20200522

中国の外縁を一周して 39: 小さな橋と古城忠义市场






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今回は、麗江古陳内の美しく小さな橋と、
古い佇まいを残す庶民の古城忠义市场を紹介します。


 
< 2. 大石橋から始める >

上: 前回紹介した大石橋です。
これからこの川沿いを南下し様々な小さな橋を訪ねます。
最後に市場へと向かいます。

下: 百岁桥(百歳橋)
橋の上の左に、赤い漢服を着た女性が見えます。
観光客に写真の被写体を頼まれたようです。
若い女性が、漢民族風の着物を着て観光地を歩く姿をたまに見かけた。
厳密な漢民族の服と言うより、ファンタジクな中国歴史ドラマで見かける自由なデザインのようです。
多くは一人から数人です。

以前、私はフランス、アルザス地方のコールマールを訪れたことがあります。
この地も、花に彩られた古い町並みと小川や橋で有名でした。
麗江と比べて町や川、橋は大きい。
しかし、菊で飾られた麗江の街並みと小川はさらに見応えがありました。
菊で飾られた時期に行くべきだとは思いますが。


 
< 3. 様々な橋 >

右下: 橋を渡ると、概ねこのような家に挟まれた小路を行くことになります。


 
< 4. 少し広い通りに出た >

 
< 5. 万古楼が見える >

下: 獅子山公園の丘の上に立つ万古楼が見える


 
< 6. 古城忠义市场の一角に入った >

この一角は、植物、果実、根などの乾物が売られている。
この地は松茸の産地です。
サイズはかなり小さいが、大きな袋に沢山入って安かった。
妻は、大量の干し松茸を買った。
しかし香はほとんどせず、日本に帰ってからもあまり使用していない。
日本の松茸とは異なる。

 

< 7. 地元の人が買っているようです >


 
< 8. 食材が豊富です >

ここを訪れたのは13:30頃でした。
時間帯のせいか、あまり客はいない。
当然、この大きさなので、時間ともなれば多くの市民がくるのだろう。


 

< 9. 様々な店舗形態があります >


 
< 10. 肉売り場 >

先ず、この広さにびっくりした。
そして、ここでは相変わらずの衛生感覚のようです。
下の写真のように、客が肉を手づかみで選んでいる。
もっとも、麗江には近代的なスーパーや商店街もあり、衛生管理が行き届いた店も沢山あります。
違和感なく新旧が混在している、不思議な感じがする。


 

< 11. 鳥や魚類の販売 >

先ず驚いたのは、淡水魚の扱いが多い事でした。
それも活けで売られている。
こんな高地で、これだけあるとは思はなかった。
おそらく池などの養殖が進んでいるのでしょう。

左上: この一角では、鳥と日本人が口にしない様々な小獣をケージに入れて販売しています。
30年以上前、中国の広州や台湾の台北の市場で見た光景を思い出します。





 
< 12. そろそろ市場の端に来ました >

下: 民族衣装を着た老婆が足早に去って行きます。

私達が、例えばアイヌのように日本で民族衣装を着た人を見ると、観光用を連想します。
しかし、中国では少し趣が異なるようです。
特に雲南省で目立ちます。
それは観光用だけではなく普段着、さらに言えば誇りを持って着ているように見えることです。
これは中国の少数民族政策の反映だと思う。


 
< 13. 市場の本来の入り口 >


次回に続きます。


20200520

徳島の海岸と漁村を巡って 4: 恵比寿浜と恵比寿洞





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今回は、綺麗な湾と自然に出来た洞穴を紹介します。
少し行くと日和佐の大浜海岸に出ます。


 
< 2.ドライブルート >

上: 由岐から恵比寿浜までのドライブルート、上が北。
青い線がドライブルート、茶色矢印が由岐、赤矢印が恵比寿浜。
オレンジ色枠が下の写真の範囲です。

下: 恵比寿浜と日和佐を示す、上が南。
A:恵比寿浜、B:恵比寿洞、C:日和佐の大浜海岸


 
< 3. 由岐から恵比寿浜までのドライブルート >

上: 由岐から恵比寿浜までのドライブルート
私は海岸線を見ながら走りたくてこの道を選んだが、失敗でした。
海はほとんど見えず、さらに対向車線が無い。
対向車が来れば、どちらかが数百mほどバックしなければならない。
皆さんは避けた方が良いでしょう。

