20180718

北欧3ヵ国を訪ねて 13: 戦争と平和





< 1. デンマーク軍のコペンハーゲン凱旋 >


今日は、北欧三ヵ国の戦争と平和を取り上げます。
北欧は長い戦いの末に先駆的な外交政策を行い、自国だけでなく世界の平和に貢献している。


 
< 2. 北欧の戦争 >

この地図は北欧三ヵ国(スウェーデン、ノルウェー、デンマーク)が如何に周辺諸国と戦争をして来たかを示す。
この地図はヴァイキング時代後の国家間の戦争を示している。

一方向の矢印は、一方的な戦争または侵攻を示し、黒は植民地化を示している。
周辺国以外の北欧の植民地は除いています。
両方向の矢印は通常の国家間の戦争です。

北欧の中ではスウェーデンとデンマークが、かって周辺諸国を併合し帝国と呼ばれた時代があった。
デンマークはユラン半島で大陸と陸続きなので、特に国境を接しているドイツと領土争いを長らく繰り返した。
写真1はその戦いの一つシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(19世紀)の一幕です。


 
< 3. ストックホルムにて >

上の写真: ユールゴーデン島のヴァーサ博物館のヴァーサ号。
これは17世紀のスウェーデンの戦艦で、初航海で沈没したのを引き上げ復元したものです。
64門の大砲を有する堂々とした全長69mの戦艦が蘇っています。

この戦艦はスウェーデンによるバルト帝国の最盛期を象徴している。
スウェーデンは16世紀初頭よりバルト海周辺諸国を併合し、1618年に始まった30年戦争(最大の宗教戦争)にプロテスタント国として参戦した。
この戦艦はバルト海に面したドイツの港の攻城戦に投入される為に、1628年に重装備を重ねて出港したが沈没した。
30年戦争が終わった時、スウェーデンは北ドイツにも領土を得ていた。

下の写真: ガムラスタン(旧市街)の大広場。
バルト帝国を築いたヴァーサ王朝はこの大広場で起きた事件を契機に誕生したと言える。

1520年、この広場で「ストックホルムの血浴」と呼ばれる虐殺が起きた。
当時、北欧三ヵ国はデンマーク王家が支配するカルマル同盟を結んでいたが、スウェーデン国内では独立を目指す内戦が続いていた。
反乱軍を制圧したデンマーク王は晩餐会を開くと偽り、スウェーデンの有力者を招き、この広場で多数処刑した。

この裏切りに怒ったスウェーデンの人々は、この事件で父を虐殺されたヴァーサを指導者にして独立戦争を戦い抜き、3年後に独立を得た。
こうしてヴァーサ王朝が誕生した。


 
< 4. オスロにて >

上の写真: ノルウェー抵抗運動博物館の外観。
小さな建物だが、地下にも展示場が広がっている。

建物に掲げられている肖像画はホーコン7世で、彼は第二次世界大戦でドイツの支配に抵抗したノルウェー王です。
これを描いた映画「ヒトラーに屈しなかった国王」が最近日本で上映された。
この博物館は当時の国民の抵抗運動を展示している。


下の写真: 博物館の展示。


 
< 5. オスロ湾にて >

上の写真: 写真の左側の島がオスロ湾で最も狭いドレーバク水道にあるオスカシボルグ要塞Oscarsborg Fortressです。
フェリーからオスロ側(北側)を見ている。

実はこの要塞からの砲撃が「ヒトラーに屈しなかった国王」のストーリーを作ったと言える。
この要塞を守る指揮官がオスロ湾に侵入するドイツ艦隊に独断で砲撃し、その旗艦を撃沈した。
私は映画を見て、これが及び腰の政府や象徴的な存在であった国王親子に抵抗する機会を与えたように思った。
ノルウェー各地から攻め込んだドイツ軍は圧倒的に優勢だったが、王家と政府の逃避行、ホーコン7世の降伏拒否、そして英国への亡命によって、国民はナチスの支配を拒否した。
こうしてノルウェーのレジスタンスは終戦まで続いた。

