20200904

中国の外縁を一周して 50: 西山龍門石窟 1

 

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これから、西山森林公園にある龍門石窟を二回にわけて紹介します。

この龍門石窟は昆明観光の人気ナンバーワンです。

中国らしい絶景が楽しめるスポットです。

 

 

 

< 2. 観光地図 >

 

上: 西山森林公園内の龍門石窟部分を切り出した地図

赤矢印: 雲南民俗村近くと西山森林公園を結ぶロープウェイ

黒矢印: 龍門石窟の上部入口まで結ぶリフト

黄矢印: 徒歩で下る龍門石窟のルート

ピンク矢印: 龍門石窟出口からバス乗り場間の電動カー

茶矢印: 地下鉄駅の西山公園に向かうバス

ロープウェイとリフト駅の周辺に電動カーとバス停、車の駐車場が集まっています。

 

私は矢印の順に進みました。

海埂公园側からロープウェイに乗ったのが13:30頃で、歩いて龍門石窟を下り、電動カーでバス停に着いたのが15:30頃でした。

そこからはバスに乗って西山森林公園を縦断し、地下鉄で昆明中心部に向かいました。

 

下: 龍門石窟に点在する寺院が幾つか断崖の緑の中に見えます。

この範囲は上の地図の左側に相当します。

 

 

 

< 3. ロープウェイから 1 >

 

上: ほぼ西山森林公園の全容が見えます。

 

下: 進行方向右側、北側を望む。

滇池の入り江部分が奥に延びている。

 

 

 

< 4.ロープウェイから 2 >

 

左上: ロープウェイ乗場の方を振り返る

 

右上: 龍門石窟がある絶壁

 

下: 滇池を越えると、ロープウェイは一気に高度を上げる。

 

 

 

< 5. リフト乗場へ >

 

上: 対岸手前側の緑が多い範囲が雲南民俗村辺りです。

その左手奥が昆明の中心部です。

 

下: リフトに乗り、振り返ったところ

 

 

*料金と利用順序について

 

先ず下のロープウェイ乗り場でロープウェイだけの料金を払います。

ロープウェイを降りると、直ぐに切符売り場があります。

そこでまとめて切符を購入します。

龍門石窟門票(入場料30元)、龍門索道票(リフト片道運賃25元)、电瓶车票(電動カー片道運賃10元)、环保大巴票(バス片道運賃12.5元)がすべて必要です。

料金は一人分で、龍門石窟門票だけは60~70歳半額、70歳以上無料です。

 

お薦めの順序は、先ずリフトに乗り、上から下に龍門石窟を巡ることです。

逆はかなりきついです。

 

 

 

< 6. リフト 1 >

 

上: 進行方向左

滇池が眼下に広がる。

 

下: 山頂の寺院が微かに見える。

 

 

 

 

< 7. リフト 2 >

 

上: 実はこの眼下の山肌に小石林が広がっているはずでしたが、木々が鬱蒼としていてほとんど隠れていました。

世界遺産で有名な雲南の石林は昆明から120kmも離れています。

 

下: 振り返ったところ

昆明の中心部が見えます。

 

 

 

< 8. いよいよ龍門石窟へ >

 

 

 

*9

 

 

*10

 

先ずは、急な石段を降ります。

手摺りの直ぐ外は、真っ逆さまの墜落を連想させます。

興味津々、やがて聞きしに勝る絶景が広がります。

 

 

  西山龍門石窟について

 

龍門石窟と言えば、唐代に遡る洛陽の仏教遺跡が有名ですが、昆明ではここです。

これは断崖絶壁に開削された雲南省最大規模の道教石窟群です。

古くは、明の時代、16世紀初めに道士が掘削した石室に始まります。

それ以降、螺旋道や洞(石室)が断崖絶壁に彫り込まれて行きました。

今は5ヶ所の道教寺院(石室)を全長67mの階段が結んでいます

 

次回に続きます。

 

 

 

20200829

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 5: 吉野川から貞光へ 

  













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これから剣山に向かってドライブします。

途中、吉野川の潜水橋と二層うだつの町並みで知られる貞光を訪れます。

今回は、脇町潜水橋と貞光にある旧庄屋屋敷を紹介します。

 

 

