20170710

フランスを巡って 22: ストラスブール旧市街1




*1


いよいよ待ちに待った旧市街を巡ります。
プチットフランスと大聖堂が有名です。
今回は、前半を紹介します。


なぜストラスブールに惹かれたのか?
以前、私がヨーロッパの宗教改革を調べている時、その発火点の一つがこのアルザス地方とストラスブールだったと知ったからです。
さらに、それに遡る数世紀前に、ストラスブールの人々がどれほどの熱意をもって当時最大高さを誇る大聖堂の建設に挑んだかも知りました。

また二度の大戦の経緯を調べている時も、ドイツとフランスがストラスブールを流れるライン川を挟んで数百年以上戦い、国境が幾度もストラスブールの東西に移動したことを知りました。
その後、この地は平和を築き、平和の象徴としてEUの重要施設が建てられた。

今回、フランスを旅行する直前に、フランスの大統領選がありました。
この争点の一つにEU存続と移民問題がありましたが、これと関連して異民族間の平和のヒントはストラスブールに行けばあるかなと思いました。

こうして私はストラスブールの旧市街と大聖堂を直に見たいと思うようになったのです。


 

< 2.旧市街の観光ルート、上が真北 >

旧市街を徒歩観光したのは、旅行日6日目、5月22日(月)、8:30~10:20頃です。
この日も素晴らしい天気でした。
青線が徒歩観光のルートで、上の地図のSから始め、番号1~9を見て、下の地図のEを通りました。
その後、さらに南側の駐車場まで歩き、バスに乗りコルマールに向かいました。

 
 

< 3. クヴェール橋 >

この三枚の写真は地図番号Sと1から撮影した。
上の写真から順次、北から東の方を見ている。

上の写真: 左側はヴォーバンダムです。

中央の写真: 中央に見える川は旧市街の北側を流れるイル川で、船の上下用の堰(閘門)が見える。

下の写真: 三つの塔の間の遠くに大聖堂の鐘楼が見える。
こちらの川が南側を流れるイル川です。
ヴォーバンダムの建屋の屋上が展望台になっており、ここからこの写真を撮った。

このクヴェール橋は4つの塔と三つの橋からなっている。
この橋は旧市街を分岐して掘りのように囲むイル川の上流側に造られている。

最初、これを見た時、この都市は無防備な開口部を持っていると感じた。
戦乱に明け暮れる中世の都市なら高い城壁に囲まれ、ここら辺りに城門があっても良いはずなのにと思った。
きっと、この開放的なのは商業と水運で栄えた自由都市ゆえのことだろうと一人納得していた。
だが、後で私の勘違いとわかりました。

この橋は最初、13世紀に防備の為に建設され、その後、戦時の守備隊駐屯の為に屋根が設けられたが、18世紀には廃止された。
1690年、直ぐ上流に橋と堰を兼ね持つヴォーバンダムが建設されると、クヴェール橋は防備の役割を終えた。


 

< 4. ヴォーバンダム >

上の写真: クヴェール橋から見たヴォーバンダム。地図番号1.
13のアーチからなり、それぞれに堰がある。

中央の写真: ヴォーバンダム屋上から見たイル川上流、南西を望む。
右手のガラスの建物は近代美術館。

下の写真: ヴォーバンダムの内部。
私達はそのアーチの上を歩いている。
写真の上側に鉄製のチェーン巻き上げ用の車輪があり、これでかって水門を上下したのだろう。

てっきり、このヴォーバンダムは敵船の侵入防止に役立つと思ったのですが、
1870年の普仏戦争の時に、この水門を閉じて都市の南側を水没させ、プロイセン軍(ドイツ)の侵入に抵抗した。


 

< 5.クヴェール橋からプチットフランスへ >

上の写真: 橋の上を歩く。地図番号2.

