20151202

I very much look forward for your support


支援のお願い




*1

I want you to support refugee aid and Henoko Fund.
If we will disregard to the both, the world and Japan may get dragged into the mud.
I very much look forward for your support for suffering people.

皆さんに、難民救済と辺野古基地建設反対の支援をお願いします。
共に放置すれば、世界と日本は泥沼に足を取られるかもしれません。
苦しんでいる人々に募金をお願いします。

World refugee

This refugee issue has continued for a long time, and there are 14 million refugees now in the world.
The United Nations including Japan has performed the refugee assistance locally.
However, the situation is getting worse.
Europe is going to accept Syrian refugees in large quantities now.
But, there is a limit, and unfortunately it maybe be braked because of happening "November 2015 Paris attacks".
Now, I think that what we can do for it is to support local refugees.

If the refugee issue of the Middle and Near East and Africa continue to worsen, economic disparity and ethnic discrimination become more serious.
Then, it becomes a hotbed of terrorism, and the terrorism will occur in a row.
If this occurs, we can’t stop it more and more, and in the worst case, a war may happen.

A part of cause for increasing the terrorism is previous military policy and diplomatic policy of major countries.
Straightening this is important, but it is getting worse, too.
First of all, we shall begin from what we can do.

I did some donation in this site.

世界の難民
難民問題は以前から続いており、現在1400万人の難民が世界にいます。
日本も含め国連などが現地で難民支援を行って来ました。
しかし事態は悪化しています。
現在、ヨーロッパがシリア難民を大量に受け入れてくれようとしています。
しかし限度があり、さらに今回のパリ同時多発テロ事件が災いし、ブレーキがかかる可能性があります。
日本人が今出来ることは、先ず現地の難民支援に手を差し伸べることだと思います。

もし中近東やアフリカの難民問題が悪化し続ければ、経済格差と民族差別がより深刻になり、それがテロの温床となり、テロが続発することになるでしょう。
そうなれば止める手段は益々遠くなり、まかり間違えば戦争と言うことにもなりかねません。

テロの増大は大国のこれまでの外交・軍事政策に一因があり、これを正すことが重要ですが、これも悪化するばかりです。
先ずは出来るところから、始めて欲しいと思います。

私はここで募金(サイトで)をしました。



Henoko fund

U.S. bases issue in Okinawa has been complicated, and I understand that there are various consciousnesses about it.
I traveled Okinawa, learned the history and feel as follows now.
"Okinawa had miserable experiences in the past and has been still sacrificed for an egoism of Japan proper in economy and U.S. bases"
There must be people who do not think so among young person and some people receiving economical benefits.

Here, most important is a problem of forcing the illogicality on some people.
If we need the base, we also should be responsible for building the base in Japan proper.
In addition, such as areas that atomic power plant is in, even if it objects to the planning construction of the plant at first, after that, it almost changes to agreement because of an economical benefit
But in Okinawa, the opposition movement for the base continues for a long time.
In this situation, it's a problem to forsake the people doing the opposition movement.

Our democracy may crack before long.
First of all, we shall begin from what we can do.

I did some donation to this site by paying through a bank transfer.

Thank you for your help.


辺野古基金
沖縄の基地問題は複雑で、色々な見解があることは承知しています。
私は沖縄を旅行し、歴史を学んで以下のように感じています。
「沖縄は過去に悲惨な目に遭い、今も経済と基地で日本本土のエゴの犠牲になっている」
若い人や経済的恩恵を受けている人の中にはそう思わない人もいるでしょう。

ここで大事なことは、一部の人に不合理を押し付けることの問題です。
国防上、基地が必要であれば本土でも負担すべきです。
また原子力村のように、初め反対しても建設後は経済的恩恵から賛成になることが多いのに、沖縄では長く反対が続いています。
この状況で基地反対運動をしている人々を見捨てることは問題です。

