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20170207

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 31: ワルシャワ1






*1

今日から、最後の訪問地、ポーランドの首都ワルシャワを紹介します。
訪れたのは2016年10月4日で、快晴に恵まれました。
今日、紹介するのは早朝の街歩きです。

はじめに
夜の明けやらぬ朝、一人で旧市街に向けて歩き始めました。
道に迷いながら約1時間半ほど歩き回り、やっとの思いでホテルに戻りました。
既に出発時刻は迫り、朝食抜きで最後のホテルを去りました。
朝は雲が覆っていたのですが、徐々に快晴となり、昼には素晴らしい観光日和となりました。
写真は撮影順に並んでいます。



 

< 2. ホテルを出発 >

ホテル「ソフィテル・ビクトリア」を出発し、前の「ピウスツキ元帥広場」を通り抜け、北側を目指しました。

上の写真: 左手(西側)の森は「サスキ公園」で、その前に光っているのは「無名戦士の墓」です。

中央の写真: 広場の東側。

下の写真: 「無名戦士の墓」。
この建物に近づくと、中央にある灯火を二人の衛兵が不動の姿勢で守っていました。
朝は寒く、風が吹き抜けていました。
ご苦労様です!


 

< 3. 広場を後にして >

上の写真: 「サスキ公園」を少し覗いて、ビルの谷間に向かった。
この公園を抜ける時、数人のテレビクルーが立っており、「旧市街はどちらですか?」と聞くと一人が指差してくれた。

中央の写真: 国立オぺラ劇場の前を通る。

下の写真: 「Miodowa」通りを進む。
ここは高架になっており、右手はかつての宮殿「Branicki Palace Pałac Branickich」で、この下は線路道になっている。


 

< 4.教会 >

私はワルシャワ蜂起記念碑の前に来て、右手(東側)に曲がった。
どうやら旧市街に近づいたような気がする。

上の写真: 「 Dluga」通りに面している教会Field Cathedral of the Polish Army」。

下の写真: Dluga」通りを突き当たった所にある教会「Kościół Dominikanów pw. św. Jacka」。




 

< 5. 旧市街がわからない >

ここらまで来て、旧市街がどこか分からなくなった。
私には旧市街の雰囲気に思えるのだが。
出勤途上の数人に声をかけても通じないのか、それぞれ指の差す方向が腑に落ちない。

上の写真: 「Kościół Sakramentek pw. św. Kazimierza」カトリック教会。
ここは新市街広場でした。

中央の写真: 「Church of the Visitation of the Blessed Virgin Mary」教会。
15世紀初頭に建てられた、ゴシック建築では最も古い建物の一つです。

ここで行き過ぎたと判断し来た道を戻り、真っすぐ南下した。

下の写真: やっと城壁らしいものが見えた。
中央に見える茶色のレンガ積みの門が「Barbakan Warszawski」です。
あれをくぐると、旧市街に入ります。





 

< 6. 旧市街の市場広場 >

上の写真: 先ほどの門を抜けて、城壁内側の右手を見た。

下の写真: 旧市街の市場広場。
ライトアップはなく、薄明かりの中で静かに朝を迎える町の風情がありました。
これまで歩いて来て見かけた人は少なく、ほとんどが足早に歩く人でした。


 

< 7. 聖ヤン大聖堂 >
上の写真: 旧市街の市場広場。

下の写真: 聖ヤン大聖堂「Bazylika Archikatedralna」。
14世紀末に建てられもので、ここで多くの皇帝が戴冠式を行っている。


 

< 8. 旧王宮 >

上の写真: 旧市街の南端にある旧王宮。


中央の写真: 城壁の外側に沿って歩く。

そろそろ帰路に着かなければならないが、何処にいるかわからない。
結局、来た道を戻ることにした。

下の写真: 先ほどくぐった「Barbakan Warszawski」が見えて来た。


 

< 9. 来た道を戻る >

下の写真: 「クランシスキ宮殿」が見える。
ここはワルシャワ蜂起記念碑の向かいになる。


 

< 10. ホテルが見えた >

下の写真: 「ピウスツキ元帥広場」に着いた。
右手の森の上に尖塔が小さく見えるのは、スターリン様式の文化科学宮殿です。
巻頭写真はこの建物ので、この写真は前日の夜、雨の中をスーパーまでツアー仲間と行った時に撮影したものです。