中央の写真: 橋の上から下流側、東側を望む。

下の写真: この川の右側をこれから歩くことになる。


 

< 6. プチットフランス 1 >

木組みが露出している独特の建物が川沿いにびっしりと並んでいる。
これら建物と川を細い道と歩道橋が繋いでいる。
この景観は16~17世紀に始まる。

この建物の多くは皮なめし業のものだったので、屋根裏部屋で皮を乾燥させていた。
その為に屋根には空気循環用の窓が多くみられる。
またボーヌで紹介したように、ここでも屋根瓦に特徴がある。
どうやらアルザス地方は、下の写真に見られるようなうろこ状の平瓦が使われているようです。

このプチットフランスの名前は耳に心地よく、かつてドイツにあって、フランスを懐かしんだようなイメージを抱かせる。
この呼び名は、実は、ストラスブールが神聖ローマ帝国領だった15世紀、この島(川洲)に梅毒の病院が建てられ、ドイツ語で梅毒を「フランスの病気」と呼んでいたことから来ている。


 

< 7. プチットフランス 2 >


 

< 8. プチットフランス 3 >

右手にこれから行く地図番号4の小さな広場がある。
川の水はあまり綺麗とは言えないが、川面に青空が映えて実に素晴らしい景観でした。





 

< 9. 通り 3 >

地図番号4から5の間の通り。


 

< 10. サン・ト―マ教会 >

この教会はプロテスタントの教会ですが、かつてはカトリックの教会でした。

1517年、ルターがドイツで「95ヶ条の論題」を発表し、宗教改革が始まりました。
そしていち早く、1524年には、この教会はプロテスタントに改宗しました。
そして宗教改革者のマルチン・ブツァーが1532年より、アルザス地方で布教活動を行い、この教会で説教を行っている。
その後、神聖ローマ帝国内でプロテスタントの後退が起き、1549年、迫害を逃れ英国に渡り、英国の教会改革に関わった。



 

< 11. グーテンベルグ広場 >

グーテンベルグの像が立っている。
彼はルネサンス三大発明の一つ、活版印刷をヨーロッパで初めて実用化した。
この広場はこれを記念したものです。

グーテンベルグはドイツのマインツに生まれだが、1434~1444年の間、ストラスブールに住んでおり、この間に活版印刷技術を完成させていたらしい。
その後、マインツに移り住み、印刷所を開始し、最初の印刷聖書「グーテンベルク聖書」を1455年に出版した。

この技術によって聖書が量産されプロテスタントへの理解が広まり、宗教改革を後押しすることになった。
またそれまでの写本や木版本に替わり、大量の出版が可能になり、各国の言語統一に拍車をかけることにもなった。

後半は、次回紹介します。


ストラスブールの城郭について
帰国後、調べていると城郭地図が見つかりましたので紹介します。


 

< 12. ストラスブールの地図、上が真北 >

上の地図: Pプチットフランス、Cが大聖堂、Wが唯一残っている城壁跡。

下の地図: イル川に囲まれた旧市街の全景。


 
< 13. ストラスブールの城郭図 >

この三枚の地図により、中世のストラスブールの様子がよくわかります。

上の図: 1644年当時。By Wikipedia.
この俯瞰図は、旧市街を東北東から見たもので、イル川の下流側から大聖堂を見ている。
現在の分岐したイル川の外まで五稜郭のような星型の城郭が広がり、南側のイル川を行く船は二つの塔の間を進んでいくようです。
中洲に出来た現在の旧市街も城壁で囲まれているのが見える。


中央の図: 1680年の形らしい。上が真北です。
上の俯瞰図の平面図と考えられる。
Pプチットフランス、Cが大聖堂です。

下の図: 18世紀末から1870年の形らしい。上が真北です。
この時期になると、更に城郭は拡大している。

Pプチットフランス、Cが大聖堂、Wは唯一残っている城壁跡に対応すると考えられる。
ライン川の対岸にあるKEHLは現在ドイツ領ですが、ここにも城郭が見える。
ストラスブールは1690年代に神聖ローマ帝国領からフランス領になり、また1871年に、ドイツ領(プロイセン)になっている。

ストラスブールの15世紀以降の古地図や俯瞰図を見ると、イル川の中州に出来た現在の旧市街だけの城郭は16世紀になってから、旧拡大していることがわかる。

16世紀と17世紀はヨーロッパ中が宗教戦争に巻き込まれた時期でした。
17世紀末になると、ルイ14世によってフランスは最盛期を迎え、領土拡張が進んだ。
これらが、ドイツとフランスの国境沿いに戦争を頻発させ、城郭の拡大に繋がったようです。

