20190321

北欧3ヵ国を訪ねて 58: オスロ17: 陸軍博物館からフェリー乗船まで






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今回は、アーケシュフース城の横にある陸軍博物館を紹介します。
またコペンハーゲン行きのフェリーの乗船も紹介します。
これでオスロとお別れです。



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上: アーケシュフース城(右側の城壁)を出た所。
海側を見ている。
通りを隔てた広い敷地(写真左側)に現代美術館や陸軍博物館などがあります。

下: この敷地からアーケシュフース城を望む。



 
< 3. 陸軍施設 >

上: 建物の表側。
手前のコンテナには「国際派遣の為のノルウェー団体」との記載があります。

下: 上記写真の建物の右側を通って、振り返った所。
先ほどの裏側を見ている。
私の立っている背中側に陸軍博物館がある。





 
< 4. 陸軍博物館 >

世界各地での平和維持活動や派兵の実績を展示。

上: この建物の右正面に入り口がある。
左の木の手前の木陰に砲台をこちらに向けた戦車が置いてある。

下: これはおそらく中東、ベイルートなど高原に建てられた見張り台のようです。



 
< 5. 平和維持活動の展示 1 >

上: アフガンの多国籍軍派兵かもしれない。


ノルウェーは小さい国ながら、20世紀以来、ずっと世界の平和と紛争調停に積極的に関わって来た。

以前紹介した探検家ナンセンは初代難民高等弁務官として活躍し、難民の父と呼ばれている。
国連安保理立案者の一人で初代国連事務総長になったのはノルウェーの外務大臣でした(前回紹介したドイツ占領時の亡命政府)。
ノルウェーがノベール平和賞の選定と授与を行っている。

ノルウェーは数多くの紛争調停に関わっているが、オスロ合意が最も有名でしょう。
当時絶望的であったイスラエルとアラブとの紛争にあって、突如、光明が射したことを覚えています。
1993年、犬猿の仲であったイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間で合意がなった。
残念ながらイスラエルの侵攻で無に帰したが。
この時、クリントン大統領が全面に出ていたが、実はそこに至るお膳立てはノルウェー政府と民間人によってなされていたのです。
またクラスター爆弾の禁止条約の立役者でもあります。

北欧のスウェーデンとノルウェーは世界平和への貢献が素晴らしい。
大国が身勝手な戦争をする傍らで、両国の政府、軍、民間NGO、研究機関が世界各地に出て、平和と紛争解決に尽力している。

なぜ彼らが我が身を惜しまずにここまでやるのか、おそらく日本人の理解を越えているだろう。
ここ数世紀の小国の悲哀、プロテスタント、スカンジナビアの地政学的な背景が関わっているのか?
ひょっとしたらヴァイキング時代からの世界志向が、そうさせているのかもしれない。



 

< 6. 平和維持活動の展示 2 >

上: ノルウェーは実に多くの地域で活躍している。

下: これから乗るフェリーが見える。
荷物をホテルに取りに帰る為に、バス停に行く途中。



 
< 7. ホテルに戻る >

上: バス停。
もし、この付近に荷物を預ける場所があれば、ホテルに戻らず、このままフェリーに乗ることが出来たのですが。
事前にインターネットで探したが見つからなかった。
フェリー会社に、ターミナルにロッカーが有るかとメールで尋ねたのですが、無いとの返事でした。

荷物(スーツケース)の扱いが、旅行の自由度をかなり制限します。

下: バスでもう一度中央駅付近に戻り、トラムに乗り換え、ホテルに行きます。



 
< 8. フェリーDFDSに乗船 >

上: 乗るフェリーが見えます。
同じバス停に戻って来た。
手前にターミナルがあります。

下: ターミナルの検札を無事通過して、振り返った所です。
実はターミナルに入った所にロッカーがあったのですが、スーツケースが入るかは不明です。

私は係員から、ここで注意を受けました。
それはインターネットでの予約書(印刷物)で通過しようとしたら、発券機でチケットを発券しなさいとのことでした。
私が躊躇していると、今回初めてだから良いが、次回から自分でやりなさいと言い、その場で発券してくれました。
感謝!