左手奥に、ホテルがやっと見えた。
張った足を引きずりながら、ホテルに急ぎ、出発には間に合った。

写真の説明は帰国後、調べて書いていますが、歩いている時はまったく分からなかった。
旧市街は近くにあり、方向さえ分かっていれば行けると簡単に思っていた。
冷や汗をかいたが、懐かしい思い出になりました。

次回に続きます。



20170204

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 30: ビルニュスからワルシャワへ





< 1. ポーランドにて >


今日は車窓から見たビルニュスからワルシャワまでの景色を紹介します。
撮影日は2016年10月3日の午後です。


バスの走行距離は約460kmで、6時間以上走りました
走行中、雨が降ることはなかったが、ほとんど厚い雲に覆われていました。
写真は撮影順に並んでいます。


 
< 2.ビルニュスとの別れ >

2枚の写真: ビルニュス。
下の写真: 郊外。


 
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< 6. コンビニ >

中央の写真: 集団墓地。
今回走ったビルニュスからワルシャワの間で大きな墓地を幾つも見ました。
やはり南下するに連れて人口密度が高くなって来たのか、道路沿いに見かけるようになった。
皆、キリスト教徒の墓地だった。

下の写真: トイレ休憩に寄ったコンビニ。




 
< 7.国境 >

上の写真: 先ほどのコンビニすぐ横の交差点から見た村。

中央の写真: これから下の写真はポーランドになります。



 
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これ以降は、暗くなり写真を撮りませんでした。


あとがき
バルト三国から南下するにつれ、大地に緩やかな起伏が多くなり、原生林を見ることはかなり減りました。
バルト三国もポーランドも、農家のたたずまいは経済的な差があまりなかったように思う。
しかし写真No.11のような綺麗な一戸建ての団地を、バルト三国やサンクトペテルブルグの郊外で見ることはなかった。
私が車窓から見た農村の民家は、ロシアが一番貧しく、古いままのような感じた。

参考に、各国の一人当たりのGDP(2013年)を高い方から見ると、エストニア26000ドル、リトアニア25000ドル、ロシア24000ドル、ポーランドとラトビア23000ドルでした。
ちなみに2016年の日本は39000ドルでした。


次回に続きます。



20170201

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 29: ビルニュス 4



 1



今日で、ビルュニスとお別れです。
この日は、霧と紅葉に抱かれた街を堪能することが出来ました。
最後に、ロシアとバルト3国について感じたことを記します。


 

< 2. 地図、黄色の矢印が北側 >

上の地図: 赤い線が旧市街の徒歩観光ルートです。
Gは夜明けの門で、赤いアドバルーン状の印は展望台です。
P聖ぺテロ&パウロ教会です。
 
下の図: 展望台からの眺めを再現しています。
赤いアドバルーン状の印展望台です。
赤い線が旧市街の徒歩観光ルートで、中央の高い塔は聖ヨハネ教会です。


 

< 3. 家並み >

民家や中庭などを撮影しました。

下の写真: 民芸店のある中庭。
壁に数体の聖人像などがはめ込まれ、木の右枝には木彫りのフクロウが見えます。


 
< 4. 印象に残ったもの >

左上の写真: 夜明けの門のイコン。
少し時間が経ってから戻ってみると、窓が開いていて、イコンを見ることが出来ました。

右上の写真: 夜明けの門の直ぐ近くにあるテレサ教会の屋根の黄金の王冠。
この手の王冠は聖カジミエル教会にもあった。
私は他の国であまり見かけたことがない

左下の写真: No.3の写真の中庭に面した民芸店。
ここは夜明けの門の外にありました。

右下の写真: No.5の写真の展望台の柵。
この無数の鍵は、恋人達が一生別れることが無いようにと鍵を掛けていったものです。


 

< 5. 展望台Subačiaus apžvalgos aikštelė >

霧の為にこの写真ではうまく伝えられませんが、展望台の紅葉は素晴らしかった。
眼下に、紅葉する木々の向こうに数々の教会群が霧に霞んでいる景観は幻の中世を忍ばせます。

下の写真: 中央の一番高い鐘楼はビルニュス大学横の聖ヨハネ教会でしょう。
私達はあの前を右から左に通って行きました。

この目の前で、高々25年ほど前にソ連軍、75年ほど前にはドイツ、ポーランド、ソ連の軍隊が蹂躙していったのです。



 

