20161105

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 7: サンクトペテルブルグ 1





< 1. アニチコフ橋の馬の像 >

今日から数回に分けてサンクトぺテルブルグを紹介します。
訪問したのは2016年9月29日と30日で、初日は曇りでしたが、次の日は晴れました。



< 2.サンクトペテルブルグの地図、すべて上が北 >

上の地図: バルト海とロシアを示します。
地図の横幅は約2000km。
赤丸は後でサンクトペテルブルグの歴史を紹介する時に出てくる地名で、Aはナルヴァ、Bはリガ、Cはシュリッセリブルクです。

中央の写真: ほぼサンクトペテルブルグ市域。
写真の横幅は約50km。
黄色の四角が今日紹介する観光の範囲です。

下の写真:今回紹介する観光地を黄色の数字で示します。
写真の横幅は約4km。
No.1: 新幹線が着いたモスクワ駅。
No.2: 宮殿広場。
No.3: エルミタージュ美術館。
No.4: 血の上の救世主教会。
No.5: ペトロパヴロフスク聖堂(遠くから眺めただけ)。
No.6: イサク聖堂(後日紹介)。


 
< 3. モスクワ駅 >

上の写真: 新幹線が着いたモスクワ駅。

中央の写真: 1917年の革命を記念して名づけられた蜂起広場です。
広場に立っているのが英雄都市(第3話で紹介)に贈られるオベリスク。
このサンクトペテルブルグの名前は、第一次世界大戦ではペトログラード、ソ連になるとレニングラードと改名され、ソ連崩壊後は元の名前に戻った。

下の写真: モスクワ駅横のリゴフスキー大通り。

到着した時は厚い雲に覆われたいたが、歴史を感じさせる建物が並んでいるのを見ると期待が膨らんだ。



< 4. 街並み 1 >

下の写真: アニチコフ橋から見たフォンタンカ川。

バスで走っていると、運河や川の多いのがわかる。
サンクトペテルブルグは沼地に造られた要塞から始まった。



< 5. 通りの様子 >

多くのロシア人の顔をじっくり見る機会はなかったが、気付いたことがある。
ここにはポルトガルのリスボンようにあらゆる大陸の人々が混住していない。
観光客は別にして、アラブやアフリカ、東南アジア、南アジア系の人々を見かけることはほとんどなかった。
だからと言って、ロシアの二大都市の人々は単一のスラブ人ではなく、北欧や中央アジアなどの血が混じっており、まさに歴史の流れを感じる。



< 6. 街並み 2 >

上の写真: この様な彫刻の飾りが大通りの建物に多く見られた。
下の写真: グリボエードフ運河の奥に見える血の上の救世主教会。




< 7. 血の上の救世主教会 >

下の写真: 隣接するミハイロフスキー公園の木々が色づき始めていた。



 
< 8. 血の上の救世主教会 >

この教会は、1881年に皇帝アレクサンドル2世が暗殺された場所の上に建てられ、1907年に完成している。
サンクトペテルブルグの歴史的な建物のほとんどは西欧風(バロック、ネオクラシック)で、有名なものはイタリアの建築家の手によるものが多い。
それに対して、これは純ロシア風の再現とも言えるが、モスクワの赤の広場の1560年に建てられた聖ワシリイ大聖堂に比べ、自由で外壁の装飾が派手です。

ロシア教会の特徴である屋根の葱坊主は火焔を意味し、教会内での聖霊の活躍を象徴すると言われています。



< 9.血の上の救世主教会の内部 >


内部を拝観していませんが、素晴らしいので紹介します。




< 10. 宮殿広場 >

上の写真: 1827年に建てられた旧参謀本部。
中央の写真: 1834年、ナポレオン戦争の勝利を記念して建てられたアレクサンドルの円柱が左に見える。
左の奥にイサク聖堂のドーム、右奥に旧海軍省の建物が見える。

