20170109

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 23: リガ 2



< 1.中央市場 >


今日は、首都リガ紹介の2回目です。
訪れたのは2016年10月2日(日)です。


 

< 2.リガの地図、すべて上が南です >

上の地図: 今回紹介する範囲。
黄色枠が今回紹介する旧市街の観光ルート。
Aは最初に訪れた中央市場、Bは科学アカデミー。

下の地図: 黄色枠の拡大。
黄色線が徒歩観光ルート。
Sはスタート地点、Cはドゥァマ広場、Dは市庁舎広場、Eは聖ペテロ教会。



 

< 3.雨のリガ >

外は土砂ぶりの雨でした。

上の写真: リガ市街。
下の写真: ダウガヴァ川。

 

< 4.中央市場 1 >

午前中で土砂ぶりの雨にも拘わらず地元の人で賑わっていました。

上の写真: 中央市場は大きな4つの建物からなるのですが、隣接の露天市場もある。
左遠方に見えるのは科学アカデミーで、スターリン・クラシック様式の21階の建物です。
モスクワでも見ましたが、ソ連時代のシンボル的な建物が当時の共産圏の首都に見られます。

下の写真: チーズなどの乳製品のコーナーです。
チーズやバーターなどを買いました。

この建物は、20世紀初頭に建てられた時は、ヨーロッパにも例がない大きさと設備だった。
大戦中はドイツ軍が使用していた。

バルト三国からポーランドを観光中、現地ガイドの口から、ソ連や大戦中のドイツの支配にまつわる話がよく出て来た。
こんなところにも、大国の狭間で喘いだ国の悲哀を感じる。


 

< 5.中央市場 2 >

上の写真: 蜂蜜の売店。
ここではハーブ入りの蜂蜜を買いました。

旅先で買い物をする時と帰宅して初めて味わう時は実に楽しいものです。
たまに、予想が外れてがっかりすることもありますが。
ちょうど今、毎朝、パンに塗って味わっています。

下の写真: 海産物や魚介類の売店。
今回の旅行中で食べたニシン料理が美味しかったので缶詰を買いました。
25年以上前、ドイツや北欧で食べたニシン料理が塩辛くて単調な味だったのですが、今回のどの訪問国でも良かった。






 

< 6.中央市場 3 >


 

< 7.ドゥァマ広場 1 >

上と中央の写真: リガ大聖堂。
13世紀初め、教皇が派遣した北方十字軍が上陸し占領し、ここを宗教的中心地として教会の建設を開始した。
現在の形になったのは18世紀後半でした。
この大聖堂もタリンの大聖堂と同様に地盤沈下を起こしていた。
中には入っていません。



 

< 8.ドゥァマ広場 2 >


 

< 9.ブラックヘッドのギルド >

上の写真: ブラックヘッドのギルドに向う途中。

下の写真: 市庁舎広場に建つブラックヘッドのギルド。
左手の教会は聖ペテロ教会

この建物はドイツ軍の空襲で破壊されていたが、2000年に完全に再建されたものです。
この元の建物はギルドによって15世紀に建てられた。
正面には美しい時計、ハンザ同盟の4つの都市の紋章、ギリシャ神話の像があり、入り口の右側には、建物名の由来になった黒人の浮彫が見える。

当時は、この市庁舎広場がリガの中心で、祭りや条例の布告、刑の執行も行われていた。
ブラックヘッドのギルドの向かいに再建された市庁舎がある。



 

< 10.聖ペテロ教会 >

上の写真: 市庁舎広場の中央に建つ、リガの守護神ローランド像。
ドゥブロブニクのルジャ広場にもこの像が立っていました。
ヨーロッパの自由都市の象徴で交易とも関係しているようです。

下左の写真: 聖ペテロ教会。
13世紀の初めに建てられ、18世紀にほぼ現在の姿に改築された。

下右の写真: 来た道を振り返った。
遠くに見える尖塔の屋根は聖ヤコブ教会です。
この辺りは次回紹介します。


 

< 11.聖ヨハネ教会 >

上の写真: 聖ヨハネ教会。
この建物は13世紀に創立され、16世紀に再建されたゴシック様式の教会。
古い様式の教会を再建した為か、低い為か通常見られる側壁が見られない。