< 6. 聖ぺテロ&パウロ教会 1 >

驚きの教会です。
外見は小さく、それほど古くもなく、一見何の変哲もない教会でした。
しかし、内部に入るとその素晴らしさに目を奪われます。
かつてドイツの小さな村で見たヴィース教会の驚きを思い出します。

この教会は1668年から7年間で造られたが、内装には30年を要している。
これは当時の一将軍が、自分の廟として造らせたものでした。
中は2000体以上の漆喰彫刻で飾られている。
極彩色や黄金色による派手さはないが、白地一色の空間と彫刻群は地元の人にとって清楚で親しみのあるものになっているのだろう。
きっと人々はリトアニアの歴史や聖書、神話の世界に引き込まれていくことだろう。


 

< 7. 聖ぺテロ&パウロ教会 2 >


 

< 8.聖ぺテロ&パウロ教会 3  >


 

< 9. 聖ぺテロ&パウロ教会 4 >

左の写真: 入退出扉側。
その扉の左側を拡大したものが下の写真です。

右の写真: 大鎌を持った骸骨の像。
ロシアとバルト三国の教会を訪れて、何カ所かで教会を出る時に、人間の死を連想させる絵や像を見かけた。
信者に生と死を意識させ、さらに復活を印象付ける場合もあった。

またロシアとバルト三国の教会を訪れて気が付いたのは、スペインの教会と違って、こちらにはイエスの痛ましい磔刑直後の生々しい像を見かけなかったことです。注釈1.
当然、十字架の像は別です。



 

< 10. 様々な旧市街の光景 

上の写真: ある店先。
カラフルな貸し自転車でしょう。

中央の写真: バルト三国の名物、琥珀。

現在でも世界の琥珀の90%はバルト海沿岸で算出される。
バルト三国は未開の地でヨーロッパの果てのイメージがある。
しかし、この地域で採れる琥珀は紀元前2千年紀から中東の文明に知られていた。
そして地中海からユーロッパを抜け、バルト諸国を通りエストニアの北端に至る。この「琥珀の道」が最古の交易ルートの一つとして活躍していた。
ローマ帝国が誕生する遥か前のことです。


下の写真: 道路沿いの民家の壁。
若い芸術家に作品の発表の場を提供しているのだそうです。



ロシアとバルト3国の旅行を通じて感じたこと。
まだポ-ランド訪問が残っていますが、バルト3国への思いを記します。

私が今回の旅行で知りたかった事の一つはバルト三国の苦しみでした。
また今のロシアは脅威なのかを知りたかった。
この二つは、バルト三国にとっては切実な問題です。

切実な問題とは
リトアニアは2015年9月から徴兵制を復活させたが、これは2014年からのロシア介入によるウクライナ内戦の二の舞を恐れているからです。
ちなみに人口325万のこの国の兵員は2万人ほどで、対するロシアは77万人です。
ロシアの脅威に対してバルト三国は、2004年にNATOに加盟し、2016年から更なる派遣軍の増強を受けている。

だが旅行中に、この軍事的な緊迫を感じる場面に出会うことはなかった。
しかし、バルト三国がロシア(ソ連)から受けた仕打ちを知れば、人々の恐怖は理解出来る。
さらに、各国に暮らすロシア住民とウクライナ内戦の発端を考えれば現実味を帯びてくる。


だがそれだけではない。
私がロシア旅行で会った二人のロシア人の話から、その恐怖はさらに現実味を帯びてくる。
彼らの発言について、既に、この旅行記で書いていますが、この件に関してまとめると以下になります。

「かつてソ連邦に属していた国は我々のものである。」
この発言はウクライナとチェチェンについて語ったものですが、バルトについても同様と推察します。

「ロシア人はバルトのような小国に関心はない。」
この発言の真意を汲み取るのは困難ですが、すぐ国境を接しているところに暮らす教養ある若者の発言にしては違和感がある。

また彼らと話していて、ロシアに批判的な話をすると、いとも簡単に「それは欧米のプロバガンダです」と吐き捨てる。
この口調に、私はロシアのマスコミを含めた情報統制とプロパガンダを感じる。
ちなみにロシアの「世界報道自由ランキング」は148位/180ヵ国です。注釈2.

