20141211

Traveling to Spain and Portugal 24: Coimbra having a university, Portugal, on the 9th trip, October 20






Latin corridor and clock tower, former school building of the University of Coimbra  

< 1.   Latin corridor and clock tower, former school building of the University of Coimbra  >
< 1. ラテン回廊と時計塔、コインブラ大学旧校舎 >

I introduce the old city of Coimbra being town of the university today.
It is in the middle inland of Lisbon and Porto here.
今日は、コインブラの旧市街、大学の町を紹介します。
ここはリスボンとポルトの中間の内陸部にあります。


a whole view of the Coimbra old city

< 2.  a whole view of the Coimbra old city >
< 2. コインブラ旧市街の全景 >

Upper photo: The old city on the hill that I saw from the opposite bank. A clock tower is seen on the top.
Central photo:  I go cross Ponte de Santa Clara(bridge) and look at the hill from Largo da Portagem(square).
Lower photo:  Largo da Portagem(square).  This main street is the left side of the back.

上図: 対岸から見えた丘の上の旧市街。時計塔がてっぺんに見える。
中央図: サンタ・クララ橋を渡って、ポルタジェン広場から丘を望む。
下図: ポルタジェン広場。大通りが奥の左側へと続く。

Coimbra

It is the third city following Lisbon and Porto.
Strangely, together with 3 cities, the old city spreads out in the hill of the north side of the river flowing through the east and west.
In the middle of the 12th century, from the founding of a nation of Portugal, it was capital city here, and there is the oldest university here.

コインブラ
リスボン、ポルトに次ぐポルトガル第3の都市です。
不思議なことに3都市とも, 東西に流れる川の北側の丘に旧市街が広がる。
ここは12世紀中頃、ポルトガル建国時からの首都で、ポルトガル最古の大学です。


a campus of the university 

< 3.  a campus of the university >
< 3. 大学構内 >

At first we go to the university on the hill by bus, do the sightseeing on foot from there, and go down to Largo da Portagem.

Upper photo: There is main gate of the Manueline style in the center.
If we enter it, there is the former school building.
Central left photo:  A new school building.
Central right photo: Two part-time students who sell the tourist brochure of the university in the former school building.
The black cloth is the school uniform, and the hem of the mantle is ripped apart in large numbers at the time of their graduation.
As there were foreign students from Brazil, I thought of the strong relation between both countries from the colony times.

Lower photo: I overlooked Rio Mondego(river) from the open space of the former school building.

観光は、先ずバスで丘の上の大学に行き、そこから徒歩で観光し、ポルタジェン広場まで下る。
上図: 中央にマニエル様式の「鉄の門」があり、そこを入ると旧校舎です。
中央左図: 新校舎。
中央右図: 旧校舎内で、大学の観光パンフレットを販売しているアルバイト学生。
この黒い服が学生服で、卒業時にはマントの裾が幾重にも引き裂かれる。
ブラジルからの留学生がおり、植民地時代からの強い繋がりを思わせる。

下図: 旧校舎の広場からモンデーゴ川を見下ろす。


a panorama view of the former school building

< 4. a panorama view of the former school building >
< 4.旧校舎全景、パノラマ >

There is a library in the left, next a chapel and a clock tower, and a hall in the back
A gate of the right side in the back is the main gate that we have entered through.
Before, it was a palace.
We did the sightseeing of admission in the library and the chapel.

左から図書館、その次ぎに礼拝堂、奥に時計塔、奥正面にホール「帽子の間」と続く。
右側奥の門が、通って来た「鉄の門」です。
ここは以前、王宮だった。
この観光で入場したのは礼拝堂と図書館です。



the library

< 5.  the library >
< 5.図書館 >
It is a baroque architecture in the 18th century.
Upper photo: The library entrance
Central photo: The side of the library.
Lower photo: The inside. Because its photography was prohibited, I was borrowed from http://www.bookaholic.ro/.