やがて民主主義に亀裂が入るかもしれません。
先ずは出来るところから、始めて欲しいと思います。

私はここで募金(銀行振込み)をしました。

皆さんよろしくお願いします。




20151201

社会と情報 69: 戦った報道 26 最後に




< 1. 明治時代の新聞売り >

これまで、明治から昭和初期まで、日本の報道が激動の社会とどう関わったかを見ました。
あれほど活躍した報道がいとも簡単に国民を裏切ったこと、またその背景も見てきました。
今日はこのテーマの最後で、まとめになります。

この連載の概要
「戦った報道 1~6」: 明治維新から太平洋戦争までの道のりと報道の役割を概観した。
「戦った報道 7~11」: 具体的に、1920~1930年代の新聞の活躍と転向を追いました。
「戦った報道 12~26」: なぜ新聞が転向したかを、軍事大国化、財政・経済、人々の暮らし、軍事戦略、政治、ファシズムの観点から見ました。
各記事を見るにはカタゴリーかテーマ、ラベルで「社会と情報」を選択するのが便利です(YAHOOはなし)。


    

新聞が転向した理由のまとめ
既に見たように日本はファシズム化し、軍のもとに一丸となって戦争へと進んだ。
このファシズム化は社会を沸騰させ、その過程で起きたのが報道への弾圧であり、新聞の転向でした。
これは、鍋料理を火に掛け、具がぐつぐつと煮えたことに例えられる。
「具が出来たから、鍋は出来た」と言えるが、「具のせいで、スープが熱くなった」とは言わない(具が新聞、スープと火は・・)。

ファシズム化は人類社会の根にあって、民族紛争を悪化させ、社会が戦争に向かう時、今も起こり続けています。
これは、暴力に頼る集団興奮状態で、悪化した社会状況とある組織文化を持った社会におき易い。

戦争は、例えばベトナム戦争のように、いくつものステップを踏み誤り、ついには引き戻せなくなって起きる。
これには数多くの大統領が関わっているが、その発端はトルーマン・ドクトリン(1947年)にあり、その後、徐々に抜け出せなくなり1960年に戦闘が始まった。注釈1.

今まで見てきた戦前の社会変化を「戦争の甘い罠」にかかった状態と言えます。
これは私の連載「戦争の誤謬」「私達の戦争」などで詳しく説明しています。
ある社会が一度戦争で味を占めると、社会の主要な要素(国民感情や経済、軍隊など)が戦争を常態化させる力として働くようになります。
残念ながら、多くの社会は敗戦で徹底的に叩かれるまで気づかないことが多い。
稀に、大失敗しても気づかない社会もあれば、その途中で、その罠から脱する社会もあります。


    


どう理解すれば良いのだろうか
残念ながら、歴史を辿り、日本が戦争に向かう道筋を理解したとしても、あなたの心は晴れないでしょう。
かつて朝日新聞の幹部が、「我々が道を踏み誤ったのは、1918年の米騒動の折、白虹事件で政府に折れた」ことだったかもしれないと記していた(弾圧の初期)。
確かに、新聞が何処で踏みとどまれば良かったのか、また本当にそのようなことが出来たかは難題です。

今、私はファシズム化と太平洋戦争への道を振り返り、あの事件、あの法案、あの人物の誤断がなければ、また公の場で誤りを指摘した人が幾人かでもいたのだから、国民の意識が高ければ防げたのではないかと思うことがある。
しかし、それすら過去の選択や予期せぬ出来事の積み重ね、さらには社会や文化の成熟度により、選択の余地がなかったようにも思える。

例えば、昭和恐慌を手際良く収めた高橋蔵相が次いで行った通貨膨張策によって際限のない軍事費膨張が起きたと批難されることがある。
彼はこれを防ごうとして、軍部の恨みを買い二・二六事件において銃弾に倒れた。
彼が通過膨張策を採用しなかったら軍部の独走が起こらなかったと思うこともあるが、彼は天才が故に誰よりも早く行っただけで、所詮、誰かが似たことを行っただろう。