ソ連邦の時代、バルトを含め東欧諸国の人々はモスクワによる徹底した情報統制を経験している。注釈3.
従って、バルトの人々は、例えロシア人が大らかであっても、国のプロパガンダによって侵略に肯定的になることを知っている。
おそらくは、ゴルバチョフやエリツインが潰えた後は、この情報統制が復活したのだろう。

またロシアはプーチンが大統領になった頃(2000-2008)に急成長を遂げたが。
その後、成長は止まり、毎年10%ほどのインフレを起こしている。
観光していて、私は地方の経済は取り残されていると感じた。
このような時、強面が売りのトップは、他の大国も同様だが、不満から国民の目を逸らす為に、外部に対して暴挙に出やすい。

私は少ない情報での感想だが、このような恐れを感じているバルト三国に同情している。


今思うこと
命を賭けて独立を望む小国があり、これを無視し軍事力で抑圧する大国がある。
往々にして当事国の国民や、外国の人は無関心である。

いつか、これら小国の自由と権利が踏みにじられる時がやって来るかもしれない。
このことを私達はアジアや中東でつぶさに見て来た。
私は彼らの自由と権利を世界が守るべきだと思う、これが世界の正義となるべきです。

幸い今、NATOが抑止力となってくれている。
もし、西欧がこの保護を放棄するれば、いずれこの地域が紛争地となり、やがて災厄は蔓延していくことになるだろう。
その過程は、中東紛争で見た通りです。


最も重要な事
大国の振る舞い(外交、経済政策)は影響が大きいだけに非常に重要です。
したがって大国は自ら正義を実践すべきであって、身勝手は抑制しなけらばならない。
身勝手な大国に対して、多数の国が団結して、方向転換を促すべきです。
ましてや、その大国への盲従する愚は避けるべきです。

また、世界が協力して報道の自由度を確保する体制作りが必要です。
米国やロシアなど大国の報道の自由度低下は不安です。
日本も最近は低下傾向にあり、ついに72位に転落し、世界で中位になってしまった。


次回に続きます。

注釈1.
スペイン・カスティーリャ=ラ・マンチャ州シウダー・レアル県、Puerto Lápice 村にあるカソリック教会Nuestra Señora Del Buen Consejoで、私はロー人形のようなイエスの生々しい痛ましい像を見ました。

注釈2.
国境なき記者団が発表する2016年度のもの。
米国は41位でした。

注釈3.
参考図書は「操られる情報」1984年刊、パウル・レンドヴァイ著。


20170128

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 28: ビルニュス 3




 *1



今日はビルュニス旧市街観光の残りを紹介します。
2016年10月3日、月曜日の朝、霧に包まれた町を歩きました。



 
< 2. 地図 >

上の地図: 徒歩観光したルート。上が北方向。
紫線は夜の街歩き、赤線は前回紹介した旧市街、紺線は今回紹介する旧市街です。


中央の地図: この旅行で歩いた旧市街。上が東方向。
上の地図と同じ色でルートを示している。
二つのオレンジ枠は後に紹介するヴィリニュス・ゲットーだった所です。

下の地図: 今回の徒歩ルート。上が東方向。
今回の紹介はSから始まり、Eで終わります。
途中のGは市庁舎広場の噴水に近く、ゲットーの表示があるところです。


 

< 3. 市庁舎広場の噴水近くから >

上の写真: 南側の中央に旧市庁舎が見える。
中央の写真: 中央に東側の聖母マリア教会。
下の写真: 北側のニコラス正教教会の鐘楼が見える。


 

< 4. 市庁舎広場から夜明けの門通りに入る >

上の写真: 左に聖カジミエル教会の屋根が見える。
No.1の写真が拡大したものです。

中央の写真: 聖カジミエル教会の正面。
1604年にイエズス会よって建てられ、帝政ロシアの時代には頭の王冠がタマネギに付け替えられ、正教教会になった。
ソ連時代は「無神論」博物館にさえなった。



 

< 5.様々な教会  >

上の写真: 中央に聖三位一体教会が見える。
この教会はカトリックとロシア正教会の習合によって生まれた宗派の教会。

中央の写真: 中央奥に夜明けの門が見える。
その左にテレサ教会の正面が見える。

下の写真: ピンク色で外観が変わっている聖霊教会。
上の写真の人だかりがその場所です。
リトアニアにおけるロシア正教の中心的な存在。
ここは観光客や参拝客が多かった。



