20200506

中国の外縁を一周して 35: 麗江のホテルから木府まで






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今回は、麗江古陳の朝の風景を紹介します。
ホテルから見た玉龍雪山や古陳の甍の波、ホテルの中庭と、
ホテルから木府までの道を紹介します。




< 2. ホテルの中庭から 1 >

宿泊した嵌雪楼客栈には中庭が三つあり、ここは一番広く、レストランと屋根付きテラス席が隣接しています。

上: このレストランで中華ビュッフェを食べました。
味や種類は都市部のホテルより劣りますが、安く立地と眺めが良いので申し分ないです。

下: 客室。
この一階が宿泊した部屋です。


< 3. ホテルの中庭から 2 >

上: テラス席
朝の古陳全景と前日の夜景は、ここから撮影しました。

下: 左がフロント棟で、カウンターは反対側にあります。
右がレストランです。



< 4. 玉龍雪山 >

撮影は7:15~30です(2019年10月26日)。
たまたまレストランで朝食ととろうとしたら、窓から玉龍雪山が見えました。
雲はかかっていたが、微かに朝焼けで輝いていました。
感激です!

上: 右手前の山の麓に黑龙潭があります。

< 5. ホテルのテラス席から >

上: 東を望む。
玉河広場が直ぐ下に見えて、古陳は右手に広がる。
撮影は7:30頃です。

下: 東南を望む、古陳はさらに右手に広がる。


 
< 6. 四方街まで >

この道は、ホテルを下って直ぐに出会う道です。
四方街に通じる道は、これと並行して他に二本あり、それぞれ趣があります。
これはもっとも丘寄りで、素朴な感じがします。
朝は商店街が閉まっているせいもありますが。
麗江古陳の道は、すべて写真のような石畳で覆われています。
趣はあるが、足には負担です。


 
< 7. 途中の珍しいもの >

気になった屋根瓦、看板、門扉を撮影しました。

上: 尖った屋根瓦は、タイの寺院で見られる龍のイメージに似ているようだ。


< 8. 四方街の朝 >

四方街の西端から東側を望む。
昨晩の賑やかさは嘘のようです。
掃除がゆきとどいています。



< 9. 木府に向かう >

静かな朝です。



< 10. 木府の前の広場に到着 >

この通りの両側の店はやがて開き始め、賑やかさを取り戻します。
今は、朝9時ごろです。


次回に続きます。




20200504

福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる 4: 福知山の城下町





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今回は、福知山の城下町を紹介します。
これで福知山の紹介を終わります。


 
< 2.町歩きマップ、上が北 >

この地図は「ふくちやま まちあるきマップ 城下町歴史探訪編」を利用しています。
私は右下の福知山城から赤線に沿って北上し、No11で折り返し、No12からは黒線で城の横の駐車場に戻りました。
城を出たのが13:40、駐車場に戻ったのが15:10でした。

地図の番号について
1 福知山城、前回紹介
2 旧松村家住宅、前回紹介
3 京口門
4 明覚寺
5 明智藪、前回紹介
6 由良川堤防
7 広小路商店街
8 久昌寺
9 金毘羅神社、丹後口
10 高良厄除け神社
11 梅干し半十郎観音
12 御霊神社


 
< 3. 城下町図、上が北 >

江戸時代のものでしょう。
上の白矢印は丹後口を示す、
濃紺の線は、川と堀です。
右下の薄緑で囲まれた範囲が当時の城でした。
現在は右端のほんの一角が天守閣として再現されている。



 
< 4. 由良川堤防を行く >

上: 右に明智藪の一部、その奥に音無瀬橋が見えます。

中央: 堤の右側に明覚寺の屋根、その右奥に天守閣が見えます。

下: 由良川の下流を望む。
堤の左側に城下町が広がる。

光秀が由良川の流れ変え堤を造成し、城下町を整備してから、由良川の川湊を使って水運が発達した。
光秀築城以前の由良川は城下町を突き抜けて大きく右に曲がっていた。

 

< 5. 広小路商店街 >

堤を左側に降りて、広い商店街、広小路商店街に出た。
コロナ危機の関係でか、閉まっている店が多かった。

上: 西側、突当りに御霊神社がある。
下: 逆方向を望む、音無瀬橋が見える。

 