< 4.言論弾圧 >

私達は何を学ぶべきか

新聞の転向に限れば、一番の罪は当時の朝日と毎日新聞にあっただろう。
なぜならこの両新聞が最大の影響力を持ち、反権力代表としてデモクラシーをリードして来たのだから。

しかし我々がこの過ちを繰り返さない為には、数々の言論弾圧を推し進めた政府・議会、それを国民が看過した誤りに気がつかないといけない。
政府による報道支配は、世界中、ファシズムや戦争開始時には必ず起きているのだから。
かつて米国の上院議員が言った「戦争が起こった時、最初の犠牲者は真実である」と・・・
注釈2.

結局、一人ひとりが事の正否、ここでは社会が悪化する要因を知って常日頃からその事を注視するしかありません。

今まで見てきた戦前の社会悪化(ファシズム化)の要因をいくつか挙げます。
項目が左から右にいくほどより深い要因を示しています。

拡大した貧富の差< 逆累進性の苛酷な税(低い所得税)< 膨大な軍事費、工業優先、普通選挙未完。

社会運動弾圧< 治安維持法、不敬罪、憲兵の司法警察権 < 未熟な人権意識が労働運動弾圧に繋がった。
(欧米は20世紀初めに累進課税と労働権擁護を行っていたので、1920年代、労働運動を敵視することがなかった)

言論支配< 検閲、新聞紙条例、軍の情報支配 < 「言論の自由」「公正な報道」の価値認めず。
(島国日本にとって軍部が国内と海外の情報を牛耳ったことは致命傷だった)

腐敗政治< 利権争いと汚職の藩閥政治から金権体質の政党政治へと続いただけだった < 未熟な民主主義、低い政治意識(金や地縁で決まる投票行動)。

軍部の専横< 貧弱な国家戦略、軍の身内に甘い処分、陸軍と海軍の反目、統帥権による文民統制欠如 < 縄張り根性(日本の組織文化)、憲法不備(天皇の大権)と拡大解釈。

これらの要因を当時、取り除くことが出来れば大事に至らなかったかもしれない。
しかし、今も遅れたままの法意識と政治意識の現状で当時どれだけのことが出来ただろうか。

また、これら要因やファシズムについて異なる意見もあります。
中には、人々に心地良い簡単明瞭な答えが準備されています。
残念ながら、これら答えや歴史認識には歪曲され、都合良く解釈され、党利党略で歪められたものがあります。
これらの正否を確認するには、合理的な疑いを持ち、自ら日本の歴史や社会を知る努力が必要です。

結局、行き着く先は、我々が社会の真実を歪められることなく知るにはどうすれば良いか、その為には何が重要かを理解することです。
それがこの連載「社会と情報」のテーマでもあります。


ここで問題です



< 5. NHK受信契約者数と新聞部数の推移 >
凡例: 黄線は満州事変を示しています。
解説: 日本のラジオ放送は国営の放送局が1925年から始めました。
この放送局の初代総裁は後藤新平で、彼は台湾総督府長官、満鉄総裁などを歴任した植民地経営者であり、右翼を使った新聞社妨害の噂もあり、正力が読売を買収する際に多額の資金援助もしていました。

当時、そのような国のラジオ局が放送を始め、人気が出てくると既存の反権力新聞と御用新聞にはどのような影響が出ると思われますか。
ファシズム化が進んでいる状況で、どちらが危機的状況になり、どちらに追い風が吹くでしょうか?
そのことにより何が起きたかは、現実の証拠を挙げなくても、多くは察しが付くはずです。
このように、いくつかの証拠を合理的に疑うことで、真実が見えて来るはずはずです。