< 2. 訪問地マップ、上が北 >

 

上: 全体図

青の四角印:うだつの町並みの脇町

黒矢印: 脇町潜水橋

赤の四角印: 二層うだつの町並み貞光

地図中央下部の赤字: 剣山

 

下: 拡大図

青の四角印:うだつの町並みの脇町

黒矢印: 脇町潜水橋

赤の四角印: 二層うだつの町並み貞光

赤い矢印: 剣山に向かう道路

 

 

 

< 3.脇町潜水橋 >

 

上: 南側から潜水橋を望む

私が立っているのは大きな中洲の舞中島です。

この橋の幅は車1台分しかありません。

昭和の初めまで、ここは渡しで行き来したそうです。

 

下: 対岸の右手がうだつの町並みがある脇町

 

 

 

 

< 4. 下流側を望む >

 

川幅は広く、底は浅い。

30年ほど前、子供を連れて、この上流の貞光辺りから下流の穴吹辺りまでの吉野川で泳ぎました。

当時、水は透き通り、美しい自然の中で遊ぶことが出来ました。

 

 

 

< 5. 上流側 >

 

 

 

< 6. 貞光に到着 >

 

私は昼食を、直ぐ近くの「道の駅 貞光ゆうゆう館」でとりました。

コロナ騒動の時でしたが、レストランは開いていました。

眺めも良く、居心地の良いレストランでした。

 

街並みを見るのに駐車場が見当たらなかったので、つるぎ町役場に停めました。

 

上: 松尾神社が見える。

役場の駐車場から出て、松尾神社の前で交差点を左に折れると、二層うだつの町並みが見えるはずです。

 

下: 古い商店街は続くが、うだつは見えない。

 

 

 

< 7. やがてうだつが見えて来た >

 

確かに、こちらはうだつが二層になっている。

しかし脇町に比べると、何か雰囲気が違うと言うか、伝統家屋の町並みと言うより寂れた街並みにしか見えない。

 

何が違うのか?

多くの古い家屋がここ半世紀の間に現代の商店に改修されているようだが、既に古くなっている。

この通りは統一された伝統的家屋の保存が出来ていないのか?

 

さらに見て行くとある違いに気が付いた。

通りが広く、通りの向きが吉野川に直行している。

つまり貞光川に並行し、山に向かっている通りと言える。

また家屋の二階の高さが高く、二階は住居として供され普通の窓が見られる。

一方、脇町では二階の天井が低く、漆喰壁に虫籠窓があるのがほとんどでした。

 

この違いは、この通りの出来た由来と時期が、脇町と異なる事が大きい。

 

一宇から剣山に通じる一宇街道(旧街道)がここ貞光から始まった。

ここは山の産物と平野の産物の交易で発展し、その街道沿いに商家が並んだ。

一方脇町は、城下町と撫養街道が交わった近くの川湊に沿って商家が並んだ。

貞光と脇町は、ほぼ同時期(江戸時代、蜂須賀家)から発展したが、貞光の町並みづくりが少し遅れたことにより、貞光の商家は防火目的よりは豪華さを競って二層のうだつにしたようです。

 

 

 

 

 

 

< 8. 通りを右に折れて入る >

 

下:  旧永井家庄屋屋敷が見えた。

江戸中期に建築された庄屋屋敷です。

左手に無料の駐車場(7台ぐらい)があった。

 

 

 

< 9. 門の前に来た >

 

上: 駐車場から写真を撮っている。

 

 

 

 

< 10. 門を入る >

 

上: 入ると、右手に立派な庭園がある。

 

下: 少し進むと正面に玄関らしいものが見えたが、入口は左らしい。

平屋の屋根は茅葺だ。

 

 

 

 

< 11. 倉庫らしき物が見える >

 

上: 左に曲がると、中庭を隔て二階建ての倉庫らしきものが見えた。

 

下: 右手直ぐに平屋建物への入口があった。

そこを入ると、大きな土間のある台所だった。

私が、この土間に入ると、直ぐに女性が出て来て、どうぞ見てく下さいと促された。

ここの入場料は無料でした。

観光客をまったく見なかったが、管理人が居ながら無料とは、少し悪い気がした。

 

写真はこれから座敷に上がる入口を示している。

 

