20170719

フランスを巡って 26: ストラスブール最後の夜



 
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今回は、ストラスブールの最後の夜の散策と出来事を紹介します。
わずかに夕陽の赤味を帯びた旧市街の様子、二つのレストラン、そして大型スーパーについて記します。


 
< 2. 散策の概要 >

散策したのは、旅行日6日目、5月22日(月)、17:00~21:00です。
私達は最初にスーパーへ買い物に行き、一度ホテルに戻って荷物を置き、折り返し、旧市街に向かいました。

上の地図: 今回の散策ルート。上が真北です。
茶色線は大型スーパーSMに行った往復ルートです。
赤線は予約したレストランL1を目指して散策したルートで、黒線は代わりのレストランL2を経て帰ったルートです。
CAは大聖堂です。

下左の写真: 大型スーパーに行く途中で見かけたガンジーの像。
ストラスブールが幾多の紛争を乗り越え平和を獲得したことを如何にも象徴している像でした。

下右の写真: ガンジー像の周囲の花々の左奥に見えるのがショッピングモールで、このずーと奥に大型スーパーがあります。

大型スーパーはワンフロアですが非常に大きく、商品を探すのに苦労するほどでした。
ここでは主にお菓子とチーズを物色し、旅の途中なので少なめに購入したのですがミスをした。
帰国後、知ったのですが、ほとんどのチーズの正味期限が短いのです。
短いものでは1週間以内のがありました。
バルト三国でも買ったことがあり、柔らかいチーズは帰国までに形が崩れることは知っていたのですが、これには驚いた。
何種類も買って、帰国後が存分に楽しめたのですが、焦りました。

フランスを巡っていると、フランス人にとってワインとチーズは食事に本当に欠かせないものだと知りました。



 

< 3. ホテルの裏手を行く >

瀟洒なアパート群が目を引きます。
運河にはボートを楽しむ人々と、のんびり泳ぐ白鳥の姿があった。


 

< 4. 運河を渡る >

朝な夕なに、ジョキングや散歩する人の姿が見られた。
この都市は空気が綺麗です。


 

< 5. 大聖堂が見える >

800年の長きにわたり、この鐘楼は市民の熱気と血なまぐさい闘争の歴史を見て来たことだろう。

下右の写真: ひょっとすると城門の跡かもしれない。


 

< 6. 南側のイル川を渡る >


 

< 7. イル川の堤を散策 1 >


 

< 8. イル川の堤を散策 2 >

堤のそこかしこに、夕暮れの川風を楽しむ人々の姿を多く見かけた。


 

< 9. プチット・フランス 1 >

下の写真: 右奥に船の上下用の堰(閘門)が見える。


 

< 10. プチット・フランス 2 >


 

< 11. レストランL2にて >

今回の旅行での私達夫婦の楽しみの一つは、日本でフランスのレストランを予約しておき、その地の雰囲気と食事を愉しむことでした。
1回目のリヨンでは成功しましたが、2回目のストラスブールではトラブルに合いました。

事前にメールで予約確認のやり取りを済ませて、予約時間に地図のレストランL1の前に行きました。
すると青年6~8人のグループが、店の前にたむろしており、店はクローズしているようでした。
彼らの人相は悪くは無かったのですが、周囲に人通りはなく、一瞬不安がよぎりました。
意を決して、彼らをかき分けるようにして、店のドアの前に進みました。
すると彼らは残念そうに「店は閉まっています」と教えてくれました。
彼らも予約客だったようです。
おそらく私の顔はこわばっていたことでしょう。

私達は、仕方なく店から直ぐに立ち去りました。
帰国後、この店から、この前日にメールがパソコンに入っていたのがわかりました。
「申し訳ありません。急にキッチンの水道が故障したので、予約当日は閉店させて頂きます。後日、予約を頂ければ幸いです。」
後の祭りでした。
それでも、このレストランはトリップアドバイザーで人気のある地元料理(ドイツ系)の店だったので残念でした。

その後、気を取り直し、メインの通りでレストランを探し、写真の店L2に入りました。
実はこの店はスペイン料理、タパスを出すバール「BAR」です。
スペインのバルセロには2回行ったのですが、憧れのバールに入ったことが無かったので、衝動的に入ったのです。

しかし、ここでもハップニングがありました。
先ず失敗だと分かったのは、メニューを見た時です。
フランス料理のメニューは下調べしていたのですが、フランス語のスペイン料理はチンプンカンプでした。
困り果てていると、たまたま空いていた隣の席にアジア系の男性二人が座りました。