下の写真: エルミタージュ美術館。
後にエルミタージュ美術館になる冬宮が1762年に建てられ、サンクトぺテルブルグの中心となった。
内部は次回紹介します。



< 11.エルミタージュ美術館の周囲  >

上の写真: 美術館に沿って宮殿広場からネヴァ川側に回る。
下の写真: ネヴァ川と美術館入り口。



< 12.ネヴァ川  >

上の写真: エルミタージュ美術館側から対岸を見ている。

中央の写真: 対岸のペトロパヴロフスク要塞を拡大。
高い塔はペトロパヴロフスク聖堂。
サンクトペテルブルグはここに作られた要塞から始まった。

下の写真: ヴァシリエフスキー島と宮殿橋。
右手の赤い二つの塔は昔の灯台。


サンクトぺテルブルグの歴史
この都市の人口は現在500万人で、ロシア第二の都市です。





< 13. サンクトぺテルブルグの歴史 >

一番上の絵: ノヴゴロド公国の賑わい。

二番目の写真: デカブリスト広場のピュートル大帝像。

三番目の絵: 1753年当時のサンクトぺテルブルグ。
おそらく左岸がペトロパヴロフスク要塞、右岸が冬宮(エルミタージュ美術館)が建つ場所だろう。

四番目の写真: ロシア革命時、冬宮前に押し寄せる民衆。


この地は、古くはヴァイキングがネヴァ川を遡上してバルト海と黒海を結ぶ交易ルートに位置した。
ここはキエフ公国の分裂後、ロシアの北方で栄えたノヴゴロド公国に属した。
やがて公国はスウェーデンと国境を巡って争うことになる。
一時は、公国のアレクサンドル・ネフスキーが勝利し、それにちなんだ彼の名を冠した地名や建物がサンクトぺテルブルグに残っている。

やがてロシアのピュートル大帝は、東欧、バルト三国、北欧を巻き込む大北方戦争(1700~1721年)で、スウェーデンと雌雄を決することになる。
その過程で、1703年、この地にペトロパヴロフスク要塞の建設を開始し、これがサンクトぺテルブルグの始まりとなった。

ピュートル大帝は、バルト海交易を確保し、西欧化を図ることがロシアにとって不可欠だと考えていた。
彼は皇帝でありながら、1年半ほど大使節団の一員として偽名を使いヨーロッパを視察している。
この姿勢が、サンクトぺテルブルグの街づくりにも反映されている。

1712年、ここに首都が移され発展を遂げることなる。
しかし、ここは1917年に始まるロシア革命の中心地となった。
そして、1922年、ソ連は首都を海外からの干渉を避ける為に内陸部のモスクワに移した。




< 14. 大北方戦争の激戦地 >

上の図: 地図A、1700年のナルヴァの攻防。
この城塞を後日紹介します。

中央の図: 地図B、1710年のリガの攻防。
この旧市街を後日紹介します。

下の図: 地図C、1702年、シュリッセリブルクの攻防。
ピョートル大帝は大きな犠牲を払って長年の抗争の地をスウェーデン軍から取り戻した。
サンクトぺテルブルグより東に35kmの所。


次回に続きます。




20161103

Bring peace to the Middle East! 41: chain of retaliation 9 : Why the Middle East war began? 2



中東に平和を! 41: 報復の連鎖 9 : なぜ中東戦争は始まったのか? 2




<  1.  Jewish immigrant  >
< 1.ユダヤ人の入植 >

Today, we approach the background of that Arabic countries deprecated the nation-building of Israel and started the Middle East war.
Non-generosity and egoism had raged through there.

今日は、アラブ人がイスラエル建国に反対し中東戦争を始めた背景に迫ります。
そこには不寛容とエゴイズムが吹き荒れていました。




<  2.  Tiberias by the Sea of Galilee in 1936 >
< 2. ガリラヤ湖の都市ティベリア、1936年 >


Preface
The situation that a superior colonization group overwhelms inferior indigenous people has been repeated.

For example, it is relations between British settler and North American Indian, Netherlands settler and South African indigenous people, and began in the 17th century.
In addition, examples which ethnic group gained economic predominance without using military power are Southeast Asian overseas Chinese and European Jew.

For example, farmer parted with his field for the repayment of his debt, and might ruin to helot or peasantry.
And the wealthy favorably performed the trade against a background of financial power and political ability, and furthermore became superior.
When this is left, economic disparity increases, and the dissatisfaction of the people blows up eventually.
As an example, German Peasants' War happened in the early 16th century, and involved  whole Europe in storm of Religious war (the Reformation).