18世紀建築のバロック様式。
上図: 図書館入口。
中央図: 図書館の側面。
下図: 内部。撮影禁止なのでhttp://www.bookaholic.ro/から借用


the new cathedral 

< 6.  the new cathedral >
< 6. 新カテドラル >
It is within sight of the university on the hill.
At the end of the 16th century, the Society of Jesus began to build it, and it was completed 100 years later.
大学新校舎のある丘の上の一角にある。
16世紀末、イエズス会が建設開始し百年後に完成。


old cathedral 

< 7.  old cathedral >
< 7. 旧カテドラル >

We went out of the university premises, went down a little, and we arrived it.
In the twelfth century of the founding of a nation, this church was built and also doubled as a fortress.
The whole appearance and the front gate is a Romanesque style, and the northern gate was rebuilt in a Renaissance style.
Upper photo: A whole view. The right side is the front gate.
Lower right photo: the northern gate.
Lower left photo: The other side of the front gate.

大学構内を出て、少し下るとある。
12世紀の建国時、要塞を兼ねた教会として建築された。
外観全体と正面入口はロマネスク様式、北側の入口はルネッサンス様式に改築された。
上図: 全景、右が正面入口。
右下図: 北側の入口。
左下図: 正面の反対側。


streets

< 8.  streets >
< 8. 街並み >

It is streets that were in the middle of our going down from the hill.
丘の上から下る途中の街並み。


R. Ferreire Borges(streets) 

< 9.  R. Ferreire Borges(streets) >
< 9.フェレイラ・ボルゲス通り >

Upper photo: R. Ferreire Borges(streets).
Lower left photo:  The earthenware in a store window. There are ceramic chickens, Portuguese representative souvenir.
Lower right photo: this gate was one of the gates of a castle wall once.

On the next time, I introduce Porto famed for wine.

上図: 通り。
左下図: ショーウインドーの陶器。ポルトガルの代表的な土産、鶏の置物が見える。
右下図: バルバカ門。かつての城壁の入口の一つ。


次回は、ワインで有名なポルトを紹介します。





何か変ですよ 34: 困難な選択 2




*1

前回、円安操作について見ました。

今回はリフレ策を検討します。

リフレ策とは
中央銀行が、デフレ脱却を図ってインフレを維持するために貨幣を多目に供給することです。

インフレとデフレの不可解
世界の経済・金融史を眺めると、ある国が打開策で先鞭をつけ、後続がどっと出て、やがて問題(信用不安、恐慌、悪性インフレなど)が顕著になり、元の手法に立ち返ることが多い。
そのサイクルは20~30年ほどで、現在は過去のスタグフレーション(停滞とインフレ)が収まり、長く続いたデフレからインフレを目指すようになった。

国民が国の経済運営で最低限望むことは、失業の低減と所得維持(可処分)でしょう。
巷では、景気過熱によるインフレが雇用増大を生むと信じられている。
景気が過熱し、雇用が逼迫してインフレが起きることはあっても、インフレが雇用を生むのではない。

かつてのインフレのように、インフレ率が経済成長率よりも上回る場合、実質所得(定期収入なども)は減ります。
最近の日本では、所得は増えないが、デフレで実質の所得は若干増えたはずです。
また定期収入(年金や保険配当など)はインフレ時代と比べ多きく目減りしませんでした。

インフレとデフレの功罪は学者によっても、その恩恵は所得層によっても様々です。

なぜ今、リフレ策なのか?
結論から言うと、カンフル剤としての役割が期待されています。
つまり一時しのぎであり、多用すると副作用が出る可能性があるのです。

かつて中央銀行は、予想される経済成長にふさわしい貨幣を供給することでした。
それは悪性インフレを避け、持続的な経済成長を図るためでした。
しかし既にドイツを除く欧米の多くの国は、貨幣供給量を多めにして、より景気を刺激し、インフレを許容するようになりました。
その背景に、世界経済が低迷し続けていることと、打開策が見つからないことがあります。

景気浮揚策の難しさ
かつて世界は幾多の経済浮揚策を試みましたが、効果はどうだったのでしょうか。
実は、この評価が分かれ対立し不明瞭なのです。
これは利権を代表する学派の対立があるからで、定説がまとまることはないでしょう。

