20190121

北欧3ヵ国を訪ねて 47: オスロ 6: ヴァイキング船博物館




< 1.ヴァイキング船博物館の入口 >


今日はヴァイキング船の実物を紹介します。
その巨大さに圧倒されます。
後半で、北欧ヴァイキングについて語ります。


 
< 2. 博物館まで歩く >

ノルウエー民俗博物館からヴァイキング船博物館まで歩きました。
この間、およそ450m、歩いて10分以内です。

上: 途中の住宅街。
下: ヴァイキング船博物前の駐車場。
観光バスと観光客で一杯でした。


* オスロのヴァイキング船博物館について
ここにはオスロ・フィヨルドに面したオーセベリ「Oseberg」、ゴクスタ「Gokstad」、トゥーネ「Tune」で発掘された三隻のヴァイキング船と埋葬品が展示されている。
この発掘地の三ヵ所を写真6の地図に頭文字で示している。
発掘品を修復し展示している。
展示のヴァイキング船越しの壁に、フィヨルドから旅立つ遠征航海の迫力ある映像を上映していた。

オーセベリの発掘
834年に、この船と共に女王が古墳に埋葬された。
船はオーク材で出来ており、全長22m、幅5mで、9mほどのマストを持ち、帆を張って航行できた。
左右にオール穴が30あり、漕ぐことも出来た。
舵取りオール、鉄の錨を備えている。
船首と船尾は同じ形をしており、船は前後同じように進むことが出来た。
船首と船尾の模様は馴染みのある細長い獣が絡まっているものです。
この船は沿岸航行用らしい。

ゴクスタの発掘
これも埋葬船で、王かもしれない男性の遺体があった。
船はオーク材で出来ており、全長24m、幅5mで、マストを持ち、オーセベリよりも大きく遠洋航海もできた。
船の建造は890年頃。

トゥーネの発掘
これも埋葬船で、もっとも不完全な形で発見された。
全長は22m程度で、900年頃の建造。


 
< 3. オーセベリのヴァイキング船 1 >

上: 入口を入って直ぐに巨大なヴァイキング船が見えた。

下: 中央の階段上から同じ船を見た。

大きさに圧倒される。
これらの船でノルウエー・ヴァイキングは1000年頃には北米まで到達していた。
これはコロンブスよりも500年も早かった。
彼らの航海能力と旺盛な冒険心が、様々な探検家を生み出し、そしてノルウェーは20世紀中頃には世界の商船隊の10%を保有するまでになった。


 
< 4. オーセベリのヴァイキング船 2 >

船腹のオール穴、舵取りオール、埋葬品の別のヴァイキング船の船首。


 
< 5. オーセベリの副葬品のソリと車 >

上: 馬二頭で引かれたこのソリは実際に使用されていた。
本体はブナ材、滑る底板はオーク材です。

下: この車も馬で引くことが出来たが、実用的ではなく宗教儀式だけに使われたらしい(キリスト教以前の北欧神への祭儀)。



 
< 6. 展示物の補足説明 >

上: オスロ・フィヨルドを示す。
赤の文字は遺跡オーセベリ「Oseberg」、ゴクスタ「Gokstad」、トゥーネ「Tune」の頭文字を示す。
この辺りはノルウエー・ヴァイキング発祥の地です。

茶色の線は、後に私がフェリーでコーペンハーゲンに向かう航路です。
後にオスロ・フィヨルドの景色を紹介します。

中: オーセベリ古墳の発掘。

下: ゴクスタ船の再現模型。



 
< 7. ヴァイキングの姿 >

ヴァイキングは金属製の兜、鉄製の鎖帷子、木製の盾、大型の斧などで武装した。



 
< 8. ヴァイキングの暮らし >

上: ヴァイキングの暮らし(フェロー諸島)。
農耕を行い、家畜を飼い、石を積み上げ土と草で屋根を覆った家屋に住み、小舟を使う様子が描かれている。
(スカンジナビアの大陸側では木製の家屋)

下: ヴァイキングの航海の様子。



 
< 9.ヴァイキングの遠征 >

如何に広範囲に遠征し、交易していたかがわかる。


* ヴァイキングとは何か

私が35年前、スウェーデンとデンマークを訪れた時、豊かでゆったりと暮らす彼らがかつて荒れ狂ったヴァイキングの末裔とはとても思えなかった。
そして今回、私は三ヵ国のヴァイキング博物館と故地を訪れ、ヴァイキングとは何か、またその末裔とは何かを知ろうとした。

ヴァイキングは破壊と略奪を常習とする海賊だったのか?
それとも交易者であり冒険家、はたまた移住者だったのか?

