20200301

中国の外縁を一周して 24: 新幹線で西安から蘭州まで




*1


今回は、前回に続いて新幹線からの車窓風景を紹介します。
この西安から蘭州までは、かつてのシルクロードで、
おおよそ漢民族の支配の限界地でした。
少し西域の雰囲気を味わうことができます。


 
< 2. 新幹線のルート >

下: 赤線が今回の車窓風景の範囲です。
写真はすべて撮影順に並んでおり、線路の北側を撮っています。
写真の左側が進行方向になります。

西安は広い盆地ですが、やがて剥き出しの山々の間を列車は進みます。
幾つもの黄河の支流、渭河(渭水)などが曲がりくねり、深い谷間が行方を遮ります。
列車は幾度もトンネルを抜け、河を渡り、時折、谷間の盆地を通過します。
そして山を越える度に空は澄んでいきます。


 
< 3. 西安駅を出て >

写真は西安の都市部から外れまでです。
高層マンションが林立しています。

下から2番目の写真: 今から20年ほど前まで見られた煉瓦積みの農家は沿線でほぼ見られなくなった。
今は、新しい造りの2か3階建ての家か、高層マンションに替わった。

一番下: 前回も合わせて6時間、車窓から墓を探していたのですが、撮影できたのはこれだけでした。
肉眼では他にも一つか二つ見たのですが。
畑の中央に、白い墓石らしきものがポツリ、ポツリと左右に見えます。
ここでも墓が集約されておらず、一つづつ独立しています。
もしかしたら井戸の設備かもしれませんが。


 
< 4.杨陵南站付近 >

ここもまだ西安を中心とした広大な盆地の一角です。

一番下: 珍しいキリスト教会。
現在、中国ではキリスト教が普及しており、政府が警戒しているとの話を耳にしました。
共産主義国家で宗教が認められていることが不思議ですが。

もう一つ、不思議な光景があります。
それはここから西に進むとブドウ畑が増えてくることでした。

 

< 5. 岐山の辺り >

下から1番と2番: 岐山站前後の風景です。
ここもまだ広大な盆地の中です。

この岐山辺りには歴史的な魅力があります。
一つは、周王朝の発祥の地であり、紀元前7百年前頃まで、周王朝(西周)の中心地でした。
秦の始皇帝の時代は、これより東側、今の西安西の咸阳に首都が造られた。
秦の時代も、盆地北側にある岐山を神聖視していた。

いま一つは、三国志で最後の舞台となる五丈が原もこの辺りです。
諸葛孔明と司馬仲達が戦った所です。
その台地は、おそらく線路の南側にあるので確認できませんでした。


 
< 6. 宝鸡南站 >

この駅に停車したのは13:10です。
ここで盆地と別れ、列車は山岳部の谷間に入って行きます。

ここでも高層建築群の建設中が目立ちます。
今回、特に印象深かったのは、高層マンションの建築は数棟ではなく百棟を越える規模で同時進行していることです。
しかも、いたるところで、奥地でも。

これまで30年ほどの間に、7回ほど中国を旅行したが、益々中国全土の津々浦々まで、開発が及んでいることに驚かされた。

下の写真: 建築工事の様子。
今から10年以上前までは、建物は煉瓦積み、高層建築でも工事現場の足組に竹を使用していたのを見た。
様変わりしている。



 
< 7. 宝鸡南站と天水南站の間 1 >

宝鸡南站を出ると、直ぐ山間に入り、長いトンネルを抜けると、少し視野が広がって来た。
明らかに空の様子が異なる。
今までのどんよりとしたぶ厚い雲ではなく、湧き上がる雲の間に微かに青空が見えるようになった。

それでもこの辺りの平野部は、曲がりくねった渭水の両側に幅1~2kmの幅しかない。
山肌は荒れて、草木で完全に覆われている所はない。
河はどこでも泥流だった。



 
< 8. 宝鸡南站と天水南站の間 2 >

天水南站に近づくと、平野部が少し大きくなり、高層のビル群が増えた。
またブドウ畑も多い。


 
< 9. 天水南站を過ぎて >

天水南站に着いたのは13:57です。
この辺りが、西安と蘭州のほぼ中間地点になります。
益々、周辺の山々は深くなっていきます。
この天水から東南約50kmの所に麦積山石窟(世界遺産)があります。

上から二番目の写真: 山の頂上に寺院らしい建物が見える。
その右側の急斜面には、この地方特有の民家群が段々状に連なっている。


 
< 10. 秦安站辺り >

一番上の写真: はじめて山頂に狼煙台らしいものを見た。
ここは秦安站の手前になります。
この駅には停まりません。

他の三枚の写真: 秦安站を過ぎてから。


 
< 11. 通渭站に至る >

この駅に停車したのは14:28です。
蘭州までは後1時間弱で、これが最後の停車駅です。

上: また狼煙台を見つけた。
唐代まで遡るのだろうか?