下の写真: 映画「ヒトラーに屈しなかった国王」。
タイトルはノルウェー語で、「王のノー」です。

この映画はスぺタクルではなく、主に国王の葛藤を描き、銀幕から王家の役割と大国に抗う小国の悲哀がひしひしと伝わって来ました。


 
< 6. クロンボ―城の地下 >

上の写真: デンマークのシェラン島北東部、幅7kmのエーレスンド海峡に睨みを利かすように建っているクロンボ―城。

下の写真: このクロンボ―城の地下に眠るホルガー・ダンスク像。
彼はフランク王国のカール大帝(8世紀)に歯向かった中世ヨーロッパの伝説上の英雄です。
やがてデンマークで、洞穴の眠れる英雄が国の有事に復活するというホルガー・ダンスク伝説が出現した。

第二次世界大戦中、デンマークもナチス・ドイツに占領されたが、この時のデンマークのレジスタンスは「ホルガー・ダンスク」と名乗った。



 
< 7. ロスキレ湾とヴァイキング >

上の写真: この地はヴァイキング時代の拠点の一つでした。
ここにヴァイキング船博物館があります。

下の写真: これらは沈没していた5隻のヴァイキング船の内の2隻で、修復され復元されたものです。

オスロ湾は奥深く入り込んでいて水深が浅いのですが、幾筋かの細くて深くなっている水道があります。
11世紀、5隻の船は敵の襲撃を防ぐために、この水道の一つを塞ぐように沈められていた。
このロスキレは11世紀から15世紀半ばまでデンマーク王国の首都でした。

ヴァイキング時代は11世紀半ばで終焉するのですが、この頃には侵略する側から攻められる側にもなっていた。







 
< 8. コペンハーゲン港の要塞 >

上の写真: カステレット要塞。
この写真は運河クルーズ船から撮影したもので、右側に人形の像が見える。

この要塞は上空から見ると典型的な星型要塞で、17世紀半ばに造られた。
しかしその雄姿を忍ばせる面影はない。
コペンハーゲン港は幾度も大艦隊による大規模な破壊に遭い、古い姿を留めることができなかった。


下の写真: Trekroner Fort
左側に見えるのがコペンハーゲン港の入り口にある島の要塞で、18世紀初頭に造られた。

ナポレオンが覇権を拡大する中で、中立を望んでいたデンマークではあったが、その圧力に負けてフランス側に付くと、フランスに敵対した英国は大艦隊をもってコペンハーゲンに来襲した。
1801年、デンマークとノルウエーの艦隊、そしてTrekroner Fortなどが英国艦隊を迎え撃ったが、あえなく敗北を喫した。



 
< 9. フレデリクスボー城と絵 >

上の写真: フレデリクスボー城の中庭。
この城は16世紀中頃より19世紀中頃までデンマーク王の居城だった。
またこの期間はスウェーデンがカルマル同盟から独立していたが、ノルウェーはデンマークに統治され続けた時代にちょうど重なる。
この地はコペンハーゲンよりはオスロに近い場所と言える。

下の写真: フレデリクスボー城に掲げられていた絵。
額に「・・コペンハーゲン・・1659年2月10-11日」と銘記されていた。
この前年からスウェーデン軍は凍結した海峡を渡りコペンハーゲン港を攻略しており(氷上侵攻)、デンマークはこの敗北によってスウェーデン南部などの領土を失った。

スウェーデンが勢力を拡大し続ける中で、17世紀中頃からデンマークは小国へと没落していくことになった。
しかし、スウェーデン(バルト帝国と同盟軍)もヨーロッパを二分した大北方戦争(1700-1721年)でロシア帝国と同盟軍に破れ、没落することになった。






 

< 10. ノルウエーの平和貢献 >

上の写真: オスロ湾に面して建つノーベル平和センター。
ノーベル平和賞と平和について展示。

ノーベル賞の創設者ノーベルはスウェーデンとノルウェー両国の和解と平和を祈念して「平和賞」の授与だけはノルウェーで行うことにした。
これはなぜなのか?