簡単にフェリーを紹介します。

当然、初めて乗ったのですが、大変お薦めです。
便利で快適、コストパフォーマンスが良く、景色が良く、さらに夕食も素晴らしい。
オスロ発16:30でコペンハーゲン着翌日の9:45で、一日一便です。
料金は全部で146ユーロ(19600円)です。

明細を記します
Transportation Oslo - Copenhagen  0.00 EUR 
 2-bed inside cabin with bunk beds  88.00 EUR 
(部屋の種類が多いが安い方の一部屋の料金。一人で使う)
 7 Seas Restaurant 18:00 CET 7 Seas Dinner Buffet incl 1 drink 7 Seas Dinner Buffet incl 1 Drink      43.60 EUR 
(ビール一杯付きの夕食料金。オプションから時間などを指定する)

Transfer bus: DFDS terminal - Nørreport St. 
Transfer bus: DFDS Terminal - Nørreport station 3.00 EUR
(コペンハーゲンのターミナルから地下鉄駅近くまでの送迎バス料金)

Booking Fee   10.00 EUR   
Credit card fee 1.51 EUR

事前に日本からインターネットで申し込んだのですが、非常に細かくオプションを指定しなけらばならない。
後日予約内容を変更したが無事問題無く、予約は出来ました。

オスロとコペンハーゲン間の移動は、他に鉄道と航空機が有りますが、ターミナルがオスロ市街地に近いこと、夜の移動で時間短縮になり、ホテル代込み運賃としては安いのが魅力です。
予想以上に良かったのは食事とオスロ湾とヘルシングボリの海峡の景色でした。

フェリー内には、このバイキングのビュフェ以外にレストランが有りますが安くはない。
もっとも、北欧のまともなレストランは私には高いのですが。

パンとコーヒーを販売している小さなストアはあります。
もしかしたら、外から弁当を持ち込んでも良いのではないでしょうか。
荷物のチェックはありませんでしたから。

            

 
< 9.ターミナルから船内へ >

上: ターミナル側の渡り廊下。
地中海クルーズで利用したMSCのクルーズ船と違って、乗船はあっけないものでした。
検札などの大渋滞はなく、荷物チェックもなく、ターミナル内部も簡素で迷うことは無い。

下: 通路から最初に乗船したフロア。
この上の階にインフォメーションがあります。



 

< 10. 船内 >

上: 船室。
何の手続きも必要なく、自分の船室に入ることが出来ます。
ただ清掃の関係か、船内で定められた入室時間まで待つことになりました。
この様子だと早く行く必要はないかもしれない。
もっともチェックイン15:15~16:15で、私が検札を通ったのが14:15でした。

私が乗船した時の乗船客は、アジア系やヒスパニックが多く、数人のグループが多かった。
気楽に利用している感じがした。

下: インフォメーション。


次回に続きます。



20190317




隣国はなぜ軍拡に走るのか?


北朝鮮は建国以来、ソ連援助の下で核開発を行っていた。
ソ連崩壊後、この庇護が無くなり、核兵器こそが米国への抑止力とみなされた。

一方、米国はそれまでの宥和策から強硬策に転じ、北朝鮮を悪の枢軸と名指した。
これに呼応するように北朝鮮はミサイル発射と2006年から核実験を繰り返した。

この米国の転換は子ブッシュ大統領(2001~2009)と取り巻きのネオコン(新保守主義)による。
彼らは米国の覇権を守るためには武力行使も辞さないとし、対外戦争と軍事費増大を図った。
これは彼らが軍産複合体で収入を得ていたことと、同時多発テロも影響している。
 

 

 


1980年代、中国経済は躍進を始め、歴史的に貧弱だった海軍力をシーレーン確保の為に増強する。
その後、台湾の領有を巡り米国との間で緊張が生じ、ロシアと協力し欧米を牽制した。
2010年頃から、南シナ海への侵出を強めた。
これは米国の核攻撃と海空軍の中国本土攻撃に対抗する目的で、核ミサイル原潜の深い航路と空軍の滑走路確保と考えられている。

現在、中国の軍事力は世界第3位になり、米国海軍艦艇の大半が太平洋に配されている。


次回、米国の戦争を見ます。

20190315

北欧3ヵ国を訪ねて 57: オスロ16: ノルウェー抵抗運動博物館





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今回は、アーケシュフース城内にあるノルウェー抵抗運動博物館を紹介します。
ここには第二次世界大戦の抵抗運動の様子が展示されています。
小国の悲哀と独立への強い思いが錯綜する中で、希望へと導いた国王の行動が光ります。






 
< 2. 博物館と関連映画 >

上: ノルウェー抵抗運動博物館の外観。
地下に展示室が広がり、狭いながらも十分に当時の状況を感じることが出来ます。
観光客は少ないが、学生や夫婦の見学者が少なからずいた。

左下: 抵抗運動の象徴になったノルウェー王ホーコン7世の肖像画。

右下: この抵抗運動が始まった三日間を描いた映画「ヒトラーに屈しなかった国王」のポスターです。

映画の主人公はホーコン7世です。
私は偶然、旅行に行く前にこの映画を見ることが出来ました。
これはノルウェー製でハリウッド製のような派手さはないが、当時の緊迫感と揺れる首脳陣の思いが伝わってくる良作でした。