今回で、「戦った報道」シリーズを終え、一端休息の後、また別のテーマで始めるつもりです。
皆さま、長らくお読み頂き頂いたことを心から感謝します。


注釈1: 「戦争の誤謬7,8:ベトナム戦争1,2」「社会と情報8~11:**」にてベトナム戦争を説明しています。

注釈2: これは米国が第一次世界大戦の参戦を決めた時に、米国のグラハム上院議員が発言した。










20151130

社会と情報 68: 戦った報道 25




< 1. 現在も繰り返されるファシズム >

前回、軍人が暴走する様子を見ました。
今回は最も重要な「日本はなぜファシズム化したのか?」を検討します。

はじめに
ファシズムを広辞苑より引用します。
「全体主義的あるいは権威主義的で、議会政治の否認、一党独裁、市民的・政治的自由の極度の抑圧、対外的には侵略政策をとることを特色とし、合理的な思想体系を持たず、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を宣伝する」

ファシズム化の三段階を想定します。
A: 人々は社会と政治に絶望していた。
B: 人々は対外的なものに不安を感じ、かつ対外的なものにこそ活路があると信じ始めていた。
C: 人々は、この絶望と不安を解消し、一気に解決してくれるカリスマ的指導者を待望した。

これを同時期のドイツと比べてみます。



    

A: 絶望。
長く続いた元勲や軍閥の政治から政党政治に変わっても政治状況は良くならなかった。
人々が期待した政党政治(2、3党)も金権腐敗(賄賂、癒着、利権)と罵り合いに明け暮れるだけで、社会と経済は良くならなかった(既に見ました)。
1921年から1931年までは日本初の政党政治の開花時期だったが、未成熟なところに運悪く最悪の経済状況が圧し掛かり、うまく対応出来なかったことで混乱に陥った。
1920年代に連続した災厄や恐慌の半分は政府に起因したものではなかった。
また日本は集約農業から一気に重化学工業(資本主義経済、都市化)への転換と巨大な軍事費に喘いでいたので無理からぬものがあった。
私が注視するのは、累進性の無い苛税と貧弱な社会資本投資の為に農民が困窮し続けて、貧富の差が目立ち、やがて蓄積された不満のエネルギーが爆発したことです。

この状況はドイツの方がひどかった。


B: 対外的なものに抱く不安と活路。
明治維新以来、帝国列強の侵略と、1910年代以降、海外で吹き荒れた共産主義革命への恐れがあった。注釈1.
急激な都市部の発展に連れて盛んになる労働運動(一部過激なテロまで進む)、それを煽る反権力の新聞は政府や軍部にとって邪魔ものでしかなかった。
政府は体制批判に繋がるすべての社会運動と言論の封じ込めを強化していった。
一方、裏で左翼を嫌う右翼(国粋主義者)の利用と容認も進んだ。
こうして議会は国民が待望した普通選挙法を1925年(28年実施)に成立させる一方、同年に治安維持法を成立させた。
この言論弾圧の体制は徐々に進行していて、この治安維持法の前身となる法は議会で一度廃案になっていたが、緊急勅令(23年、天皇許可)で成立していた。
かつて憲政の父、尾崎行雄が、桂首相を罵倒した時も「・・玉座をもって胸壁となし、詔勅(天皇の意思)をもって弾丸に代えて、・・」と指摘したように、天皇の口添えは幾度も繰り返されて来たことでした。
こうして国民は望むはずもない首輪を自らの首にかけることになった。

これにより政府転覆(左翼革命)への恐怖を取り除いたかに見えた。
これを望むのは、概ね体制を維持することで権益を守り発展させることが出来る人々です。ドイツなどでは中間層(保守層)がファシズムを支えたことがわかっています。
当然、このような形で社会への抑圧が進む時、二つのことが起きた。
一つは、底辺の人々の訴えと生活が無視されていくことになった(貧富の差拡大)。
不思議な事に、ファシズムのスローガンとは逆の事が起きて行きます(ドイツも同じで本質的)。
今、一つは敵対者を暴力で排除する社会になったことです。



 
    


一方で、1910年までに日清・日露戦争と朝鮮併合を終え、日本国民は植民地での抗日闘争の激化もあり、異民族への嫌悪を深めていた。
政府は植民地での都合の悪い事実を隠蔽・捏造し、さらに武力による制圧を繰り返す内に益々、両国において憎悪と蔑視が深まることになった。