なんと彼らは日本語を話しだしました。
すかさず私は、彼らに救いを求めました。
すると一人はドイツ語なら自信があるのですが、フランス語も少しは使えるとのことで、私達の注文を手伝って頂きました。

この二人はある国立大学の先生と院生で、次の日に太陽電池の研究発表があると言うことでした。
その後、彼らと太陽電池の将来などについて話が弾み、楽しい一時を過ごしました。

旅行先での人との触れ合いは実に刺激的で楽しい。



 

< 12. メインの通り >

時刻は8:30前後でした。
月曜日は多くの店が閉まるのですが、夕時を愉しく過ごす人々が通りに溢れていた。


 

< 13. ストラスブールとのお別れ >

この大聖堂の姿を見ることが、ここ5年ほどの夢でした。
ヨーロッパの宗教革命の始まりや、ここ数世紀のストラスブールの苦難の歴史を調べているうちに、是非とも行きたくなっていた。
そして国境の町ストラスブールとアルザス地方を駆け足ながら直に見て感じることが出来ました。


次回は、アルザスとストラスブールについて語るつもりです。


20170717

フランスを巡って 25: 「ブドウ畑の真珠」と呼ばれるリクヴィル





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まるで中世そのままの町がブドウ畑の中にある。
さらにアルザスワインのワイナリーが数多くある。
私達は小さな村の散策を愉しみ、ワイナリーで試飲しました。



リクヴィルについて
この町はコルマールの北方12kmほどの処にあります。

ここは小高い山が途切れ、それに続くなだらかな斜面に広がるブドウ畑にあります。
この町は縦断するメインの通りが350mほどの長さしかない小さな町です。
しかし、第二次世界大戦の爆撃を幸いにも免れたことにより、16世紀以降の家並みが町全体に残っています。

また多くのワイナリー、アルザス最大手のワイナリーなどが町の中や周囲にあり、観光客を楽しませてくれます。

ここを訪れたのは旅行6日目、5月22日(月)、14:10~15:30です。
この日も快晴でした。





 

< 2. リクヴィルの地図、右が真北です >

下の写真: 黄線はリクヴィルの散策ルートを示します。
駐車場Sに到着し、東西に延びるメインの通りをポート・オートGまで行き、少し戻ってワイナリーWに入った。
試飲が終わると、自由時間となり、私は教会Cの前を通り、村の外周の一部を歩いた。
その後、駐車場Sからストラスブールに戻った。


 

< 3. 市役所と噴水 >

駐車場から最初に出会うのがこの市役所です。
この市役所のまえから西にメインの通りが伸びている。





 

< 4. メインの通りを行く >

上の写真: 緩やかに上っているメインの通りを西に向かって進む。

下右の写真: 1561年に切妻壁の建物をつなげて造られた6階建ての家屋で、アルザス地方で一番背の高い木組みの家の一つです。


 

< 5. 通りに面した店の顔 >

下二つの写真: アンシ作の看板。

この通りに面してアンシ美術館があります。





 
< 6. ドルダー・タワー >

ドルダータワーは13世紀に壁に沿って建てられた望楼で、中には鐘がある。
非常時の警報用です。

上左の写真: メインの通りからドルダータワーを見た。
上右の写真: ドルダータワーをくぐり抜け振り返った。


 

< 7. ポート・オート >

この門はドルダータワーの直ぐ外側に1500年に建てられた。
二重の重たい木からなる扉、ヨーロッパ一古いとされる落とし格子が備えられていた。

上の写真: 村の中側から見た。

下の写真: 村の外側から見た。
門の左側に壁らしいものが見える。




 

< 8. ワイナリーで試飲 >

上左の写真: 試飲したワイナリーの入口。




 

< 9. 教会と路地 >

ワイナリーの後は自由時間なので、私はこの路地を抜けて村の外に出ました。

下の写真: 路地から外に出るには、この写真右に見える民家にあるトンネルをくぐり抜けなければなりませんでした。


 

< 10. 村の北側外周 >

村の外に出てから、外周に沿って市役所の方に回り込みました。

この時、私はやっと気が付きました、この村は単に古いワイン作りの村ではなく、堅固な城塞都市ではなかったのかと。
上の写真に見える村を囲む城壁のような家屋、下の写真に見える噴水は堀の跡ではないかと。

それであれば、既に見た二重の門、城壁のような壁の名残が合点出来る。
この最後に、リクヴィルの歴史と城塞の種明かしをします。


 

