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20200718

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 1: はじめに






*1

これから、徳島県の山河を巡る二泊三日の旅を紹介します。
旅したのは2020年6月7日~9日で、概ね快晴でした。
今回は、山と川が生み出した景色、街並み、歴史を探ります。
大きく三つあり、吉野川中流域のかつての街並み、剣山登山、平家落人伝説の祖谷渓です。


 
< 2. 訪問地、上が北 >

上: 四国全体と旅行地
赤枠が今回の訪問地で、オレンジ枠が前回紹介した海部郡です。

下: 今回の訪問地
青線が今回紹介する主なドライブコースです。
Aから始め、途中二泊し、Fで終わります。

A: 脇町うだつの町並み
B: 貞光二層うだつの町並み
F: 阿波池田うだつの町並み
この三つは、かつて豪商が軒を連ねた町並みです。
川と山を繋ぐ街道が、かつて繁栄をもたらしました。

C: 西日本で二番目に高い剣山
登山道と山頂を紹介します。
登山道近くに一泊目のホテルをとった。

D: 祖谷のかずら橋
ここに二泊目の宿をとった。

CからDの間には様々な観光スポットがあります。
奥祖谷二重かずら橋、落合集落、東祖谷歴史民俗資料館が主です。
しかし平家落人や安徳天皇の伝説に纏わる屋敷、神社、杉の大木が山深い急斜面にひっそりと佇んでいます。

E: 平家屋敷民俗資料館

EからFの間は、大歩危小歩危の渓流で有名です。






 
< 3. 脇町うだつの町並み >

上: 脇町うだつの町並み
下: 吉野川


 
< 4. 貞光の旧庄屋家 >

上: 貞光の旧庄屋家
下: 貞光川の上流


 
< 5. 剣山の山頂近く >

上: 宿泊地から見た夕焼け
下: 剣山の登山リフトからの眺め


 
< 6. 剣山山頂からの眺め >

上: 剣山山頂からの眺め
下: 登山リフト下駅近くから、祖谷渓谷を見下ろす


 
< 7. 奥祖谷二重かずら橋 >

上: 奥祖谷二重かずら橋の一つ
下: 落合集落


 
< 8. 祖谷渓  >

中流の橋の上から上流を望む。


 
< 9. 祖谷のかずら橋 >

上: 祖谷のかずら橋
下: 祖谷のかずら橋の川原に降りて、上流を望む



 
< 10. 喜多家の武家屋敷 >

上:  喜多家の武家屋敷 
下: 落人伝説が眠る地に向かう急斜な細い道


 
< 11. 栗枝渡八幡神社 >

ここにもいつかの安徳天皇伝説がある。



 
< 12. 東祖谷歴史民俗資料館 >

上: 落合集落を横から眺める
下: 東祖谷歴史民俗資料館


 
< 13. 平家屋敷民俗資料館 >

上: 外観
下: 内部


 
< 14. 阿波池田たばこ資料館 >

上: 道の駅大歩危からの眺め
下: 阿波池田たばこ資料館


次回に続きます。


20200713

徳島の海岸と漁村を巡って 10: 日和佐城と遊歩道






*1


今回は、既に訪問した日和佐の町を見下ろす日和佐城を目指しました。
今回で、徳島海部郡の漁村と海岸の旅は終わります。
訪問したのは2020年4月23日と24日、快晴に恵まれました。


 

< 2.大砂海水浴場 >

鞆浦から北に一つ大きな岬を越えると、大きな浜が見えました。
ここは海水浴場です。

上: 砂浜の全景。
下: 砂浜の東端。
遠方に見えるのが越えて来た岬です。




 
< 3. 大砂海水浴場の東側に続く海岸 >

下: 沖の島は手羽島です。
これからこの島に渡るために、牟岐港に向かいます。

 