軍部の考えは世界一を決する日米対立が最大の焦点であり、ソ連の恐怖は二の次とした。注釈2.
ソ連との決戦は満州に出ることにより必然となるが、当時ソ連は革命中で、外征は眼中になかった。
さらに政府は、平和ボケした米国が日本を相手に戦う気は無いと楽観していた。
中国については、相手にもしていなかった。
予測はすべて見事に外れるのだが。
当然、これら情報は必要に応じて針小棒大に喧伝された。

こうして、希望の実現の為に暴力で不安と恐怖を排除する合意が出来上がりファシズム化が始まりました。
人々は、一致団結して海外の不埒な民族を武力で制圧することで、国民は新たな天地を得て絶望から脱せると信じ始めた。
当時、五族共和とか大東亜共栄圏と謳われ、多くの人々が願いまた信じたが、結果は一方的な武力制圧に終始したので侵略に他ならなかった。

この経緯はドイツと日本では多少異なるのですが、暴力と外征に向かう状況は一緒でした。


 
    

C: 立ち上がった軍人達がいた。
ここから日本とドイツのファシズムに大きな違いが出て来ます。
この前段階の「絶望」「対外的な不安と活路」は基本的に同じと言えます。

ドイツと異なるのは、右翼勢力(ナチス)を率いる独裁者(ヒトラー)が日本には存在せず、多数の軍人(文民政治家も)が入れ替わり立ち替わり戦争拡大を担ったことです。
言い方を変えれば、「皆で渡ろう・・・」(集団無責任体制?)に似ている。

ヒトラーは絶望する民衆に「かつての大帝国の復活(領土を取り戻す)、ユダヤ人排斥、反共産主義」を訴えることで国民の絶大なる信認を得た。
日本も「大帝国を築く(満州からアジア全域)、他民族の上に立つ(五族共和)、反共産主義」と、基本的なスローガンは一緒でした。
ドイツでは社会主義革命以降、既に国軍(幹部は貴族出身)が政権を握っていたが、初めヒトラーを信用しておらずファシズムとまでは言えなかった。
ヒトラーは初めこそ労働者の不満を利用したが、政府転覆の為に資本家と国軍トップに擦り寄り、ナチス独裁を成し得た。

日本では長らく軍事大国への道を突き進み、成功体験もあり、さらに未発達な民主主義の下、クーデターの混乱に乗じ軍閥が再度政権をより完璧に掌握することが出来た。
国民の一致団結に必要なカリスマ的指導者に、ここでも天皇が祭り上げられた。
こうして、この象徴の下に一丸となって進むことが出来た。

この軍閥を中堅将校が暴走し牽引する形で、容易に戦争を拡大させ、ここにファシズム体制が完成した。
日本では、右翼の存在は左翼潰しと言論封じ込めに利用され、混乱を招いて軍閥政治移管に利用されただけに見える(ドイツに比べて)。

次回で最終話になります。

注釈1: 今回のテーマでは一貫して海外列強の脅威を大きく扱っていません。
これは重要なのですが、話が複雑になることもあり割愛しました。
それに変わるとも劣らない大事なことがあります。
日本が日清戦争から太平洋戦争へに至る過程で、敵国が初めから立ちはだかっただけでなく、日本の侵略行為が相手の敵愾心を増大させたことです。
例えば太平洋戦争中盤(1943年)になると、米国は日本の北方領土割譲を餌にソ連の参戦を促しました。
このように自国の軍事行動が戦争拡大を招くる過程はあらゆる戦争、ベトナム戦争、ユーゴ内戦、イラク戦争などで見られます。
もう一つは、戦争が敵国の存在云々よりも自国の内部要因により起こることが多々あります。
その典型がドイツのファシズムです。
したがって国内状況の分析が非常に重要なのです。