つまり、当初私が感じたような無防備な都市ではなくて、ストラスブールは巨大な城郭都市でもあり、水運も考慮した都市だったようです。
これはバビロンの古代都市にも似ているし、中洲から発展したパリとも似ている。


次回に続きます。

20170708

何か変ですよ! 61: よくあるタカ派礼賛



*1


今回は、経済学者の惜しい勘違いを御紹介します。
共著「世界経済の勝者と敗者」での浜田先生のお言葉です。
なんとゲーム理論を使ってタカ派こそが中国を制すると説いています。


浜田先生のお言葉
この本の最後に、『コラム 中国編: 「ゲーム理論」から考える中国との向き合い方』があります。(216~219頁)

僭越ながら抜粋要約します。

危なっかしい中国と付き合うには、囚人のジレンマ(ゲーム理論の一つ、注釈1)によるコンピューターシュミレーションの結果(注釈2)を援用することです。
つまり「しっぺ返し戦略」が最良なのです。
これは最初は相手を信頼して協力しあうのだが、相手が裏切って敵対してきたら、確実にやり返す戦略です。
この点、タカ派の安部首相が最適です。

またニクソン大統領は電撃的に中国と和解した。
さらにレーガン大統領も冷戦を終結させた。
この二人もタカ派(共和党)でした。
                      』

私はこれを読んで、やはり安部首相の側近になる人は凄いなと感心した。
しかし、著名な先生の発言だけに悪影響が大きいので、少し誤解を解きたいと思います。


 
*2


「しっぺ返し戦略」引用のおもしろさ
これは動物行動がどうして進化したかを知るには面白いテーマで、かつ有名です。
しかし知ったかぶりの都合の良い御説はいただけません。

この手の実験は、コンピューター上の行動が実際の個人や社会と異なり、相手の行動を予測したり学習出来るのか、また協力した時の利益と裏切られた時の不利益の配分が問題になります。
例えば、不利益は単に利益が減るだけなのか、極論すれば1回でも裏切られれば死を意味するかなどです。
とりあえず、一国の外交戦略に即使えるものではありません。

しかし、この手の多くの実験や理論から動物や人間行動(利他行動、同胞愛)の進化などがある程度説明出来ることも事実です。

ここでは長谷川寿一著「進化と人間行動」(2000年刊)から、この「しっぺ返し戦略」の解説を一部引用します。

「しっぺ返し戦略」は、「上品さ」(何はともあれ初回は協力する)、「短気さ」(やられたらすかさずやりかえす)、「寛容さ」(古い過去にとらわれず、相手が協力に出たら、すぐに協力する)、「わかりやすさ」(単純である)という特徴を備えています。
人間社会でも、これらのキャラクターを兼ね備えていれば、つきあう相手として皆に好かれるでしょう。
「しっぺ返し戦略」に限らず、上位を占めたコンピュータープログラムの特徴は、基本的に「協力」的な(少なくとも初回は「協力」から入る)ものでした。

・・・
これらの研究から得られたメッセージは、互いに何度もつき合いを続けていくような関係においては、協力行動は遺伝的に進化し得るということです。
つまり、社会生活を送るのが常であるような動物には、「他個体によくする」という行動が進化し、それを引き起こすような心理メカニズムが存在するだろうということです。
                       』

素人の浜田先生と専門の長谷川先生の違いはどうでしょうか?
まったく正反対の解釈に思えます。
おそらく、浜田先生は右翼の心性をお持ちか、その手の解釈を教条的に受け入れているだけなのでしょう。
この手の人は、どうしても強い者や力で抑えること、未知の者を敵視する傾向が強い。
この人に悪意は無く、軽い気持ちで都合の良い引用しただけなのだろう。


多くの研究(注釈3)では、動物の進化と共にタカ派的な行動(裏切りや攻撃が主な行動)を緩和するハト派的な行動(思いやりや協力が主な行動)が発展して来たことが知られています。
単純に言えば、タカ派的な行動が社会を覆ってしまえば、その成員は生命の危機を招き、社会は利益を減らし、発展出来なくなります。

私が驚いたのは、本の最後に安部さんを讃えるために、このテーマを取り上げていることでした。
経済学は財の数量を扱うものであり、財を扱う人々の心理を扱うのは苦手だと思うが、これはお粗末な人間理解です。
実は、経済を動かし、バブルを生み出しているのは合理的でないアニマルスピリットなのです。
これを扱えてこそ、浜田先生は本当の経済の指南役になれるでしょう。
是非とも精進して欲しいものです。