< 4.牟岐町 >

牟岐川の河口に牟岐漁港があります。
河口の右岸に、手羽島との連絡船乗り場があります。
乗り場に行くと、残念ながら渡れないことがわかりました。
一日の船便も少ないのですが、コロナ対策の為に、よそ者は年寄りの多い手羽島への渡航は出来ないとのことでした。
私も年寄りだが、行こうとした自分の愚かさに恥じ入りました。

上: 牟岐川の左岸。


 
< 5. 牟岐駅 >

日和佐までは一度海岸を離れて山間を走ります。

上: 牟岐駅


 
< 6. 日和佐城 >

上: 手前の奥潟川が奥の北河内谷川に合流し、日和佐漁港に至る。
これを見下ろすように右手の山頂に日和佐城が見える。

下: 山頂に来てみると大規模な改修工事中でした。

日和佐城は、かつて山頂にはあったようですが、この写真の物は再現されたものではない。
本当の城の築城時期は、既に紹介した海部城とほぼ重なるようです。
室町時代末期、この地域(宍喰、鞆浦、日和佐)は阿波の三好勢と土佐の長曾我部が衝突する最前線でした。
この緊張した状況が築城に向かわせたのでしょう。
後に長曾我部がこの地を攻略するが、戦国時代を経て阿波は蜂須賀家、土佐は山内家に支配された。


 

< 7. 海岸沿いの遊歩道 >

上: 日和佐城の横を通る遊歩道
全長12kmもあります。

下: 私は番号1から2までの途中を往復しました。
以下の写真は撮影順に並んでいます。

 