はじめに
優勢な植民集団が劣勢な先住民を圧倒する状況は繰り返されて来ました。

その例は、17世紀に始まる英国の植民者と北米インデアン、オランダの植民者と南アフリカの先住民です。
また武力に頼らず経済的優位を獲得した例としては、東南アジアの華僑とヨーロッパのユダヤ人があります。

優勢な階層が劣勢な階層を支配していく状況も、世界中で繰り返されて来ました。
例えば、農民が債務の弁済の為に田畑を手放し、農奴や小作人に没落することがありました。
そして富者は資金力と政治力を背景に、その取引を優位に行い、さらに優勢になった。
これが放置されると、経済格差が亢進し、民衆の不満はいずれ爆発します。
一例として、16世紀初めに起こったドイツ農民戦争があり、これがヨーロッパ全土を宗教戦争(宗教改革)の嵐に巻き込んだ。




<  3.  Jewish National Found was founded in 1901, annotation 1  >
< 3.1901年創立のユダヤ国家基金 注釈1 >


In the early 20th century, what was taking place in Palestine?
The situation in Palestine was the same as above-mentioned cases, but there was  worse situation.

The Arab was the state of extremely low literacy rate, landowner system, and the capital deficiency due to enormous debts, because the Arab received the longtime colonial rule by other ethnic group (Ottoman Empire and Europe).
Particularly, the Palestinian still had a sense of belonging to the Ottoman Empire, and had not the consciousness of founding of own country.
In addition, the Arab had distrust in Europe that was the ruler of the colony.

On the other hand, the world that were led by the Europe and America promptly approved  the Jewish immigrant to Palestine and the founding of a nation (the division of Palestine) during the Great war 1 and 2.
The Jew who came from all over the world aimed at the founding of a nation desperately.
Many countries built close ties with Israel economically and supported it.

Thus, the position of Palestinian and Jew had reversed every day.


20世紀前半、パレスチナで何が起きていたのか
パレスチナで起きていたことも上記と同様なのですが、さらに悪い状況があった。

アラブは異民族(オスマントルコとヨーロッパ)による長年の植民地支配を受けており、極端に低い識字率、地主制、膨大な債務による資本不足の状態にあった。
特に、パレスチナ人はまだオスマンへの帰属意識があり、建国の意識はなかった。
またアラブは植民地の支配者であったヨーロッパに不信感を持っていた。

一方、欧米を中心とする世界は二つの大戦の間に、早々とパレスチナへのユダヤ人の入植と建国(パレスチナ分割)を認めた。
世界中から来たユダヤ人は必死で建国を目指した。
その後も、多くの国々がイスラエルと経済的につながり支援した。

こうして、パレスチナのユダヤ人とアラブ人の立場は日を追って逆転していった。





<  4.  Arabic farmer in the end of 19th century  >
< 4. 19世紀末のアラブ農民 >

Palestinian was thrust into bad situation day by day until the Middle East war. 
The population of Palestine was 5,000 Jews and 260,000 Arab in the early 19th century.
When Zionism (campaign for Jewish national construction) broke out before long, the settlers rapidly increased, and the population became 80,000 Jews and 670,000 Arab in 1922.
Furthermore, since that British Mandate for Palestine had begun and the persecution by Nazis had broke out, it increased to 450,000 Jews and 1,060,000 Arab in 1939.

Land of Palestine was necessary for Jew to settle in.
The most of Palestinian farmland had been owned by absentee landowners of non-Palestine that lived in big cities like Beirut.
The most of the purchase fund consisted of many contributions of Jewish rich persons all over the world, and the Jewish National Found treated it.
The Jew cultivated it by oneself like kibbutz (agriculture community), and drove the previous peasantry out.  annotation 1.

In addition, in 1945, the U.K. confiscated the land of districts where many Palestinians had lived in for maintenance of security, and gave Jew them.
And, as for the income per one farmer, Jewish income became 2.3 times of Arab.
This drove the remaining Arabic farming family into a corner again, and they parted with their farmland for repaying debt.

On the other hand, the proportion of industrial production by Jewish factory reached 88% in the general industrial production of 1944.
As for employment structure in 1931, Jew was 53% of industry and commerce, and 19% of agriculture, on the other hand, Arab was 20% of industry and commerce, and  57% of agriculture.

The differences of the illiterate rate and capital intensity between both sides widened the wealth gap between both sides, and it strengthened the rule system. annotation 2.
The Jewish non-generosity also effected it.