写真の聖ペテロ教会との間にある石畳とこの教会は雨に濡れて何やら中世の陰鬱さを感じさせる。

この教会の壁には二人の修道士が志願して埋められているが、これと似た話はクロアチアの首都ザグレブでも聞いた。
信仰の篤さに驚く。

下の写真: ブレーメンの音楽隊の像。
これは聖ペテロ教会の横に立っている。
これはハンザ同盟都市のブレーメンと関係があるようです。


あとがき
中世ヨーロッパの時代、ドイツの貴族や商人が東方に植民し、チェコやポーランドの支配層になったことは知っていたが、バルト三国にまで及んでいたことには驚いた。
また12世紀の十字軍はエルサレム進攻が目的だと思っていたが、布教と領土、商圏獲得の為に、この地まで剣を携えて乗り込んで来たことにも驚いた。

このような遥か昔の事件を、現地に立ち、実感出来ることが旅の魅力でもあります。

次回に続きます。





20170107

Bring peace to the Middle East! 58: when religions were born 6: Islam 1

中東に平和を! 58: 宗教が誕生する時 6: イスラム教 1





<  1.  the Kaaba in Mecca >
< 1. メッカのカーバ神殿 >

I investigate the birth of Islam in twice.

二回に分けて、イスラム教の誕生を追います。





<  2.  Three trade routes  >
< 2. 三つの交易ルート >


The age when Muhammad (around 570 - 632) was born
Two ancient civilizations were born in the Middle East, but the desert Arabian Peninsula was out of the area.
Country began to be born in the southwest and northern parts of the peninsula since about A.D., and several countries had contested there in  about the 3 rd century.
Cities were born in plateaus and oases, camel caravans in the desert were responsible for trade, and caravan cities were made in the routes.
Nomads who were living in tents made tribal societies, sometimes joined hands and at other times separated from others, and repeatedly had fought.
There were three routes of east-west trade on the Peninsula, two sea routes going through the Persian Gulf (blue line) and the Red Sea (red line), and a land route (brown line) parallel to the Red Sea.
Mecca where Muhammad was born was one of the caravan cities in this land route.


ムハンマド(570頃―632年)が生まれた時代
二つの古代文明が中東で誕生していたが、砂漠のアラビア半島は園外だった。
紀元前後から半島の西南端と北部に国が誕生し始め、3世紀頃になると数ヵ国が分立するようになった。
高原やオアシスには都市が生まれ、砂漠ではラクダの隊商が交易を担い、隊商都市も出来た。
天幕で暮らす遊牧民は部族社会を造り、離散集合を繰り返し抗争していた。
半島には三本の東西交易のルートとしてペルシャ湾(青線)と紅海(赤線)を行く海上ルート、それに紅海に並行した陸上ルート(茶線)があった。
ムハンマドが生まれたメッカはこの陸上ルートの隊商都市の一つだった。

The Persia and the Byzantine Empire of the two great empires were fighting each other, it began to influence the whole peninsula since about the 4th century.
With this, civilization and the sophistication of weapons advanced throughout the peninsula.
On the other hand, when the Persia and the Byzantine Empire entered a peace treaty in the second half of the sixth century, the main trade route became the Persian Gulf, the caravan cities of the land route declined, the nomadic population increased in reverse, and the conflict intensified.
This is "Jahiliyyah" in Islam.
However, in the beginning of the 7th century, when both empires began war, trade route returned to the land route.


4世紀頃から、二大帝国のペルシャとビザンチンは互いに争いながら半島全域まで影響を及ぼし始めた。
これにより半島全体に文明化と武器の高度化が進んだ。
一方、ペルシャとビザンチンが6世紀後半に平和条約を結ぶと、交易ルートはペルシャ湾が主になり、陸上ルートの隊商都市が衰退し、遊牧民が増大し、抗争が激化することになった。
これがイスラムで言う「無明時代」です。
しかし、7世紀始め、両帝国が戦争を始めるとまた陸上ルートに交易が戻った。

At that time, the north-south ethnic groups of the peninsula deepened exchanges and had Arabic of common language.
In the peninsula, there was a polytheism of idolatry, but Christianity propagation progressed by the influence of the two great empires.
Judaism also had spread by Diaspora Jewry, and many Jews had lived in Medina.
In Mecca, there was the Kaaba that many statues were enshrined since a long time ago.

