





< 7. 天文時計 >

左上の写真: 大オルガン。

右上の写真: 赤色が際立つステンドグラス。
大聖堂内のステンドグラスの多くは14世紀のものです。

下左の写真: 最後の審判の様子を表わした天使の柱。
最後の審判は教会でよく見るが、このようなものは珍しい。
この右に天文時計がある。

下右の写真: 高さ18mの天文時計。
毎日違った時刻に、様々な人形たちが生き生きとした動きをしながら時を告げる。
この時計は閏年などの天文データーを計算し、惑星の位置まで示す。
これは19世紀中頃のものだが、16世紀にも天文時計は作らており18世紀後半まで使われていた。




< 8. 正面右手の入口 >

左上の写真: 正面右手の入口の全景。

右上の写真: 尖塔の先。
八角形をした不思議な形をしている。

下の写真: 扉の左右8体の全身像の彫刻は聖書の「十人の処女のたちのたとえ」を表わしている。
右手が賢い女性で、左手が愚かな女性です。




< 9. ロアン宮 >

上の写真: 大聖堂側面を南側から望む。

下の写真: 大聖堂の南隣にあるロアン宮。
18世紀の司教の宮殿。
テラスの直ぐ前をイル川が流れる。




< 10. イル川  >

上の写真: イル川の桟橋。
下の写真: イル川に沿った通りの広場から大聖堂を望む。




< 11. イル川に架かる橋から >

上の写真: 下流(東側)を望む。
遊覧船がここから発着している。
左手直ぐ奥にロアン宮がある。

下の写真: 川の右手にあるのが14世紀に始まる税関倉庫。
12世紀にはストラスブールはヨーロッパの交易センターになり、この倉庫は18世紀末まで使われた。



ストラスブールとノートルダム大聖堂



< 12. 1000年頃の神聖ローマ帝国の領土, by wikimedia  >

赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。




< 13. フランスの教会建築, by http://www.paradoxplace.com >

フランスの代表的な教会建築を示す。
色によって年代と様式がわかる素晴らしい図です。
赤矢印はストラスブール、黒矢印はパリ、茶色矢印はシャルトルを示す。


ノートルダム大聖堂はストラスブールの市民が建てたと言える。

この大聖堂の高さ142mは1647年から1874年まで世界で最も高い建物でした(1647年に別の教会の高い尖塔が焼け落ちた為)。
これほど高い大聖堂が、なぜこの地に建ったのか?

この建物はロマネスク様式(注釈1)とゴシック様式(注釈2)が混在している。
これはこの建築が1176年に始まり、ようやく1439年に完成したことと関係する。

ゴシック様式の教会建築はフランスのパリ近郊で1140年代に始まり、瞬く間にフランス、次いで周辺諸国へと広がった。
それまではロマネスク様式でした。
一方、ストラスブールは17世紀末まで神聖ローマ帝国内にあって、着工時まだゴシック様式への関心が低く、建築はロマネスク様式で始まった。
しかし1220年、フランスのシャルトルの大聖堂がゴシック様式で再建が終了したことにより、1225年、ストラスブールは途中で建築方針を大転換した。

なぜ建築期間が263年もかかったのだろうか?
4世紀以来、ストラスブールに司教座がおかれ、この都市は司教と教会参事会(主に貴族)に支配されていた。
ところが、12世紀以降、都市が毛織物業と交易で発展すると商人らが力を持ち始めた。
ついに1262年、この都市はこれを弾圧しようとする司教の軍隊を破り、自由都市となった。注釈3.
こうして市民による市参事会がストラスブールを自治することになり、都市内の教会運営や大聖堂建築も継承することになった。

最初、大聖堂の建築は司教らが住民から税を取り立てて進められた。
途中から、ゴシック様式への変更があり、尖塔を高くすることが可能になった。
この後、ストラスブールの市民(商人やギルド)が資金を集めて、建築を続行し、それも最大高さを誇る大聖堂を目指した。
そして、3世紀の間、資金を集めては造り続け、ついに完成させた。
残念ながら、資金不足の為に、本来二つある尖塔が一つになったのだろう。



< 14. 15~16世紀のストラスブール >

上の図: 1493年当時のストラスブールの俯瞰図。
下の図: 1572年当時のストラスブールの城郭図。


この間にも戦争は度々起き、城郭を拡張整備しなければならなかった。
そして大聖堂が完成した次の16世紀にはドイツに始まる宗教戦争に巻き込まれ、17世紀末にはフランスの領土になった。

