20200205

中国の外縁を一周して 18: 開封博物館と開封






*1

これから数回に分けて八大古都の一つ開封を紹介します。
この地は日本が平安時代の頃に世界最大の都市になっていた。
私は当時の面影を求めてやって来ました。
ちょうど開封市挙げての菊花展が行われていました。


開封について
ここは宋(北宋)の首都(東京開封府と呼ばれた)でした。
宋は日本人にとってあまり馴染みが無いかもしれません。
しかし宋時代には興味の尽きないものがたくさんあり、この開封で宋時代の全盛期が生まれました。

宋時代の代表的なもの
文治主義による統治、中国最長の王朝。
商業と海外貿易、貨幣経済の発達。
三大発明、火薬・羅針盤・印刷術が生まれた。
朱子学や浄土宗が誕生した。

実は、私達に身近な物語「水滸伝」は宋時代を題材としたものです。
この時代に庶民文化が花開き、「三国志演義」の元となる講談が人気を博していた。
(この二つの物語が完成したのは明時代)


 
< 2. 宋時代の人気者 >

これらは人気テレビドラマのタイトルで、下二つは日本でも放映され、私も見ました。
水滸伝、岳飛、包拯が中国では絶大な人気を博しています.

水滸伝は多くの梁山泊に集い、国の為に戦う物語です。
岳飛は南宋時代、異民族の侵略を食い止めた勇猛な武将でしたが、宰相に謀殺され悲劇の人となった。
包拯は北宋時代、清廉潔白で名裁判官と評され、大岡越前と似ている。






 
< 3. 北宋の開封 >

なぜ開封なのか?

上: 北宋時代(960~1127年)の領域。
黒四角が開封(東京開封府)です。
この後、北方騎馬民族の金が南下し、宋は開封を捨てた。
その領域(南宋)はおおよそ長江流域から南側とし、勢力は衰えた。

下: これは当時の水運ルートを示した地図(博物館より)。
青線が自然の川で、赤線が運河です。
このことにより北部(北京や西安、洛陽)と南部(上海、南京)が黄河と長江を介して直結されていた。
隋王朝が大運河を造ったことが画期となった。

開封は黄河沿いにあったので古くから発展していたが、唐が滅んだ後の1世紀は内乱が続き、かっての首都長安や洛陽は荒廃していた。
そして運河を利用出来た開封が宋王朝の首都になったのでしょう。



 
< 4. 開封城 >

上: 開封城。
この図が何時の時代を表しているかは不明。
現在、開封の城壁や城門の一部が残っているのは内城のものです。
この地は幾たびも戦火と黄河の氾濫に遭い、遺跡は地下に眠っています。
現在見られる城郭は清代に建設されたものです。

下: 梁山泊の位置を示したもの。
開封を赤四角、梁山泊を赤矢印で示す。


 
< 5. 開封博物館の位置 >

上: 赤四角が開封の位置。
左(西)に鄭州、洛陽、西安、右に商丘、徐州がある。
これらは古代より名を馳せた地でした。

中: 今回、私が訪れた所です。
Sが開封北駅、Mが開封博物館、赤枠が開封の内城です。
多くの観光スポットがこの赤枠内にあります。
赤枠内の三つの黄色の円が、私の観光した所です。
Hが二泊したホテルです。

開封博物館へは開封北駅からタクシーに乗りました。
博物館からホテルまでは、公共バスを一度乗り継いで行きました。
黒線がそのおおよそのルートです。

下: 開封北駅の全景(借用)。
ここも相変わらず駅前広場が広すぎて、タクシ―乗場に向かうのが一苦労でした。
タクシー乗場は広場前方にあり、標識で分かります。
タクシーは次から次とやって来るのですぐ乗れました。


 
< 6. 開封博物館 >

ここは数年前に出来たようで、それまでの開封の内城内からこちらに移転して来た。
実に、巨大です。
この日は2019年10月20日の日曜日でもあり、見学者は多かった。
ここはパスポートを見せれば無料です。