注釈2: 1920年代以降の帝国国防方針、石原莞爾の「我が国防方針」、陸軍幕僚による木曜会の満蒙領有論から推察した。






20151129

社会と情報 67: 戦った報道 24


  
< 1. 2・26事件 >

今回から、最後の問題、政治の何が国民を大陸侵攻に向かわせたかを探ります。
いままで日本の軍事大国化と経済の問題、さらに中国の状況を見ました。
社会状況は悪化していましたが、もし軍部や右翼の暴走が無ければ戦争へと進まなかったかもしれません。
なぜ暴走が頻発するようになったかを考察します。

何が問題か?
要点は二つある。
一部の軍人の暴走が次々と戦争を拡大させた。
暴力が常態化する社会になっていた。

日本の政治の何処にこの原因があったのか?
前者は主に軍人組織の問題で、後者は一般的なファシズム化(全体主義、国粋主義)を指します。





< 2. 2・26事件の報道 >


なぜ軍人は暴走したのか?
ここで、国内で起きた主な暗殺事件を振り返り、暴力が蔓延していた状況を見ます。
暗殺は以前もありましたが、第一次世界大戦後の戦後恐慌あたりから急速に増加しました。

1919年の財閥の長に始まり、21年に首相、29年に体制批判の議員、31年に首相、32年の血盟団事件で大蔵大臣と財閥の長、五・一五事件で首相が暗殺された。
34年に体制批判の新聞編集者、35年に陸軍軍務局長(内部抗争で)、36年の二・二六事件で首相と侍従長、元内大臣が狙われ、大蔵大臣、内大臣、陸軍高官(内部抗争で)が暗殺された。
暗殺の標的は、政治・経済政策への不満による内閣の責任者、天皇の御心を妨げたとして天皇側近、体制批判者や財閥関係者、それに陸軍内部の抗争相手だった(注釈1)。

これら暗殺は最初右翼(国粋主義者)の単独犯で始まり、後に集団化し、軍人によるクーデターとなった。
ここで特徴的なのは、彼らは革命政権の具体像を持ってクーデターを起こしたのではなく、憎い者を誅殺し、後は天皇に任せようとしたことでした。
結局、軍の不平を抑える為に軍部に頼らざるを得ず、日本は軍閥時代へと一気に突入し、1937年の日中戦争へと進む。




< 3. 満州事変 >

張作霖爆殺事件や柳条湖事件(満州事件の端緒)では少数の軍人が勝手に戦闘を開始し、後に軍中央が渋々戦闘続行を追認し、戦争は拡大して行きました。
他に、国内で起きた一大尉による市民虐殺の甘粕事件、一司令官が軍中央の方針を無視して上海事変から南京(虐殺事件)へと戦域を拡大したことなど、当時、将校の規律や命令違反は慢性化し戦争拡大の一端となっていた。
ところが不思議なことに、この類の張本人はほぼ罰せられることがなく、長期の禁固刑が確定しても、数年もすればこっそり釈放された。
むしろ、その意気(愛国心)と能力を買われてか、大陸で出世する人も多かった。
一方で、公になった右翼の暗殺者は極刑となった。

こんなことがまかり通れば、勝手に撤退する将校はいないから、戦争が拡大するのは当然でした。
これこそ勇気がいるのだが、無謀なインパール作戦では数少ない例外、一部隊による命令違反の撤退があった。

日中戦争が始まる頃、関東軍参謀の武藤が中央の意向を無視して戦争拡大を画策していたため石原莞爾が止めに出向いた。
しかし、当人は「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論して、石原は絶句せざるを得なかった。
結果はご承知の通りです。

こんな馬鹿げた事がなぜまかり通っていたのか?
軍部内では、彼らが「憂国の士」であるとして咎めるべきではないとの意見が強く、軍は身内が可愛く、甘かったと言うことらしい(世界共通とも言えるが、これは酷い)。
当時、この軍部の幼稚な判断に誰も逆らうことが出来なくなっていた。