< 6. 広小路から右に折れる >

特に城下町の雰囲気はない。
やがて道が合流すると、寺町通りに入る。


 

< 7.寺町通りに入る >

主に通り長さ300mほどの堤側に、大小の神社仏閣が並んでいる。
南側から祇園社、常照寺、法鷲寺、祇園牛頭天王社、久昌寺、金刀比羅神と並んでいる。
寺はすべて立派で、宗派が異なる。
今なら各社コンビニが競い合ってサービスを提供しているようなものか。

上: 常照寺、日蓮宗
江戸時代、福知山城主松平家の時に現在地に移転して来た。

下: 法鷲寺、浄土宗
江戸時代、福知山藩主朽木家の位牌所として重んじられた。

光秀の後、福知山藩主の家系は7回替わり、朽木家が13代と重ね、明治維新まで続いた。


 

< 8. 久昌寺 >

上下: 久昌寺の山門と本堂、曹洞宗
もっとも立派で、福知山城主朽木家の菩提寺でした。
山門の右側にある小さな社が祇園牛頭天王社で久昌寺の鎮守社です。

 

< 9. 久昌寺の棟鬼瓦 >

上: 久昌寺の棟鬼瓦
これが寺の屋根に載っていたそうです。
今まで気にしていなかったが、寺の本堂や山門、釣鐘堂の屋根をよく見ると鬼瓦だけでなく鯱まで乗っている。

下: 地図で見ると金毘羅神社が堤の横にあるので、今一度、堤に出た


 

<  10. 金毘羅神社 >

上: 金毘羅神社、ここはかつて丹後口でした。
ここには水運の神が祀らており、水運が盛んだったことを物語っている。
写真の鳥居右横の井戸の辺りに番所があった。

旧山陰街道は、地図2のNo3京口門から城下に入り、川に沿って進んで、No9金毘羅神社(丹後口)から城下を出た。

この場所は、寺町道りから右に折れて、狭い道に入らなければならない。
当初、不思議に思ったのですが、旧山陰道から城下町が見通せな無いように意図されていたことが後で分かった。

下: 「なわむしろ」と書かれた看板
この辺り、寺町道りを過ぎて厄除け神社までのこの道の堤側は鋳物師町です。
特段、歴史を偲ばせる家屋は見当たらない。


 
< 11. 高良厄除け神社 >

境内が広い立派な神社で、今も毎年2月、市民が厄除けの輪をくぐる厄除け大祭が行われています。
江戸幕府成立の年、福知山藩主になった有馬家が、この地に鋳物師町を新設した。
この鋳物師町は低地の為に、由良川の氾濫の度に被害を受け、江戸末期に安心立命を願い厄除け神社が創建され、明治末期にこの地に移設された。
残念ながら光秀の治水工事だけでは、由良川の自然の猛威を防ぎきることが出来なかった。

 
< 12. 梅干し半十郎観音 >

新興住宅街の一角にポツリと、昔ながらの祠があり、義賊が祀られていた。
話が面白いので要約します。

江戸時代末、全国的な凶作があり、福知山藩は財政が大変苦しくなって、町民・百姓に厳しい倹約令を敷いた。

福知山の町に親分の用人棒、松岡半十郎がいました。
彼は藩にひとあわふかせてやろうと、統制売買し巨利を得ていた藩制定の問屋に押し入り、男二人を殺害して金を奪い、そのお金を生活に困っている人に施して逃げました。

しかしあえなく捕えられた半十郎は打首となった。
その際、辞世の歌として「三味線の糸より細きわが命 引き廻されて撥(バチ罰)は目の前」と残したそうです。

処刑に際し、半十郎は肌身離さず持っていた、約5cmの観音様を飲み込んで「私の好物の梅干しを墓に供えて願掛けに参ってくれるなら、首から上の病気は必ず治してあげよう」と言い残してこの世を去った。

その後、祠が建てられ、梅干しが絶えないそうです。


 
< 13. 御霊神社 >

光秀が祀られている。
元々、光秀は先に紹介した常照寺に祀られていた。
一方、この地には稲荷社があった。
江戸中期、町民たちが藩主に合祀を願い、この地に創建された。
光秀は没後120年を経ても人気だったようです。
10月の御霊大祭は三丹一の大祭と呼ばれている。