上: この写真は博物館の西側を撮影したものです。
タクシーがこの西側で下ろしてくれた。

この入り口の右側の建物に入り、パスポートを見せてチケットをお貰いました。
私達は大きなスーツケースを持っていたので、別のカウンターに行き、荷物預けを頼みました。
カウンターの若い女性係員の一人と英語でやり取りが出来き、こころよく預かってくれた。

下: 荷物を預けて、一度建物(チケット窓口)をでて、本館の入り口に向かう途中。
外側を見ている。


 
< 7. 館内へ >

上: 入館したばかりの所。
至るところで工事中か模様替えを行っていた。

中: 当時の開封の街並みを描いた絵。
眼下に街並みの賑わいが伺える。

下: 唐三彩。


 
< 8. 開封城の復元模型 >

上: おそらく外城、内城、王宮の全体を復元したものでしょう。
何時の時代かは不明。
内城、中央の奥に王宮らしきものがあり、その右手前に大相国寺らしいものが見える。

当時、この狭い城内に百万人が暮らし、凄い人口密度だった。
内城の一辺は約4kmです。

下: 内城の時代ごとの変遷図。


 
< 9. 開封の賑わい >

上: 当時の夜市が描かれている。
当時の開封の賑わいを知るには『清明上河図』が良いのですが、博物館にこの絵がありました。

実は、夜市は宋時代から始まり、この絵のような街並みも宋時代からなのです。
それ以前、例えば唐時代では市(商取引)は城内の限られた広場で限られた時間に行われ、官吏が厳重に監視していました。
しかし宋時代になると、商取引は通りで常時行われ、更に夜市も許されるようになりました。
これにより通りの様式が様変わりしました。

唐の長安では門を抜け大通りを行くと、左右は屋敷の壁で囲まれていた。
しかし、開封ではこのように町家の軒先が通りに面し、人が自由に往来出来たのです。
柳が町や湖畔を植えられるようになったのも宋時代からだそうです。

こうして経済が発展し、大衆文化が花開いたのです。


中: オペラの舞台のようなものです。
開封の夜市に行った時、道路に面したこのような舞台で一人の女性が朗々と歌っていました。

下: 店舗。


 
< 10. その他の展示 >

上: 薬屋でしょうか。

下: このような近代の街並みも再現されています。

写真は撮っていないのですが、驚いた展示もありました。
それは日中戦争に関わるものでした。
日本軍がこの地に侵攻していたのです。
1937年に盧溝橋事件が勃発し日本軍が南京を占領した後、徐州作戦で開封を占領したのはその1年後でした。

中国人に交じって一人、侵略する日本軍の状況を見るのは嫌なものです。
とは言っても、中国や朝鮮半島各地を観光していると大概、戦禍を知ることになりますが。

旅行先で色々知ることができました。
桂林のような山奥でも日本軍が進攻していました。
北京の盧溝橋の傍にある中国人民抗日戦争紀念館では、日本軍の残虐行為を示す写真が並んでいます。
蘭州でも日本軍が鉄橋を爆撃したと聞いた。
これらはすべて日中戦争での出来事です。

また廈門の奥、山間部にある客家土楼では、かつて倭寇が攻めて来たと書かれていた。
この倭寇は日本人が主体ではないかもしれないが。


 
< 11. バスで開封の中心部に向かう >

上: 開封博物館の全景。

中: 開封博物館の西側。
この奥の方に開封北駅がある。

下: 開封博物館の横を東西に走る道路。
道は非常に広いが車は少ない。

タクシーとバスから外を見ていると開封の発展に驚かされました。
開封北駅から開封の中心部(内城)までは高々ここ数年間の大規模な都市開発で出来たようです(開封北駅の開業は2016年)。
原野のようなところに忽然と高層のマンションが林立し、また途切れます。
その規模の壮大さに圧倒されます。
実は、これから巡る奥地でも同様かそれ以上でした。