 

 

 

< 12. 座敷に上がる >

 

上: 先ほど紹介した玄関らしき所に、花が生けられていた。

 

下: 立派な庭が見える。

 

 

 

< 13. 立派な構え >

 

槍が掛けられている。

名字帯刀が許されていた。

建物の説明は音声案内で流された。

 

 

 

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< 15.一番奥から振り返った >

 

下: 天井の写真

 

 

次回に続きます。

 

 

 

 

 

20200820

中国の外縁を一周して 49: 雲南民俗村を楽しむ 3

  







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今回で、雲南民俗村の紹介は最後になります。

最後に、巨大な湖、滇池に面した海埂公园を紹介します。

 

 

 

< 2.散策ルート、上が北 >

 

上: 雲南民俗村と海埂公园

3回にわたって紹介した散策ルートを赤、茶、黒、橙色の線で示します。

右上から始め、中央の下で終わります。

 

下: 今回の雲南民俗村の散策ルート

前回に続いてSから始め、Rで昼食をとり、出口Eで場外に出ます。

 

 

 

< 3. 今回紹介する少数民族の衣装 >

 

Hui= 回族(カイ族)、man=满族(マン族)、bai=白族(ペイ族)

Naxi=纳西族(ナシ族)、meng=蒙古族

 

これらの衣装は、何処までが正式な伝統衣装かは不明です。

今、中国の若い人は民族衣装をコスプレとして楽しみ、ネットで様々にアレンジされたものが多く販売されている。

 

man=满族(マン族)の冠は、清朝の皇女の大きなカツラを連想させる。

 

bai=白族(ペイ族)の冠には白い羽飾りが付いている。

これは未婚女性のもので、民族名の由来だそうです。

 

Naxi=纳西族(ナシ族)の装束では、タスキがどうやら特徴のようです。

 

meng=蒙古族は人口が多く、部族が異なると衣装もかなり異なる。

 

 

 

 

< 4.回族のモスク(清真寺) >

 

蘭州で、立派なモスクを見ました。

 

 

* 回族について

 

中国最大のムスリム(イスラム教徒)民族集団で、言語・形質等は漢民族と同じです。

中国全土に広く散らばって住んでおり、人口は約1000万人で、中国に住むムスリム人口のおよそ半数を占める。

 

回族の起源は、対外交易が盛んであった唐から元の時代に、中央アジアやインド洋を経由して渡ってきたアラブ系・ペルシア系の外来ムスリムと、彼らと通婚し改宗した在来の中国人(主に漢族)にあると言われている。

 

同じイスラム教徒でも、問題になっているウイグル族との違いは何か?

 

彼らは、遊牧民のテュルク系遊牧民族(トルコ系)でウイグル語を話す。

彼らは新疆ウイグル自治区やカザフスタン・ウズベキスタン・キルギスなど中央アジアに暮らし、人口約1千万人です。

彼らの宗派はイスラム教スンナ派です。

 

一方、回族の宗派もスンナ派だが古いタイプのHanafi派です。

恐らくは、イスラム教では宗派が異なると交流が進まないので、言語・形質も異なる回族ではウイグル族の影響を受けないのだろう。

 

成都や蘭州で回族を多く見ました。

 

 

 

< 5. 満族の家 1 >

 

* 満族(満洲族)について

 

ツングース系民族で、古くは女真族と呼ばれ、狩猟と簡単な遊牧・農耕も行っていた。

17世紀に清朝を興した。

現在、中国全土に1000万人、雲南に1万人程いるが、これは清の時代に来た人々です。

漢人との交流が長いので、漢民族に同化してしまっているようだ。

どこまで生活や住まいに、満州民族の伝統を残しているかは分からない。

 

面白い現象がある。

ここ十年ほどで満族の人口が3.5倍に増加している。

これは中国が少数民族を優遇しているので、優遇措置を受ける為だそうです。

 

* 中国の少数民族の優遇政策について

 

漢民族に適用されていた「一人っ子政策」は少数民族には適用されていなかった(現在、中国全体で廃止)。

少数民族の学生は進学で優遇され、例えば学費減免や奨学金、入学試験の加点などがある。

少数民族の家庭に支給される一人っ子手当てが漢民族家庭の2倍であったり、職場内で昇進しやすいこともあるようです。

 

実は、このような少数者の立場向上を図る優遇政策は他でも見られる。

例えば、共産党以外の政党が認められているが、共産党以外の党に属している者には官吏採用の優先枠がある。

米国やインドのアファーマティブ・アクションに似た事が行われている。

 

私達、日本人は、マスコミから中国の悪い面だけを印象付けれているが、実は内部では、様々な融和策や弱者対策が広く行われている。

 

日本はこれに比べてどうでしょうか?