 

< 6. 夜明けの門 >

上左の写真: 夜明けの門をくぐると城外になる。
左側の建物に小さな扉があり、そこから階段を上ると中央のイコンを拝める。
無料です。

上右の写真: この門は昔の城壁でした。
この旧市街には城壁は一部しか残っていない。

下の写真: 黄金に輝くイコン。
このイコンは今も奇跡を起こす力があると信じらていると聞きました。
私は階段を上って、すぐ横まで行ったのですが、諦めて戻りました。
東アジアの物見遊山の観光客が、敬虔な信者達をしり目に我勝ちに占拠する姿を見て、悲しくなったからでした。



 

< 7.夜明けの門を出て >

上の写真: 門から来た道を振り返っています。
中央の写真: 門を外側から見ている。
下の写真: 少し離れた所から門を見ている。

これだけキリスト教会が多いのにユダヤ教のシナゴーグが見当たりませんでした。




二つの悲しい歴史



 

< 8. 近代リトアニアの生い立ち  >

A: 署名者の家。
ピリエス通りに面した「Signatarų namai」の表記がある建物で、場所は地図のSの辺りです。

B: ポーランド・リトアニア共和国(1569-1795)の最大版図、1619年頃。
現在の国境を重ねて表示。

C: 三度に亘るポーランド分割(1772-1795)の推移。
リトアニアはプロシア(ドイツ)、ロシア、オーストリアで分割され、最後にはロシア領に組み込まれた。
赤丸がビルニュス。

D: 第二次世界大戦以降(1939~)、バルト三国はソ連によって占領された。

E: 1920年、ポーランドのビルニュス進攻。
ゲディミノ大通りをカテドゥロス広場の大聖堂に向かって進軍。


リトアニアの独立を巡って
1918年、上記「署名者の家」で始めてリトアニアの独立宣言が行われ、他のバルト三国も同じ年に行った。
1990年、リトアニアは2回目の独立宣言を行い、1年後、バリケード事件の年に他のバルト三国も行った(「リガ3」で紹介済み)。

この2回の独立は、バルト三国の悲しみを象徴し、特にリトアニアは悲惨でした。
それは、リトアニアがヨーロッパのポーランドやドイツとロシアに挟まれていたからでした。
バルト三国の南部は東西の大国が領土を拡張する時は、いつも修羅場になった。

18世紀末以降、国土の大部分はポーランド・リトアニア領からロシア帝国に組み込まれていった(No.8の地図BとC)。
ところが第一次世界大戦にかけてロシア革命(1905、1917)が勃発すると、
民衆はかつての支配国のドイツ、ソ連の革命軍(赤軍)と反革命軍、ポーランド寄りに分かれて戦った。
その間隙を突いて、1918年に前述の独立宣言を行い、諸外国から承認された。

しかし、その後もソ連とポーランドによって領土は分割され、1939年、ついにナチスドイツが進攻し、密約によりソ連領とされた(No.8の写真D)。
第二次世界大戦の1940年、ソ連が侵攻して来たが、41年には独ソ戦が始まった。
民衆は独立を目指し、広大な原生林に隠れながら抵抗運動(パルチザン)を行った(No.9の写真A)。

この間、多くのリトアニア人は国外脱出を図り(米国など)、ソ連は見せしめの大量虐殺とシベリア抑留でこれを弾圧した。
特にスターリンによる粛清は過酷を極め、また偽パルチザンやスパイの暗躍,また
裏切りによって人々は疑心暗鬼になっていった。

やがて、1985年、ゴルバチョフのペレストロイカが始まると、バルト三国に雪解けが起きた。
けっして平坦な道ではなかったが、タリンの「歌の革命」(No.9の写真B、現在のもの)、3ヵ国による「人間の鎖」(No.9の写真C)、リガの「バリケード事件」(No.9の写真D)を経て、バルト三国は真の自由を得た。