 
< 12. 途中の景観 1 >

バスの乗車で注意すべき事を一つ。
今回、途中で1回バスを乗り替えたのですが、バス停の名前が紛らわしい。
バスの路線によって乗り換えるバス停の名前が違うのですが、実は同じバス停に違う二つの名前がついていたのです。
スマホの百度地図アプリを使用しGPSで位置確認していたので間違うことは無かったが、バスが来るまでは不安でした。
バス停の名前には注意してください。


 
< 13. 途中の景観 2 >


 
< 14. 開封の中心部 >

鼓楼通りと交わる交差点に降り立ちました。
ここからホテルは直ぐです。


次回に続きます。




20200131

晩秋の北関東をドライブしました 12: 予科練平和祈念館






*1

今回は最後の訪問地、予科練平和祈念館を紹介します。
ここで太平洋戦争で散った若人達の生きざまを知ることが出来ます。
霞ヶ浦の淵、自衛隊駐屯地の脇に記念館はあります。




 
< 2.予科練平和祈念館の位置、上が北 >

赤の四角が、記念館の位置です。
この土浦の阿見町には、大正時代から霞ケ浦海軍航空隊が置かれ、第二次世界大戦開始共に、ここに予科練が移転し、全国の予科練教育の中心となった。
戦時中の爆撃で施設は壊滅したが、現在、跡地に陸上自衛隊の駐屯地があり、その中に予科練戦没者の遺書や・遺品を収めた雄翔館がある。
この駐屯地に隣接して広大な公園があり、その中に近代的な記念館がある。

私は雄翔館を見てから記念館を訪れました。


 
< 3. 雄翔館を目指す >

私は予科練平和祈念館の前の駐車場に車を置き、雄翔館に向かう。
ここに行くには駐屯地に入らなければならず、衛兵に挨拶して向かった。
雄翔館は16:30に閉館します。

上: モダンな建物が祈念館。
下: 駐屯地に並ぶ戦車群(現役ではないようです)。



 
< 4. 雄翔館 >

上: 雄翔館の正面。

下: 雄翔館の入口から駐屯地を望む。

建物は大きくはない。


 

< 5. 雄翔館、遺書の展示 >

彼らの遺書を見て目頭を熱くしたが、以前訪れた鹿児島の知覧特攻平和会館でも同様でした。
予科練と言えば颯爽とした若き航空兵と言うイメージだったが、彼らも多くは特攻兵になった。
終戦までの15年間で24万人が入隊し、うち2万4千人が戦地に赴き、特攻に進んだものも多く、戦死者は8割にのぼった。


 
< 6. 雄翔館、遺品の展示 >

 
< 7. 山本五十六連合艦隊司令長官の書簡 >

これは彼がこの予科練の司令官に送ったもの。
彼はこの書簡を書いた18日後に撃墜されている。

文面は予科練司令官に、ガダルカナル島撤退以降の日本の苦境を吐露しながらも、米軍の物量優位に勝るには、「立派に死ねる闘士を育てることが肝要」と訴えている。
当時、真珠湾攻撃からほぼ1年が経ち、ミッドウェー海戦からガダルカナル島撤退へと日本の敗戦色は濃厚になっていた。
当然、国民は真実を知らず、まだ勝利に酔いしれていた。

理知的で知られる最高指揮官の彼ですら、精神論を振りかざすしか手がないのが如何にも口惜しい。
もし国民が真実を知らされていたなら、違った国の舵取りが行われただろう。
そして若い人々は、死に急ぐことはなかった。

いつも思う。
彼らの国に殉じる思いは尊い、当然命も。
しかし、殉じることで国は救えず、圧倒的な物量の前では無駄な死と言えるだろう。
何も知らない若者をそんな境遇に追い込んだ時代が悲しい。

二度と馬鹿げた軍事国家を作ってはいけないと唇を噛み締める。


 
< 8. 人間魚雷、回天 >


 
< 9. 予科練平和祈念館 >

上: 外観。
下: フロア図。
内部は撮影禁止なので、ホームページから写真を借用しました。

展示室は7カ所に分かれています。
この番号に従って、次の写真にテーマ紹介があります。


 
< 10. 展示室のテーマ >

記念館は大きくなく、見学時間はそうかかりません。
斬新な展示だが、今一つ要領を得ていない。
史実を分かり易く伝えると言う意味では中途半端だと感じた。
それでもこの手の展示は必要だと思う。