The Palestinian was driven into a corner by the Jew who kept increasing every day, and the Europe and America were indifferent to the Arab.
Becoming more and more dissatisfied, while they both had repeated a small collisions, and a big military collision happened.
It was the first Middle East War.

This continues the next time.



パレスチナ人が追い込まれる日々、中東戦争前夜まで
19世紀初めパレスチナの人口はユダヤ人5千人、アラブ人26万人だった。
やがてシオニズム(ユダヤ人の国家建設の運動)が盛り上がると、入植者が増え1922年にはユダヤ人が8万人、アラブ人67万人となった。
さらに英国によるパレスチナの委任統治が始まり、ナチスの迫害が開始されると、1939年には、ユダヤ人45万人、アラブ人106万人になった。

ユダヤ人が入植する為にはパレスチナの土地が必要でした。
パレスチナの農地の多くはベイルートなどの大都市に住む非パレスチナの不在地主が所有していた。
その購入資金は世界に散らばるユダヤ人富裕層らの寄付(ユダヤ国家基金)が元手になった。
ユダヤ人はキブツ(農業共同体)のように自ら耕作し、かつての小作人を追い出した。注釈1.

さらに1945年、英国は治安維持の為にパレスチナ人の多い地区の土地を没収し、ユダヤ人に与えた。
また農民一人当たりの収入は、ユダヤ人がアラブ人の2.3倍になっていた。
これがまたアラブ農家を窮地に追い込み、彼らは借金のかたに農地を手放すことになった。

一方、ユダヤ人の所有する工場は全工業生産に占める比率が1944年に88%に達した。
1931年の就業構造は、ユダヤ人が工業と商業で53%、農業で19%に対し、アラブ人は工業と商業で20%、農業で57%になっていた。

両者の文盲率と資本装備率の差が、格差を拡大させ支配体制を強化した。注釈2.
そこにはユダヤ人の不寛容さも働いている。

パレスチナ人は増加するユダヤ人に日々追い込まれ、また欧米はアラブに冷淡であった。
不満が嵩じて小さな衝突を繰り返す内に大きな武力衝突が起きた。
それが第一次中東戦争でした。


次回に続きます。


注釈1.
世界から寄付を募り、土地購入を進めたのはユダヤ国家基金です。
その契約には、ユダヤ人の所有地になった土地は、ユダヤ人だけによって耕作されねばならないと規定されていた。
また、土地は住民のいない状態で引き渡されなければならないとあった。


注釈2.
1970~80年、イスラエルのユダヤ人の文盲率は、出自集団によって0.7~24%の開きがあった。
文盲率が高いのはアジア・アフリカから流入した第一世代で、欧米から流入した第一世代は8%、両者の第二世代は1%ほどになっていた。
イスラエルの公用語はヘブライ語で、帰還者は世界各地で使っていた言語を捨ている。
現在の識字率(文盲率の逆)は97%です。

一方、パレスチナのアラブ人の文盲率は不明だが、1970年代のエジプト・カイロの文盲率が参考になる。
この文盲率は地域により15~43%で、郊外で60%前後であった。
おそらく地方の農村地帯ではさらに文盲率は高いだろう。
19世紀、エジプトの識字率は1%だったが、現在は66%です。


20161031

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 6: 新幹線の車窓から



 

< 1.車窓から >

今日は、モスクワからサンクトぺテルブルグまでの新幹線車窓から眺めを紹介します。




 

< 2. 新幹線の停車駅 >

私達の乗った新幹線サプサンは756号で、モスクワを6:40発、サンクトぺテルブルグ着は10:40です。
(前回紹介した754号は間違いでした。)
途中、地図のAとB駅で停車します。

撮影について
この日、走行中は曇りで、時折、小雨が降りました。
しかし、ロシア大陸を650km横断し、北に行くにしたがって変化する景色を写すことが出来ました。
私は列車の進行方向に向かって左側に座り、西南方向を見ている。
写真は撮影順に並んでいます。



 

< 3. モスクワから30分以内の景色 >

ここまで来ると、周囲は鬱蒼とした森林になり、その間に民家が散在するようになります。


 