良く聞く景気浮揚策の要点を簡単に見ておきます。
     減税: 多用されますが、効果が低いと累積赤字が増大。
     公共投資(財政出動): 多用されますが、効果が低く多額なのでさらに累積赤字は増大。
     貨幣供給: 現在主流で、上手く制御出来ればコストがかからず効果大とされるが、インフレやバブルを生む。この後、莫大な費用と深刻な景気後退が発生。

すべて変な条件と副作用がついています。
前者二つの効果が低くなる理由は経済(構造)と方法(配分)に問題があるからです。
この改善の方が重要のですが、政府は権益擁護のために触れません。
最後の制御が難しいのは本当ですが、複雑で説明が難しい。
ただ欧米の現状をみれば、一目瞭然です。
貨幣供給量を増やし、欧州はインフレになったが、失業率が減ったでしょうか。
増えた貨幣(貸出)は、結局、バブルを生み、多くの債務者を作り、弱小国家の財政破綻を招いた。
米国はほぼ10年毎の金融危機の谷がより深まり、将来、大恐慌が起きても不思議ではない。

実は、この三つの対策が上手く行かない理由は、消費者や企業家の心理を適確に予想できないことにもあるのです(経済学も扱えない)。

簡単な例では、減税しても消費者が貯金に回すとか、インフレでも企業家が海外の絵画に投機するが、国内の設備投資に回さないような場合です。


それでは景気浮揚策は不可能なのでしょうか?
実は歴史から学ぶべき景気浮揚策はいくらでもあるのです。
A.     共産主義を脱した国: 労働意欲の向上を生んだ。
B. 英国の産業革命: 特許保護で発明者、企業保護(株式会社)で企業家の意欲向上。
C. 20世紀前半の英国と米国: 労働者の権利擁護(賃金と仕事確保)で消費増(需要増)。
D.     かつての帝国: 膨大な軍事費と偏った権益擁護によりじり貧。
E.     万年後進国: 多くは権力者の恣意的な経済運営、権力者層の権益擁護で経済沈滞。

これらから言えることは消費者・労働者や企業家の意欲を生み、見合った成果報酬を得られる経済システムが鍵なのです。
逆に、やる気を削ぐような不公正な経済システムを作らないこと、特に既得権益擁護が多くの社会や経済の硬直化を生みます。

例えば、この度、青色ダイオードの発明でノーベル賞を受賞した中村氏への企業や国の対応が良い例です。
彼の訴えに対して裁判所は発明対価を200億円とし、会社に彼への支払いを命じた。
当然、この企業は微々たる金額しか払ってこなかった。
日本は発明において名目労働者擁護だが、実質は対価のほんの一部しか受けることはなかった。
さらに経済界と政府は、この事態を恐れて、職務発明者への対価支払いを押さえ込む法案を成立させようとしている。
一番の問題は、このような偏った権益擁護の積み重ねが、社会経済の硬直化を生んでいるのです。


    

現在進行中のリフレ策について
既に見たように、景気浮揚策の本質はご理解いただけたと思います。
しかし、そうは言っても、現状では変えられそうにはありません。
そこで進んでいるリフレ策の効果と懸念について要点を見ておきます。

期待できる効果
インフレが期待されると人々は資金を退蔵せず、投機や投資に向かいます。
増税前の駆け込み需要が連続して発生するようなものです。
一端、消費や投資が始まると好循環が起こるとされている。
これで景気が上昇して目標達成になります。
実に単純明快な政策です。

問題の基本
     バブル: 日本の平均株価が倍になったら全株価の評価額は数百兆円増えます。これは国民一人当たり数百万円の資産を増やしたことになり、儲けた人は消費に回します。これで景気がよくなるとしましょう。しかし残念なことに暴落も同様に必ず起きます。すると消費はガタ落ちになり、残念なことに大きな不良債権(無駄使いの後始末)ほど国民の税金で助けることになります。こうならないように世界の中央銀行(日銀)は制御するのですが、如何せん、バブルを無くすことは出来ません。
 