 
< 11. 当時の全国予科練の設置状況 >


 
< 12. 霞ヶ浦の夕陽 >

一度は訪れて見たかった霞ヶ浦だったが、記念館の閉館(17:00)共に外に出ると辺りは暮れていた。
直ぐ裏手の淵に辿り着くと、正に夕陽が沈む所でした。

雲に覆われ、微かに赤い西の空が予科練生の生きざまを象徴しているようでした。
悲しくも美しい生き様がここにはあった。

次回に続きます。


20200128

中国の外縁を一周して 17: 新幹線で開封へ

 
*1


今回は、中国の新幹線乗車を紹介します。
北京西駅から開封北駅までの車窓の景色も紹介します。
乗車したのは2019年10月20日の朝でした。



 
< 2. 北京西駅の紹介 >

北京には幾つかの鉄道と新幹線駅があります。
中国の高速鐵路、高鐵が日本の新幹線に相当します。
北京西駅は地上二階が鉄道駅で、地下には地下鉄が直交するように入っています。
日本のように構内を相互に自由に行き来出来ません。

主な手順
私が新幹線に乗車した経路を赤線と黒線で示します。
先ず、1階南側(下のS)の入口から入場し、次いで手荷物検査を受けます。
それが終わったら、エスカレーターで2階に上がります。
表示されている番号の待合室に入り、改札を待ちます。
ここまでは赤線のルートで、待合室は黄色枠の11室でした。

改札が始まると改札口を通り、表示されている番号のホームに降ります。
座席指定になっているので、切符に記載されている号車と座席に従って乗り込みます。

この間、特に問題がなくスムーズに進みました。
幾つかの注意は、以降写真に従って説明します。


私の乗る列車
高速鉄道G801、商丘行き、1等、座席指定
北京西駅9:15発―鄭州東12:03着―開封北12:26着
一度だけ鄭州東駅で停車だけで、乗り継ぎの必要はありません。
開封北まで行くにはこの列車以外では鄭州などで乗り継ぎが必要になります。

乗車券はインターネットで「中国鉄路」と「Trip.com」で購入出来ます。
日本語表記で買いやすいのは「Trip.com」です。
今回、ほとんどのホテルと一部の航空券は「Trip.com」で購入しました。
しかし、Trip.comでの高鐵の予約は、座席指定なのに、指定はコンピューターの自動振り分けです。
また中国国内を優先するのでせっかく前もって予約しても購入出来ないことがあるようです。
従って、私は中国の友人に購入を依頼し、現地で乗車券を貰った。

「中国鉄路」サイト

Trip.com



 
< 3. 入場から2階へ >

上: これは前日の夜に撮影したものです。
中国人以外は写真の右端のゲートから入って下さい。
外国人(私)はパスポートと乗車券を、係官に見せて確認してもらいます。
中国人は証明書を機械に通して自動で入場しますので、「人工」から入場します。
つまり外国人は係員がチェックするゲートから入ることがポイントです。

中央: 二階から1階の手荷物検査場を撮影。

下: 二階に上がった所。




< 4. 2階フロア >

広い通路の両側に売店や待合室が並んでます。


上と中央: 先ずは大きな表示板で、乗車券の列車番号(私の場合、G801)の待合室と発車時間を確認します。

下: 待合室の表示があります。


 
< 5. 待合室 >

今回、待合室内の座る位置は特定されていなかった。
以前、別の新幹線駅では列車と1等、2等の別で座る場所が決まっていたことがあった。
この部屋では、二ヵ所の改札があり、電光掲示板で改札する列車が表示された。

ここでも、外国人はパスポートと乗車券を係員に見せる。
つまり係員が立っている改札口に並ぶこと。
改札口を抜けると、皆同じホームに行くのでついて行けば良い。


一つだけ注意があります。
待合室のトイレにトイレットペーパーの常備が無く、購入するにはスマホ決済でなければならないことです。
自分のトイレットペーパーの持参が必要です。


