今日はビルュニス旧市街観光の残りを紹介します。
2016年10月3日、月曜日の朝、霧に包まれた町を歩きました。
< 2. 地図 >
上の地図: 徒歩観光したルート。上が北方向。
紫線は夜の街歩き、赤線は前回紹介した旧市街、紺線は今回紹介する旧市街です。
中央の地図: この旅行で歩いた旧市街。上が東方向。
上の地図と同じ色でルートを示している。
二つのオレンジ枠は後に紹介するヴィリニュス・ゲットーだった所です。
下の地図: 今回の徒歩ルート。上が東方向。
今回の紹介はSから始まり、Eで終わります。
途中のGは市庁舎広場の噴水に近く、ゲットーの表示があるところです。
< 3. 市庁舎広場の噴水近くから >
上の写真: 南側の中央に旧市庁舎が見える。
中央の写真: 中央に東側の聖母マリア教会。
下の写真: 北側のニコラス正教教会の鐘楼が見える。
< 4. 市庁舎広場から夜明けの門通りに入る >
上の写真: 左に聖カジミエル教会の屋根が見える。
No.1の写真が拡大したものです。
中央の写真: 聖カジミエル教会の正面。
1604年にイエズス会よって建てられ、帝政ロシアの時代には頭の王冠がタマネギに付け替えられ、正教教会になった。
ソ連時代は「無神論」博物館にさえなった。
< 5.様々な教会 >
上の写真: 中央に聖三位一体教会が見える。
この教会はカトリックとロシア正教会の習合によって生まれた宗派の教会。
中央の写真: 中央奥に夜明けの門が見える。
その左にテレサ教会の正面が見える。
下の写真: ピンク色で外観が変わっている聖霊教会。
上の写真の人だかりがその場所です。
リトアニアにおけるロシア正教の中心的な存在。
ここは観光客や参拝客が多かった。
< 6. 夜明けの門 >
上左の写真: 夜明けの門をくぐると城外になる。
左側の建物に小さな扉があり、そこから階段を上ると中央のイコンを拝める。
無料です。
上右の写真: この門は昔の城壁でした。
この旧市街には城壁は一部しか残っていない。
下の写真: 黄金に輝くイコン。
このイコンは今も奇跡を起こす力があると信じらていると聞きました。
私は階段を上って、すぐ横まで行ったのですが、諦めて戻りました。
東アジアの物見遊山の観光客が、敬虔な信者達をしり目に我勝ちに占拠する姿を見て、悲しくなったからでした。
< 7.夜明けの門を出て >
上の写真: 門から来た道を振り返っています。
中央の写真: 門を外側から見ている。
下の写真: 少し離れた所から門を見ている。
これだけキリスト教会が多いのにユダヤ教のシナゴーグが見当たりませんでした。
二つの悲しい歴史
< 8. 近代リトアニアの生い立ち >
A: 署名者の家。
ピリエス通りに面した「Signatarų namai」の表記がある建物で、場所は地図のSの辺りです。
B: ポーランド・リトアニア共和国(1569-1795)の最大版図、1619年頃。
現在の国境を重ねて表示。
C: 三度に亘るポーランド分割(1772-1795)の推移。
リトアニアはプロシア(ドイツ)、ロシア、オーストリアで分割され、最後にはロシア領に組み込まれた。
赤丸がビルニュス。
D: 第二次世界大戦以降(1939~)、バルト三国はソ連によって占領された。
E: 1920年、ポーランドのビルニュス進攻。
ゲディミノ大通りをカテドゥロス広場の大聖堂に向かって進軍。
リトアニアの独立を巡って
1918年、上記「署名者の家」で始めてリトアニアの独立宣言が行われ、他のバルト三国も同じ年に行った。
1990年、リトアニアは2回目の独立宣言を行い、1年後、バリケード事件の年に他のバルト三国も行った(「リガ3」で紹介済み)。
この2回の独立は、バルト三国の悲しみを象徴し、特にリトアニアは悲惨でした。
それは、リトアニアがヨーロッパのポーランドやドイツとロシアに挟まれていたからでした。
バルト三国の南部は東西の大国が領土を拡張する時は、いつも修羅場になった。
18世紀末以降、国土の大部分はポーランド・リトアニア領からロシア帝国に組み込まれていった(No.8の地図BとC)。
ところが第一次世界大戦にかけてロシア革命(1905、1917)が勃発すると、
民衆はかつての支配国のドイツ、ソ連の革命軍(赤軍)と反革命軍、ポーランド寄りに分かれて戦った。
その間隙を突いて、1918年に前述の独立宣言を行い、諸外国から承認された。
しかし、その後もソ連とポーランドによって領土は分割され、1939年、ついにナチスドイツが進攻し、密約によりソ連領とされた(No.8の写真D)。
第二次世界大戦の1940年、ソ連が侵攻して来たが、41年には独ソ戦が始まった。
民衆は独立を目指し、広大な原生林に隠れながら抵抗運動(パルチザン)を行った(No.9の写真A)。
この間、多くのリトアニア人は国外脱出を図り(米国など)、ソ連は見せしめの大量虐殺とシベリア抑留でこれを弾圧した。
特にスターリンによる粛清は過酷を極め、また偽パルチザンやスパイの暗躍,また
裏切りによって人々は疑心暗鬼になっていった。
やがて、1985年、ゴルバチョフのペレストロイカが始まると、バルト三国に雪解けが起きた。
けっして平坦な道ではなかったが、タリンの「歌の革命」(No.9の写真B、現在のもの)、3ヵ国による「人間の鎖」(No.9の写真C)、リガの「バリケード事件」(No.9の写真D)を経て、バルト三国は真の自由を得た。
なぜ人は独立の為に戦うのだろうか?