 
*3


事実は奇なり
浜田先生の御説は危なっかしいが、本来、この手の研究(注釈3)は私達に社会や人間への正しい理解を与えてくれています。

数多くの中から二つ重要な知見を紹介します。

動物は弱肉強食の世界だと一般に強く信じられていますが、儀式的な闘争(儀闘)が進化し、無駄な争いを防いでいます。
よく知られているように、鮎やライオンなどは同種の相手が縄張りに侵入した時、徹底的に殺し合うことをしません。
基本的に威嚇で始まり、優劣が決まればそこで止めます。
それ以上に進むこともありますが。
詳しくは「心の起源 連載8」に説明があります。
残念ながら、チンパンジーや人類の方が弱肉強食(残酷)になる場合があります。

社会心理学にトラッキング・ゲームがあります。
これは競争(脅迫)と協力(譲歩)のどちらが社会全体に利益をもたらすかを教えてくれています。


 
< 4. トラッキング・ゲームの図 >

この社会実験は二人がA社とB社に別れ、自社のトラックで自社の出発点から目的地へ、多くの荷物を運ぶのが目的です。
曲線の道は時間がかかり過ぎるので、真ん中の直線道路を使うと早く運べるのですが、相手のトラックの通行をコントロールゲートで止めることが出来ます。
但し、相談は出来ません。

多くの実験をした結果、二つのゲートが無い場合は、直線道路の前で譲り合う人がいると、共に多くの荷物を運べました。
しかし、ゲートを設けた途端に二人の運べる荷物の総量は極端に減りました。

つまり、互いに相手の足を引っ張り合いを始め、激化し自滅したのです。
これは、如何に「競争関係」より「信頼関係」を築くことの方が得策かを示し、人は「脅迫(軍備)」の力を持つと簡単に自滅してしまうことを教えてくれています。


 
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浜田先生の歴史観のおもしろさ
彼はニクソン大統領とレーガン大統領の功績を讃えていました。
確かに、否定は出来ないが、単純で一方的過ぎます。
つまり、相手の存在と歴史の流れをあまりにも無視し、ここでも我田引水なのです。

冷戦終結は、レーガン大統領の功績だと喧伝されているのは事実です。
しかし、少し考えれば疑問が湧くはずです。

レーガンが大統領になったのは1981年でした。
一方、ゴルバチョフの書記長は就任こそ1985年でしたが、1978年頃から中央で改革を主導し頭角を現していた。
また彼は書記長就任の年、外相にシェワルナゼを抜擢していた。

そして1987年、大統領と書記長が「中距離核戦力全廃条約」に調印し、冷戦が終息に向かった。
大統領の圧力(スターウォーズ)と言うより、既にソ連内部に変革の兆しがあり、書記長と外相の融和的な方針が功を奏したように思える。注釈4.
また冷戦の軍拡競争によるソ連の経済疲弊や米ソの軍縮は以前から進んでいた。


1972年2月のニクソン大統領の電撃的な中国訪問は驚きでした。

これにはキッシンジャーの活躍もあるが、やはりここでも中国の周恩来の存在が重要です。
この年の9月には、彼は早くも田中角栄と日中共同声明を調印しているのです。
周恩来の融和的な姿勢が無ければ不可能だった。
また1971年、対米強硬派(タカ派)の林彪が死亡したことも幸いしている。

こうしてみると、ソ連と中国のハト派の貢献が浮かび上がり、浜田先生のタカ派絶賛は怪しくなりました。
要は、身びいきが過ぎると言うことでしょうか。

成功のポイントは、タカ派二人の大統領の交渉意思と、相手国のハト派二人のトップの存在があってこそなのです。
もしも、両国がタカ派同士、ハト派同士であればどうなっていたでしょうか?
一方だけを強調するのは、よくある右派と左派の言説で、注意が必要です。


最後に
せっかく愉しみに買ったクルーグマン共著の「世界経済の勝者と敗者」でしたが、先に結論辺りから読んだのが悪かった。
興覚めです。
諦めないで、また初めから読むつもりですが。