国連からも非難されていたアイヌの旧土人保護法が廃止されたのは、やっと1997年でした。

 

 

 

< 6. 満族の家 2 >

 

 

 

 

< 7. 満族の家 3 >

 

 

 

< 8. 昼食のレストラン 1 >

 

ここは民族餐厅(民族村北路店)で、最も大きくて、ほぼ中央にあります。

ビュフェ形式の食事があり、写真奥の方でやっています。

私は単品料理を注文しました。

品数は多く無く、料理は手軽なものが多いようでした。

 

上: 店内

 

下: 写真に見えるレジで注文します。

 

 

 

< 9. レストラン 2 >

 

上: 厨房です。

 

下: 注文した料理。

特段に美味しいわけではないが、日頃食べない味を楽しめた。

 

 

 

< 10. 白族の村 >

 

上: 大理のシンボルと言われる崇聖寺の三塔のレプリカ。

そこそこの大きさがあります。

これで大理に行かずとも見ることが出来た。

 

下: 白族の村

立派な造りの家が並ぶ。

さすが一時、今の雲南の領域に大理国を建国しただけはある。

残念ながら13世紀に元(モンゴル帝国)に滅ぼされた。

 

* 白族について

 

雲南省大理を中心に住むチベット系民族。

約人口190万人の内、約120万人はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派のペー語を話し、残りは主に中国語を使用している。

かつては大理国を作っていたが、漢族との交流の歴史も長く、漢語をペー語に取り入れている。

牧畜の歴史が長く、乳製品を作っており、中国語で乳扇と呼ばれているチーズが知られている。

漢族の雲南料理同様に、トウガラシで辛く味付けした料理が多い。

米を主食にしたり、ワサビを食用にするなど、日本人と共通する文化も見られる。

 

以前、福建省で客家料理を食べた時、日本の醤油味に似ており、美味しく食べたことがある。

 

 

 

< 11. 纳西族の家  >

 

麗江で宿泊したホテルがこのような造りだったので驚きはなかった。

しかし他の少数民族の家屋に比べると立派な事に気が付いた。

これも茶葉古道の要衝として栄えたからだろう。

 

 

 

< 12.麻栏式民居 >

 

この建物は中国南部(雲南など)に多い様式で、木や竹で造られた2階建です。

2階に人が住み、1階は動物小屋になる。

桂林の山岳民族にも似た家屋があった。

恐らくは湿気を避けるための工夫でしょう。

 

纳西族については「中国の外縁を一周して 33: 东巴文化博物馆から麗江古陳まで」などで紹介しています。

 

 

* 蒙古族について

 

四川省・雲南省のモンゴル族は、元朝以降に移住した人々です。

遊牧民から稲作を中心にした農業に転換した一方で、習俗などはモンゴル族のものを残している。

蒙古族の人口は約600万あり、モンゴル国の人口が約300万人なので、中国国内の方が多い。

 

 

* 中国旅行の少数民族について感じたこと

 

今回の「中国の外縁を一周して」の旅で、知りたかったことの一つが、中国の少数民族の今の暮らしと歴史でした。

 

中国政府は、チベットとウイグル族の扱いで、世界から人権蹂躙を非難されている。

また今回、私が旅行しようとしたら、突如として香港が騒乱状態となり、迂回しなけらばならなくなった。

中国は、香港や台湾に対しても高圧的な態度をとり続けている。

 

これらは、いつか暴発する可能性があり、内乱から経済混乱へと至り、日本などに多大な影響を与えるかもしれない。

この事が気になり、少数民族問題が起きそうな「中国の外縁近辺」を旅先に選んだ。

そして新疆ウイグル自治区に近く回族が多い蘭州、多くの少数民族が暮らす麗江と昆明を旅した(歴史的・文化的な興味もあり)。

 