< 4. 最初の停車駅、地図A >

駅は、モスクワから約1時間後に着きました。
下の写真が停車駅のホームです。
新幹線の駅と言っても、在来線の駅と共用しており古いようです。



 

< 5. モスクワから1時間半以内の景色 >

上の写真も、A駅のホームです。
中央の写真の民家はみすぼらしく、廃屋かどうか不明です。
木々の黄葉が目立つようになって来ました。

新幹線について
サンプサン(新幹線)の線路は在来線と一緒で、ホームも同じものを使用している。
サンプサンは2009年に、ドイツのシーメンス製車両を購入し運転が始まった。



 

< 6. 2番目の停車駅、地図B >

ここは距離的に中間点の少し手前になります。
新幹線が止まる駅なのですが、周辺の建物からは大都会のイメージはありません。
大自然に囲まれた小都市の趣です。

この駅は人口56000人の都市、Vyshny Volochyokの中央西端にあります。
この地はバルト海に注ぐ川とカスピ海に注ぐヴォルガ川の結節点になります
古くはヴァイキングがスカンジナビアとビザンチン帝国を結ぶ毛皮の交易路でした。


 

< 7. モスクワから2時間以内の景色 >

上の写真は、B駅ホームすぐ横の踏切の様子です。
普段着の雰囲気はよくわかります。
中央の写真はB駅ホームすぐ横の景色で、新幹線の駅と言っても、すぐ森になります。
下の写真は川です。



 

< 8. モスクワから2時間前後の景色 >


 

< 9. モスクワから2時間半以内の景色 >

この辺りは、なぜか木々が少なく、草原が増えて来ました。
一番下の写真も左側には、ヤギの飼育が見られます。


 

< 10. モスクワから2時間半前後の景色 >

今まで車窓からいくつもの大きな湖を見ました。
ここで始めて、大きな牧草地や丘陵地帯を見たように思います
こちらでは黄葉が進んでいました。


 

< 11. モスクワから3時間前後の景色 >

中央の写真は湿地帯のようです。
下の写真は大きな川です。
ほとんどの川は護岸工事がされておらず、いかにも自然のままです。




 

< 12. モスクワから3時間半以内の景色 >

中央の写真の奥にも民家が見えます。
下の写真は、比較的新しい家屋が並ぶ住宅地のようです。


 

< 13. サンクトペテルブルグまで30分以内の景色 >

アパート群が目立ち始めました。

ロシアの国土の大半は平地で日本の45倍あり、人口は日本より少し多い。
一人当たりのGDPは日本の60%ほどですが、車窓から見た暮らしぶりはもっと低いように感じます。
大都市部のアパートや家屋は文化的な暮らしが可能だろうが、少し離れれば不便で生活水準が低いようです。


 

< 14. サンクトペテルブルグまで15分以内の景色 >

上の写真で、遮断機の右側の車止めの装置が凄い。
工場古いのが多いようです。


 

< 15. サンクトペテルブルグに到着 >

私達が乗って来たサプサンが下の写真の左側に見えます。
下車した乗客には、集団の観光客ほとんどいないようです。


感じたこと
モスクワと新幹線からの景色を見て、ロシアの広大さと人口密度の低さを実感した。

平野は果てしない森林でおおわれ、北部は湿地帯が多い。
広大ではあるけれど、未耕作地が多く、不毛とまでは言えないが、豊かな恵があるとは言えそうにない。
私が見た地域は、ロシアの起源となるキエフ大公国(9~13世紀)の北半分の領域で、当時の主要都市ノヴゴロド近くも通過した。
この地から生まれた王国は農業や牧畜で経済基盤を築けず、勇猛な遊牧民族が去った後、豊かな実りを求めて中央アジアやヨーロッパへと向かったのだろうか。


次回に続きます。




20161030

Bring peace to the Middle East! 40: chain of retaliation 8 : Why the Middle East war began? 1

中東に平和を! 40: 報復の連鎖 8 : なぜ中東戦争は始まったのか? 1



<  1.  Jerusalem mayor which surrendered to the British Army in 1917  >
< 1.1917年、英国軍に降伏するエルサレム市長 >

I looked back on the Middle East war last time.
Why did the Arabic countries deprecate nation-building of Israel and open war with Jew?
Before investigating this reason, I take up a rumor about the Middle East war.