*8


 
< 9. 日和佐の町を見下ろす >

上: 中央に北河内谷川、左に厄除けで有名な薬王寺の朱色の塔が見える。

下: 手前に北河内谷川が左から右に流れている。
眼下の町が日和佐の中心部です。


 
< 10. 大浜海岸 >

上: ウミガメが来ることで知らている大浜海岸。

下: 大きな洞穴は恵比須洞です。



 
 < 11. 遊歩道から大海原を望む >


これで今回の旅行記を終わります。

次回から、吉野川沿いのかつての商家の町並み、剣山登山、祖谷渓のかずら橋と平家落人の里を紹介します。


20200707

徳島の海岸と漁村を巡って 9: 鞆浦を訪ねて 2






*1

今回は、鞆浦の漁港に沿って岬の手倉湾まで紹介します。


 
< 2. 散策マップ、上が南 >

赤線が散策ルート、Sがスタート、Eがエンドです。


 
< 3.漁協の近くから岬の方を望む >

以下の写真はほぼ撮影順に並んでいます。

上: 中央奥に漁港の開口部が見える。

下: 漁村の東半分。


 
< 4. 漁村の中心部 >

上: 左に2階建ての漁協が見える。
南の方を見ている。

下: 漁港沿いに、半時計周りにほぼ半周して、漁村の中心部を振り返った。


 
< 5. 漁村の終端 >

上: 中央の小山に海部城跡がある。

下: 右手に川に架かる橋がある。


 
< 6. 漁港の防波堤 >

上: 遥か遠くに見える島影は、牟岐港の先にある出羽島や大島です。
北東を見ている。

下: 写真の右手が漁港の開口部です。


 
< 7. 岬の突端にある手倉湾 >

上: 出羽島や大島が見える。

下: 漁港の開口部と牟岐方面を見ている。



 
< 8. 手倉湾から南を見ている >

上: 遠方の岬は宍喰浦の乳ノ崎だろう。

下: 船が見えたので拡大した。



 
< 9. 手倉湾の小島 >

漁師が岩礁で何か漁をしている。


 
< 10. 海部川の河口 >

大きな川です。
今回、訪問した海部郡では最も平野部が広いです。
川の右岸から撮影した。

上: 上流を望む。

下: 河口を望む。

次回に続きます。



20200628

徳島の海岸と漁村を巡って 8: 鞆浦を訪ねて 1





*1

今回から、2回に分けて鞆浦漁港を紹介します。
小さな漁港ですが、地の利を生かした良い漁港だと思いました。


 
< 2. 宍喰から鞆浦へのルート >

上: 宍喰から鞆浦へのルート、上が北。
赤枠が既に紹介した宍喰の散策範囲です。
オレンジ線がドライブルートです。
黄枠が鞆浦です。

下: 鞆浦、上が南(上図と向きが逆)。
オレンジ線が宍喰からのドライブルート。
黄枠が鞆浦の今回紹介する散策ルート。
赤枠が次回紹介する手倉湾。
黒矢印は漁協、黄矢印は海部川の撮影地(次回)、赤矢印は宍喰浦(那佐湾)の撮影地。
赤四角は海部城跡。


 
< 3.那佐湾と宍喰浦 >

上: 左の宍喰浦に挟まれた那佐湾の向こうに宍喰が見える。

下: 宍喰浦。


 
< 4. 鞆浦漁協 1 >

ここに到着したの9時45分でした。
競りが行われており、様々な魚種が見られました。
訪問した時間が異なるからかもしれませんが、鞆浦の方が由岐、日和佐、宍喰の漁港よりも大きな魚が沢山獲れているようでした。

素人の見立てですが、この港は大きな海部川上流の栄養が海に注ぎ沿岸漁業に恵まれ、また大きな河口は上流の材木の切り出しと海上運搬に有利に働いたことでしょう。

 
< 5. 鞆浦漁協 2 >

魚を入れる大きなコンテナや陸揚げ用のコンベヤなどが目立ちました。

下: ブリでしょうか。


 
< 6. 漁協の2階の展示物 >

トイレを借りに2階に上がりました。
漁に関する幾つかの展示がありましたので紹介します。

上: 鞆浦大式、定置網の一種。
元々は富山湾で生まれた定置網で、後にこちらでも使われるようになったらしい。
徳島県内では最大の定置網のようで、全長1300mもある。

下: 定置網漁の写真のようです。

漁協の人に聞きました。
遠方に出る漁としては高知沖まで行っているが、徳島ではこの鞆浦だけが行っているとの答えでした。
大きな船を見ることが出来ませんでしたが、大きな屋根付きのドッグがありました。
漁協の魚を見て、多いですねと聞くと、ここでも「少ない」との返事が返って来た。


 
< 7. 漁協の周辺から散策を始める >

上: 漁協の階段から南西方向を見下ろす。
川が見え、その先に従来の漁村が広がる。

下: 漁協の西側を見る。
この山に海部城跡がある。
山の手前のこの一帯だけは新築の家が多い。
若い漁師に古い町並みの事を聞くと、最近引っ越してきたばかりなので知らなかった。


 
< 8. 川の橋から >

上: 網袋を持った一人の漁師が漁協へ急ぐ。
網袋の中は、さざえかウニのようでした。
重そうなのでさざえかな?
下の写真の船から一人の漁師が下船して、歩き出した所です。
この奥の山が、海部城跡のある山です。

下: 川の上流を見ている。
川の右も海部城跡のある山です。


* 海部城と鞆浦について :

実は海部城が出来た16世紀(室町時代末期)、この山は河口に浮かぶ島だったようです。
ここは海と川を監視し、守るには最適な場所だったでしょう。
後に埋め立てられが進み、今は大きな海部川とこの小さな川に挟まれるようになった。
これを築城したのは海部氏ですが、元々は宍喰を拠点にしていたが、こちらに転居したようです。
海部氏は三好(阿波国と畿内を領有)に属していたが、高知の長曾我部との最前線となり、後に攻められ落城した。

今は、鞆浦を含む海部町と宍喰町が合弁して海陽町となった。
古い時代、海部は海運力と上流の木材業で発展した。
15世紀の兵庫の港(兵庫関)への入港記録「兵庫北関入船納帳」によると、海部船籍は全国10位であった。
阿波(徳島)では海部54隻、宍喰20隻、平島(阿南?)19隻で、海部が圧倒的に優位であった。
また同じ記録によると、当時、海部(鞆浦)と宍喰の木材の扱い量は阿波の約半数であった。
如何に、この地域の海運力が秀でていたかがわかる。
また室町時代から「海部刀」がこの地で生産されていた。