     制御が困難: バブルが発生し崩壊するのは、金融の制御が困難だからです。今回のリーマンショック(世界的な金融危機)の発端は、善意の家持ち対策と言えた(景気浮揚と低所得層擁護)。これがいつの間にか、まつたく信用出来ない債権の乱発を生み、強欲な金融家が天才的な利殖法と喧伝し、世界中から溢れる資金が群がったのです。そしてこのことを当時の金融政策責任者達は順調な景気回復と捉え、赤信号と気づかなかったのです(一部気づいた有能な人はいたが)。これはなぜでしょうか。法の網をかいくぐり巧みな金融手法を生みだす強欲家は数しれず、それに気づき景気後退を避けながら、強欲家(選挙資金提供者)の批難をかわし是正することは不可能です。ここ2百年ほど繰り返しています。

何が困難を生むのでしょうか? 経済成長率、インフレ率、長期金利、為替、設備投資、消費、国債残高、経常黒字、他国の動向、選挙事情などが複雑に絡みます。例えば長期金利がインフレ率を上回ってしまうと、累積赤字は益々膨れあがります。

     貨幣供給(信用・貸出増)の問題: 米国初のリーマンショックの折、日本の被害は少なかったが、欧州は酷かった。これは金融政策の差で、重要なのは日銀が無謀な資金供給に慎重だったからです。簡単にいうと、頭上に直径の大きなタライを置き、水を満タンにして歩くのと、少なめにするのとの違いです。水はたくさん欲しいが、筋力が落ちれば、一回の運搬量を少なくするしか無いのです。

     様々な懸念: バブルを防止するには金融システムの適正化が必要ですが、米国筆頭にこれが進みません。いつも他国から声が上がりますが、立ち切れになります。理由は明らかです。また世界のグローバルシステムは米国基準になっているので、どうしても税制、管理基準(罰則)、保護基準を米国に合わせざるを得ません。これが日本独自の政策を困難にしています。


最後に
結論は、非常に難しいことをやろうとしていることです。
取っ掛かりは、超簡単で出費もいらず、夢のような政策です。
しかし一端やり始めると止められず、欧米のようにバブル、カンフル剤注入を繰り返すことになるのです。

大事なことはインフレ期待で景気を刺激し、即、経済構造の改革に着手することです。
そして制御困難なインフレ誘導策を手控え、構造改革後の自力脱出が理想です。
このことを今の政府に託すことが出来るなら、続行を信認すべきです。

残念なことに、野党も含め、世界も実現可能な理想の対案を提示出来ないでしょう。
ひとりスタンスを固持しているのはドイツぐらいでしょうか。

私達凡人には金融・経済政策を理解できませんが、並の天才程度では制御が困難なようです。
少なくとも経済を神頼みするのは危険です。
自ら疑い、理解し、監視する事だけは必要です。

次回は、累積赤字について見ます。




20141209

Traveling to Spain and Portugal 23: Lisbon3、walking around town, on the 8th trip, October 19





Elevador da Bica

< 1. Elevador da Bica >
< 1.ビカのケーブルカー >

Today, I introduce the later half of the walking around Lisbon city from afternoon to midnight.
It is various conveyances, a market, a bookshop, street, a show of fado, and a shopping center.

今日はリスボンの午後から深夜までの町歩きを紹介します。
乗り物、マーケット、本屋、通り、ファド、ショッピングセンターを紹介します。


a map of Lisbon center

< 2. a map of Lisbon center
< 2. リスボン中心部の地図 >
The number in the map is it of the photo, and is in order of the photography.
地図中の数字は写真の番号で、撮影の順番になっている。


from Igreja de Sao Ronque to R. do Carmo

< 3.  from Igreja de Sao Ronque to R. do Carmo >
< 3.サン・ロケ教会からカルモ通りまで >
2: a neighborhood of Rossio Station.
3: a stall of the roasted chestnut in Rossio Square.
4: we can see the upper bridge of Elevador de Santa Justa from R. do Carmo.
2: ロシオ駅の側面近く。
3: ロシオ広場の焼き栗の屋台。
4: カルモ通りからサンタ・ジュスタのエレベーターの架橋が見える。