 
< 3. 展示物 1 >

左上: この地図はドイツ軍がノルウェーに侵攻した状況を示しているようです。

右下のオスロ湾に一群のドイツ艦隊が侵入しているのが分かります。
当時の政府首脳と国王はオスロにいました。
抵抗のドラマはオスロから始まりました。

ドイツ軍は雪が残る1940年4月にノルウェー各地に同時に侵攻した。
ドイツは前年、ポーランドに侵攻を開始し大戦が始まっていた。
破竹の勢いで進軍したドイツ軍は1940年6月にパリを陥落させた。
この5月にはチャーチルが英国首相となり、英国は和平から臨戦体制に転換した。

左下: おそらく左がホーコン7世のようです。

右で威張っているのが悪名高いクヴィスリング首相でしょう。
ノルウェー軍人の彼はナチスを信奉しており、前年にヒトラーにノルウェー侵攻を要請していた。
実は、彼はナチス主体の「北海帝国」を妄想していた。
いつの世にもこのような人物は出るようです。
彼はドイツ軍侵攻の混乱に乗じ、全権掌握を宣言し、自ら傀儡政権を任じます。
しかし彼はノルウェー首脳と国民からは疎んじられ、ヒトラーを除いてドイツ側も信用していなかった。
彼は戦後、裁判によって銃殺刑に処せられた。
彼の名は今でも「売国奴」と同義語として使用されている。

右下: おそらくドイツ軍に占拠されたオスロ港でしょう。



 

< 4. 映画のシーン 1 >

上: 映画は冒頭、闇夜から始まった。

それはオスロ湾で最も狭いドレーバク水道にあるオスカシボルグ要塞の守備隊が舞台になります。
この要塞の島をフェリーか眺めることができました。

闇夜に乗じてドイツの戦艦が迫って来たので、守備隊長は王宮に判断を仰ごうとするのですが連絡が取れません。
ここで彼は砲撃の命令を独断で下し、戦艦を撃沈します。
(私には出来なかったでしょうが)

この彼の行動が国王に逃亡の時間を与え、後の抵抗運動に繋がった。
後に彼は勲章を授与されます。


下: 右はドイツ公使で左はドイツ将校です。

この映画で国王に次いで、心打たれた人物がノルウェー駐在ドイツ公使Curt Bräuerです。

映画の舞台は翌日のオスロに移ります。
彼はドイツ軍による支配を極力穏便に済まそうと調整に努めます。
ヒトラーとも直談判し、また侵攻して来たドイツ将校相手に孤軍奮闘します。
しかしホーコン7世はヒトラーから条件(傀儡政権を認める)を呑むことが出来ず、家族と政府首脳と共にオスロを去り列車で北部へ逃亡します。

大使の仲介の労は無に帰し、彼は任を解かれソ連への前線に送られ、9年間のソ連での捕虜生活に耐えることになる。
このような身の危険を顧みない他国を思う外交官がいたことに感動した。



 

< 5. 映画のシーン 2 >

上: ホーコン7世と王子、そして政府首脳がドイツ軍の追撃から逃れているシーンです。

下: 国王一行を守る兵士は少なく、少年兵も参加している。

ホーコン7世は逃亡しながらドイツの降伏要求を拒否し続け、2か月後に国外脱出を果たすることになる。
この時「独立を取り戻すための戦い」の声明を残し、王家、政府と軍の要人500名と共に船で英国に亡命します。
ロンドンで亡命政府を樹立し、連合軍と共に戦うことを宣言し、ノルウェー国内の抵抗運動への指示と支援を続けます。

そして国民は一丸となって統率の取れた抵抗をおこなった。
初めは非協力・非暴力で抵抗し、地下に潜伏し、ドイツ軍の劣勢が伝わると武力闘争に切り替えっていった。

戦後、国王は帰国を国民の大歓迎で迎えられ、再び独立を取り戻した。
そして現在、世界で一番豊かで幸福な国と言われる。



 
< 6. 展示物 2 >

ドイツ軍の侵略を模型で示したものです。


 
< 7. 展示物 3 >

抵抗運動の主役たちと様々な抵抗の様子が展示されていました。



 
< 8.展示物 4 >

これはどうやら抵抗運動側によるオスロでの破壊指令のようです。

指令書の地名は地図の黄色の破裂マークで、前回紹介したアーケシュフース城に至る道で、右側にオスロ中央駅があります。
指令書の目標名は、ドイツが創設したノルウェー内のナチス党組織です。
日時は終戦の前年の1944年です。


* 感想

この抵抗運動と映画も含めて感想を記します。

一番印象深いのは、劇中でのホーコン7世が語る言葉です。

彼は「私は国民から選ばれた王だから、もっとも尊重すべきは国民の声である」として、安易にドイツの言いなりなることは出来ないと悩みます。
ドイツに屈服して王家と国民の命を守るべきか、それとも半世紀前にやっと手に入れた独立を守るべきか。