私が凄いと感じたのは、自らの都市の誇りの為に、莫大な経費と時間をかけてヨーロッパ随一の大聖堂を完成させたことです。
他の都市、特に自由都市でも同様なことが起こったことでしょう。
この気概、これほどの篤い信仰心は我々日本人には無いように思う。

もう一つ注目したいことは、この自由都市の発展が、政教分離の原型になっていることです。
既に、市民自らが相容れない聖職者(司祭)を追い出し、逆に意に沿った聖職者を教会に招聘していたことです。
このことが、16世紀に始まる宗教改革で、ストラスブールがプロテスタント改宗をスムーズに行えた理由の一つだろう。


次回に続きます。



注釈1
ロマネスク様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に半円アーチが使われ、壁に窓が少ない。

注釈2
ゴシック様式の建築の特徴は、入口や窓の上部に尖頭アーチ、天井に交差した補強リブ、外壁に直行した支えの梁と壁が使われている。
これにより建物が非常に高く造れ、外壁に多くのステンドグラスを嵌め込むことが出来る。

注釈3
これら自由都市は、司教らの統制から逃れる為に、皇帝直属になった。
しかし、後に皇帝の権威低下により、独立性の高い都市になっていた。




20170711

何か変ですよ! 62: 偏狭なものの見方




*1


今回は、巷に溢れる偏った歴史観を取り上げます。
日本の憲法や敗戦に関わる問題をみます。



結論は・・
一見、ここでも右派と左派、またはタカ派とハト派の違いがあるように見える。
しかし、より重要なのは単純に視野が狭いか広いか、より広い範囲の他者の気持ちに寄り添えるかです。

こうは言っても、視野が広いとは何を指すのか、また他者とは誰なのかは人によって異なります。
ここでは二三の例を挙げ、簡単に視野の狭さや他者との境界を指摘しながら、偏狭なものの見方の悲しさをみます。


ある人々が言い募る説とは
第二次世界大戦(太平洋戦争)の敗戦にまつわる恨み節が、今またぶり返している。
当時の米国による酷い仕打ちを盛んに言い募っている。
さらに言えば、相も変わらず侮辱感に囚われたままで、そこから脱皮出来ないようです。

「日本国憲法はマッカーサーの押し付けで、不当だ!」
「東京裁判は勝者による報復の茶番劇だ!」
「日本人の能天気な平和感は、米国の洗脳だ!」

目立つのは、こんなものでしょうか?
これからの話は、あまりまじめに考えて頂かなくて結構です。
どこに可笑しさがあるか判って頂ければ充分です。


 
*2


何が変なのか?
敗戦時、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本の占領政策を推進し、様々な改革を行った。
GHQを取り仕切ったのは米国のマッカーサーでした。
彼は公の場で「日本人は12歳だ」と発言していた。

そして、彼が日本国憲法案を日本に押し付けたとされている。
ある人々は、これを日本人が考えた憲法では無いから、けしからんと言い、作り変えるべきだと言う。

しかし、私はこれを聞いて不思議に思う。
当時、大日本帝国憲法(1889年公付)を後生大事に守り大失敗をしておきながら、明治に始まる神権的な前近代的制度から抜け出せずにいた為政者達が、果たして現代に通じる民主的な憲法を発案出来ただろうか?

確かに市井には進歩的な草案もあったが、政府は受け入れるはずもない。
軍事大国化し大陸進攻を図る過程で、反対する声は一部にはあったが、もみ消されたように。

情けないことなのだが、当時、日本の体制が自ら民主的な憲法を作り出すことは困難だったでしょう。
地主制、女性の選挙権などをみれば如何に遅れていたかが一目瞭然です。

それでは同じ占領されたドイツ(西ドイツ)はどうだったのでしょうか?
ドイツは第一次世界大戦の敗北を経験して、当時世界で最も民主的なヴァイマル憲法を1919年に制定していた。
これがあって、第二次世界大戦後の分断された占領下にあっても、各州代表による憲法制定会議が開催され、連合国によって批准されたのが今の憲法です。
つまり、下地が既に出来ていたのです。


 
*3

可笑しさはこれだけに留まらない
それほど屈辱感にさいなまれるなら、そんな横暴な米国の庇護の下から離脱すれば良いと思うのは私だけでしょうか?
安保法制、為替などの経済・金融政策、特定秘密保護法など、どこまで米国追従に深入りしていくのか?