streets 

< 4.   streets >
< 4.通り >
6: expensive stores are in line along Rua Garrett.
7: the statue of a poet in Rua Garrett.
8: R. do Loreto. It is a streetcar of track No. 28.
We get on this streetcar and go to upper station of next cable car.
The inside of the car was cramped conditions with citizens.
Because the car passed the upper station, in a hurry, I called ”Stop! Stop!“
Then, the car stopped in a second, and we got down it.
I did a bad thing.

6: 高級店が並ぶガレット通り。
7: ガレット通りの詩人ペソアの像。
8: ロレット通り。28番線の市電。
この市電に乗って次のケーブルカーの上駅まで行きます。
車内は市民でぎゅうぎゅう詰めでした。
上駅を通り過ぎたので、私は慌てて「ストップ!ストップ!」と連呼してしまいました。
すると市電は止まり、私達を降ろしてくれました。
悪いことをしました。


Elevador da Bica 

< 5.  Elevador da Bica >
< 5. ビカのケーブルカー >
It is the most famous cable car overlooking Rio Tejo.
12:  It is the lower cable car station.
テージョ川を見下ろす、最も有名なケーブルカーです。
12: ケーブルカーの下駅です。


a market and a subway Station

< 6. a market and a subway Station  >
< 6.市場と地下鉄駅 >
13,14:  Mercado da Riberia.
The photo is the adjacent food court with the market.
It's a good place to take a light meal.

15:  A ferry with the opposite bank.
I remembered one scene of the movie “ night train to Lisbon".
This movie is a mysterious work that wove the history into landscape of Lisbon.

16: Cais do Sodre station.
I go by this subway to Baixa Chiado station from here.

13、14: リベイラ市場。ここに常設の屋内市場(14:00まで、日曜休)があり、写真はその横にあるフードコートです。
軽い食事を摂るには良い所です。

15: 対岸との連絡船。
映画「リスボンに誘われて」の連絡船シーンを思い出しました。
この映画はリスボンの風景に歴史を織り込んだミステリアスな作品です。

16: カイス・ド・ソドレ駅。
ここから地下鉄でバイシャ・シアード駅まで行きます。


a bookstore and streets in the night

< 7.  a bookstore and streets in the night
< 7. 書店と夜の通り>
17,18: Bookstore Betrand in Rua Garrett Street. It is the Portuguese biggest chain store.
One of my pleasures was to enter bookstores of the overseas travel destination, but I had no time this time.
20:  its street is the next from Rua Garrett towards seaside.
We meant to get on a streetcar of track No.28 from here, and go to Alfama district.
It was past about 7:30 p.m., and the last train of this section had left just.
We caught a taxi fortunately.
The taxi ran full speed on the road that was stone pavement, thin, a sharp turn, and hilly.
I associated an escape scene of a spy movie with it.

17,18: ガレット通りにある書店ベルトラン。ポルトガル最大のチェーン店。
私は、海外旅行先の書店に入るのが楽しみの一つですが、今回は時間が無く残念でした。

20: ここはガレット通りを海側に一つ行った通りで、ここから28番線の市電に乗り、アルファマ地区に行くつもりでした。
PM7:30頃を過ぎていて、この区間の終電時間がちょうど過ぎたところでした。
タクシーを拾いました。
タクシーは細く急カーブし起伏する石畳を疾走し、私はスパイ映画の逃走シーンを連想しました。


Rua Garrett at dusk 

< 8.  Rua Garrett at dusk >
< 8.夕暮れのガレット通り >
I came twice here today.
今日は、ここに2回来ました。


 Clube de Fado

< 9.  Clube de Fado >
< 9.クルブ・デ・ファド >
We enjoyed the fado of Clube de Fado in Alfama district.

I have made a reservation before about 2 weeks with the home page in Japan.