今、私が感じている事は、中国は想像以上に弱者(少数民族など)に配慮し優遇政策を行い、融和を図っていることです。

そして、困難な少数民族の生活向上と意識向上を上手くやり遂げているようでした。

世界の多くの国では、少数民族の扱いに苦労している。

 

翠湖公園で見た、様々な少数民族衣装を身にまとい楽しく踊っている人々の表情を見て、私の懸念は雲散霧消した。

むしろ満足な暮らしぶりと言えるでしょう。

 

中国では少数民族だけでなく共産党以外の党人、高齢者への優遇政策が進んでいる。

 

あらゆる都市で出会った高齢者(50から60歳で退職)は男女の区別なくたくさん旅行しており、公園では日長、孫や友人と寛ぎ、趣味を楽しんでいた。

彼らは年金や退職金でのんびりと暮らしている(その額は企業規模や都市戸籍と農民戸籍で差はあるだろうが)。

 

この様子は北欧三ヵ国を歩いて感じた、勤労世代からリタイア後の余裕ある暮らしを彷彿とさせた。

60歳過ぎてもあくせくと働かなければならない日本と比べれば優雅でした。

また多くの中国の観光施設や公共施設の入場料が60歳から70歳で、半額から無料となっている。

 

米国の黒人や移民への扱いは、今の大統領になってから一層酷くはなっているが、長年の人種差別や融和政策の欠如が亀裂と混迷を深めている。

日本も、益々弱者に対して苛烈になっている。

 

中国は懸命に問題解決に取り組んでおり、北欧が成し遂げた移民や少数民族との融和を成し遂げる時が来るかもしれない。

中国は後進的な経済から急激な経済発展を成し遂げつつあるので、舵取りは難しいだろう。

北欧も、今の素晴らしい経済力と社会・政治力は、ほぼ大戦後に成し遂げた。

中国は強権をもって改革を断行出来るが、良い場合もあり、悪い場合もある。

 

日本人は、隣国の言語を理解出来ず、隣国に友人や知人もいないので、甚だ情報が偏りがちで、ステレオタイプの見方に陥りやすい。

 

 

今回、外縁を見て回ったことにより、中国の民族移動の歴史を理解する切っ掛けになった。

雲南省と四川省は、民族的にもチベットと深い関係があることがわかった。

やはり現地を訪れて初めて実感できるものがあり、成果に満足している。

 

 

 

< 13. 蒙古族の村 >

 

上: モンゴルの家、ゲル。

かなり痛んでおり、中に入ることは出来なかった。

 

下: 雲南民俗村を出て、湖岸に出た。

そこは海埂公园で、右手にこれから行く巨大な崖が見える。

あの崖に岩窟の寺がある。

 

 

 

< 14.海埂公园 >

 

 

次回に続きます。

 

 

20200813

徳島の吉野川、剣山、祖谷渓を巡る 4: 脇町うだつの街並み 後半

  


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前回に続いて、脇町巡りの後半を紹介します。

伝統的建築物が並ぶ南町以外も歩きました。

 

 

 

< 2.街並みの全体図、上が北 >

 

上: 脇町と道の駅 藍ランドうだつ

赤枠が下の「うだつの町並み」の地図の範囲です。

赤の風船印は脇城跡、青の風船印は「道の駅 藍ランドうだつ」を示す。

直ぐ下に吉野川が見えます。

 

脇町は吉野川中流の左岸、徳島県美馬市にあります。

 

下: うだつの町並み

伝統的な街並みの東西の距離は400mです。

古い建築では江戸時代から明治・大正時代のものまであります。

青枠は道の駅の駐車場です。

ピンク線が今回紹介する街並みの散策ルートで、Sから始まり、ABCDEFと進みました。

 

下側の紺色線は江戸時代の吉野川の石積みの護岸です。

ここに当時、吉野川の川湊があった。

 

 

 

< 3. 南北に延びる通りへ >

 

うだつの町並み(南町)の西端から北に歩く。

 

上: 南を向くと吉野川の堤が路の奥に見える。

見えている四辻を左側に折れると、うだつの町並み(南町)です。

 