ある人々は、現在の「寄らば大樹の陰」は必要だが、かつての横暴な仕打ちだけは許せないと言う。
この手の人が言う大人の態度とは、どちらも結果が良ければ良しだと思うのですが。

さらにこんな反論が出るかもしれない。
今の米国とかつての米国は違うはずだと!
少し、話が怪しい。

世界を見れば、侵略国や戦勝国の態度はどこも似たり寄ったりでした。
植民地支配された国は、当時、欧米から尊敬されたでしょうか?
もちろん侮蔑され差別された。

戦勝国は、占領国に対して侮蔑感をまったく持たずに接したでしょうか?
一部にはいたでしょうが、大勢は憎しみとの裏返しで侮蔑感を持つものです。
それが戦争です。
日本人も大陸に進攻し、現地を支配するようになると同じ轍を踏んでいった。

つまり、この屈辱感は何時でも何処でも敗者が勝者から受けるものなのです。
よくもまあ自国のことは棚に上げる身勝手な神経が私には理解できない。

もっとも、自分達の懐古趣味(天皇制や明治時代への回帰)を満足させるために難癖をつけているだけとしたら、これも悲しい。


 
*4


この御説はどうでしょうか?
東京裁判への批判も同様に狭量で身勝手な感情の基づいたものがある。
「戦犯はでっち上げで、無実だ!」と。

もし、連合国側が強硬に裁判を開き、戦時下での事実を公開しなければ、日本の国民は未だに真実を知ることはなかったでしょう。
当然、この裁判にはパール判事らが指摘したような問題―事後法の適用と植民支配の反省を棚上げする大国、がなかったとは言えない。
しかし、戦争事態が超法規的な行為であり、場合によっては事後法も止む得ない。
どちらにしても、当時、問題を含みながらも、世界が戦争の再発防止に協同し、従来よりは一歩前進した。

ここで指摘したいことは、同じ戦犯裁判(ニュルンベルク裁判)を受けたドイツの変化です。
これが行われていた当時、ドイツ国民は概ねヒトラーに騙された被害者としか考えていなかった。
しかし、それから十年ほどど経つと、国民の中から自らも戦犯を裁くべきとの世論が沸き起こった。
そして、真にヒトラーやナチスとの決別を図ることが出来たのです。

一方、日本はどうでしょうか?
いまだに、外国(主に米国)の謀略に嵌ったと言う被害者意識から抜け出せない人々がおり、さらに悪いことに、これら人々に支えられた人物が政治のトップになることが出来たのです。

実に、不思議な国があるものです。



さらに、これはどうでしょうか?
もっと単純な例として「日本人の能天気な平和感は、米国の洗脳だ!」があります。

結論から言うと、日本人の平和感は先天的です。
これは日本列島の地政学的な理由、歴史的に日本海の軍事的な障壁と唯一の大国中国からの距離に依存していた。

GHQが軍国主義復活を恐れて、平和の礎を強制的に植え付けようとしたのは確実です。
しかし、それが戦後70年を経た今まも、悪霊に取り付かれたかのように言うのは、国民を馬鹿にしている。

逆に言えば、米国の軍事戦略に乗って、日本を極東の防波堤にしようとする手段に利用されているように思える。

もし、70年前の出来事が、一国の心を支配し続けるとしたら、日本がかつて支配した東アジアの国々も同様に恨みを持つ続けることになりますが?
おそらく「米国の洗脳だ!」と指摘する人々は、これとは違うと言い逃れるでしょう。


まとめ
ざっと諸説の可笑しさを見て来ました。
何が可笑しさを生み出しているのでしょうか?

一つは「自分が、自分が、・・・・」にあります。
別の言い方をすれば、狭い身内、広くて日本列島本島(大和民族)しか念頭にないからです。
このような考え持つ人は、身びいきで、同調する人や付き従う人々には寛大で有難い存在です。
つまり、他者との境界が非常に狭いのです。

もう一つもこれと関連すのですが、都合の良い事実しか見ないのです。
つまり、世界の歴史は当然、都合の悪い自国の歴史も否定します。

おそらく最も本質的な事は、他者への共感が苦手なのでしょう。
この手の人々は身内には共感出来るのですが、地球の裏側の人々への共感が無理なのでしょう。
これは本質的な心性のひとつです。

分かり易い例があります。
実は動物は、本来、同種であっても縄張り外の者(他者)に対して敵意をもつように進化しました。
一番、鮮明なのはチンパンジーです。
チンパンジーは同じ群れであれば、最高度に協同して狩りなどを行います。
しかし、部外者が縄張りの近く現れると、大声で恐怖の声を挙げ、下痢をしながら飛び回るのです。

しかし、進化した人類はこれと異なり、縄張り外(国外)の人、言語や人種の違いを乗り越えて協力することができるからこそ、今の発展があるのです。
時たま、チンパンジーより残酷になるのがたまに傷ですが。


 
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最後にお願い
どうか皆さん、くれぐれもおかしな風潮に流されないでください。