ファドを、アルファマ地区にあるクルブ・デ・ファドで楽しみました。
予約は日本で2週間程前にホームページから行いました。


fado 

< 10.  fado >
< 10. ファド >
24:   appetizers of olive and fried food.
We entered at 8:00 p.m., and began the dinner.
The fado began at about 9:30 p.m.
A singer sang for about 15 minutes and we waited for about 20 minutes until next singer.
It was about 11:30 when three singers finished.
The fado still continued and the singer was so good as to become later appearance.
But we left for tomorrow's tour.

The fado singer sings as if speaking, but doesn't sing sonorously.
I was able to enjoy it more if I understood words.

In this trip, I could know that olive oil made various meals very delicious for the first time.
I disliked it in Japan.

24: オリーブとフライの前菜。

PM:00に入り、私達は食事を始め、ファドは9:30頃から始まりました。
一人15分間ほど歌い、次が来るまで20分ほど待ち時間がありました。
3人の歌手を聞き終わった時点で11:30頃になりました。
ファドはまだ続き、歌手は後になるほど上手いが、明日の為に退出した。

ファドは朗々とした歌唱ではなく、声を絞り語りかけるように歌う。
言葉が判ればもっと楽しめたのだが。

今回の旅行で、私はオリーブオイルがこんなに食材を美味しくするものだと初めて知りました。
日本では嫌いだったのですが。


Centro Comercial Vasco da Gama

<  11.  Centro Comercial Vasco da Gama >
<  11. ヴァスゴ・ダ・ガマ・ショッピングセンター >
28: specialty stores.
29: a supermarket.

There are 160 stores in it, and every store of fashion, food court and supermarket etc.
It is very convenient, because it is without holiday, for 1-minute walk from Oriente station, and is opening until 12:00 p.m.
We enjoyed shopping here for about two hours from 9:30 p.m. on the day before.
Though it was hot outside, fur coats among T-shirts were sold in the store.
There was a cheap thing that had been made in Morocco.

One of the most surprised things was that the local shoppers consist of mixed-race.
I felt that the Portuguese history was alive here.

I introduce Coimbra of university town on the next time.

28: 専門店街。
29: スーパー。

4フロァーに、ファッション、フードコート、スーパーまであらゆる店が160ある。
オリエンテ駅から徒歩1分、無休、夜12時まで開店が便利。
前日のPM9:30から2時間ほど、ここでショッピングを楽しみました。
外は暑いのにTシャツに混じって毛皮のコートまで売られ、安いものはモロッコ製があった。

一番驚いたのは、地元の人らしい買い物客があるゆる人種からなることでした。
ここにもポルトガルの歴史が生きているのだと感じた。

次回は大学の町コインブラを紹介します。




20141208

何か変ですよ 33: 困難な選択 1

 
    

現状を追認する形で、与党圧勝になるだろう。
ここで基本的な問題を振り返り、将来を少しうらなってみましょう。

基本的な問題とは
     日本経済の低迷と復活
     政治風土
     資源の枯渇と温暖化
     平和と安全

戦後日本は、これらの問題にどう対処したのだろうか?
今後、どうなっていくのだろうか?
簡単に見てみましょう。

日本経済の低迷と復活
なぜ日本は70年代の高度経済成長後、30年程をかけて経済成長率が0%になったのでしょうか?
高齢化、労働人口の減少、それとも円高、デフレのせいでしょうか?
おそらくこれが主原因だと指摘し、明快に処方箋を提示出来る経済学者はいないでしょう。

低迷の原因は何か?
労働人口の減少は先進国で必ず起きてしまうのですが、日本の対策は欧米に比べてかなり遅れた。
円高は、1985年のプラザ合意に始まった日米協調の足枷が一番の理由です。
日本政府にとって共同体である米国のドル安は絶対だった。
デフレを日銀単独の陰謀か無能によるとしていますが、これもおかしい。
日銀総裁は大蔵省との交替人事で、常々、政府と一体でした(原則不可)。
確かに、経済先進国の中でリフレ策を取らなかったのはドイツと日本ぐらいだった。
しかしおかげでリーマンショックの影響は少なかったのです。
この日銀の姿勢は、今次大戦に至る日銀券乱発を反省してのことだった(恐れ過ぎか)。
当時の商工大臣岸信介はよくご存じのはずです。

つまり、すべて、政府与党と官僚が認識した上での所業だと考えられます。
それでは、戦後、政府は無策だったのでしょうか?