実は、彼は1905年のノルウェー独立に伴い、国民投票でデンマークの王子からノルウェー王になっていたのです。

一方ドイツ侵攻で政府首脳はうろたえ、王は「君たちは国民から選ばれたのだから、国を率いる責務があるのだ」と諭します。
しかし彼らは答えを出しません。

王は象徴的な存在であって、政治に口出すべきでないとホーコン7世
は考えていた。
彼への国民の信頼は絶大で、ノルウェー政府も王の言葉を待ちで、ドイツも彼を条約調印の相手と見做していた。

彼は一人悩み「降伏拒否」を宣言することになる。
映画はここに至る3日間を描いている。


私が北欧に惹かれ、政治社会経済の良さを知りたいと願い、今回の旅にでました。

北欧三ヵ国に共通するのは立憲君主制ですが、大いに英国や日本と異なるものがある。
ここ数百年の歴史を見ると、北欧三ヵ国は王家の力が弱く、貴族と対抗させ、国民がまとまるため、国民が王家に国の統率を依頼するようなところがある。
これはヴァイキングが隆盛した社会背景と共通しているように思える。

ともかく議会制民主主義が国民と王家の信頼によってより強固になっている。
不思議な国です。

抵抗運動が分裂せず、スムーズに行われたのもこの国王への人気の賜物かもしれない。


実は、この館を退出する時、事務所の男性職員が目を合わせ「ありがとう」と言ってくれた。


次回に続く。



20190314

平成の哀しみ4: 深まる亀裂 2: 何が起きたのか





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隣国との諍いは何を意味するのか?



 


韓国と中国は日本に対して二島の領有を主張し、さらに植民地支配への反省を求めている。
また中国は軍事大国へ、北朝鮮は核兵器開発とテロ国家へと突き進んでいる。
一方、日本は過去を賛美するタカ派が政権を担い、軍事大国を目指し始めた。


少し動きを確認します。

中韓のように侵略された国が当時の非道を後になって訴える事は、ドイツや東欧でもあった。
それは戦時中のしがらみ(ナチス加担や独裁政権など)から政治や社会が抜け出せたこと、また社会運動の高まりも影響している。

尖閣問題は中国と台湾が資源獲得を狙ったのが発端だが、日中間で保留扱いにしていたものを日本の国有化で火に油を注ぐ結果になった。

一方、日本も様変わりしていた。

経済は長期に衰退し、政府の景気対策はことごとく失敗していた。
人々は諦めながらも、かつての繁栄を微かに期待もしている。
一方で大戦を知らず歴史を軽視する人々が増えた。

このような中、大戦を美化し、対外強硬策こそが日本復活の切り札との訴が人気を博するようになった。

これは世界史で繰り返されるパータンだが、日本のいつか来た道かもしれない。


次回は隣国の軍拡を考察します。











20190313

春の淡路島



 
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2019年3月9日、快晴の中、明石海峡公園、明石海峡大橋、はなさじきを訪れました。



 
< 2. 明石海峡公園 1 >


 
< 3. 明石海峡公園 2 >

 
< 4. 明石海峡公園 3 >

河津桜が満開でした。

 
< 5. 明石海峡公園 4 >

小鳥が集まっていました。

 
< 6. 明石海峡公園 5 >

 
< 7. 明石海峡大橋 >


 
< 8. はなさじき 1 >

 
< 9. はなさじき 2 >

菜の花が青空に映えていました。







20190312

平成の哀しみ3: 深まる亀裂 1: 日本と隣国





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日本と隣国の関係はどうなったか?


従軍慰安婦
既に議論されていたが1990年代になると、韓国側からの訴訟、国連の賠償勧告が続き、首相は謝罪した。

漫画 ゴーマニズム宣言
1992年連載開始、痛烈な社会批判で右翼ブーム到来。

北朝鮮の核
1993年からミサイル発射実験、2006年から核実験始める。

新しい歴史教科書をつくる会
1996年設立、歴史(自虐史観)を否定する保守団体。

日本会議
1997年設立、軍備増強、首相に強権集中、旧体制の復活などの憲法改正を訴える保守団体。

国民の歴史
1999年、自国賛美でベストセラー。

竹島
韓国は以前から強硬であったが、2000年代から日本で問題視される。

拉致
2002年、北朝鮮が初めて小泉首相に拉致を認めて謝罪。

韓流ブーム
2003年の冬のソナタが契機になり、韓国への好感度が上がる。

尖閣諸島
2012年、石原都知事による購入計画に対抗して日本政府が国有化。

自民党の日本国憲法改正草案
2012年発表、天皇明文化など日本会議の意向に沿った制定を盛り込む。

防衛費増大
2018年、防衛省は攻撃型空母を検討。
首相は米国より7年前の5倍以上になる5兆円の武器購入。


 


何やらキナ臭くなった


次回に続く