 
< 9. 街歩きを始める >

橋を渡って真直ぐ通りを進むと巨石が右手に見えた。

上: 大岩慶長・宝永地震津波碑
大きな石の表面の二ヵ所に碑文が見える。
左が慶長地震津波碑、右が宝永地震津波碑。

慶長地震津波碑: 1605年、高さ約30mの津波が7回来て、男女百人あまりが海に沈んだ。

宝永地震津波碑: 1707年、高さ約30mの津波が三度来たが、死者は出なかった。

本当に、徳島南部の海岸は幾度も巨大津波の被害に遭っていた。

不思議に思うのは、東北大震災の福島原発事故で、巨大津波を国も電力会社も想定外として平然としていたことです。
おそらく地元の漁港には幾つも巨大津波の碑が建っていたことでしょう。
一部の歴史学者は指摘しても、他に問題視した人はいなかったのでしょうか?


 
*10

 
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上: 港に面した広場の中央にあった建物。
民家ではなく、郵便局などの公共の建物のようでした。

下: 日蓮宗 吉祥山 法華寺
上記の建物から東方向に延びる道の奥には寺があった。


 
< 12. 古い民家が軒を並べる >

しかし、東由岐ほどには古い漁村の民家を見なかった。


次回に続きます。


20200621

世界が崩壊しない前に 32: コロナに見る日本政府の危機管理 2



*1

今回、はからずも行政サービスの稚拙さから腐敗と癒着の体質が露呈した。
さらに経済政策の根本的な欠陥も浮かび上がった。



 
< 2.アジアでも遅れをとった日本 >


* 行政サービスと経済政策の問題 *

今回、致命的な体質が露呈した。
1. 国民向けの経済施策は政府の念頭に無い。
2. 国民向けサービス体制は手詰まり。


当初、政府は復興と銘打って牛肉券や旅行クーポンを高らかに謳った。

これは弱っている業界を助け、その出費の大半が余裕のある人々の懐から出ることになり、一挙両得だと好感する人もいただろう。

実は、これは経済理念と国民目線の無さを示している。

これでは本当に苦境に陥った店舗の救援が出来ず、また裕福な人の節約を助長するだけです。
例えば、政府が復興の為と称して、ダイヤモンドや世界一周クルーズの購入費を半額負担すると言っているに等しい。
結局、ふるさと納税と同じ人寄せパンダで、自民党に群がる業界団体を潤し、逆累進課税にもなる。

必要なのは他の先進国が実施ているようなコロナにより困窮している事業体や失業者への素早い直接給付です。
日本では、なんとか一律10万円給付が成った。

経済対策の遅れを見ていると、政府が国民の経済弱体化を甘く見ていることがわかる。
政府は、放置することにより国民と事業体が、失業・倒産・大学中退などで再起出来なくなることを意に介していない。

一方、日銀は金融不安払拭の為に株式の爆買いを加速させ、金融緩和に邁進している(米国でも)。
これは更なる金融危機の芽を大きくし、結果的により巨大なバブル崩壊が襲い、大規模な倒産と失業、そして格差拡大が圧し掛かるだけです。
ここ60年繰り返してきた。


なぜこんなことになったのか?

一にも二にも、政府の経済政策が、産業界をリードする大企業と金融界を優遇することだからです。
国民の事は二の次三の次に過ぎに成り下がった(この問題はいずれ説明します)。


もう一つの問題は、持続化給付金支給などに見られるサービス体制の欠陥です。

今回、パソナや電通がほとんどのサービス業務で幾度も中抜きをしていることが露見した。
両社は以前から政府と癒着し、巨大な利権と実権を握り、非正規問題とマスコミ支配と言う日本の二大悪を担って来た。
両社を経由した業務がお粗末になるのは必然です。
これは国民へのサービス体制の不備と言うより、根絶しなけらばならない自民党・官僚の腐敗・癒着の構造です。