北欧三ヵ国の中でもっとも人口の少ないノルウェーは1450年からの長きに渡りデンマーク、次いでスウェーデンに支配され続けて来た。
やっと1905年、ノルウェーはデンマーク王家から王子を迎え、立憲君主制を樹立し、平和裏に独立を行った。
この王子が「ヒトラーに屈しなかった国王」のホーコン7世になった。

映画によると、彼がヒトラーに降伏しないと返答したのは、自分が国民に選ばれた象徴(王)に過ぎず、勝手に重大な決断をすべきでないと考えたからのようでした。
この王の自覚と身命を賭した行動は、国民との間に絶大な相互信頼があったからでしょう。
この王家の姿は、北欧各国に通じるものです。


下の写真:  陸軍博物館の横にあるノルウエー退役軍人協会の建物。
その前に止めてあるカーゴの絵は、ノルウエー軍のアフガンでの活動を示しているようです。


* あとがき

現在、北欧各国は中立政策を維持し、一方で紛争国の仲介外交と国連の平和維持軍派遣などで世界平和に貢献している。

北欧の中立政策は小国ゆえとヨーロッパの北辺にあることだけで成し得たのではない。
多くの大国に囲まれ、時には圧力に屈し、軍備を保有しながらも周辺国からの信頼を重視する外交は特筆に値する。

また北欧、特にノルウエーとスウェーデンは世界平和に貢献してきた。

両国は多くの内戦激しい地域、コソボやソマリア、アフガンなどに平和維持軍を派遣して来た。
スウェーデンの元外交官ハマーショルドは2代目国連事務総長を務め、コンゴ動乱の調停に活躍したが、その途上、原因不明の墜落事故で死去した。
またスウェーデンのストックホルム国際平和研究所はこの分野では有名です。

ノルウエーは中東和平で大きな足跡を残している。
敵対するイスラエルとPLOの仲立ちを行い1993年、オスロ合意を取り付けた。
しかし調印したイスラエル首相が同国の和平反対派によって暗殺され、画期的であったが結局、進展することはなかった。


次回に続きます。






20180713

北欧3ヵ国を訪ねて 12: 北欧の住まい 2


< 1. オスロ、赤枠A >

今日はノルウェーとデンマークの住まいを紹介します。
そこから北欧の豊かな暮らしぶりが窺えます。


 * オスロ


 
< 2. 撮影位置を示す地図、上が北 >
 
写真は赤枠内か青線の車窓から撮ったものです。
上の地図: 撮影はオスロ中央駅からそれぞれ8km以内で行っています。

下の地図: 撮影は遠いところでコペンハーゲンから北と西に約各40km離れています。




 
< 3.Sognsvann湖からの地下鉄から、青線B >

Sognsvann湖からオスロ中央駅までの地下鉄から見た住まい。
路線の半分ぐらいまではこのような緑豊かな住宅地が続きます。



 
< 4.オスロ中央駅の近く >

上の写真: Sognsvann湖からの地下鉄から、オスロ中央駅の近く地下鉄が地下に潜る前に見えた高層アパート。青線B

下の写真: ビィグドイ地区に向かうバスに乗って、オスロ中心部の住宅街を通過中。赤枠C。


 
< 5.ビィグドイ地区の高級住宅街、赤枠D >

斬新なデザインが目を惹いた。
さすが北欧デザインと思える建築が、伝統的な建築に調和して建てられているのを少なからず見た。



 
< 6. 郊外の島Ormøyaの住宅、赤枠A >

オスロ中心部からUlvøya行きのバスに乗って、車窓から撮った。
これらは別荘のようにも見えるが、ここはオスロ中心部からのバスで8分ほどで来れるので、普通の住宅だと思われる。