下から二番目の写真: 風力発電機の製造。
こんな奥地に、金属加工の製造メーカーがあることに驚いた。
他にもいくつか見た。

実は、天水から蘭州、敦煌を含む甘粛省は中国最大の石油埋蔵量があり、、また鉱産物が豊富で、多くの希少金属の埋蔵量でも中国第一位です。
この細長い盆地に中国10大工業都市があるのです。






< 12.定西北站まで >


 
< 13. 定西北站 >

ここは通過するだけです。


 
< 14. 蘭州に到着 >

蘭州西駅に到着したのは15:20です。
さすが甘粛省の省都だけあって、高層ビル群がさらに増した。

追記
やはり新幹線は車窓の景色が楽しめるので良かった。

西安(長安)から蘭州もシルクロードの一部なのですが、蘭州から以西の敦煌までが、黄河を渡って進むので河西回廊と呼ばれた。
地図で見ると、大きく北に迂回していた黄河が、一気に南に遡上しこの蘭州を横切る。
黄河を渡河しなければならないことが、境界となり、旅人の逗留地となり、蘭州の役割を高めたのだろう。

今回、西安から蘭州までの道のりで既に緑が少なく険しいことを知った。
かつての交易商人や西域に仏典を求めた僧らが、この険しく長い道のりを行き来したのだと感慨深かった。

シルクロードを少しでも味わってみたいと思い、今回の旅行に蘭州を組み込んだ。
中国旅行でビザを必要としない限度の15日間で、中国の外縁部一周、廈門、北京、(開封)、西安以西のシルクロードの一都市、成都、麗江、昆明、
広州)、香港を一周しようとしたら、蘭州までが精一杯でした。
香港と広州は、香港の騒乱で直前に取止めました。
蘭州には新幹線で入り、一泊して次の夜には航空機で成都に飛ぶ強行軍でした。
列車で成都に向かうのは時間が掛かり過ぎるので止めました。

残念だったのは、世界遺産の炳霊寺(へいれいじ)石窟に行けなかったことです。
本来、丸1日(約7時間)で観光出来るのですが、観光シーズンが終わっており、ボートでの渡河時間が読めず、夜の飛行機に乗るのが無理だったからです(高額でも良ければ可能なのですが)。


次回に続きます。



20200227

世界が崩壊しない前に 3: 警鐘を鳴らし危機を乗り越えようとした人々






ここ半世紀の間にも様々な危機を訴え、乗り越えようとした人々がいた。
人々は彼らをどう見ているのだろうか?
残念なことに彼らは無視され貶められることが多い。


幾つかの事例を見ます

A 京都大学原子炉実験所の研究者らは、福島事故の前から原発の危険性を訴えていた。

B 百名を越える世界の学識経験者(ローマクラブ)が、資源・人口・環境などで地球は成長の限界を迎えると訴えた。

C ソ連の元書記長ゴルバチョフは、核戦争勃発の危険を訴えた。

D スノーデンは、自ら関わっていた米国政府による電話やインターネットでの世界の要人と米国民への監視体制が進行していることを暴露した。

E グレタは、先進国首脳に対し、地球温暖化に対する無策を痛烈に非難し続けている。


それでは世界はどのように反応したのか?