一つは、社会全体がファシズム化し軍部独裁が進んだからとも言えるが、軍事は天皇の大権(統帥権)に関わるとして、他からは口出し出来なかったことも大きい。
もう一つは、日本の組織文化に起因している。
これは個人の行動規範が、社会が共有する正義(法の理念)に基づくのはなく、属している組織の意向に沿う形で決まることによる。
このことは戦場でも現代の企業でも、様々に社会の適応を阻害する要因になっている。
もちろん良い面もあります。
これは村意識とも呼ばれ、ダブルスタンダードや本音と立前を生む。

次回、ファシズム化を検討します。

注釈1: 二・二六事件で殺害された政府高官(内閣)に軍人が多かったのは、当時軍閥政治が始まっていたからで、要職を軍人が占めていたからです。
内部抗争とは陸軍内で、天皇による急進的な革命を望む皇道派と陸軍大臣による政治的な改造を企図した統制派の対立です。
結局、二・二六事件を起こした皇道派を処分する形で、統制派が軍閥政治の中心となった。




20151128

Went around Croatia and Slovenia 13:  Seafaring country Dubrovnik 3


クロアチア・スロベニアを巡って 13: 海洋都市ドゥブロブニク 3




< 1.  A view of Saint Blaise church from Luža Square >
< 1.ルジャ広場から聖ヴラホ教会を望む >

Today, I introduce the inside of Dubrovnik.
This is a small fort city, but I seem to have slipped back in the Middle Ages.

今日は、いよいよ内部を紹介します。
小さな城砦都市ですが、すっかり中世にタイムスリップしたようです。




< 2.  Our sightseeing route >
< 2.私達の観光ルート >
Legend:
A yellow line shows our walking route of the rampart.
Blue lines are sightseeing routes that I introduce this time, and these alphabets indicate approximate photography point.

凡例:
黄色線は城壁の散策ルートです。
青線は今回紹介する散策ルートで、アルファベットは写真の撮影地点を示しています。



< 3.  The inner side of Pila Gate 1 >
< 3.ピレ門を抜けた所1 >

The front side is Placa street of the main street.
Once, this street was a strait, and the Slav lived in left side of it and the Latin lived in the right side.
But it was filled in the 12th century.
The right side is seen Big Onofrio’s fountain.
A church and a tower of Franciscan monastery line up on the left side from the near side.

正面はメイン通りのプラツァ通りです。
昔、ここは海峡で左(山)にスラブ人、右(海)にラテン人が住んでいたが、12世紀に埋め立てられた。
右手にオノフリオの大噴水が見える。
左手に救世主教会とフランシスコ修道院の鐘楼が見える。



< 4.  The inner side of Pila Gate 2 >
< 4.ピレ門を抜けた所2 >

B:  Chrach. Height rampart was seen in the left.
C:  Big Onofrio’s fountain.
Water was valuable in this Dalmatian area, therefore water was higher than wine.
Thus, this water supply installation was built by irrigating from a back mountain being 12 km away from in the 15th century.

B: 救世主教会。左に高い城壁が見える。
C: オノフリオの大噴水。
このダルマチア地方一帯は水が貴重で、ワインよりも高かった。
そこで15世紀に12km離れた山側から水を引きこの水道施設を造った。



< 5. Franciscan monastery >
< 5.フランシスコ会修道院 >
D:  The courtyard side of the corridor. This corridor is Romanesque of the 14th century.
E:  The wall side of the corridor.  The frescoes show a life of St. Francesco.
F:  The courtyard.
Toward this corridor, there is a pharmacy that followed for 700 years, and we visited it.
This is the third oldest in existing pharmacy in Europe, and it indicates Dubrovnik was so advanced city of the welfare.