 
< 14. 御霊神社を出る >

上: 神社境内から前の広場を望む、奥に音無瀬橋が見える。

下: 広場の横にある公園。
コロナによる休校のせいか、多くの小中高生が遊んでいた。

 

< 15. 新町商店街から福知山城へ >

上: コロナ危機の為か、ほとんど店が閉まっていた。
とは言っても、おそらくシャッター通りになりつつあるようです。

下: お城通りから福知山城を見上げる。
この道を進み、駐車場に向かう。


* 感想 *

今回、一番の好印象を得たのが、人の温もりでした。
まさにコロナ危機の最中なので、観光地をぶらつくことを非難されるかもしれないと思っていた。
当然、三密を避け、館内や店舗内に入るのを避けてはいたが。

寺町通りを歩いていると、わざわざ自転車を止め、私に話かける地元の年配者がいた。
彼は「どこに行かれるのですか?」と聞いてくれた。
彼は親切に教えてくれて、激励までしてくれた。

またさらに進むと、訪問販売中らしい男性がまた声を掛けてくれた。
彼は「ここは寺町と言うのですよ!」と教えてくれた。

実にありがたい。
文句では無く、歓迎してくれている。

もっとも私達夫婦は目立っていた、この城下町散策ではまったく観光客を見なかったので(城を除いて)。


各地を旅行していると、古い街並みを持つ町に地元愛を持っている人に出会うことがある。

しかし、一方で、どこも寂れて行く町の姿が目に焼き付く。
山陽地域、明石から広島までの山間や海岸沿いを電車で旅した時、北関東を車で旅した時もそうでした。

日本経済が地盤沈下し、世界経済から取り残されつつある中で、ふと足元を見ると、地方都市はどこも衰退し、再生の兆しはない。

一方、北欧や中国を巡っていると、とてつもなく広い国土で再生が進んでいる。
北欧も中国も、半世紀から30年ほどの間に活性化し、ほぼすべての町並みが急速に新たになっている。

日本と世界のギャップに唖然とする日々です。


次回から、徳島の漁村を巡りを紹介します。







20200503

世界が崩壊しない前に 23: 映画「太陽の蓋」を紹介





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福島原発事故を今一度教訓として欲しい!
無料動画「太陽の蓋」を紹介します。
また私の想いを詩にしました。


 
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* 「太陽の蓋」を見た感想 *
https://www.youtube.com/watch?v=x29d7YMhmm8

なぜ日本は、いまだに危機に上手く対応出来ないかが良くわかる。
それは体制が麻痺しているからに尽きる。

数人の首脳が全身全霊であがいても・・・
そんな虚しさの中にも光明を感じることがあった。
身を挺して原発の残った人々と陣頭指揮を執られた人が居たことを。
そして突然の巨大な災厄にもめげず、立ち向かった多くの人々がいたことを。


*「憂いの詩」 私の想いを託しました *


何を恐れるのか

座して逡巡する君よ

持して朽ち果てる故国こそ恐れよ

いま船出する時

渇きや荒波を恐れるな

出でて求めよフロンティアを

闇の中、頼れるのは己一人と覚悟して

家族を愛し、友と手を携え

いざ立ち上がれ



次回に続きます。




20200502

中国の外縁を一周して 34: 夜の四方街を愉しむ





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今回は、麗江古陳の中心、四方街の夜を紹介します。
なかなか味わえない雰囲気があります。
飛んでエキゾチック・チャイナ! 


 
< 2.麗江古陳の散策ルート、上が北 >

黄色線が前回紹介したホテルから黑龙潭のルートです。
赤線が今回紹介するルートです。
玉河広場から四方街までは460mほどです。
白の四角枠はホテルです。
今回の写真は夜6:00から8:30までの撮影です。


 
< 3. 銀細工の店 >

銀細工の店が多かった。
銀細工の飾りは、中国南方の少数民族にとって非常に重要でした。
かつての花嫁姿は豪華な銀製の冠、胸飾り、ブレスレットで覆われていました。
特に有名なのが貴州省のミャオ族で、今でも祭式で女性が身に着けます。
銀飾りは婚資であり、移動可能な財産、身分の象徴でした。