* デンマーク


 
< 7. ロスキレの住宅、赤枠E >

上の写真: ロスキレ湾沿いの対岸に見える住宅。
下の写真: ロスキレ湾の海岸からロスキレ駅に向かって少し進んだ所。


 
< 8. 郊外の町の住宅 >

上の写真: ロスキレ大聖堂すぐ横の住宅。赤枠E.
右の高い建物がロスキレ大聖堂。

下の写真:  電車のLyngby駅の西側は直ぐ住宅街で、アパートが並ぶ。赤枠F.
駅の東側、反対側は表通りです。


 
 

< 9. 野外博物館Frilandsmuseet周辺の住宅、赤枠F >

Lyngby駅から3km離れた野外博物館Frilandsmuseetに来ると、そこは緑豊かな住宅街でした。
この辺りは高級住宅街なのか、古い建物や広い敷地で木々に囲まれた住宅が多かった。




 

< 10. 郊外と中心部の住宅 >

上の写真: Hillerød駅からヘルシンオア駅までの電車から。青線G。
この住宅エリアはヘルシンオア駅すぐ手前です。

下の写真: コペンハーゲン中央駅近くのアパート。赤枠H.
この建物の右半分が、今回私が泊まったホテルです。
このロ字型の建物の内側は広い庭になっており、この辺りのアパート(集合住宅)は同じような構造です。
この建物から500m以内に中央駅、チボリ公園、市役所、美術館があり、地価は高いはずですが高層の建物はない。
景観を守っているようです。


* 感想

まず驚いたことは、すべての住宅が新しいか、改修が行き届いているようで、スラム化したり、放置されているような住宅を一切見かけなかった。

私は、一応観光地ではあるが都市部から郊外まで北欧三ヵ国の様々な地域を見てまわった。
上記のことは北欧三ヵ国に共通しているようです。
いままで東欧、南欧、西欧を旅行し、バスや電車の車窓から郊外を見て来たが、北欧の郊外に低質か劣化した住宅や農家が無い国は初めてです。
北欧の首都もローマやリスボン、パリなどと比較して、建築群が古すぎて発展の足枷になっているようなことはなかった。
北欧は古い建築の完全復元にこだわっていないようで、再開発や増改築が進んでいるようです。


予想していなかったことなのですが、住宅に結構、多様性があった。

敷地の広い邸宅や斬新なデザインの高級住宅がある一方で郊外の駅近くには低層アパートがあることです。
これは住民の所得や所有資産に大きな開きがある表れなのでしょう。
けっして高福祉国家イコール画一的な暮らしではない。


また多くの住宅デザインに多様性があり、横並びではなく個性が主張されている。
また郊外では高い木立で住宅の敷地の境界を囲む傾向が強い。

これらの現象は北欧共通の国民性にあるのだろう。
多様性が目立つ、いま一つの理由は、これらの国の発展が主に戦後しばらくしてから起きた為に、新築が多いためだろう。


やはり日本との違いを大きく意識してしまう。
確かに北欧三ヵ国、そして首都の人口も日本の10分の1以下なのだが、それにしても都市部の住宅さえ自然に抱かれている。

一つには自転車で車の代替えを行っているように環境保全重視の姿勢がある。
今一つ見逃してはならないことは、日本のように会社勤めの疲れを癒すためのねぐらでしかない家ではなく、家族や友人と毎日を楽しく暮らすために北欧の家はあることです。

どちらが幸せな生き方かは一目瞭然です。
さらに北欧の方が所得は勝り、福祉も行き届いているのですから。

日本と北欧のこの違いは何に起因するのだろうか?