スカンジナビアのヴァイキングは農民、漁民であり、この地に多い湖や川、入り江の近くに住んだ。
そして喫水の浅いボートで各地と行き交った。
この地は寒冷で氷河地形の為、作物栽培に適さず、人口の集中が起こらず村が散在するだけでした。

やがて彼らは9世記頃から、武装集団化しヴァイキング船に乗り、交易と略奪を始めるようになる。
最初、彼らは海が荒れる冬までに帰って来た。
西に向かったヴァイキングは幾たびもイングランド、パリ、ノルマンディーなどに侵攻し、ヨーロッパを恐怖に陥れた。
やがて遠くはグリーンランド、東に行ってロシアからイスタンブールまで遠征した。

彼らは季節的な移動から越年、そして定住した。
11世紀中頃にはヨーロッパへの植民が完了し、後にヨーロッパ王朝の一翼を担うことになった。
この間、スカンジナビア内では国家が誕生し初め、そしてヴァイキングの侵略は鳴りを潜めた。


 
< 10. 倭寇 >
上: 17世紀、倭寇と明官兵(左)の戦い
下: 倭寇の航路。



* なぜヴァイキングが始まったのか

実は日本にも東アジアに悪名を轟かした海賊がいた。
北九州西部はかつて倭寇の拠点だった。
倭寇は14世紀から16世紀にかけて朝鮮半島と中国、沖縄などで交易と略奪を行った。

倭寇の活動は前半と後半で異なるが、元々彼らは海での交易を生業とした。
やがて朝鮮半島の争乱や中国(宋)の海上交易の禁止で、彼らは密貿易、争い、略奪するようにもなった。
倭寇は日本人だけでなく中国人を含む多民族の集団になっていた。
彼らの子孫から大商人や台湾を奪還する中国側の将軍(鄭成功)が誕生した。

なぜ長崎の諸島が、倭寇の拠点になったのか?
それはこの地は朝鮮半島に近く、対馬海流に接するからです。


それではなぜヴァイキングの遠征が始まったのだろうか?
幾つかの説があり定かではありませんが、倭寇と似ているところがある。

紀元前から、スカンジナビアの人々は細長い船を作り、移動と交易を行っていた。
豊富な木材を利用し堅牢な船を作る技術を培っていた。
やがてマスト装備した帆船での遠洋航海が可能になった。

一方、8世紀末、ヨーロッパではカール大帝がキリスト教布教を口実に異教の地(バルト海沿岸)への征服を拡大していた。
スカンジナビアの人々は、これに対抗し、また混乱に乗じて略奪するようになったのだろう。


* なぜヴァイキングは終息したのか

一番大きく影響したのは、彼らによるアイスランドや西欧各地への大量の定住化が進んだことだろう(デンマークとノルウェー・ヴァイキング)。
彼らはキリスト教に改宗し、現地で王朝を作り、溶け込んでいった。

同時に、スカンジナビアに誕生した王朝もキリスト教に改宗し、西欧と同胞となっていった。
バルト海から東方で活躍したスウェーデン・ヴァイキングは、ドイツの港湾都市を中心としたハンザ同盟の力に押され、その後協調するようになった(この12世紀頃、北ヨーロッパは中世の経済停滞を脱し始めていた)。


ヴァイキングの末裔を語る時、彼らに残虐性が受け継がれていると言えるのだろうか?
では倭寇の末裔はどうだろうか?

結局は、交易を生業とする人々が混乱の中で密貿易や、異教徒や異民族間の対立で抗争に走ったのだろう。
やがて両者は略奪では無く、対等で自由な交易こそが最善策と知ることになった。


* ヴァイキングが遺したもの

現在の北欧、ここ半世紀余りの経済発展と福祉国家への大変身は、ヴァイキングと関りがあるのだろうか?