下: 恵比寿浜
ここにはキャンプ場があり、張ったテントから直ぐ前がこの海岸です。
今から三十年ほど前、台風が接近している時に子供達を連れて来ました。
打ち寄せる大きな波に嬉々としていた子供達を思い出しました。


 
< 4. 左右を望む >

写真3の下とほぼ同じ位置から撮影。
上: 右手、西側
下: 左手、東側


 
< 5. 恵比寿浜西側より >

上: 中央反対側の海に突き出した小山が恵比寿洞です。

下: 浜の最深部で、写真の右端にキャンプ場があります。


 
< 6. 恵比寿浜橋の上から >

恵比寿浜の奥に亀井港があり、その間を水路が繋いでいます。
この橋はこの水路に架かっています。
ちょうど漁船が戻って来たところです。

上: 恵比寿浜の沖合を見る
右手に古い石積みの堤が見えます。
コンクリートでないのが歴史を感じさせます。

下: 亀井港を望む

恵比寿浜は波浪に弱いが、奥まった亀井港なら大丈夫でしょう。
実は、紀貫之が日和佐に4泊5日しているのですが、悪天候を避けるとしたら日和佐の大浜や恵比寿浜より、この亀井港かもしれません。


 
< 7. 恵比寿洞 >

海岸伝いに日和佐に出る途中に、この洞があります。
上の写真の看板が道の端にあり、その前に数台の駐車スぺースがあります。
この岬の小山へと進みます。


 
< 8. 岬を巡る小路 >

駐車場から一度下って、小山を一周する小道があります。
先ずは登ります。

上: 眼下に後に下ることになる小路が見えます。
小路の左に洞があります。

下: 小山の頂に至る小路。


 
< 9. 頂の展望台 >

上: 南側を見ている
下: 東側を望む
恵比寿浜の東側にある岬の先端


 
< 10. 頂から >

上: 西側を望む
中央に日和佐の大浜海岸が見える。

下: 洞に向かって急な階段を下る
右手に洞がある。


 
< 11. 恵比寿洞 >

上: 恵比寿洞
以前、台風接近時、ここに立ったことがある。
大きな波がこの穴を抜けて押し寄せて来る様は圧巻でした。
後で、子供連れは危険だと後悔したのですが。

下: 左手に洞の口が見える。


 
< 12. 大浜海岸 >

上: 恵比寿洞を大浜海岸寄りからクローズアップで撮影。
中央が恵比寿洞の小山。

下: 海亀の産卵で有名な大浜海岸


次回に続きます。





20200518

連載中 何か変ですよ 217: 悲しい社会




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我々の未来は明るいはずだ!
日本に暮らす今、コロナ危機下にあっても、そう信じたい!
しかし一抹の不安が、いなむしろ絶望すら感じる!


 
< 2.懐かしのメモリー >


* 周りを見渡すと *

人々はおおらかで誠実で屈託なく暮らし続ける。
コロナの死者は少なく、やっとトンネルから抜け出て、自治体と政府の支援策も見えて来た。
これからも皆が共に手を携えて進めば、きっと明るい未来が待っている。
そう信じたい。

だがふっと気がかりが脳裏をかすめる。

この2年間で北欧と中国を旅して、日本が取り残されていることを実感した。
北欧は、ここ半世紀ほどの間に幸福で公正な社会、加えて豊かな経済を手に入れた。
1世紀前の北欧はかなり貧しく、国を捨て米国に移住した人も多かった。

中国もここ30年ほどで、経済的に大変貌を遂げ、地方まで浸透し、さらに加速すらしている。
それに連れて、人々の意識やマナーに変化が起きている。

一方、日本はどうだろうか?