ここである情景を見ることが出来ました。

待合室の座席に若い女性と老夫婦が並んで腰かけていました。
老夫婦は若い女性の両親のようで、どうやら両親は田舎から娘の働く北京見物に来たようです。
そして別れの時が迫って来ました。
娘は土産を両親に持って帰るように促すが、両親は娘こそがそれを持つべきだと拒否しているようでした。
娘さんは、ちょうど一人子政策による一人娘なのでしょう。
篤くなるものがありました。
中国語が分からないので、推測ですが。

今回の旅行では、このような親子の温かい触れ合いを幾度か見ることがありました。
日本と違って、このような親子の触れ合いを外でも、ためらうことが無いようです。
イスラム圏(トルコやモロッコ)でも同様でした。





< 6.北京とお別れ >

下: 中国では平気で自然を大改造し、植林のスケールが広大です。




 

< 7. 走り出して10分ぐらいまでの所 >

茫漠たる原野に無数の高層ビルが建ち、真新しい道路が突っ切る。




 
< 8. 走り出して30分から1時間30分の所 >

二十から三十年前に見た煉瓦を積み上げただけの殺風景な家屋は見当たらない。



 
< 9. 走り出して1時間45分から2時間の所 >



 
< 10. 走り出して2時間15分から2時間30の所 >

上と下: この二つには、3時間余りの乗車でやっと見ることが出来たものが写っています。

それはお墓です(明確ではありません)。
上の写真では、畑の奥の中央に7基ほどの墓石が見えます。
下の写真では、畑の中央に1基だけ見えます。
このよう田畑の中に島のように墓があるのはベトナムでも見ましたが、中国では非常に数が少なく、墓石の規模も小さいようです。
韓国では木立に覆われた山の斜面を少し切り開き、日当たりの良い所に数基単位で墓が造らていることが多い。

後に分かるのですが、西安近辺では墓の様子が変わって来ます。


中央: これは黄河なのでしょう。
あまり川幅が広くないので驚いた。
後に訪れる蘭州で黄河の上流を見ることになります。



 
< 11.鄭州東に到着 >

この駅は大きく、東西の線=商丘―蘭州と南北の線=北京―香港が交差している重要な交通の要所にある。

この地は黄河の南側にあり、中原と呼ばれ、古代から中国の中心でした。
多くの先史文化や王朝の首都が置かれ、西に洛陽と東に開封がある。






  
< 12. 鄭州東から開封北へ >

上: 鄭州を過ぎて開封に向かうと、養殖池らしいのが目につくようになった。

下: 開封北駅に到着。
乗っていた列車とお別れです。



 
< 13. 列車の室内 >

1等の車両です。
左右に2列シートで、前後の間隔も広く、十分すぎるぐらい広い。
2等は2列+3列シートになりますが、私としては2等で充分でした。
席を指定できない場合、夫婦水入らずで座るには1等が良いかもしれませんが。


次回に続きます。




20200125

晩秋の北関東をドライブしました 11: 水戸の弘道館




 
*1

今回は、明治維新の立役者、水戸徳川家の弘道館を紹介します。
その建物の大きさと気概に感銘しました。


 
< 2.弘道館MAP、方角は矢印通り >

上: 水戸城と弘道館を示す。
現代の地図に江戸時代の配置を重ねている。
白色部分の右が水戸城、左が弘道館で、濃い茶色が堤、橙色が空堀。
弘道館の大きさに驚くばかりです。

赤線が見学したルートで、Sからスタートした。


下: 弘道館の拡大図で、上と向きが違います。
下側の茶色い部分が講道館の中心的な建物、正庁で創建当時からのものです。
黒線が見学したルートでSからスタートし、茶色線で戻った。