 
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< 5. 四方街 1 >

四方街から幾本もの通りが放射状に延び、その両側には店が並んでいます。
そして観光客で溢れています。

 
< 6. 四方街 2 >

人が増えて来ました。


 
< 7. 大石橋 1 >

下: 大石橋が見えます。
この川の両側にはレストランがひしめき、どこも客で一杯でした。
この一角の雰囲気は、他の通りとは異なります。
レストランが、フランスの洒落たテラス席のように、川に沿って開放的になっています。
ちょうど菊が満開で、さらに夜の明かりが華やかさを増しています。

ただ私としては少し残念だったのですが、流れる音楽が中国ポップと言うか、けたたましいのです。
ライブハウス付きレストランとでも言えるのでしょうが、落ち着かない。
しかし中国の人は、当然楽しんでいるのですが。


 
< 8. 大石橋 2 >

 
< 9. 大石橋 3 >

 
< 10. フードコート 1 >

大石橋の近くにあるフードコートです。
前回紹介したフードコートと造りは似ていますが、こちらは二階もあります。
ここで2回目の夕食です。
いつも通り、妻に注文を任せて、私は撮影です。


 
< 11. フードコート 2 >

 
< 12.フードコートでの料理 >

味は絶品とはいかないが、様々な味付けと食材を愉しめれば満足です。

 
< 13. 四方街に戻って来た >
この夜景を綺麗に撮りたかったのですが、うまく行きませんでした。
写真はスマホによるものです。
凄い人だかりです。
中国人の観光熱と雰囲気を味わって下さい。


 
< 14. ホテルに戻って来た >

このホテルは古風な木造風2階建てで、丘の端の広い敷地に建っています。

上: 入り口。
下: 二階から丘の南側を望む。
ライトアップされた木造風のホテルが並んでいる。


 
< 15. ホテルのテラス席から >

ホテル内の東側、丘の上に喫茶店風のテラス席があり、そこから玉河広場の賑わいを撮影した。
ここでも音楽がけたたましく鳴り、多くの人が夜を楽しんでいた。


* 感じたこと *

30年以上前、大都会の台北や広州の夜を歩いたことがあるが、隔世の感がある。
当時、人々は平日、夜遅くまで働き、週末の夜になると家族で街に繰り出す。
人々は通りを埋め尽くし、レストランや小さな食堂に流れて行った。
その熱気は凄かった。
そこには麗江のような華やかさはなく、只々、一時の休息と憩いを得ようとする人々の姿があった。

ここは実に楽しく、高揚感のあるエキゾチックな観光地です。
日本の皆さんにお薦めです。

昔は、なかなか行けなかったのですが、今は昆明まで飛行機、そこから新幹線で麗江に時間を掛けずに行けます。
安い正規割引の航空券があり、新幹線も高くありません。
(航空券=関空-昆明、一人片道21500円、4時間。新幹線=麗江-昆明、一人2等3300円、3時間。空港-昆明はリムジンバス、40分間、一人400円)

また飛行機で成都まで行き、そこから麗江に飛ぶことも出来ます。
65歳以上なら、多くの観光地の入場料は半額または無料になります。
ホテルも欧米に比べれば、中国の朝食付き二人の宿泊料金は1/4~1/2ほどです。
ちなみに二泊した嵌雪楼客栈は朝食付き二人で一泊6000円でした。
このホテルの評価はTrip.coで4.5/5で良い方です。
さらに地元の食事は安い(高級店は別だが)。

是非とも、皆さんに中国の今の活気を感じて欲しい。


次回に続きます。



20200501

福知山の神代から戦国時代の息吹を感じる 3: 福知山城





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今回から、福知山の中心部、福知山城と城下町を紹介します。
今回は主に福知山城です。


 
< 2. ドライブルートと由良川、上が北 >

上: ドライブルート
元伊勢内宮を出発して、福知山城横の駐車場までのドライブルートです。
ほとんど宮川と由良川沿いを走ります。

下: 由良川、太い青線、赤矢印が福知山。

京都府、滋賀県、福井県の府県境に源を発し、西向きに流れ、福知山で急激に折れて、北東に向きを変え、若狭湾に注ぐ。

福知山は東の綾部に続く盆地にあるが、標高の低い所では10mに過ぎない。
しかし福知山城から由良川が注ぐ若狭湾まで直線で30kmもある。
この事と折れ曲がっている事で、福知山の城下は幾度も洪水に襲われていた。