A: 福島原発事故後も訴えは無視され続けている。

B: 皮肉だが、少しは前進している稀なケースです。

ローマクラブ発表の後、アラブ石油輸出国機構が米国のイスラエル寄りを封じるために、始めて石油価格の大幅引き上げで対抗した。
これが後に、石油価格高騰から世界的な節約へと繋がった。

C: 彼の提案により核兵器削減は一歩進んだが、交渉相手の米国から梯子を外され、彼は国内で孤立し努力は徒労に終わった。

D: 彼と他に二人も同様に訴え続けているが、事態は変わらず、彼らは米国の司直の手から逃げ続けなければならない。

E: 一人で立ち上がった少女の行動は、世界の人々、特に若い人に地球温暖化の危機を自覚させた。
しかし自覚が必要な首脳ほど彼女を茶化すか、迷惑扱いしている。

概ね、多くは警鐘を無視し、危機を無視するようです。


現在も、日本の経済・金融政策、米国主導の自由放任経済に警鐘を鳴らし続ける学者はいるのだが・・・



次回に続きます。



20200226

中国の外縁を一周して 23: 新幹線で開封から西安まで




*1


今回は、2回目の新幹線からの車窓風景を紹介します。
開封から蘭州まで行ったのですが、西安までを紹介します。
開封のホテルと開封北駅も簡単に紹介します。


 
< 2. 新幹線のルート、上が北 >

赤線が今回の新幹線乗車ルートで、黒線が前回の北京―開封間ルートです。
今回の走行距離は約1200kmで乗車時間は6時間3分、乗り継ぎはありません。
この高速の直行便G2023は1日1回で、朝9:17発、15:20蘭州西着です。
この間を在来の直行列車で行くと、14~18時間かかり、夜行が多い。
蘭州まで新幹線が行けるようになったのは2017年からです。
現在、中国は凄い勢いで新幹線ネットワークを整備しています。

飛行機は早くて良いのですが、空港が不便な位置にあるので、移動が数百km以内なら新幹線の利用がお薦めです。
概ね、新幹線料金の方が航空運賃よりも安いことが多い。
今回、新幹線を選んだのは、車窓の景色を楽しみたいのと、両都市から空港が遠いためでした。


 
< 3.开封银祥酒店(开封鼓楼广场清明上河园店) >

私達が2泊したホテルを紹介します。
今回の中国旅行で、最もフロントスタッフが素晴らしかった。
建物が少し古く、正面玄関が少し路地に入った所にあるのが残念だが、後はまったく問題なかった。
鼓楼通りに面しているので夜市も直ぐに行け、バスの利用も交差点から何処へでも行けます。

私は最後の日、朝早く出発して新幹線に乗るのが不安だったので、フロントに色々相談した。
彼女らは、数人がかりでタブレットの自動翻訳を使い、笑顔で親切に対応してくれた。
タクシーを呼ぶ時間も決めてくれ、当日の朝、予定通りにタクシーは来た。
他のホテルではここまで親切ではなく、大きなホテルほど愛想がなかった。

開封に行かれる方には、このホテルはお薦めです。


 
< 4. 開封北駅にて >

この駅は新幹線の駅で、私が北京から到着した駅です。
幾つかのエピソードと利用について紹介します。

乗車について
ここは北京西駅と異なり、入場口は一つしかなく、パスポートを見せなければならない外国人は、数ヵ所のゲートの内、係員が立っている所に行けばよい。
ここで切符とパスポートを見せ、荷物検査を受けて入場する。
切符売り場はこの入場口から外側を右に行った所にある。
次いで、直ぐエスカレーターで2階に上がる。
これは蘭州行き、西側行きの列車に乗る場合の事です。
反対行きの場合は、おそらく1階の待合室で待ち、改札を経て反対側の2階ホームに上がるのでしょう。

写真3枚: すべて2階待合室の様子。
広いので立って待つことは無いようです。
売店、トイレもあります。

中央: この電子掲示板はホーム側に面した中央上部にあります。
この下が改札口になります。
列車到着の前になると、数ヵ所の改札口に人が並び始め、私はここでも係員のいる所に並び、ホームに入りました。


助けられたエピソードを紹介します。

入場時の荷物検査で、妻は係員に止められ、中国語の厳しい口調で注意された。
私達は訳が分からず立ち往生していると、並んでいた40代前半の男性が英語で「ナイフがあるので、出してください」と教えてくれた。
妻がスーツケースを開け、小型の万能ナイフを取り出し、係員に見せた。
これで無事、取り上げられることもなく通過出来た。

今一つは、私は「停車中の列車にスムーズに乗れるか?」が不安でした。
そこで待合室で、近くいる若い女性に切符を見せながら「私の乗る車両はホームの何処に着くでしょうか?」と尋ねた。
すると彼女は快く、「教えましょう」と言ってくれた。