例えば、政府の公共事業(財政出動)は欧米の財政規模に比べ2倍程あり、多年にわたり続けて来ました。
経済理論では、財政出動15兆円の数倍、例えば年間30から60兆円の経済浮揚効果があるはずでした。
しかし、欧米は効果を期待出来ないとし、早々と縮小しました。
現在、おかげで日本の累積赤字が1000兆円を越えるまでになりました。
日本政府が無策だったとは言えません、一時は「日本は最高」と言われた時があったのですから。

結局、残念なことに真因を掴めていないのです。
マンネリに堕ちていく中で、今回、藁を掴むつもりでリフレ策に飛びついたのです。
真因はマンネリ(経済構造、企業家心理、政治運営など)の中にあるのですが・・・

将来、どうなるのでしょうか?
円安とリフレ策、膨大な累積赤字について簡単に見てみましょう。

円安操作
現在、日銀の量的緩和策(日銀券の増発)が進んでいます。
理屈では、他国に比べ一国だけが中央銀行券を増発すると、その国の通貨は安くなり、インフレも起きます。
しかし、現実はそう単純ではありません。

懸念材料
     困難な制御: 継続すれば長期的には円安になりますが、過去の為替の推移を見ていただくとわかりますが、短期的(数年間)には別の要因で乱高下します。

     他国との協調: 円安(円高に振れないこと)にメリットはあるが、実は何処の国も自国を通貨安にしたいのです。つまり日本が為替操作によって円安メリットを享受し始めると、海外から是正圧力がかかります。これは歴史が示すところです。

     趨勢に逆行: 現在、日本の大企業の生産は海外に重点が移っているので、円安で海外からの還元利益は増大するが、それほど国内生産が増えるわけではありません。円安のメリットが生まれるには、企業家が将来も円安が確実に定着し、国内に生産拠点を再投資しても良いと判断しなければならない。しかし経済史をみると、経済先進国は通貨高になり、国力が衰えると自然に通貨安になっています。経済大国で、生産拠点が大挙して戻る事態は、世界を見回してもない。つまり輸出工場が戻ることは考えにくい。

     産業淘汰: 円安は輸出にはメリットですが、輸入にはデメリットです。当然、輸出額と輸入額は均衡しているのですから、得失は相殺されるはずです。おそらく一時、消費者と中小企業が我慢すれば(消費減と倒産)、円安定着後には大手輸出企業の繁栄から国内経済が良くなると考えるのは無理からぬことです。しかし、よくよく考えてみると、一時我慢し、産業構造の転換(適応出来ない産業は淘汰される)が図られるのなら、実は円高も同様にメリットがあるのです。つまり為替変動が大きくなると、産業や企業淘汰(倒産、失業)がついて回ります。貿易経済である限り、必然なのですが。





    


何が重要だったのか?
円安について言うならば、理想の状態は、プラザ合意(1985年)以前の状態に戻ることです。
1980年代前半の為替は250円/ドルで、GDP成長率はまだ4%程ありました。
当然、当時の産業構造(国内に輸出企業が残っている)に戻っていることが必要です。
その後、円高と共に、GDP成長率は0%へと向かったのです。

結局、時の政府は、なぜかチャンスを自ら逸したのです。
彼らは、けっして無知では無くて、ある事情で出来なかっただけなのです。
小手先で過去の失策を取り戻すことには無理があるのです。

残念ながら、今次の大戦下で、政府主導(商工省)による中小企業の下請け構造が生まれ、それが継続していますので、円安操作のしわ寄せは一方的になるでしょう。

本来、ゆっくりした為替変動に応じて経済構造を変化させることが重要なのです。
円安や円高自体が悪魔ではないのです。

次回は、リフレ策を解説します。