前回、中東戦争を振り返りましたが、なぜアラブ諸国はユダヤ人の建国に反対し戦端を開いたのでしょうか?
この理由を探る前に、中東戦争に関するある風説を取り上げます。


About the rumor
"Arab opened war with Jew, and was defeated, so the present tragic situation of Palestinian is a natural consequence."
This is an excuse that Israelis often use.

Is it really true?
I regard this rumor as malicious false rumor due to the following reasons.



ある風説について
「アラブがユダヤに戦争を仕掛け、負けたことが悲惨な現状を生んだのであり、パレスチナは自業自得である。」
これはイスラエル側でよく語られる風説です。

本当にそうだろうか?
私は以下の理由で、この風説は悪意あるデマと考えます。




<  2.  The Middle East of 1920s  >
<2.1920年代の中東 >


1.  The Arab was not able to defeat Jew.
Around that time, the West and the Soviet Union banished Jew from own country, and gave anything including supply weapons in order to let Jew settle down in other area.
In a twist of irony, it did not need to be Palestine.
The world, particularly Christianity countries gave approval of it with atonement and antipathy in their eyes.

In order to win the war, the Arabic countries might have to have opened the war during 1920s.
But it was impossible in those days because the Arab was under the rule of Britain and France.


2. The conflict continued even if the Arab won.
The Jew must have counterattacked by thorough resistance and terrorism, and I think Israel defeated the Arab in some time or other.
We know the Jew ever practiced radical terrorism in the Middle East.


3.Even if the Arab did not open the war, Palestine could not change the situation.
It is difficult for us to understand this.
This reason is because the Jew had financial power, intellect, and network which had overwhelmed Palestinian Arab.
They connected to the world through the Mediterranean Sea by basing on Israel even if it was small.
This is almost same as the Solomon empire in 3,000 years ago.
Thus, Israel overwhelmed Palestine by economic power, military capability, and political might.

This is a typical pattern of the offensive and defensive battle that have been repeated between advanced colonist and indigenous people.
If left untreated, the result is clear.

In other words, the Middle East war did not cause the present tragic situation of Palestine, and was only one derived phenomenon.


1. アラブはユダヤに勝つことが出来なかった。

当時、欧米やソ連はユダヤ人を自国から追い出し、別の地域に定住させるために、兵器供与など何でも行った。
それはパレスチナでなくても良かったのだが。
世界、特にキリスト教国は罪滅ぼしと同情、そして嫌悪が混じる眼差しで、これに賛同した。

アラブ諸国が勝つには、ユダヤ移民が始まった1920代に開戦すべきだったかもしれないが、当時、アラブは英仏の統治下にあったので不可能だった。


2. もしアラブが勝っていても、紛争は続いた。

今度は、ユダヤ人が徹底抗戦とテロで反撃し、早晩イスラエルはアラブを打ち負かしただろう。
中東におけるユダヤ人の徹底抗戦と過激なテロは実績がある。





<  3.  Jewish settlement in 1947  >
< 3. 1947年のユダヤ人入植地 >


3. アラブが開戦しなくても、パレスチナのアラブ人の状況を変えることは出来なかった。

ここが分かり難いところですが、ユダヤ人にはパレスチナのアラブ人を圧倒する資金力と知力、ネットワークがあった。
彼らは小さくてもイスラエルの地を拠点することにより、地中海を通じて世界と繋がった。
これは3000年前のソロモン帝国に通じるものがある。
こうして、イスラエルは経済力、軍事力、政治力によって、パレスチナを圧倒した。

これは繰り返されて来た、先住民と先進の入植者との攻防のパターンです。
これを放置すれば、その結果は明白です。

つまり、中東戦争の有無が今のパレスチナ問題を決定づけたのではなく、中東戦争は派生した一つの現象にすぎないのです。


What! Is there a problem?
My point is, a fact unfortunately has been repeated, that a superior group tried to take in and rule an inferior group, and banished and eliminated if the latter did not the follow.

On the other hand, the Jew has been oppressed even though the Jew was an excellent race.
And, now, they seem to get their revenge for 2500 years.
Ironically, the people that were discriminated have oppressed other people adversely.

Even if there is Jew who recognizes the pain of others from the experience, the group's reaction is different unfortunately.
It is a historical fact that most come to overwhelm an enemy from a sense of fear and a chain of the retaliation happens at last.