私が改札を抜けると、彼女は私達をホームのある場所に案内し、ここで待ちなさいと教えてくれた。
周辺には何の表示もなく、他の乗客は皆、何故か私と違うところに並んでいた。
不安な時が流れたが、停車した列車の乗車口はぴったりと合っていた。
彼女は違う車両に乗った。

不思議な女性でした。
彼女は旅行客ではなく、新幹線を日常的に利用しているようでした。
しかし親切な人がいるものです。

実は、開封でタクシーを計4回利用したのですが、良いものも悪いものもあった。
開封北駅のタクシー乗り場からとホテルで予約したタクシーは、親切で問題はなかった。
しかし街中で流しのタクシーを拾った2回については、少し問題があった。
一つは、目的地の手前数百メートルで降ろして、後は歩いて行けと言い、きちっと料金は取られた。
どこかに急いで行く途中だったのだろう。
もう一つは、料金を高めに取られたことです。
もっとも高いと言っても額は小さいが。


 
< 5. 開封から洛陽龍門へ >

車窓風景の写真は時間の順に並んでいます。
この4枚は開封から洛陽龍門までの約1時間ほどの景色です。
私は進行方向右、つまりいつも北側を見ています。
途中、鄭州東と他に一つの駅で停車しています。

 
< 6. 洛陽龍門周辺 >

この4枚の写真は、洛陽龍門駅に入る所から、15分間ほど走った景色です。
ここは歴史的に有名な古代王朝の宮殿が幾たびも造営されたところです。
今はその面影はないが。

黄土高原が迫って来た。


 
< 7. 渑池南站まで >

洛陽龍門駅から25分のところにある駅で、停車しません。

一番下の駅が渑池南站です。


 
< 8. 幾度も黄河に出会う >

一番下の写真は黄河だと思います。
この辺の走行では、曲がりくねった黄河を幾度も渡って行くことになります。
ここを過ぎれば黄河は大きく曲がり、北上していきます。
巨大な山脈の谷間を流れる黄河沿いのこの地域、洛陽からこの辺りまでは、古来より西安にとって要衝の地でした。
詩に謳われた函谷関を既に過ぎたようです。
これから中原ではなく、関中に入って行きます。

残念ながらガス(黄砂?)がかかり、小雨が降りそうな天気、さらに窓ガラスも汚れていて遠くが見えず、良い写真が撮れなかった。



 
< 9. 渭南北駅 >

この辺りは西安のある広大な盆地で、高層ビルが乱立するようになった。
上から二枚目の写真は、停車した渭南北駅だと思います。


 
< 10. 西安北駅に到着 >

今回の移動の約半分を来た。
3時間弱の乗車でした。

この駅が今回のルートでは鄭州東と並んで最も大きい駅です。
西安には数々の遺跡がありますが、以前観光しているので、今回は省きました。

下2枚: 車内の写真。
これは2等席です。
シートの幅、前後が狭いとは思いません。
ただ横方向に2席と3席が並ぶので、夫婦で旅行する時は、2席の所に座りたい。
今回、そのようにしました。

次回に続きます。




20200223

世界が崩壊しない前に 2: 兆候はあるのだが






これまで多くの危機を乗り越えて来たのだから、
これからも大丈夫と人は信じたい。
しかし、単に偶然だったかもしれない。
これからは制御不能で、逃げる場所がなくなるかもしれない。


乗り越えられない危機などあるだろうか?

今回のコロナウイルスで分かったはずです。
世界は益々に繋がりを強めており、病原体が瞬く間に世界に広がっていくことを。

例えば中国経済が崩壊すればどうなるか?
中国との輸出入第一位の日本経済は大打撃を受け、また世界も金融危機から逃れられない。
さらに難民が大挙して押し寄せてくるかもしれない。

もし核戦争が起きれば、地球上の生命は根絶やしになり、何十万年も蘇ることは無い。
原発事故は恐ろしいが、その比ではない。

しかしまだまだ危機はある。
資源枯渇と地球温暖化が迫っている。
この深刻さを人々はまだ理解しようとしない。

さらに複雑で分かり難く、深刻化している危機もあります。
それは経済・社会・政治の危機で、これがもっとも根源的と言えます。
例えば金融崩壊、格差拡大、社会分断、金権腐敗でしょうか。


この危機の一端を見ます。

なぜ日本の賃金が下がり続けているのでしょうか?