しかし問題の根はさらに深い。

それは1980年代から自民党と官僚が共同で推進して来た、偽りの構造改革・緊縮政策の一つの結果です。
ポイントは、公務員を減らし民間委託に奔走したことです。

既に日本の雇用者に占める公務員比率はOECD諸国の最低になり、平均の1/3に過ぎない。
だが減って当然の巨額の特別会計は減らず、行政の改善も見られない。
つまり、無数の外郭団体と民間(政商のパソナや電通など)と言う隠れ蓑に予算は食い尽くされ続けている。

さらに悪い事に、このサービスは以前の体制より遥かに非効率になっている。
そこでは、一部の天下りが高給を貪るが、多くの従事者は非正規に代えられ、薄給と不安定な身分に落とされ、意欲とスキルは低下し続けている。
あらゆる省の外郭団体、第三セクターが劣化の危機に晒されている。
民間ともなれば、従業員はさらに規制の無い過当競争に晒され、全てが劣悪になる。

これが現在、日本を覆い尽くす政府による国民サービスの実態です。

この問題の本質は、見かけの改革だけで政府・官僚・政商の腐敗と癒着が強固になり、さらにその不透明さと隠蔽により、全貌が掴めなくなったことです。

特に日本は米国流の自由放任経済に加えて、自民党長期政権を放置したことが災いしている。
このような状況で、様々な地球規模の危機に対応出来るはずがない。


次回に続きます。




20200619

世界が崩壊しない前に 31: コロナに見る日本政府の危機管理 1





*1

今回のコロナ危機は、日本政府が見掛け倒しだったことを露見させた。
これで、今後迫りくる様々な危機に対応出来ないことが明白になった。
3回に分けて解説します。


 
*2


* 日本政府の三つの欠陥 *
今回は二つを見ます。

パンデミックなどの危険予知と予防策

以前から警鐘が鳴らされていたにも関わらず、感染症関係の予算削減、医療体制(保健所、感染症病棟)の縮小が進んでいた(他の先進国でも)。
現政権で加速すらしている。

これは中央政府だけでなく自治体においても同様で、緊縮と改革を売りにした首長に多い。
概ね、彼らは科学的知見が乏しく、声高に経済優先(?)を唱える(トランプ大統領など)。
日本は、原発事故の予防でも同じだったが、まったく教訓を得ていなかった。


コロナの感染対策

・クルーズ船寄港拒否のドタバタ
・武漢で発生後も中国観光客の勧誘キャンペーン
・海外からの日本人帰国者の水際対策の抜け
・オリンピック固執による対応の遅れ
・学校閉鎖や満員電車などの三密回避のアンバランス
・補償の無い自粛要請による不公平と洩れ
・捉えらきれないクラスター分析
・設備があるのにPCR検査が不足し、説明と運用のドタバタ
・医療従事者用備品や衛生用品の不備と支給遅れ

全国に指揮しなけらばならい政府の言動には一貫性もスピード感もなく、不信感を買った。
一部の手軽な感染防止を訴えはするが、その一方で感染を野放しにしてしまった。
それに比べ自治体の首長の言動は遥かに国民の信頼を得た。

この結果は明らかだ。
東アジア沿岸部の台湾、韓国、中国、シンガポールは欧米に比べ人口当たりの感染者・死者数が非常に少ないが、日本は群を抜いて一番多い。
これらの国は衛生意識、BCGワクチン接種、さらに有効なウイルス抗体が備わっている可能性があり、同じ土俵で戦いながら日本だけが成績が悪い(山中伸也教授の説)。
日本は発生源から最も遠いのに、最も近い台湾より遥かに劣っている。
両国のマスク配布の対応でも差は歴然としていた。

結果から見れば、大臣が大言壮語した高い民度と言うより、政治(内閣と官僚)がお粗末と言うことになる。


次回は、経済対策についてみます。