同様に、日本が明治維新後、西洋化を急速に成し遂げ、大発展を遂げたこと侍(サムライ)と関りがあるのだろうか?
結論から言うと、名誉と順応のサムライ文化と言うより、江戸時代に培われた組織労働を大切にする農民文化が、工場労働への以降をスムーズにさせたと言えるのではないか(注釈1)。


今の北欧を語る時、衰退一方の日本と大きく異なる社会文化があることに気づく。
それは個人を尊重する一方で、法遵守によって社会の維持を図ることです。
逆に日本では、個を犠牲にし、広範な社会に通用する規範を無視してまで首領ドンに従うことです(ヤクザ社会と同じ)。

北欧には特徴的な直接選挙の文化があります。
これはノルウェー・ヴァイキングが植民したアイスランドにかつて見られた。
元々、この文化はスカンジナビアに通じるものでした。
既にみたように、大規模な農業社会が出現しなかったことで中央集権化が遅れ、人々は権力者に依存しない社会文化を育てた。

その一例が、アイスランドに伝わるサガ(口承文学)に遺されている。
村で犯罪を犯した者が、共同体の集会で「平和喪失」を宣言されることがあった(ゲルマン社会に共通)。
これによりこの犯罪者は共同体を追われるだけでなく、さらに誰が彼に危害を加え、殺しても良いことになる。

こうして警察などの権力機構に頼らず、共同体で社会を統制した。
日本では村八分や恥の文化で対応したと言える。

これらが今の国民全員によるボランティア参加、高い政治意識、汚職の少ない政治、そして産業界と労働界の協調にも繋がっているのです。

また北欧のチャレンジ精神も優れたものの一つです。

ヴァイキングが交易を重視した理由の一つに、奢侈品の入手があった。
有力者は航海後、村人に奢侈品などを配った。
これは南太平洋や北米などにもみられる文化です。
異郷の地に大遠征することは彼の名誉を高めることだった。
この精神は今も息づいており、北欧の人々は海外に出ることを厭わず、家族も喝采を送るのです。

このことが世界を市場にするオンリーワン企業の多さ、科学技術と教育の重視、IT化(キャシュレス化)の先取りなどに繋がっている。
また半世紀前、西欧では社会主義離れが進んでいる中で、逆に福祉国家へ大きく舵を切ったことにも現れているように思える(他の要因が大きいだろうが)。

* あとがき

北欧を巡って来て、暮らしやさと生きやすさを肌身で感じた。
だからと言って、精神文化の違いを無視して北欧の体制をそのまま導入することは無理だろう。

例えばIT化の為のマイナンバー制度は社会や政府への不信感があり、日本では成功しない。
またスウェーデンでは自殺が多いが、これは尊厳死が多く、日本のように追い込まれての自殺ではない。
これに関連して、北欧の高齢者は福祉制度が整っていても、出来るかぎり自立して暮らそうとする。

このような違いを乗り越える方法が、私には見えて来ない。
だからと言って、このまま日本の没落を座視して待つわけにも行かないのだが・・・

次回に続きます。



注釈1
「名誉と順応のサムライ文化」は「名誉と順応」著者池上英子より拝借。

「組織労働を大切にする農民文化・・」のくだりは「日本社会史における伝統と創造」著者トマス・C・スミスより拝借。




20190117

北欧3ヵ国を訪ねて 46: オスロ 5: ノルウェー民族博物館 3



 *1


今回は、ノルウェー民族博物館の最後の紹介です。
後半で、19世紀のオスロの街並みを紹介します。



< 2. 19世紀の農家 >

上の写真の一群の農家の説明書きは次の写真にあります。
これらは19世紀に建てられていた家屋で、その場所はオスロの南方の峡谷でした。

下の写真の小屋は同じ場所にあった14~15世紀の倉庫です。
上の写真の左側に見えます。


< 3. 上記、一群の農家の説明書き >



< 4. 上記の農家の内部 >

中央の大きな農家に入ることが出来ました。
中に入ると、写真のスタッフが訪問者に横の桶の用途を説明していました。
豆を貯蔵し、その後何かをする為の容器らしい。
少し質問をしたのですが、残念ながら理解出来ませんでした。
でも彼女は丁寧に対応してくれて、写真撮影にも快く応じてくれました。


< 5.倉庫類 >

上: ノルウェー南部にあった1754年の倉庫です。
扉両側の模様が良い。

下: 同じノルウェー南部にあった1800~1850年の乾燥小屋。
乾燥するものが、木材なのか穀物なのかがわかりません。
ノルウェーでは木材は重要な産業ですが、これは窓が小さ過ぎるので穀物用なのでしょうか。



< 6. オスロの古い街並み 1 >

この6と7の写真は19世紀後半のオスロの古い建物と通りを再現したものです。
オスロは10世紀頃から重要な都市ではあったが、その木造の古い街並みは幾度も大火災に遭っており、残っていない。
1814年以降、この地が首都になり、今のオスロの都市景観を形作るようになった。