On the next time, I will consider the situation the Middle East war began.


何が問題なのか
アラブの人々は、私の指摘に怒るかもしれない。
アラブ人を先住民と一緒にするのは言語道断だと!

私が言いたいのは、優勢な集団が劣勢の集団を取り込み支配し、従わなければ追い出し抹殺することは、残念ながら繰り返されて来た事実だということです。

一方、ユダヤ人は優秀な民族であるにも関わらず、虐げられて来た。
そして、今、2500年間の怨念を晴らしているかのようです。
皮肉なことに、差別され虐げられた人々が、逆にそれを繰り返しているのです。

その経験によって他者の痛みを理解するユダヤ人もいるでしょうが、残念ながら集団となると違うのです。
多くは恐怖心から、身構え敵を圧倒するようになり、ついには報復の連鎖が起きてしまうのが歴史です。



次回、具体的に中東戦争が始まる状況を考察します。




20161027

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 5: モスクワ 4





< 1.レニングラード駅前 >

今日は、早朝、モスクワ発の新幹線に乗るまでを紹介します。


この日の動き
2016年9月29日、朝5時、ホテル近くのモスクワ川沿いまで少し散策しました。
そして5:30にモスクワのホテルをバスで出発し、レニングラード駅に向かいました。
6:30発のサプサン(新幹線)に乗って、3時間45分後にはサンクトぺテルブルグに着きます。





< 2. ホテル周辺  >

上の写真: 私達が宿泊したホテル、KATERINA CITYが運河の左側に見える。
この運河はモスクワ川と並行して流れている。
ここはクレムリンからモスクワ川沿いに東南へ3.5km行ったところです。
撮影は朝の5時頃です。

下の写真: ホテルの前の運河を挟んだ向かいにある建物群。
中央の白いタワーはホテルのSwissotel Krasnye Holmy、右側のドームはコンサートホールです。

周辺の道路はゴミ一つなく、ちょうど散水車が路面に散水していた。





< 3. モスクワ川  >
上の写真: ホテル近くのモスクワ川の河岸から南の方向を撮影。

下の写真: 北の方向、クレムリンの方向を撮影。
橋中央の遠方に微かに見えるのは高さ176mの芸術家アパート、Stalin skyscraper in Moscow(Residential building on the waterfront Tinkers)です。
この建物はスターリンがニューヨークの摩天楼に負けじと1950年代に建てさせたスターリン様式のビルの一つです。
モスクワには7つありますが、かつての共産国の首都ワルシャワやリガにも建っている。




< 4. レニングラード駅周辺  >

上の写真: レニングラード駅の向かいにあるカザンスキー駅。
これは中央アジア方面行きなどの始発駅です。

下の写真: レニングラード駅前からヤロスラフスキー駅の方を見ている。
ヤロスラフスキー駅はシベリア鉄道の起点です。

モスクワ・サンクトぺテルブルグ鉄道の駅はレニングラード駅だが、ここには大きな駅が三つ集まっている。




< 5. レニングラード駅前  >

上の写真: レニングラード駅正面。
下の写真: 朝6時、駅前を行く人々。




< 6. レニングラード駅構内 >

私達が乗るのは6:30発の754便です。
構内は、早朝なのに人で一杯でした。
集団客は少ないのですが、私達も含めて東アジア系の観光客が目につきました。




< 7. いよいよホームへ >

手荷物検査を受けてホームに進みます。
私達が乗るサプサンです。




< 8. いよいよ乗車します >

10両編成の前の方にある4号車に乗るので、ホームの先端に向かって歩きます。
いよいよ乗車です。
何か気ぜわしくもあり、心躍る瞬間でもあります。




< 9.列車内、他から借用 >

私達の4号車は2等座席で、1等座席と違って食事がついていません。
朝食は、ホテルが用意したパンの弁当を車内で食べました。
私達夫婦が座ったのは、地図の赤丸で、テーブルを囲んだ席でした。
車両は綺麗で、シートは狭くなく、音楽が聴けるイヤホーンも付いています。
4時間弱、快適に過ごしました。
チケット料金は1等座席の半分ぐらいでなので、私はこれで満足です。
スーツケースの置き場が車両毎に数か所ありますが、少し狭いようです。


次回に続きます。