写真は見学した順番に並んでいます。




 
< 3. 弘道館の駐車場と入口 >

上: この広い道路を挟んで、向かいに水戸城の大手門があります。
この日、ちょうど大手門の復元整備完了に合わせて見学会が行われていました。



 
< 4. 正門 >

上: 藩主が来館する際などに使用した正門。

下: 見学者はその右手にあるこの門から出入りします。


 
< 5. いよいよ正庁に入る >

上: 門をくぐると正庁が見えた。

下: 成長の玄関。
見学者は右手の小さな玄関から出入りする。



 
< 6. いよいよ正庁内を歩く >


上: 玄関を内側から見た。

下: 来館者控えの間、諸役会所。
「尊攘」の掛け軸は、1856年、斉昭の命で書かれたもの。

江戸末期、180年前の建物がほぼ無傷で残っている。
素晴らしい!
この廊下や部屋から徳川斉昭や慶喜の息遣いを感じることが出来るような気がした。


 
< 7. 対試場に面した廊下 >

上: 廊下から正門を見る。

下: 対試場に面した廊下。
左の広場で武術の試験などが行なわれ、藩主は廊下右手の正庁正席の間から見た。


 
< 8. 正庁正席の間 >

上: 正庁正席の間。
藩主が臨席して、正席の間や二の間で学問の試験や対試場で武術試験が行われた。


 
< 9. 至善堂御座の間 >

上: 至善堂御座の間。
大政奉還後の明治元年(1868年)、慶喜は水戸へ下り、幼少時代を過ごしたこの至善堂にこもり、静岡に移るまでの約4ヶ月間、厳しい謹慎生活を送りました。

NHKの大河ドラマ「西郷どん」の徳川慶喜のシーンが蘇ります。



 
< 10. これで一周しました >


 
< 11. 正庁を出て >


 
< 12. 孔子廟 >

上: 孔子廟の門。

下: 鹿島神社。


弘道館について

水戸藩の藩校である弘道館は、藩主徳川斉昭が推進した藩政改革の重要施策のひとつとして開設されました。
弘道館建学の精神は、「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」とされていました。
弘道館は、1857年に開館されました。
藩校当時の敷地面積は約10.5haで、藩校としては全国一の規模でした。
敷地内には、正庁・至善堂・文館・武館・医学館・天文台・鹿島神社・八卦堂・孔子廟などが建設され、馬場・調練場・矢場・砲術場なども整備され、総合的な教育施設でした。
弘道館では藩士とその子弟が学び、入学年齢は15歳で40歳まで就学が義務づけられ、生涯教育といえます。
学問と武芸の両方が重視され、多彩な科目が教えられていました。
また、医者を養成する医学館では、種痘や製薬なども実施されていました。

を要約

感じた事

藩校の弘道館と名のつくものが、江戸時代に10校造られた。
また足利学校のように儒学の学校に併設されていた孔子廟は、今も各地に10ヶ所ほど残っている。
栃木県の足利学校と言い、この弘道館と言い、孔子の儒学、朱子学は長期に渡り武家教育で重要な位置を占めていたことを実感した。

一番感銘を受けたのは、弘道館の広さが、水戸城の御城とほぼ同じだと言うことです。
江戸末期、徳川斉昭が武家屋敷の地に、この弘道館を建てた意気込みに感じ入りました。
それほど日本の危機を感じとり、そして改革の中心に教育を持ってきたことが素晴らしい。

いいものを見学しました。

次回に続きます。




20200121

中国の外縁を一周して 16: 琉璃廟大街から西単大街へ






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今回は、書道関連品や骨董品の店が並ぶ通りと大きなショッピング街を紹介します。
ショッピング街で夕食をとりました。
今回で二日間の北京観光が終えます。


 
< 2. 散策マップ、上が北 >

概略のルート
上のS、故宮站で下記の観光バス(赤線)に乗り、天壇の西横、Eの天桥站で降りました。
本当は天壇に行くつもりでしたが、元の両替に時間がかかり行けなくなりました。
次いでタクシー(ピンク線)を拾ってCの琉璃廟古文化街に行きました。
ここを西の方に散策(茶色線)し、大通りに出てバス(黒線)に乗り、Dの西単で降りました。