1990年代より、明らかに経済は停滞し、それに連れて国際的な指標、幸福、貧困、ジェンダー、報道、政治腐敗など全てが低下し続け、さらに悪化の度合いを強めいている。
それだけに止まらず、国の財政悪化も勢いを増している。
ここ数年、良かったのは株価と失業率ぐらいでした(これには喜べない理由がある)。

さらにコロナ危機で日本の実態が露見した。
縮小されていた感染医療体制、乏しい危機と遅い対応、躊躇する国民支援、政府の心根がいみじくも露呈してしまった。
一方、自粛に見られる国民の高い共同体意識と自治体首長の活躍が目立った。
(重傷者、死亡者が少ないのは東アジアの韓国・台湾とBCG接種国に共通し、少ない感染者は少ないPCR検査による)


* 何が悲しいのか *

人々の好悪感で国の進路が歪められ、暴走が続いていることです。

「韓国・中国が嫌いだ! 弱い日本は嫌いだ! 強いリーダーが好きだ!」
この世論が、ここ10年ほど日本を牽引して来た。
そして防衛が優先され、隣国に妥協しない頑強な政府が出来上がった。

そして何が起きたのか。
期待したアベノミクスは?
おそらく8割の人は好況を実感したことはなかっただろう。
非正規が増え、賃金低下、貯蓄の取り崩しが定着した。
このことが増税とコロナ危機でより経済を悪化させる。
政府は赤字国債大量発行と超金融緩和で乗り切るだろうが、これも将来禍根を残すことになる。

加えて弱者と少数意見が無視され、富裕者・大企業優先で格差が拡大した。
それだけではない、首相の虚言と隠蔽、内閣による官僚とマスコミ操作により、不正が蔓延していても尻尾が掴めない。


一方、この政府に嫌悪感を抱く人々がいる。
「不正・政治腐敗が許せない! 弱者を軽視し大企業優先ばかりが許せない!」と

今の政府に惹かれ、すがる人々は、これらを無視してはばからない。
私は、このような社会に不安を感じる。

大戦前、ドイツ国民も前者と同様の理由でナチスを熱烈に支援した。
ヒトラーが独裁者となり、弱者(ユダヤ人、身障者など)を虐待し始めても、圧倒的多数の人は無視した。
しかし一部の人は地下に潜り、救済を行った。
だが官憲に捕まり、国家反逆罪で死刑になった人も多い。

結局、この悪行を重ねたヒトラーとナチスは自国を破壊し滅んだ。
ヒトラーは大嘘を隠し通したが、現首相の虚言はトランプのように日常的になっている。

翻って、今の米国を見てみれば、黒人嫌い、軍縮反対、中絶が許せない人々が、それだけの理由でトランプを支援する。
トランプがどんなに不正やトンチンカンをやってもお構いなし。

こんな幼稚な社会に、私は絶望しか見出せない。

終わります。





20200517

中国の外縁を一周して 38: 万古楼と大石橋付近のレストラン





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今回は、万古楼と大石橋付近を紹介します。
麗江で、私が最も目を奪われたのは、
大石橋付近の菊に囲まれた清流の美しい街並みでした。
この近くで昼食をとりました。


 
< 2. 万古楼の入口 >

上: 万古楼の入口
下: 中に入ったところ


 
< 3. 万古楼 >

 
< 4. 万古楼を中心にした地図、上が北 >

次に万古楼の最上階から見た360度の眺望を紹介しますので、この地図を参考にして下さい。
この麗江の盆地の広さは、赤矢印の東西で幅11kmあります。
麗江市の人口は114万人です(市の範囲は写真より広い)。
ナシ族の人口は31万人だが、麗江以外にも住んでいる。

赤矢印: 麗江古陳内、万古楼が丘の上に建つ獅子山公園
茶色矢印: 玉龍雪山
黒矢印: 長江、下から上に(北)流れている
黒枠: 麗江三義空港 



 
< 5. 北から東までの眺め >

上: 真北を望む
遠方中央の小山の左麓に黑龙潭がある。
さらに遠方に雲を被った玉龍雪山が見える。
下側の木々は獅子山公園で、右手側に麗江古陳が広がる。

中央: 真東を望む
麗江古陳の中央でしょうか。

下: 東南を望む
右手前に木府の屋根(少し青みがある)が見える。


 
< 6. 南から西までの眺め >

上: 真南を望む
遠方の丘陵地麓の左側に新幹線の麗江駅があり、その丘陵地を右に迂回したら空港に至る。
写真中央、麗江古陳の南端(瓦屋根が途切れる辺り)に、後に紹介する古城忠义市场があります。

中央: 南西を望む

下: 真西を望む
中央の山の向こうに拉市海(湖と湿地)があり、さらにひと山越えると、長江が急激に流れを変える長江第一湾がある。


 
< 7.西北から北までの眺め >

上: 西北を望む
遠方中央、山脈が途切れる谷間を抜ける道を行くと、拉市海や長江に辿り着く。
この道の右手の山の南斜面中腹に普济寺がある。
後にこのチベット仏教寺院を紹介します。