アベノミクスも加担しているが、真因は単純だが根は深い。
バブル崩壊が繰り返される度に、景気の谷がより深くなっている。
益々、経済界は賃金を抑え内部留保を高め、政府に人員削減の容易化を要望する。
政府は景気刺激策と称して超金融緩和と労働規制の緩和を繰り返す。
この悪循環は世界を否応なく巻き込む。

こうして経済悪化と所得格差拡大が蔓延して行く。
これは高々40年前から始まったが、国民の主権が無視されている国ほど酷い。


次回に続きます。





20200221

中国の外縁を一周して 22: 鉄塔公園とショッピングセンター




*1

今回は、北宋時代の物が残っている鉄塔公園と
ショッピングモールを紹介します。



< 2. 観光ルート、上が北 >

S(大相国寺の前)からバス(赤線)に乗り、途中1回乗り継ぎ、鉄塔公園の前まで行きました。
1の鉄塔公園内を散策した後、またバス(オレンジ線)に乗り、2のショッピングモールの前まで行きました。
歩いたところは茶色線で示します。
このモールで夕食を済まし、またバスに乗り、黒四角のホテルに戻りました。
茶色枠は今回紹介する所、緑枠は既に紹介した所です。



< 3.大相国寺近くのバス停から >



< 4. 乗り継いだバス停から >

この通りは鼓楼街の近くの解放路で、メイン通りの一つのようです。



< 5. 鉄塔公園の前 >

上: バスを降りて、鉄塔公園までの途中にあった果物屋。
小さい店ですが、果物は豊富でした。
大きなザクロがあったので買いました。



< 6.鉄塔公園に入った >

私は公園内を鉄塔に向かって中央の道を行き、見学後また引き返した。
従って公園の半分も見ていないと思います。





< 7. 接引殿 >

公園のほぼ中央にある最も大きな建物です。
中には仏像があり、壁には極彩色の絵がありました。
この銅像は宋金代(約11~12世紀)のもので、絵は「西方極楽世界図」のようです。





< 8. 鉄塔の全景  >

スリムながら堂々とした塔です。
名前の由来の通り、表面は光沢のある褐色のタイルで覆われている。
建造されたのは北宋時代(1049年)で、宋が最も栄光に包まれ開封が栄えていた頃でしょう。

やっと当時の開封を偲ばせるものに出会えた。




< 9. 拡大 >

下の写真の入り口から鉄塔の中に入ることが出来き、螺旋階段を登ることが出来る。
そして上の写真の窓から外が見える。
私は疲れるのを避けて入らなかった。




< 10. 塔の外壁 >

見える限りの壁面は、仏像の浮彫で覆われていました。

下: 入口。
 


< 11. 宋都御街 >

上: 南側から宋都御街を望む。
中央の門の向こう側が宋都御街で、この道を行くと龍亭公園に至る。
この公園の地に、かつて王宮があった。
現在の建築群は70年ほど前に再建されたもので、テーマ―パークに成っている。

下: ショッピングモールの万博时代广场。
中には大型のスーパーやショッピング街、飲食街がある。




< 12. 夕食を食べた所 >

私がここに来た時、飲食店はどこも準備中でした。
それで看板に惹かれて、この店に入り、何時から始まるのかと聞くと、店員は今からでもOKと言ってくれた。
私は適当にセット料理を注文したのですが、今回の旅行で唯一おいしくなかった料理でした。

加熱されたタレの入った鍋に、串に刺した食材を入れて食べる料理でした。
期待していた肉類は少なく、ほとんどが乾瓢(かんぴょう)のような食材でした。
慌てて、失敗した。

中国では、様々な地域の料理が組み合わされ、新しいものが生まれているようです。
西安料理や韓国料理、寿司などが見られた。

私がこの店の席に座ったのは、定刻の30分前でしたが、柔軟な対応に驚いた。
また食べながらフロアの通りを見ていると、他店の前では店員が10名ほど並び、朝礼のような事をしている所もあった。
この朝礼のような事は、他の地域でもちらほら見たし、中には全員で復唱させられている場面もあった。
日本を思い出した。