次回に続きます。




20180709

北欧3ヵ国を訪ねて 11: 北欧の住まい 1


  

< 1.カールスタートの洒落た住まい >


これから2回に分けて北欧の住まいを紹介します。
そこから北欧のライフスタイルの一端が見えて来ます。
今回はスウェーデンを紹介します。


 

< 2. 撮影位置の地図、 上が北 >

上の地図: 主にスウェーデンを示しています。
黒枠は下の地図の範囲で、ストックホルム市と周辺を示します。
青線がストックホルムからカールスタートまでの列車ルートです(おそらく)。
番号9の三枚の写真はこの列車の車窓から撮ったものです。

下の写真: 赤枠A、B、Cが撮影場所です。


 

< 3. シグツーナと近郊、 赤枠A >

上の写真: シグツーナに向かうバスの車窓から。
森に囲まれた広い農地に数戸から十数戸が集合した住宅エリアが点在しています。
人々は、ここからバスでMärsta駅に出て、電車でストックホルム近郊に通勤が可能かもしれません。

下の写真: シグツーナの高台側の住宅。
ここらは別荘地なのか、広い敷地を持った邸宅が並んでいた。

 

< 4. シグツーナの湖に面した住まい、赤枠A >

この家の右側の道路の隣には伝統的で洒落た感じのホテルがあります。
最高の立地の邸宅です。


 

< 5. Älvsjö 駅の直ぐ北側の住宅地、赤枠B >

上の写真: ここはストックホルム中心部への通勤圏らしく低層のアパートが多く見られました。

このアパートのベランダが少し変わっていました。
ベランダはパイプで補強された簡易構造なのですが、大きく掃き出し窓からせり出しています。
そして、そこにはテーブルやチェアーが必ずと言っていいほど置かれていました。
ここで人々は緑が多い敷地で外の自然を楽しむのでしょう。
三人の人が来ている道を奥に進むと、直ぐに森が広がっていました。


下の写真: 直ぐ近くでは大規模な開発が進んでいました。
これはおそらく住宅だと思うのですが、左隣りは大きな学校がありました。




 

< 6. Älvsjö 駅から東へ、赤枠B >

二枚の写真はÄlvsjö 駅からバスで墓地Sandsborg Cemeteryに行く途中の車窓からの写真です。

閑静な住宅街が広がっていました。
高木に囲まれた庭を持つ一戸建ての住宅が続いていました。
アパートがあっても、せいぜい数階建てが多い。
この住宅街を進んでいると、一度、一匹の鹿が横断して行くのが見られました。

これらの家は30数年前に訪れた時の住宅のイメージとは違うようです。
その時、11月はストックホルム北部(ウップサラ)の郊外は雪が積もっていました。
その郊外の家は木の温もりを感じさせ、伝統的で同じ色調のものが多く、また雪下ろしの為か急こう配の屋根が印象的でした。

シグツーナ郊外の家にはそんな雰囲気もありましたが、Älvsjö や都市近郊の家はデザイン、外壁、色調も様々です。
町並みを見ていると、朽ち果てた家は無く、改造されているのか一見する限りでは新しい建物のように見える。


 

< 7.メーラレン湖の岸、赤枠C >

一見、これらは密集した別荘地帯かと思ったが、ここらからストックホルム中央駅まではトラムと地下鉄などで30分以内で行けるのです。

彼らの住まいは自然と一体、さらに最重要なことは家族との団らんのスペースであることなのです。
住まいには狭い庭であっても子供の遊具が置かれていたり、直ぐに水辺や林に行けることが重要なのでしょう。
そして通勤の便が良いことがこれに加わるのでしょう。
なにせ仕事が4時に終わって、直ぐに自然の中で家族と共に遊ぶのですから。



 

< 8.ストックホルム中心部 >

当然、中心部に住む人もいます。




 

< 9. 列車の窓から、一番上の地図の青線 >

車窓から眺めていると、多くは村ではなく数軒が集まった住宅エリアが森の中に点在しています。
農家は広大な敷地に一塊になって建っている。
おそらくは1家族のもでしょう。
時々、農家ではなく別荘風の家が森の中にポツンと点在している。

当然、駅に近づくと大きな街並みが見られます。
スウェーデンはやはり広大な原野や原生林が続く大地と言えます。
きっと土地の値段は安いはずです。


次回はオスロとデンマークの住まいを紹介します。