 
< 3. 由良川の眺め >

由良川の東岸から撮影。
上から順に、下流側、真横、上流(福知山城方面)を見ている。


 
< 4. 旧山陰街道と明智の丹波攻め、上が北 >
赤矢印が福知山。

上: 旧山陰街道
京都から亀山、福知山を抜け、山陰側の鳥取、米子を通り、次いで山陽側に向かい津和野、最終、山口小郡に辿り着く。
福知山から若狭湾に出て丹後に近い旧宮津街道もあった。
福知山は交通の要衝だった。

下: 明智の丹波攻め
福知山が発展する端緒は明智光秀がここに「福智山城」を造ったことにある。

16世紀後半、明智は信長に命じられ、丹波攻略を始める。
最初、福知山城(旧横山城)の南にある強敵の黒井城を攻める。
しかし背後から八上城の裏切りに遭い苦戦し、信長の命で石山本願寺との戦いに向かいます。
再度、亀山城の攻略から始め、西に順次、城を落とし、最後に黒井城を攻め落とし、丹波攻略を3年かけて終えます。

そして亀山城と福知山城を築城し、光秀は亀山城を丹波攻めの拠点とし、娘婿に福知山城を与えた。
光秀は福知山城築城の際、大規模な治水工事を行い、善政を敷いたことでで住民から慕われ、今に「福知山音頭」に唄われ続けている。

福知山音頭(江戸時代に出来た)
「 福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ
明智光秀丹波を拡め ひろめ丹波の福知山
お前見たかや お城の庭を 今が桔梗の花ざかり
・・・・・・・・               」

その二年も経たない内に、近畿一円を任されていた光秀は本能寺の変を起こし、滅亡した。

江戸時代、福知山城は福知山藩の居城でした。


 
< 5. 福知山城に到着 >

上: 城のすぐ横にある無料駐車場。
売店やレストラン、トイレもあります。

下: 駐車場から太鼓橋を渡って城に向かう。



 
< 6. 太鼓橋の頂点から >

上: 太鼓橋の頂点からの眺め

下: 城壁の坂道に来た。
これを登って、天守閣に向かい直ぐに着いた。


 
< 7.天守閣 >

天守閣にはコロナの関係で入場出来ませんでした。
この天守閣は1986年に再建されたものです。
構造は鉄筋コンクリート造ですが、外観は忠実に再現されているとのことです。
木張りの外壁が美しく、優しさすら感じる。



 
< 8. 転用石 >

天守台と本丸の石垣は当時のもので、「野面積み」「乱石積み」「穴太積み」と呼ばれる自然石をそのまま利用している。
また寺などの石造物が大量に使用されており、「転用石」とも呼ばれている。
下の写真の所々に見られる。

私は天主台の石積みにある小さな自然石に触ってみたが、今にも抜けそうで不安に感じた。
逆に言えば、素晴らしい石積み技術と言える。


 
< 9.表側 >



 
< 10. 豊磐井 >

上: 井戸の深さは50mあり、海面下7mに達する。


 
< 11. 天守閣の敷地から望む >
見ている方向は、次の地図の矢印通り。

上: 黒矢印、ほぼ東を望む。
中央: 赤矢印、由良川の上流を望む。
下: 茶色矢印、城下町を望む。
遠くに由良川の堤が見える。
私が散策するのは、主にこの写真の右半分です。


 
< 12. 福知山の中心部、上が北 >

矢印の中心に福知山城があり、東側から来た由良川が急激に折れ曲がって北上し、さらに土師川(ハゼ)が南側から合流している。


 
< 13. これから城下町を散策 >

上: 城を下って、北側に進みます。
写真の奥に見える小さな陸橋を渡り、由良川の堤に向かいます。

下: 旧松村家邸宅。
これは堤から迫り出した土地に建っています。
明治時代以降、大規模な築堤工事を請け負った松村組が、堤防の安全性を証明するために、この地に家を建てたそうです。




 
< 14. 明智藪(蛇ヶ端御藪) >

光秀が福知山城を築城する際、由良川の向きを変え、巨大な築堤を行い、
城下を洪水から守ろうとした。
さらに堤防の前に、この竹藪を造り、由良川の水流の衝撃を和らげるようにした。

これだけでも、光秀はなかなかの知恵者だったと思った。


次回に続きます。