なぜ人は独立の為に戦うのだろうか?
バルト三国を巡っている時、上記の問いが脳裏から離れなかった。
私には独立の為に命を捨てる覚悟はないだろう。

ビルニュスの青年に、1991年の独立について添乗員に聞いてもらった。
彼の感想を要約します。

今でも、この戦いの評価が分かれている。
若い自分としては、独立によって自由を得られたことが大きい。
今は、大学を出ても就職先に困る欠点はあるが、昔は、何もなく貧しかった。
年寄の中には、昔の方が良かったと言う人もいる。」

参考: 現在、リトアニアの失業率は10%ほどです

私は少し安堵した。
独立闘争が美化されておらず、国民が冷静に歴史を見ていると感じたからです。
これは想像を絶する分断との闘いだったからかもしれない。
実は、ポーランドでも同じような質問していますが、後日、紹介します。

一方、問題もある。
それは反乱を防止する目的などで占領地の住民を強制移住させ、そこにロシア人を移民させていることです。
地域によればロシア人の比率が高く(エストニアのナルバなど)、不満が鬱積するとロシアへの統合を求め分裂するかもしれない。
そうすればウクライナと同様の事が起きる。

小国バルト三国は、今もロシアの一挙手一投足に怯えているのではないだろうか?
その一方、ロシアの人々は無関心であった。


 

< 9.バルトの闘い >




 

< 10. ビルニュス・ゲットー 1 >

上の写真: 市庁舎広場の噴水近くの西側に延びる通路。
この撮影場所はNo.2地図のGです。

下左の写真: この通路の右手入口に「ビルニュス・ゲットー」の説明板がある。
下右の写真: 「ビルニュス・ゲットー」の説明板。





 

< 11.ビルニュス・ゲットー 2  >

A: 1902年当時の市庁舎広場。
No.3の下の写真とほぼ同じ方向を撮影している。

B: 1939年、ドイツ軍の制服を来たリトアニア軍がビルニュスに進軍。
奥にカテドゥロス広場の大聖堂が見える。

C: ビルニュス・ゲットーの入り口(1941年以降だろう)。
 
D: ビルニュス・ゲットー内の様子(1941年以降だろう)。

E: ビルニュス・ゲットーで1942年に結成されたパルチザン。


ユダヤ人の悲劇、ビルニュス・ゲットーについて
ヨーロッパ各地を旅行していると、ユダヤ人と関わる不思議な発見をすることがある。

ハンガリーのブタペストでシナゴーグを訪れ、ドイツ軍による大規模なユダヤ人虐殺を知った。
シナゴーグ内で座っていると「あなたはスペイン人ですか?」と数回聞かれ、不思議に思った。

後に、スペインのトレドを訪れた時、レコンキスタ終了後の1492年にゲットーが造られたことを知った。

実はこのことが、ブタペストでの質問に繋がったようです。
キリスト教徒の国、ヨーロッパではユダヤ教徒を忌避していたのですが、このスペインの事件以降、排斥されたユダヤ人は、ヨーロッパを東へ東へと移動したのです。
そして東欧やロシアに入ったのでした。

このリトアニアのビルニュスには16世紀からユダヤ人が住むようになり、18世紀末以降は「リトアニアのエルサレム」と称されるようになった。
さらに第二次世界大戦が始まると、ドイツ軍占領下のポーランドを逃れてユダヤ難民が押し寄せ、ビルニュスのユダヤ人人口は15万人に膨れ上がった。

そして、ドイツ軍の進攻と共に惨劇が始まった。
この初期に杉原千畝領事がカウナスでユダヤ人を大量に救ったのでした。

1941年、ドイツの保安警察と反ユダヤ主義のリトアニア人補助兵がユダヤ人虐殺を始めた。
次いで、ヴィリニュス・ゲットーが造られ、ユダヤ人はそこに隔離された。

1943年、ヒムラーの「労働できるユダヤ人は強制労働収容所へ移送し、それ以外の者は全て殺害せよ」との命令により、移送と殺害が始まった。
この間に、抵抗運動は起きたが、最後は森に逃げた。

1944年、ソ連軍がヴィリニュスを再占領した時、2500人ほどのユダヤ人が隠れて生存していただけであった。
ニュルンベルグ裁判(1945-46)で、ホロコーストの3人の証人の一人は、このビルニュス・ゲットーのユダヤ人でした。

イスラエル建国時や中東戦争で活躍した人、イスラエルの強硬派の指導者にはロシアや東欧での苦難や戦いを経験した人が目立つ。
悲しい巡り合わせです。


次回に続きます。