下: 同じ路で北を望む。

奥左の小山に脇城跡があるはずですが、城下町がどこまで延びていたかは分からない。

山門が見えるのは安楽寺ですが、この辺りにはお寺が三ヵ所も並んでいる。

 

 

 

< 4. 撫養街道(川北街道) >

 

これが昔の撫養街道です。

撫養街道を東に進む。

 

 

 

< 5.大谷川の橋から >

 

地図のA辺りです。

 

上: 下流を望む

大谷川は吉野川に注ぐ。

 

下: 上流を望む。

 

ここから下流に向かう。

 

 

 

< 6. 脇町劇場(オデオン座) >

 

上: 対岸から東側の脇町劇場を望む

 

下: 劇場内部(借用した写真)

この劇場は昭和9年に芝居小屋として建てられ、戦後は映画館となった。

西田敏行主演「虹をつかむ男」の舞台となった。

 

 

 

< 7. 中町を行く >

 

川沿いの道から右に折れ、中町を歩く。

 

上: 中町を歩く

 

下: 元美馬市立図書館

中町を歩くと左に漆喰の壁の建物があり、門をくぐると、奥に図書館があった。

左の方に進むと、倉庫があり、そこに屋台とうだつの模型があった。

 

 

 

< 8. 屋台とうだつの模型 >

 

左上: 祭礼で使われるだんじりのようです。

 

右上: うだつの模型

けっこう大きくて、手間の掛かる造りになっている。

 

下: 白い二階建ての建物がうだつの模型がある倉庫

ここで南町に戻った。

 

その右横が呉服屋「大一」で江戸時代末期の建物です。

二階の窓は「虫籠窓」で、防火と盗難防止の為に漆喰で造られています。

よく保存されているので、江戸時代の雰囲気が味わえる。

 

 

* うだつの街並みについて

 

前回、1585年に稲田種元が蜂須賀家の家老として、この脇城に来て、城下町の整備と商業の発展に力を入れたことを紹介しました。

また街道と川湊が接する地の利に加えて、蜂須賀家が藍を奨励したことにより、脇町は藍商の中心地となった。

 

そして町は発展していたのですが、江戸後期に2回、大火に遭いました。

稲田家は、防火対策として「袖壁うだつ」を奨励しました。

その後、明治時代には装飾としての役割を担うようになった。

 

この伝統的家屋には、他にも様々な特徴的な工夫が見られます。

屋根の上から下って、「鳥ぶすま」「鬼瓦」「むくり屋根」「虫籠窓」「暖簾掛け」「出格子」「持ち送り」などがあります。

歩いていると大きな表札が道路脇に立っており、上記の説明がされています。

 

昔の暮らしの知恵に触れることが出来ます。

 

 

 

< 9.通りの端を望む >

 

上: 東側を望む

奥に大谷川の橋が見える。

 

下: 端まで行って西側を望む。

地図のC辺り。

 

 

 

< 10.呉服屋「のざき」1 >

 

下: 呉服屋としては一番古い

江戸時代末期の建築。

 

 

 

< 11.呉服屋「のざき」2 >

 

上: 呉服屋「のざき」

 

下: 左の倉庫の手前にトイレがあります

 

 

 

< 12. 共同井戸 >

 

上: 井戸にはつるべ式の滑車が見える

 

下: 左奥に明治末期建築の薬種商家

 

 

 

< 13.戻って来た >

 

上: 南町の通りで西側を望む。

これで一周したことになる。

地図のD辺り。

 

下: 昔の船着場の護岸の上

この周辺に観光交流センターが揃っている。

道の駅の駐車場、その向こうに吉野川の堤が見える。

 

 

 

< 14.船着場公園に降りる階段 >

 

上: 船着場の風情がある。

この門は吉田家の裏門だったようです。

この門の左に石碑が見える。

 

下: 石碑

この石碑の赤線は、吉田家に裏門に記されていた洪水時の水位を示している。

これは国交省が明治17年に測量を始めて以降、最高水位だそうです。

 

徳島の海岸・河岸を旅行して、思い知らされたのは、何処も災害から逃れられないことでした。

 

 

 

< 15.吉野川 >

 

上: 下流を望む

 

下: 堤から脇町を望む

 

次回に続きます。