< 11. メインの通り >

至るところに噴水が見られる。


 
< 12. 村の南側 >

南側には、ブドウ畑の中に現代の住宅が広がっている。
この駐車場からこの村とはお別れです。



リクヴィルの歴史
この町はローマ時代に遡る。
11世紀、この地一体を寄付された修道院がブドウ畑とリクヴィールを所有した。
1269年、神聖ローマ皇帝がここに城を建設し、アルザスで一番最初に要塞化された町となった。
その後、城主は幾度も替わり、公爵の城下町として栄えた。
16世紀に住民の多くがプロテスタントへと改宗した。
1796年、フランス革命軍との戦いの結果、公爵家はリクヴィルを含むアルザスの所領を放棄し、ここはフランスに併合された。
そして第二次世界大戦中、この一帯で戦禍を免れた数少ない町となった。




 

< 13. 城塞化の経緯 >

この地図から、1291年の城壁、さらに1500年、その外側に城壁が造られたのがわかる。
このことがドルダー・タワーとポート・オートの二重門が存在する理由でした。


 

< 14. 1644年のリクヴィルの俯瞰図 

これは町を東側から見たもので、手前が現在の市役所側になる。
二重の城壁と堀が見える。


私は、こののどかなアルザスの地にこれほど要塞化した村や都市が多いとは思わなかった。
今回訪れた、アルザスの三つの地がすべて要塞化されていた。
コルマールの要塞化については説明していませんでしたが、かつて城壁で囲まていた。
ストラスブールとコルマールは自由都市になっていた。

このアルザスはライン川が流れ、ドイツ(神聖ローマ帝国)とフランスの間にあって、交易上有利であったが戦火が絶えない地であったのだろう。


次回に続きます。








20170716

何か変ですよ! 63: 近視眼的





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今、行われている施策が如何に近視眼的な術かを見ます。
これらは愚策ではあるが、繰り返される故に一層悲しい。


はじめに
ふるさと納税や核兵器禁止条約反対、気候変動取り組みのパリ協定離脱には共通するものがある。
これらは疑わない人々にとって喜ばしいことかもしれない。

実は、これらに共通するものがある。
これら施策は人々に手っ取り早く利益や安心、繁栄をもたらすと思わせる効果がある。
ほんとうにそうだろうか?


 
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*ふるさと納税
今、凄い勢いで寄付額が増えています。
2015年の寄付総額1700億円で、ここ数年は毎年3から4倍と加速度的に増大しています。
この理由は、この制度に高額所得者優遇の構造があるからです。

これを放置すれば、数年後には総額数兆円を越え、景気刺激策として良策ではない上に二つの問題を引き起こします。

一番の問題は、この寄付が高額所得者の消費増大ではなく節税策として使われ、その不足分を国民が広く負担しなければならいことにあります。
言い換えれば、唯でさえ税収が少ないのに、高額所得者の贅沢品(返礼品)購入費を皆の税金で補填し、税金が必要な所に届かないことです。
もう一つは、確実にゆっくり進む格差拡大です。

残念ながら、多くの人は気づかないままです。

この悪弊は高率の返礼品と節税効果(寄付)のセットにあります。
どちらかが無くなれば、弊害は無くなるのですが。

この問題のポイントは、一見、即効性のある経済浮揚策に見えるものの、効果は薄く、長期的には社会に歪をもたらすことです。
実は、この手の施策は日本、特に米国で半世紀の間にわたり積み重ねられ、これが今回のトランプを生んだ一つの要因になっています(注釈1)。


 
*3

*核兵器禁止条約の不参加
核兵器禁止条約は、核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関するものです。
この条約は2017年7月7日、国連で122ヵ国により採択された。
核保有国やそれに連なる38ヵ国が反対し、16ヵ国が棄権している。
当然、日本政府は米国の核の傘に入っているので反対した。

これに対する主な意見。
米国の核兵器によって日本が守られている以上、米国を裏切ることは出来ない。
唯一の被爆国が、核兵器廃絶への道を主導するどころか、裏切っている。
核保有国が参加していない条約なんか実効性がない。

例えれば、この条約は強盗団が銃放棄を拒否しているのに、一般の人が率先して銃の不使用を宣言しているようなものです。
それなのになぜ、多数の国がこの無謀で無益と思える条約に尽力したのでしょうか?
彼らは、なぜ日本のように全人類の数倍を瞬時に抹殺できる最強の核兵器で守ってもらうことを考えないのでしょうか?(笑い)