かつて茶葉古道は、南の昆明、大理を経て麗江古陳を通り、ここで西に向かい、長江沿いに香格里拉、チベットに至った。


下: ほぼ北北西を望む
中央遠方、山の麓に束河古镇があります。
後に紹介します。

これで360度、一周しました。


 
< 8. 万古楼から >

上: 万古楼の最上階からほぼ西を見下ろす。

左下: 万古楼内部。
木造造りで高さ33mあります。

右下: 万古楼から東側に降りたところにある展望台


万古楼からの眺めは良いが、それだけです。
万古楼から四方街への下りの道は、登りと違った道をとりました。


 
< 9. 素晴らしい眺め >

上: 四方街

下: 大石橋
前夜、ライトアップされた橋と清流の眺めも魅惑的でしたが、昼も良い。


 
< 10. 大石橋の上から >

上: 下流を望む

下: 上流(北)を望む



 
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< 12. 昼食のレストラン >

ガイドさんに紹介してもらいました。

上: レストランのテラス席から川の方を見る。

下: 店の方を見る。
ここは大石橋の川を少し北上した所にあります。
昨晩、この店の前を通った時は、非常に賑わっていました。


 
< 13. 食事 >

メニューもガイドさんと相談しながら決めました。
この麗江は食材が豊かで松茸も採れる。
料理は彩が綺麗でしたが、深みが無く、美味しいとは言えませんでした。
どちらかと言うとさっぱりした味でした。
強いて言えば高いだけの料理でしょうか。


次回に続きます。


20200515

徳島の海岸と漁村を巡って 3: 由岐漁港 2





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今回は由岐港の後半、西由岐を紹介します。
この漁港を歩き、
切実な現実と興味深い歴史を知ることになりました。


 
< 2. 散策マップ、上が北 >

上の白枠が下の地図の範囲を示す。
赤線が前回紹介した東由岐、ピンク線が今回紹介する散策ルートです。
西由岐はピンク線の下側、港の左(西側)の町です。

S:スタート地点
A: 東由岐漁協
B: ミセ造りなどが見られる古い町並み
C: 天神社
E: かつて由岐城があった城山公園
F: 八幡神社


 
< 3. 不思議なもの >

上: 写真中央、小山の斜面を覆うコンクリート壁に金属製の階段と回廊が見られます。
はじめ分からなかったのですが、後に驚きの事実を知ることになりました。

下: 小魚(イワシ?)の出荷作業が行われていた。


 
< 4. 広い通り >

上: ほぼ中央、南北に延びるもっとも広い通り。
北方向を見ており、真直ぐ行くとJR牟岐線の由岐駅に出会う。

下: 東西に延びる通り
中央に見えるのが城山公園がある丘です。
丘の上が平らになっており、かつて由岐城があった。
城の名残りは無いそうです。

 
< 5. 八幡神社 1 >

上: この道を進むと右手、丘の中腹に八幡神社があります。
この左手が城山公園の丘で、かつては両側の丘は繋がっていた。

下: 八幡神社の下に来ました。

 
< 6. 八幡神社 2 >

上: 八幡神社の境内
実は、私はこの境内が由岐城跡だと勘違いしていて、それらしいものを探したが見つからなかった。
そこでさらに裏山まで踏み込みました。
帰宅後、城山公園が城跡だと知ったのですが。

下: 境内の右側に細い登り道があったので、進みました。
すると、この道の右側に看板(写真中央)があり、赤字で「想定 津波高さ」と書いてありました。
その看板の位置から眼下(東側)を見下ろすと、町のすべてが水面下に没することが分かった。
一瞬、寒気がした。


 
< 7. 八幡神社の岡からの眺め >

上: 前述の看板の位置からの眺め

下: 岡から西側を眺めた。


 
< 8. 丘を西側に降りる >

上: 墓地が斜面一杯に広がっていた。

下: ちょうど、丘を下りきり、振り返ったところ。


 
< 9. 西由岐を行く >

上: 八幡神社が見える

下: 漁港に出てから、来た道を振り返った。


 
< 10. 漁港に戻った >

上: 西由岐側を望む
右側、自転車が置いてある向こう側で、ワカメの天日干しが行われていた。
黒いビニールのようなもので上部を覆っていた。
10分ほどの間に、二人がワカメの干し具合を調べに来ていた。