当時、半島の南北の民族は交流を深め、共通語のアラビア語を持つようになっていた。
半島には偶像崇拝の多神教があったが、二大帝国の影響によりキリスト教の布教が進んでいた。
また離散民によってユダヤ教も広まり、メディナには多くのユダヤ教徒が住んでいた。
メッカには古くから多くの像を祭った多神教のカーバ神殿があった。





<  3. Muhammad in Medina >
< 3. メディナのムハンマド >

The act of the Muhammad
He was born as a member of a large tribe of Mecca, was married and had succeeded in commerce trading, but suddenly, heard the revelation of Allah of the one God at about the age of 40.
Because he preached this, made a group of believers, and accused the idolatry of the Kaaba, they were persecuted by ruler class in Mecca.
However, people of the Medina impressed with his doctrine asked him to save mess of the town.
Then, he moved to the Medina with his believers and family (Hijra).
Before long, he conflicted with Jewish in the Medina about ritual, defeated them in battle, and completed a strong Islamic community "Ummah".
Then he won the fight against Mecca's army corps.
He died shortly after dominating Mecca, but already the Islam had spread throughout the Arabian Peninsula.

This continues the next time.


ムハンマドの行い
彼はメッカの大部族の一員として生まれ、結婚し隊商交易で成功していたが、40歳頃、突如、唯一神アッラーの啓示を聞いた。
彼はこれを説いて信徒集団を作り、カーバ神殿の偶像崇拝を非難した為、彼らはメッカの支配層から迫害を受けた。
彼の教説に感銘を受けたメディナの人々が、彼に町の混乱を救って欲しいと要請した。
彼は信徒達や家族と共にメディナに移り住んだ(ヒジュラ)。
やがて、彼はメディナのユダヤ教徒と儀礼で対立し、これを戦闘で破り、強固なイスラム共同体「ウンマ」を完成させた。
次いでメッカの軍団との戦いに勝利した。
彼はメッカを支配後、まもなく死去したが、すでにイスラムはアラビア半島の全土に及んでいた。

次回に続きます。

20170105

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 22: リガ 1



< 1. 内側から見た旧市街の城壁(右) >


今日から、ラトビアの首都リガを紹介します。




 

< 2.リガの地図、すべて上が北です >

上の地図: ラトビア全体を示す。
首都リガは湾の奥に流れ込むダウガヴァ川の河港として発展した。

このロシアの奥深くに端を発する1000kmを越える川と良港がドイツ商人の入植を盛んにさせ、この地はハンザ同盟を経て経済発展した。
その後、ロシアのバルチック艦隊の拠点にもなった。
現在のリガの人口は70万人。
ラトビアの人口は200万人、面積は九州の約2倍。

中央の地図: 今日紹介するリガ。
黄丸は宿泊ホテル、赤矢印はユーゲントシュティール建築群、黄枠は旧市街、黄矢印は火薬塔です。
ホテルRixwell Elefant Hotelから旧市街までの距離は約4kmです。
旧市街の長さは川に沿って約1kmある。

下の地図: リガの主要観光地、旧市街とユーゲントシュティール建築群を示す。



 

< 3.車窓から見たリガ市内1 >



 

< 4.車窓から見たリガ市内2 >



 

< 5.旧市街に到着 >

上の写真: 旧市街の一角に到着。
ここからバスを降りて、火薬塔を目指す。

下左の写真: 火薬塔。
14世紀に建てられ、17世紀に再建された火薬の保管庫です。
昔はここから外は砂丘で、街はぐるっと砂丘に囲まれていたが、その後、稜郭と堀で囲まれた。
塔の表面にはロシア軍の攻撃による砲弾が埋め込まれている。