< 7. オスロの古い街並み 2 >



< 8. オスロ郊外の家屋 1 >

1840年に建てられたオスロ北部の郊外の住居。
家屋は大きく無いが、幾つもの部屋が有り、郊外で自然を楽しみながら暮らしていた様子が窺える。
此処にきて初めて、農業や林業を生業としない暮らしの住まいを見ることが出来た。



< 9. オスロ郊外の家屋 2 >



< 10. オスロ郊外の家屋 3 >

写真の女性はスタッフです。
シンプルなデザインで、無垢の木材を生かした家具が印象的でした。

この住居が使われた時期は明治維新の30年前にあたり、今まで見て感じていた素朴で簡素な暮らしのノルウェーは一転、進んだヨーロッパ文化の香りがするようになった。
この時期の市民の暮らしが見えると、今の北欧の躍進を理解するヒントが得られるように思う。
つまり北欧の今の躍進は、半世紀あまりの急激な改革で勝ち取ったのか、それとも徐々に築き上げて来たものなのか?
残念ながら、この野外博物館だけでは分からない。


次回には巨大なヴァイキング船を紹介します。





20190113

北欧3ヵ国を訪ねて 45: オスロ 4: ノルウェー民族博物館 2






< 1. スターヴ(木造)教会の内部 >

今回は、ノルウェー民族博物館の2回目です。
最初に、スターヴ教会の内部を紹介します。
この野外博物館の家屋はノルウェーの自然の厳しさを教えてくれました。



< 2. スターヴ教会 1 >
内部の写真はすべてフラッシュ撮影です。

左上: 正面玄関。
右上: 正面玄関の次にある入口。
この両側の柱の模様は北欧ヴァイキング時代からあったものでしょう。
これはツタと長身の獣が絡まった図柄で、スウェーデンのルーン石碑にも見られた。

左下: 内部、壁から天井を望む。

右下: 正面玄関を望む全景。
屋根が黒いのは防腐の為に塗布したタールの為です。



< 3. スターヴ教会 2 >

入って最初に感じたのは、非常に暗く、小さく、そして天井が高いことでした。
西欧の古い教会、ロマネスク建築の教会は、暗い堂中にガラス窓からの光が差し込み、荘厳さがある。
この木造教会にも幾つもの小さな明り取りの穴があるのだが、暗闇に圧迫されそうな感じがする。
逆に言えば、燭台の明かりが一層引き立つのかもしれない。
この空間には、西欧の教会には無い、古代信仰に根差した神域のイメージが引き継がれているのだろうか。
この感覚はスペイン、アルハンブラ宮殿の石材で覆われた薄暗い部屋に入った時にもあった。


上の写真: 祭壇を正面から見ている。
最後の晩餐らしい絵が正面に飾られている。
非常に質素です。

下の写真: 壁と屋根が接する柱の上にそれぞれ人面の彫刻がある。
私には王冠を被った王のように見えるが、不明。


< 4. スターヴ教会 3、Wikipediaより >

左: 別の木造教会の平面図。
今訪れている教会と同じで室内は十字架の形をしていない。

右: 今訪れている教会の構造図です。
柱上部に人面が見えます。



< 5.小屋 >

上: 屋根瓦を見てください。
北欧三ヵ国で見た屋根瓦が非常に日本の瓦と形が似ています。
親しみを感じます。

下: 野外展示場の丘から見下ろしている。



< 6. 農家 >

下の写真は大きな農家、大きな牛舎を持っています。
一方、上の写真は素朴な感じの農家です。



< 7.農家と水力小屋 >

上の写真の左側に水力小屋が見えます。
それを撮ったのが下の写真です。
この小屋はノルウェーの南部西海岸、ノルウェー海に面するフィヨルドにあったものを再現中のようです。
本来、水車が内蔵されており、動力となる水はこの小屋の左側から右側に流れ落ちるようです。
小屋の作りが面白いので取り上げました。



< 8. オスロ郊外北部の農家 >

建築が1845年の農家で、内部を見ることが出来ました。
この野外展示場では、内部に入れる家屋は多い。
下の写真はその内部で、左にベッドがあります。



< 9. 少し広い所に出た >

上: ここで驚いたのは、中国からの観光ツアーの一団です。
この展示場はストックホルムのスカンセンと違って遊戯施設が無く、民俗家屋の歴史を学ぶ所に特化している。
従って、すれ違う人々の多くは北欧のティンエイジャーを連れた家族や学校の小学生以上の団体でした。
このような場所に、中国の団体観光客が来ているのに驚かされました。
もっとも都市部での観光地で、アジア人の観光ツアーで断トツに多いのが中国で、次いで韓国、そしてわずかに日本かインドでしょう(見た感じ)。