だが、一方で不安もある。
核拡散防止条約(核保有を5ヶ国に限る条約、1968年発行)以来、核保有国は9ヶ国になり、更に増えるでしょう。
米国の核兵器で、北朝鮮の核攻撃から日本を守れるでしょうか?
守ってくれるのは迎撃ミサイルなどであって核兵器ではない。
もし核兵器に抑止力が期待出来るとするなら、米国内の銃所持は抑止力とならず、なぜ殺人の増大を招いているのでしょうか?
北朝鮮はこの条約に賛成しており、まさに張本人が抑止力を否定している。
まさに軍拡競争への皮肉です。

こうしてみると、現状を放置することは核戦争の危機を一層の深めることになると考える国があっても不思議ではない。
彼らは最強の核兵器で守られることよりも、最悪の核兵器を無くすことで、人類の安全を守ろうしたのです。
それでもなぜ核保有国などの参加が見込めない条約を成立させようとしたのでしょうか?

歴史にヒントがあります。
第二次世界大戦後の国連憲章制定時、米ソの離脱を引き留める為に、悪弊が予想された集団安全保障と拒否権の採用に多くの中小国は妥協しなければなりませんでした。
その結果、機能しない国連になったと言えるでしょう。
もっとも、米ソの離脱の方がさらに悪い結果を招いた可能性はある。
その点、今回の核兵器禁止条約ではそのようなことにならない(注釈2)。

この122ヶ国の行為、多数の中小国が大国に「ノー」を突き付けたことは、歴史上の画期と言えるでしょう。
私は、これに人類が憲法を生み出した契機となった1215年の英国でのマグナカルタを想起する。
これはほんの一歩に過ぎないが、こうして人類はより民主的な社会を推し進めてきたのです。

現状維持では改善を望めない状況で、とりあえず米国追従で条約反対に回った日本の行為は、世界が団結して平和を掴む気運を削いでしまった。
日本は唯一の被爆国なのだから、なおさらです。

この問題のポイントは、一見、平和の為と映るものの、むしろ不安要因を増大させ、さらには平和と世界の協同化を後退させていることです。


 
*4


*気候変動取り組みのパリ協定離脱
これはいつか来た道であり、また始まったのか大国のエゴと言わざるを得ない。

「米国と市民を守るという重大な義務を果たすため」
「我々は、よその指導者や国にもう笑われたくない」
「私はパリではなくピッツバーグの市民を代表するために選ばれた」
「パリ協定によって米国は国内総生産(GDP)3兆円と650万人の雇用を失う」

これはパリ協定離脱時のどこかの大統領の発言です。
この発言には、前回見た視野の狭さと狭い仲間意識が露骨に表れています。

南太平洋の島々の水没、南極やアルプスの氷河の融解は現実です。
例えば、30年後に地球の温暖化を認めてから、クーラーで地球を冷房しようとでも言うのでしょうか?
またパリ協定に合意した197ヶ国は自国の経済や雇用への影響を無視したのでしょうか?
日本を考えれば、一部の産業にデメリットはあっても全体では乗り越えて来たことがわかります。

かつての大統領や議会も自国の産業、石油・石炭産業を守る為に批准しなかったことがあった。
選挙での人気取りの為とは言え、欧米が身勝手な論拠を振りかざして大国のエゴを剥き出しにすることは今に始まった事ではないが、今の米国は世界一の経済大国だけに影響が甚大です。
単に協力しないと言うより、世界を苦境に陥れるものです。


この問題のポイントは、一見、雇用の為と見せかけるものの、実際は一部産業の保護でしかなく、世界を取返しのつつない危機へと陥れる軽挙妄動にすぎないのです。


おわりに
実に残念なことなのですが、これらの施策は国民に絶大な人気を博した国のトップが推し進めて来たことなのです。

それでは、事が失敗すれば、誰が責任を取るのでしょうか?
国のトップの軽挙妄動を断罪するのですか?
それともトップを信じた国民が断罪されるべきなのでしょうか?


皆さんならどうしますか?



注意1
米国で景気浮揚策と謳われ、半世紀の間に積み上げられた施策―金融規制緩和、課税の累進性排除、セーフティーネットの停滞、により格差が拡大し、白人労働者の状況が悪化した。
これがすべての原因ではなく、欧米先進国が共に進めて来た一連の施策の結果と言える、ただ米国が主導して来たとは言える。
これが今回の大統領選でのポピュリズムの台頭に繋がった。

日本も遅ればせながら歩調を合わせていたが、今や加速度的に追従している。


注釈2
この条約は既にある核拡散防止条約に影響を及ぼさず、また平和のための原子力を放棄している訳では無い。