下右の写真: 外側から見たスウェーデン門。
リガに残る唯一の城門。17世紀に城壁を利用して住宅が建てられた際に造られた。
当時、近くの兵舎に住んでいたスウェーデン兵がよく利用したのでこの名がついた。



 

< 6.旧市街 >

上の写真: 外側から見た城壁。
この向い(右手)にあるレストランで夕食をとりました。

下の写真: 夜の旧市街。
夕食後、外に出るととっぷりと暮れていました。


 

< 7.レストランのある棟  >

長い店舗棟の端の壁に多くの紋章が描かれていた。
すぐ左に火薬塔がある。



< 8.ホテル >

上の写真: ホテルRixwell Elefant Hotelの最上階から西側を見ています。
2016年10月2日(日)の朝、夜半からのどしゃ降りがまだ続いていました。

下の写真: ユーゲントシュティール建築群がある通りに着きました。
ここでバスを降りて、ストレールニエク通りを徒歩で観光します。
傘を差してカメラを写すことになりました。

リガはバルト三国の三つの首都の中で最も栄えて最も美しく、よく観光宣伝の写真に使われるのですが、生憎の雨となりました。




 

< 9.ユーゲントシュティール建築群1 >

ユーゲントシュティール建築群は19世紀後半から20世紀初頭にかけてドイツに起こった芸術様式です。
この地が如何にドイツと密接していたかがよくわかります。
この通りはソ連時代、放置され痛んでいたのですが、修復が進んでいます。

これは当時ヨーロッパで流行した世紀末芸術、フランスのアール・ヌーヴォー、スペインのモデルニスモ(ガウディ)と期を一にしている。

ここの特徴は動植物、女性のシルエットが主なモチーフになっている。
しかし、その顔はグロテスクにも思える。
パリやバルセロナの世紀末芸術とは少し趣を異にしているようです。


 

< 10.ユーゲントシュティール建築群2 >



次回に続きます。





20170104

Bring peace to the Middle East! 57: when religions were born 5: Confucianism

中東に平和を! 57: 宗教が誕生する時 5: 儒教



 <1. Confucius>
< 1. 孔子 >

This time, I investigate the birth of Confucianism.

今回は儒教の誕生を追います。

The times when Confucius was born
A first Chinese dynasty was born in the 17th century B.C., but it was divided in approximately 200 countries since the 8th century B.C., and the unification of a country was completed after wars for 500 years.
Since the middle period, the farming had advanced by ironware and the trade had developed, and many city states grew up.
At that time, the wars among nations and the internal trouble of royal families continued, and it occurred frequently that a person of lower rank overthrew a superior either politically or militarily, and then supplanted the superior's position in society.
On the other hand, the royalty and the aristocracy employed a talented and wise person than a blood relative and tried to get predominance .
Under such circumstances, various thinker groups "The Various Masters of the 100 Schools" having an independent opinion were born.
Most of them serve the royalty and the aristocracy, and proposed a policy and an  stratagem.
The Confucius was born in such situation in China in the sixth century B.C.


孔子が生まれた時代
中国の最初の王朝は黄河中流域に紀元前17世紀に生まれていたが、紀元前8世紀には二百カ国ほどに分裂し、五百年間の戦争を経て統一に至る。
この中期頃から、鉄器による農耕と交易が進み、都市国家は成長していった。
国家間の戦争と王家の内紛は絶えることなく、下位の者が上位の者を脅かす下剋上がはびこっていた。
一方で、王侯貴族は血縁よりも才能や知恵ある者を採用し強勢を計るようになった。
こうした中、独自の主張を持つ多様な思想家集団「諸子百家」が生まれた。
彼らの多くは王侯貴族に仕官し政策や術策を提言した。
このような紀元前6世紀に孔子は生まれた。




<  2.  The Confucius traveling on foot  >
< 2. 孔子の遊説行脚 >

The act of the Confucius
He worked his way through school, served a historic state ”Lu”and became a prime minister.
However, he was balked of his hope and opened a private school to common people.
After that, he visited states in each places with disciples, preached his ideal politics, and requested to get into the government service.
After all, he couldn't realize his dream, came back to his hometown, and devoted myself to organize old documents that had been handed down to the state, and to educate people.