バルト三国を巡っている時、上記の問いが脳裏から離れなかった。
私には独立の為に命を捨てる覚悟はないだろう。
ビルニュスの青年に、1991年の独立について添乗員に聞いてもらった。
彼の感想を要約します。
「今でも、この戦いの評価が分かれている。
若い自分としては、独立によって自由を得られたことが大きい。
今は、大学を出ても就職先に困る欠点はあるが、昔は、何もなく貧しかった。
年寄の中には、昔の方が良かったと言う人もいる。」
参考: 現在、リトアニアの失業率は10%ほどです。
私は少し安堵した。
独立闘争が美化されておらず、国民が冷静に歴史を見ていると感じたからです。
これは想像を絶する分断との闘いだったからかもしれない。
実は、ポーランドでも同じような質問していますが、後日、紹介します。
一方、問題もある。
それは反乱を防止する目的などで占領地の住民を強制移住させ、そこにロシア人を移民させていることです。
地域によればロシア人の比率が高く(エストニアのナルバなど)、不満が鬱積するとロシアへの統合を求め分裂するかもしれない。
そうすればウクライナと同様の事が起きる。
小国バルト三国は、今もロシアの一挙手一投足に怯えているのではないだろうか?
その一方、ロシアの人々は無関心であった。
< 9.バルトの闘い >
< 10. ビルニュス・ゲットー 1 >
上の写真: 市庁舎広場の噴水近くの西側に延びる通路。
この撮影場所はNo.2地図のGです。
下左の写真: この通路の右手入口に「ビルニュス・ゲットー」の説明板がある。
下右の写真: 「ビルニュス・ゲットー」の説明板。
< 11.ビルニュス・ゲットー 2 >
A: 1902年当時の市庁舎広場。
No.3の下の写真とほぼ同じ方向を撮影している。
B: 1939年、ドイツ軍の制服を来たリトアニア軍がビルニュスに進軍。
奥にカテドゥロス広場の大聖堂が見える。
C: ビルニュス・ゲットーの入り口(1941年以降だろう)。
D: ビルニュス・ゲットー内の様子(1941年以降だろう)。
E: ビルニュス・ゲットーで1942年に結成されたパルチザン。
ユダヤ人の悲劇、ビルニュス・ゲットーについて
ヨーロッパ各地を旅行していると、ユダヤ人と関わる不思議な発見をすることがある。
ハンガリーのブタペストでシナゴーグを訪れ、ドイツ軍による大規模なユダヤ人虐殺を知った。
シナゴーグ内で座っていると「あなたはスペイン人ですか?」と数回聞かれ、不思議に思った。
後に、スペインのトレドを訪れた時、レコンキスタ終了後の1492年にゲットーが造られたことを知った。
実はこのことが、ブタペストでの質問に繋がったようです。
キリスト教徒の国、ヨーロッパではユダヤ教徒を忌避していたのですが、このスペインの事件以降、排斥されたユダヤ人は、ヨーロッパを東へ東へと移動したのです。
そして東欧やロシアに入ったのでした。
このリトアニアのビルニュスには16世紀からユダヤ人が住むようになり、18世紀末以降は「リトアニアのエルサレム」と称されるようになった。
さらに第二次世界大戦が始まると、ドイツ軍占領下のポーランドを逃れてユダヤ難民が押し寄せ、ビルニュスのユダヤ人人口は15万人に膨れ上がった。
そして、ドイツ軍の進攻と共に惨劇が始まった。
この初期に杉原千畝領事がカウナスでユダヤ人を大量に救ったのでした。
1941年、ドイツの保安警察と反ユダヤ主義のリトアニア人補助兵がユダヤ人虐殺を始めた。
次いで、ヴィリニュス・ゲットーが造られ、ユダヤ人はそこに隔離された。
1943年、ヒムラーの「労働できるユダヤ人は強制労働収容所へ移送し、それ以外の者は全て殺害せよ」との命令により、移送と殺害が始まった。
この間に、抵抗運動は起きたが、最後は森に逃げた。
1944年、ソ連軍がヴィリニュスを再占領した時、2500人ほどのユダヤ人が隠れて生存していただけであった。
ニュルンベルグ裁判(1945-46)で、ホロコーストの3人の証人の一人は、このビルニュス・ゲットーのユダヤ人でした。
イスラエル建国時や中東戦争で活躍した人、イスラエルの強硬派の指導者にはロシアや東欧での苦難や戦いを経験した人が目立つ。
悲しい巡り合わせです。
次回に続きます。