右上: この店の前に従業員募集の看板があった。
店長の月給は64000~128000円のようです。
皿洗いで37000~42000円らしい。
他の地域でもこの手の看板を見たが、賃金の相場は同じだった。

私の感じでは、職能により差はあるが給与は意外に高く、地域による差が少ないようだった(訪問した都市では)。





< 13. 夜の宋都御街 >

ショッピングモールを出ると、外は暗かった。

下: 宋都御街の南に延びる通り。

この通りの両側には様々な店舗が開いていた。




< 14. バス停 >

ここからホテル近くまで行くバスに乗り、ホテルに帰った。
明日早朝には新幹線に乗ってこの地を去ります。


これで三つの都市、廈門、北京、開封を見終えた。
廈門は風光明媚な地にある発展した都市、北京は歴史もある巨大都市で、二ヵ所共、二度目の訪問でした。
15年ぶりの訪問だが、二つの都市は再開発が進み、古く汚い町並みは消えているようでした。

初めて訪れた古都開封には、予想通りと言うか、本当の歴史を感じさせるものが少ない。
それでも中原と呼ばれる地、黄河中流域の古代から発展した地に立ってことはうれしい。
以前、観光した洛陽とは異なり、こちらはどこまでも平坦でした。

驚いたのは、陸の孤島のような古都開封の郊外がどんどん開発されている事でした。
北京から開封までずーと窓の景色を見ていると、開発可能な途方もなく大きな大地が有り余っている、そんな気がした。
これ以上、人口が増えると中国だけでなく世界も困るが。


次回に続きます。

20200219

世界が崩壊しない前に 1: はじめに






*1

今、世界は急激に悪化しています。
突如として破局が訪れる可能性もあります。
私達の家族とその未来を守るにはどうすれば良いのでしょうか?
事実を集めながら検討します。


 
< 2. 緊急情報です! 拡散願います >


はじめに

皆さんは世界が崩壊すると思いますか?
何か予兆を感じることはありますか?

地球の生命38億年、人類300万年、新人類10万年、文明5千年間で似た事はあったでしょうか?

いや待てよ、これまで無数の予言はあったが、どれも事なきを得たではないか?
聖書の予言(ハルマゲドン)、ノストラダムスの大予言、核戦争勃発、資源枯渇(ローマクラブが警鐘)、中国崩壊など・・・。

しかし様々な民族が故郷を捨て大移動し、時には戦い、遂には姿を消してしまったことは限りなくあった。
その切っ掛けの多くは乾燥や寒冷化などの気候変動によるものでした。
例えば紀元前2千年紀の気候変動が、ナイル川の水位低下と西アジアの難民を生み、エジプト王国の衰退とユダヤ王国の誕生に繋がった。

また自ら環境を破壊し、衰退した文明もあった。
例えば古代ギリシャ人の入植地(港湾)やイースター島の放棄は、河川上流や島全体の森林破壊が原因でした。

現在はこれが巨大化している。
例えばチェルノブイリや福島などの原発事故です。
危機を脱することは出来たが、フロンガスによるオゾン層破壊もありました。

こうして振り返ると、あることが見えて来る。

生物や人類の進化は、地球の大規模な気候変動(多くは寒冷化)が切っ掛けでした。
やがて人類が地球を覆うようになると、気候変動は多くの民族や文明の盛衰の切っ掛けになりました。
しかし遂には、人類が自ら地球の自然(システム)を破壊し、行き場を失う可能性が高まって来ました。


次回に続きます。




20200215

中国の外縁を一周して 21: 大相国寺





*1

今回は、開封にある大相国寺を紹介します。
今も昔も開封で一番大きい寺です。



大相国寺について
この寺の始まりは北斉時代の555年ですが、その後廃れ、唐の時代に復活しました。
宋時代(960年-1127年)になると大相国寺(禅寺)として首都最大の寺となります。
その後、黄河の氾濫や兵火に遭い廃れました。
清朝時代の1766年になって大修復が行われ、現在まで続いています。

弘法大師(空海)は唐の時代にこの寺に立ち寄ったそうで、立像があります。
また水滸伝の舞台の一つです。
梁山泊第十三位の好漢、魯智深(花和尚)はこの寺の菜園の番人だった。
境内に彼の怪力を示す像があります。