 
< 3. 北京观光1线公交线について >

このバスは写真のようなレトロな1階バスです。
このバスの走行ルートは、上記地図の青線で下側の永定門内站からスタートし戻って来ます。
バス停名は上記の通りです。


 
< 4. 北京观光1线公交线に乗る >

上: 私が乗ったバス停は故宮と景山公園の間にあり、ちょうど景山公園の入り口が見えています。


下: バスの内部。
ここで一つハプニングが起きました。
このバスには女性の車掌が乗っています。
その車掌が、立っている妻の前で座っている男性を、突然きつい口調で注意しました。
男が立って席を空けてくれたので、妻は座ることが出来ました。

年配者のマナーが良くないことは多いが、他のバスでも車掌が注意して正すことがあった。
この辺りが独特です。


 
< 5. 天安門広場を望む >
バスの車窓からの眺め。

上: 地図のAから毛主席記念堂を望む。
もの凄い人だかりです、故宮に行く為でしょうか。

下: 地図のBから正阳门を望む。
この門が昔の内城(紫禁城をさらに取り囲む)の南側の門でした。
左が正阳门で右が正阳门(箭楼)で、500年の歴史があります。

この観光バスを天桥站で降りたのですが、手持ちの元が少なくなったので、両替出来る銀行を探しました。
近くにはあったのですが、二軒目が両替可能でした。
ところが中に入って、係員の説明に従って書面を記入するまでは何とか出来たのですが、窓口で順番を待つ時間が非常に長い。
合計1時間以上かかってしまい、天壇には行けずじまいでした。
これは開封の銀行でも同様でした。

中国はスマホでのIT金融は非常に進んでいるのですが、従来の金融、銀行業は旧態依然としているようでした。
もっともこんなところで両替するのが間違いなのですが。
スマホ決済出来ない方々は十分に現金を持っておいてください。




 
< 6. 琉璃廟古文化街に到着 >

上: 古文化街はこの道路を東西に横切る形で延びている。

下: 後に中央の通りを西に進むことになります。


 
< 7.東側の琉璃廟古文化街 >

上: 道路の東横にあるこの広場の北側に古物店が並ぶ海王村古玩市場があります。
入ってみましたが、安い土産品を買うような所ではないようです。

下: 通りを東側に行く。
しかし、次のバス停が西側なので、直ぐ折り返した。


 
< 8. 西側の琉璃廟古文化街に入る >

書道関連品の紙や筆などの店が軒を並べている。
何軒か古物店に入ったが、値札を見ると高価であり、関心を惹くものは無かった。
ただ書画用の絵図(印刷された花鳥風月、人物、風景画)は非常に見ていて楽しかったが、荷物になるので買わなかった。


 
< 9. 琉璃廟古文化街を抜ける >

中国はどこに行っても建設ラッシュであり工事中です。



 
< 10. 西単大街に来た >

上: 西単大街には、王府井に比べ団体の観光客が少なく、若い人が多かった。

下: 王府井でもそうだったが、バラ売りお菓子の個包装がけばけばしい色をしている。


 
< 11. ショッピングセンターの一つに入る >



 
< 12. レストラン街を目指す >

ビルに入りエスカレーターで上がると、これまたドギツイほどのカラフルな内装とけたたましい音楽が迎えてくれた。
このワンフロアがレストラン街になっており、火鍋のレストランに入りました。
以前、北京で食べたオーソドックスな火鍋ではなく、肉とそれ以外の食材が豊富でした。
鍋の汁も異なっていた。
しかし美味しく、また楽しめた。
セットメニューを選んだのですが、選択肢が多く、店員とのやり取りではかなり苦労した。

私は中華料理が好きですが、本当にバラエティーに富んでおり、今回の旅行では本当に食事を楽しむことが出来た。



 
< 13. 西単の地下鉄駅を目指して歩く >

地下鉄を乗り継いでホテルに戻ります。
これで北京最後の夜を終えました。
明日は、新幹線に乗り開封に向かいます。
次回に続きます。