下: 畑を囲んでいる柵が見えますが、この斜めに木を並べる形は、ストックホルムのスカンセンと同じでした。



< 10. パン焼き小屋 >

上: 表示にはパン焼き小屋とありました。
しかし中に入ることが出来なかったので、よくわかりません。
小屋の大きさの割に煙突が大きい。

下: これは別の小屋の内部です。
民族衣装を着たスタッフが、暮らしぶりを再現しています。
北欧で共通するようですが、暖炉と竈、暖房と料理は同じ場所で、非常に巨大なものが多い。
場合によっては一戸の家に複数ある。
その割には、この時代の壁の作りは断熱効果が乏しいように思える。
内壁となる丸太の木組みと外壁の板組の間に、断熱材が入れられているかどうかが分からない。



< 11. 作業中のスタッフ >

私がこの野外展示場で感心したのは、スタッフの親しみ易さです。
作業中の所を背後から撮影すると、二人は振り返り、笑顔で答えてくれました。
この対応は、他の小屋のスタッフにも共通していました。

一方、ストックホルムのスカンセンでは、どちらかと言うと冷たい感じがしました。
オスロでは小屋内部のフラッシュ撮影はOKなのですが、ストックホルムでは禁止でした。

ストックホルムとオスロを旅していて、国民性の違いを感じた。
オスロの人はノンビリしており優しい感じがしました。
一方、ストックホルムではお年寄りは親切なのですが、概ね就業中の人はピリピリしているようです。
これはアジア人に対してだけの対応なのか、それえともシビアに作業をしているからなのかわかりませんでした。
さらに言えば北欧の中で、スウェーデンは移民問題と格差問題を多く抱えているからもしれません。


次回に続きます。



20190111

連載中 何か変ですよ 215: 辺野古埋め立て中止の請願に協力願います!



*1


今、請願は勢いをまして、署名がもうすぐ21万に達しようとしています。
もうすぐ、ホワイトハウスでの順位が4位になるでしょう。
世界中の人々が沖縄に温かい眼差しを向け、署名を呼び掛けてくれています。


< 2. 辺野古の位置 >


前回、私が署名をお願いした時は14万でした。
今、世界の人々は沖縄の人々の思いに共感し、順調に署名数が伸びています。

現在、ハワイ在住の請願発起人は、ホワイトハウス前でデモをしています。
日本の数少ない芸能人の呼びかけに始まり、今は米英の著名ミュージシャンがこの署名を呼び掛けてくれています。

皆さん、このブログに立ち寄られた方はどうか、今一度家族や友人に署名をお願いして頂きたい。


*3

  なぜこの署名が重要なのか?
私の考えを述べます。

この請願の主目的は「沖縄の綺麗な海を守ろう」だと思う。
しかし、これ以上に大事なことがある。
それは日本の民主主義を守ることです。

日本の政治は長期に腐敗劣化していたが、遂に右翼化の波に乗って危うい方向に大きく舵を切り始めた。
その現われに、沖縄の民意を踏みにじる辺野古埋め立て強行と軍事大国化がある。
これらはいずれも個人の権利よりも、国の威信や国益が重視されている。
ここでは、この民権か国権の議論をしません。

問題は政府が腐敗の極致(森友・加計での隠蔽・改ざんなど)にあるのに、これ以上、独裁化を許すことはあまりにも危険です。
歴史的に権力者が独裁を進める為に敵意を煽る(右翼化)ことは繰り返されて来た。

この状況下で、この署名はほぼ唯一、良心の声を誇張も削減されることもなく表明することが出来る。
さらに、沖縄の意思だけでなく、日本全県さらに世界の声援も集まる。

結果はどうであれ、世界の民意が沖縄の心に届くのです。
ここから次のステップが始まれば良いのです。


*4

*5

        署名方法について
Stop the landfill of Henoko / Oura Bay until a referendum can be held in Okinawa
「国民投票が沖縄で開催されるまで、辺野古/大浦湾の埋め立てをやめる」(グーグル翻訳)

1.        この署名は、沖縄県の国民投票2019年2月24日までの埋め立て中止を求めています。
2.        これを発起したのは米国人(沖縄県4世)で、ホワイトハウスに届きます。
3.        請願が始まったのは2018年12月8日で、21日現在14万人以上が参加しています。
4.        手続きは非常に簡単で、三ヵ所の記入と返信メールをクリックするだけです。

(イ)           署名方法の説明 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/361226



よろしくお願いします。