注釈1.
二人の間で、共に協力する方が多くの利益を得ることが分かっていても、相手の行動が予測できない時、協力しない方が確実に少しの利益を得る状況では互いに協力しなくなる、というジレンマを指す。

注釈2.
1980年、米国の政治学者ロバート・アクセルロッドが、様々な研究者からゲーム戦略を募集し、コンピュータープログラムで総当たり対戦を行った。
そして様々な戦略の中から「しっぺ返し戦略」が最高得点を取って優勝した。

注釈3.
動物行動学、ゲーム理論、進化心理学、進化生物学、社会心理学など。
このジャンルの本を推奨します。
「生物の社会進化」ロバート・トリヴァース著、産業図書:難しいが驚くべき慧眼です。
「共感の時代へ」フランスア・ドゥ・ヴァール著、紀伊国屋書店: 動物の愛に涙します。目からうろこです。
「進化の人間行動」長谷川寿一著、東京大学出版会: 大学のテキスト。全体像がわかる。
「社会心理学キーワード」山岸俊男著、有斐閣: 要領よくまとまっている。

注釈4.
創元社刊「世界の歴史10」JM.ロバーツ著。
p186~188に、似たような記載があります。



20170707

フランスを巡って 21: ストラスブール 夕刻と朝に






< 1. 大聖堂 >


ストラスブールには2泊し、ストラスブール旧市街とアルザス地方の町と村を観光します。
観光の概要を紹介します。
今回は、ストラスブールに到着した夕刻の旧市街とホテル周辺の朝を紹介します。



ストラスブールとアルザス観光
初日は、旅行5日目、5月21日(日)で、18:30にストラスブールに到着し、旧市街で夕食を済ませ、ホテルに入った。

次の日、22日(月)、朝は旧市街を徒歩観光し、次いでバスに乗りプティット・ベニスで知られたコルマールとワイナリーのあるリクヴィルを訪れた。
夕刻、ホテルに戻った。

その後、私達は近くの大型スーパーに行き、それから旧市街を散策しレストランで食事をした。
食事後、歩いてホテルに戻った。



 

< 2. ストラスブールの地図、上が真北です >
上の地図: ストラスブールの位置は赤いアドバールン。
赤線はこれまでのルートです。

下の地図: 2日間でストラスブールを歩いたルートを示す。

黒線: 今回紹介する21日夕刻のルートです。
Sでバスを降りて、橋を渡り、旧市街にある夕食のレストランL1に行き、また1fまで戻り、バスでホテルに入った。

赤線: 22日の朝、ガイドと共に旧市街を徒歩観光したルートです。
2sから始め、プティット・フランスPe、次いで大聖堂Caを見て、2fを通り、バスでコルマールの観光に向かった。

青線: 22日の夕刻、散策したルートです。
ホテルHを出て、3sから歩き始め、予約していた夕食のレストランL2に向かったが、店が閉まっていたので、レストランL3で食事を済ませ、3fを通り、ホテルに戻った。

茶色線: 22日の夕刻、ホテルHと大型ス―パーSMを往復したルートです。


 

< 3. 歩き始める >

橋を渡り、旧市街へ入る。
時刻は18:30頃です。


 
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< 5. メインストリート >

この通りにはトラムが走っている。
トラムは旧市街の中を十字に通っている。
ストラスブールの旧市街には許可以外の車は入ることが出来ず、トラムがメインです。
自転車専用レーンが道路脇にあり、数は多くは無いが快走する自転車が目立った。
ストラスブールは環境にやさしい街づくりを目指しており、単に古い町ではなかった。




 
< 6. レストランで夕食 >

 
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食事を終え、バスの待つ駐車場まで歩き、そこからバスでホテルに入る。
下の写真: 旧市街を囲むイル川を行く遊覧船です


 
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< 9. 早朝ホテルの部屋から >


 

< 10. ホテルの裏側 1 >


早朝、ホテルの裏側を散策した。
ここは旧市街を囲むイル川の南側を流れる運河に沿った公園の一部です。
ランニングや散策する市民を見かけました。
またのんびりと過ごしている多くの水鳥を見ました。



 

< 11. ホテルの裏側 2 >

上の写真: 中央の建物がホテル「ホリディイン エキスプレス ストラスブール」です。


次回に続きます。