孔子の行い
孔子は苦学して由緒ある王家(魯)に仕え、宰相まで登りつめた。
しかし、彼は夢破れ職を辞し、民衆相手に私塾を開いた。
その後、弟子達と共に各地の王家を訪ね、理想の政治を説いて回り、仕官を願った。
結局、夢叶わず故郷に戻り、王家に伝わる古文献の整理と教育に専念した。


Afterwards
After the death of Confucius, his teaching was spread out by disciples, it was as popular to common people as Bokka at that time.
Bokka advocated a love of humanity, pacifism, faith, and a simplification of rites
, and conflicted with a scholar of Confucianism, after that it was ruined.
The Confucianism became the state religion of the Han empire in the second century B.C., and existed as an indispensable for the most of governments afterwards.
It was introduced into Korean Peninsula and Japan before long, and the Confucianism took root in the East Asia as morality to keeping social order.
Sacred books of Confucianism(the Four Books and Five Classics of Confucianism) consisted about old documents on the history and formality of the states that Confucius imitated.
“The Analects of Confucius” is one of the sacred books, and is a book that his disciples wrote down the words and acts of Confucius in.
Mental attitude and how to get along in life are written in the book.


その後
孔子の死後、その教えは弟子達によって広まり、民衆の人気を墨家と二分した。
墨家は人類愛、戦争反対、信心、祭儀の簡素化を訴え儒家と対立し、後に滅んだ。

紀元前2世紀、儒教は漢帝国の国教となり、その後も国政に不可欠なものとして存続した。
やがて朝鮮半島や日本に伝わり、儒教は東アジアに社会秩序をもたらす道徳として定着した。

儒教の経典(四書五経)は孔子が模範とした王家の歴史や儀礼や易(占い)の古文献が集められたものです。
論語ものその一つで、弟子達が孔子の問答や言行を記したものです。
そこには心構えや処世術が書かれている。




< 3. a Confucian temple >
< 3. 孔子廟 >

Thought of the Confucius
He thought policymakers must become better to end the turbulent age.
Therefore, he said it was important that the policymaker doesn't depend on strict penalty and machinations, treats people with a good heart, and must be worshiped by people.
He thought that the model for this is a dynasty " Zhou " approximately 500 years ago.

The basics are "Ren" and "Li".
"Ren" means benevolence or humaneness, and then it was necessary that policymakers seek after virtue and common people have morals.
"Li" means formality or rites, and then it aimed at the succession of the social order (patriarchy, ancestor worship).

He reproved that disciples depended on God, on the other hand, he thought succeeding to the rites make sense.
He didn't deny royal politics, avoided religious things, advocated the revival of traditional mind and norm daringly in the turbulent age.


孔子の思想
彼は、この戦乱の世を終わらせるには為政者が良くならなければならないと考えた。
その為には、為政者は厳格な罰則や謀略に頼るのではなく、善良な心で民に接し、民から敬われることが重要とした。
その手本は、五百年ほど前の周王朝にあるとした。

基本は「仁」と「礼」です。
「仁」とは、自己抑制と思いやりを指し、為政者には「徳」、民には「道徳」を求めた。
「礼」とは、礼儀や祭儀を指し、社会秩序(家父長制、祖先崇拝)の継承を目指した。

彼は、弟子に神を頼ることをたしなめたが、一方で、祭儀を守ることは天の意志に叶うとした。
彼は王家を否定せず、宗教的なものを避け、戦乱の世に敢えて伝統的な精神と規範の復活を訴えた。

Point of the Confucianism
Confucius disfavored the politics that puts emphasis on law of punishment and reward, and put emphasis on conscience.
On the other hand, he thought that policymaker (king) with virtue was indispensable for good politics.
This thought was not accepted in the times of the war, but the situation changed when a unified country appeared.
In other words, the doctrine that taught people to have to obey morality,  succession of social order, and politics (King), administered to national stability rightly. 

This continues the next time.