下: 東由岐の方を見た

私は、ここで持参の弁当を食べた後、次の港に向かった。



* 由岐を歩いて *

様々なことを知り、実感することが出来た。

 
< 11. 東南海地震による津波の恐ろしさ >

上: 散策している時に見つけた表示板
これによると青色で示されるているように、すべての街並みが水面下に沈む。

赤色部分が高台で、写真で見た金属製の階段のあった場所です。
八幡神社、天神社、城山公園も標高は高くて10mほどしかありません。
しかし最大津波高さは、下の図(赤矢印)にあるように徳島県沿岸は20mを越えると予想されています。

最大津波高さは防波堤などで抑制され、浸水深さは最大10mと想定されているようです。
徳島県のH24年の想定では、美波町の津波による死亡者は2300人だそうです。

しかし素人の私ですが、この港にそのような防御効果があるとは思えない。
さらに、津波の第一波(+20cm)は地震発生の12分後、最大波は29分後だそうです。
高齢者が多い中で、どれだけの人が高台に逃げれるのか?

如何に日本が脆弱かを知ることになった。




< 12. いにしえの海路 >

今回訪れた海部郡の港は、古くから海路としても使用されていた。

平安時代、紀貫之が土佐(高知)での国司の任務を終え京都に帰ります。この時、2ヵ月の船旅となり、この様子を「土佐日記」に残しました。
船の航行は海岸に沿い、座礁と海賊を避けながら、多くの港に停泊し、風待ちも行わなければならなかった。
左下地図の赤線が凡その航路で、実際は黒点の港にそれぞれ1から10泊しています。
右下地図の赤丸は予想された寄港地で、下は高知県野根(徳島県宍喰の隣)、上は日和佐(由岐と同じ美波町)です。


 
< 13. 鎌倉時代から戦国時代 >

上: 屋島の戦い
由岐の港は、鎌倉時代には雪の浦や雪湊と呼ばれていた。
源平合戦、屋島の戦いから逃げた平維盛は「平家物語」によると、南下し、
雪の浦(東由岐の大池の辺り)から船で鳴門、和歌山の方に向かったとされている。

下: 戦国時代末期の四国の勢力図
当時、由岐の辺りは三好勢が支配していたが、長曾我部が勢力を伸ばし、海部郡一帯の城を南側から攻め落としていった。
この時、由岐城も降伏し、その後、城主の由岐有興は別の戦いで討ち死にしている。
海部郡にはかつて20を越える城があった(多くが城跡)。
今回は日和佐城を眺めることが出来た。

 
< 14. 由岐漁港 >

由岐港の歴史から漁師の活躍、漁業の発展が見えて来る。

A: 明治時代の漁師の船、カンコ船(手漕ぎで帆の無い全長7~8m)?
B: 石垣弥太郎
C: 楠本勇吉
D: 延縄漁
E: 毎年10月に由岐で行われる伊勢海老祭り


由岐・志和岐の二人の漁師がフロンティアとなった。

石垣弥太郎は明治21年、カンコ船十隻を従え博多へ出向きました。
鯛の一本釣りではうまくいかず空しく由岐へ舞い戻りましたが、「レンコ」(鯛)のほか「アカモノ」(体表が赤色)が釣れるのを知った弥太郎は、挫けることなく毎年レンコ延縄(図D)に挑戦した。
明治35年には一本釣りの全盛期を迎え、後に以西底引網(九州西岸以西で行われる)へと発展する。
彼が正に北九州の漁場開拓を行ったと言える。

カツオ、マグロ漁船員であった楠本勇吉は、明治35年、カツオ漁を目指して岩手県大船渡村へ渡りました。
現地は沿岸漁業の不振で悩んでいましたが、勇吉は意外に豊富な「アカモノ」に目をつけ、故郷でやっていた「てんてん釣り」の漁法を指導した。以後漁獲量は飛躍的に伸び、彼の滞在は28年にも及んだ。

この事例を見ていると、明治期に既に地元の沿岸漁業に見切りをつける漁師がいたこと、また遠方へ進出する気概があったこと、さらには漁法の改革が進んでいったことがわかる。
当時、漁業権や縄張りの争いは無かったのだろうか?


次回に続きます。