 
< 2. 大相国寺の地図 >

右上: 百度地図から。
左側で上下(南北)に細長いのが大相国寺の境内です。
右上の少し離れた所に鼓楼広場があります。
散策は南側の山門Sから入り、ほぼ赤線の通りに真ん中を進み、左に折れて、出口Eから出ました。
他に出入り口は無いように思います。

右下: 寺にあった配置図。
SEは同じで、途中、右側の鼓楼に寄っています。


 
< 3.山門と広場 >

上: 山門。

下: 山門側から南側を望む。

延慶観からここまではタクシーを使いました。
こちらは観光客が多かった。


 
< 4. 菊が綺麗でした >

開封では例年この時期に菊花展が行われます。
多くの観光地では菊が盛大に飾られていました。




 
< 5. 鼓楼 >

上: 外観。

下: 1階の入った正面にある像。
地蔵王菩薩と記されているが、冠にはチベット仏教の様式が伺える。
この寺を復興した清の皇帝はチベット仏教を推進していた。


 

< 6. 天王殿 >

上: 外観。

下: 内部の像。
中央に1体、それを囲む4体の像は四天王像のようだが、所持品が異なるので、日本でおなじみの組み合わせ(持国天、増長天、広目天、多聞天)と異なるようです。
通常、四天王像は山門と本殿の間にあります。

北宋の時代、北方の遼の像や四川省の石窟では日本人好みの尊さや思慮深さを感じさせる仏像が造られていたが、ここで見るものはかなり作風が異なり、粗雑な感じさえする。
これらは寺が復興された後、ここ三百年以内に造られたものでしょう。
韓国の比較的新しい四天王像の顔もこれらに似ていたように思う。

なぜこのように凡庸な姿になってしまったのか。
中国の仏像彫刻が日本に影響を与え、また素晴らしく感じられるのは概ね唐代まででしょう。
中国の宗教としては仏教熱は唐代までで、やはり儒教が中心で、そして道教が勢い付き、仏教は衰退していった。

権力者の庇護がなくなり、仏師の技術が衰え、制作費も乏しかったのだろう。
さらに仏教は道教などと混淆し世俗化して行く中で、仏像の顔は崇高なものから親しみ易いものになったのだろう。
不思議なことに、韓国でも中国でも日本に馴染みのある端麗な顔の仏画が残されているのだが。

この謎はまだ解けない。


 
< 7.  大雄宝殿 >

上: 外観。

下: 中国式の太くて長い線香。
ほとんどは観光客だが、数本の線香を捧げて黙々と祈願している女性がいた。
黄色い服を着ているのは僧侶か、寺の使用人のようです。


 
< 8. 大雄宝殿の三世仏 >

上: 三世仏。
仏像三体の組み合わせで、仏様の過去・現在・未来を表す。
中央は釈迦如来で左右に薬師如来、阿弥陀如来だそうです。

下: 三世仏の裏側。
日本やタイなどの仏像(光背)の裏側に多くの小さな仏像が集められていることがあるが、ここでは派手に飾らている。
ここでも祈りを捧げている人がいた。


 
< 9. 羅漢堂 >

上: 外観。
有名な千手観音が見られる堂です。
中央に千手観音がある八角堂があり、それを囲むように別棟の八角形の回廊があり、中に五百羅漢像が並べられている。


 
< 10. 千手観音と羅漢像 >

上: 千手観音。
同じ形をした4面の千手観音からなる。
銀杏の一木彫りで、高さ7m、金箔貼りの像です。
18世紀、復興後の作品です。

下: 回廊の羅漢像。


 
< 11. 蔵経楼と資聖閣 >

上: 手前が蔵経楼で、奥の高い塔が資聖閣です。

下: 蔵経楼内部の像。
中国で玉の像を見かけることはあるが、緑色をした像はタイで見かける様式でした。


 
< 12. 出口に戻る >

上: 蔵経楼の前を振り返る。

下: 出口に向かう途中で、振り返ると資聖閣が見えた。



想像していたものより大きな境内でした。
宋時代の面影がほとんど無いのは残念ですが、中国では古い物が完全に残っていることは稀なので仕方ない。
それでも多くの仏像や、三百年前の姿を見れたことは有難い。
開封府のテーマパークよりは、少しは本当の歴史に触れられた気がする。


次回に続きます。