儒教のポイント
孔子は、人々を功利的にさせる法重視(信賞必罰)の政治を嫌い、良心を重視した。
一方で、良い政治には徳を持った王こそが不可欠と考えた。
この考えは、戦乱の時代には受け入れられなかったが、統一国家が出現すると状況は変わった。
つまり、人々に道徳や社会秩序の継承、政治(王)に従うべきと説く教義は、国家の安定にまさに合致するものでした。


次回に続く。




20170101

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 21: 車窓から見たリガまでの景色



 *1



今日は、バスの車窓から見たタリンからリガまでの景色を紹介します。



< 2. ドライブルート >

上の地図: 青線が今回走った道路と思われます。
走ったのはエストニアの首都タリンからラトビアの首都リガまでです。
途中、A点とB点を通過したのは確認できました。

下の写真: 昼食後、タリンの旧市街を出た所からバスに乗って、次のリガに向けて出発します
これ以降の写真はすべて撮影順に並んでいます。



< 3. タリンの街並み >

これらの写真はタリンの中心部を出発してから私達のバスで15分以内の様子です。
走るとすぐ木々に囲まれた閑静な住宅街を抜けることになります。
小さな首都だと言うことがわかっていただけると思います。



< 4. 郊外 1 > 

これらの写真は出発してから20分ほどの景色です。



< 5. 郊外 2 >

郊外に出ると、道路の両側はほとんど上の写真か、下の写真のような樹林に囲まれています。
写真は変化のあるもの、特徴のあるもの、景色の良いものを選んでいますので、実感としては退屈なバス旅行かもしれません。
私に取っては、自然や暮らしがわかるので、楽しいのですが。



< . 途中の景色 1 >

上の写真: この手の光景を時折見かけるのですが、不思議な感じがします。
一人でサイクリングやランニングしたりする姿や、道路脇を一人か二人で歩いていたりする人を見たのですが、周囲に民家やバス停、建物を見なかった。
なら不安です、また冬はどうするのか不思議に思いました。

中央の写真: 今回のドライブでは、大きな川を数回渡りました。
ロシアの中央部に比べて、やはり海沿いは水や川に恵まれている。

下の写真: この道路上の川との写真は、地図のA地点のものです。



< .  途中の景色 2 >

上の写真: この街並みもA地点のものです。

中央の写真: 看板に地図のA地点の表示が見えます。
この看板上のA地点の街との間にはバスで30分ぐらいの距離があります。



< . 国境検問所のなごり 1 >

上の写真: 広い耕作地の中にポツンと小島のような森があり、その中に一軒の民家が見える。
日本のような民家が密集している農村地帯の景観は道路から見ることが少ない。

中央の写真: 地図のB地点です。
今は検問所は無くなっているのですが、その建物がレストランとコンビニになっています。

下の写真: 検問所跡の駐車場から今走って来た道を振り返っています。



< . 国境検問所のなごり  >

上の写真: 国境検問所跡の駐車場からラトビア側を見ている。

下二枚の写真: これからの写真はすべてラトビアの景色です。
景観はエストニアと変わらないと思いますが。



< 10. ラトビアの景観 1 >

上の写真: 私の記憶では、この日のドライブで道路沿いで見た教会はこれを含めた二カ所のみだったと思います。
すべて歴史的なものではなく、現在の村人の為だと思います。

中央の写真: 広大な森と耕作地が見えます。

下の写真: 植林を思わせます。



< 11. 特徴ある景観 >

上の写真: タリン以降、この一瞬がバルト海を見た最後でした。
地図では海沿いを走っているのですが、海からは離れているか、樹林に遮らて見るチャンスはなかった。
これから訪れる三つの首都リガ、ビリニュス、ワルシャワは川沿いにはあるが海からは離れています。

中央の写真: 実は中央の構造物は珍しく微かに高い起伏の上に建っているのです。
エストニアの最高標高は318m、ラトビアの98%は標高200m以下です。
この地域はほんとうに平な平原なのです。

下の写真: 大きな湖です。




< 12. 街 >

車窓から見た郊外の民家は、ロシアに比べ、エストニアやラトビアの方が勝っているように見えた。
ロシアのものは痛みが多く、古いようです。



< 13. リガに入った >

夕暮れも近づく頃、大きな川や湖を渡るとリガの街並み見え始めました。


次回に続きます。