D: 回廊の中庭側。この回廊は14世紀のロマネスク様式です。
E: 回廊の壁側。壁画は聖フランチェスコの生涯が描かれている。
F: 中庭。
この回廊に面して、700年も続く薬局があり、見学しました。
現存するヨーロッパで三番目に古い薬局であり、如何にドゥブロブニクが福祉の先進都市だったかがわかる。





< 6.  Placa street >
< 6. プラツァ通り >
G:  A bell tower of Luža Square is in the east direction.
H:  A tower of Franciscan monastery is in the west direction.

G: 東方向にルジャ広場の鐘楼を望む。
H: 西方向にフランシスコ会修道院の鐘楼を望む。



< 7.  Luža Square 1 >
< 7.ルジャ広場 1 >
I:  The bell tower.
If go through a gate at the left of the tower, we can go to the old port.

J:  Palaca Sponza.
This was built as a customs house in the 16th century, and valuable documents have been kept since the twelfth century in here.

I: 鐘楼。
鐘楼の左にある門を抜けると旧港に出ます。

J: スポンザ宮殿。
ここは16世紀に建てられた税関で、12世紀からの貴重な文書が保管されている。
著名な歴史家ブローデルはここの資料にヒントを得て「地中海」を書いたと言われている。



< 8.  Luža Square 2 >
< 8.ルジャ広場 2 >
K:  Roland statue and Saint Blaise church.
A knight statue in the center is Roland statue that symbolizes freedom and independence of European city.
The length between the elbow of the right arm and the wrist was the standard of the length of the commercial transaction.
The church to enshrine the saint in the front was damaged by a major earthquake in 1667, and a fire at later, and was rebuilt in the baroque in the 18th century.
An earthquake often hit this place, and the dead of this big earthquake was more than 5000 people.
Many buildings were rebuilt, but the rampart had only suffered slight damage.

L:  I overlook Placa street in the west direction.


K: ローラント像と聖ヴラホ教会。
中央の騎士像が、ヨーロッパ都市の自由と独立を象徴するローラント像です。
右腕の肘から手首の長さが、商取引の長さの基準とされていた。
正面の聖人ブラホを祭る教会は1667年の大地震と火災で損傷し、18世紀にバロック様式で再建された。
この地は度々、地震に見舞われ、この大地震で5000名以上が死亡した。
多くの建物は再建されたが、城壁はわずかな被害にとどまった。

L: 西方向にプラツァ通りを望む。



< 9.  Dubrovnik Cathedral >
< 9.大聖堂 >
N:  The outward appearance.
O of the right side:  The inside.
A picture in the middle is " Assumption of Virgin Mary " of a great master Titian in the golden age of Renaissance.
He is a representative painter of the Venetian School, and there are a lot of pictures in the Prado Museum of Art in Madrid.
El Greco of Toledo learned painting in his youth in Venice.
This Cathedral was Romanesque first, but, after the big earthquake, was rebuilt in the baroque.


N: 外観。
右側O: 内部。
中央の絵は盛期ルネサンスの巨匠ティツィアーノの「聖母被昇天」です。
彼はベネチア派の代表的画家で、スペインのプラド美術館にもたくさん絵があります。
トレドのグレコは若い頃、ベネチアで絵を学んでいました。
この大聖堂は最初ロマネスク様式であったが、大地震後、バロック様式で再建された。



< 10.  in the front of the Cathedral >
< 10.大聖堂の前から >
P:  I overlook Luža Square from the front of the Cathedral. 
Q:  Knezev dvor.
Governor-general lived in this residence, and was the center of the politics of the Republic of Ragusa that Dubrovnik was central of.

P: 大聖堂前からルジャ広場を望
む。
Q: 旧総督邸。
ここは総督が住んだ邸宅で、ドゥブロブニクを中心とするラグーサ共和国の行政府が置かれ、政治の中枢だった。

There were many tourists in here, and groups of tourists of Chinese and Korean were seen, too.
This is an indispensable port of Adriatic Sea cruises.

This continues next time.


ここは、さすがに観光客が多く、中国系や韓国の団体客もいました。
ここはアドリア海クルーズの無くてはならない寄港地です。


次回に続きます。