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20200707

徳島の海岸と漁村を巡って 9: 鞆浦を訪ねて 2






*1

今回は、鞆浦の漁港に沿って岬の手倉湾まで紹介します。


 
< 2. 散策マップ、上が南 >

赤線が散策ルート、Sがスタート、Eがエンドです。


 
< 3.漁協の近くから岬の方を望む >

以下の写真はほぼ撮影順に並んでいます。

上: 中央奥に漁港の開口部が見える。

下: 漁村の東半分。


 
< 4. 漁村の中心部 >

上: 左に2階建ての漁協が見える。
南の方を見ている。

下: 漁港沿いに、半時計周りにほぼ半周して、漁村の中心部を振り返った。


 
< 5. 漁村の終端 >

上: 中央の小山に海部城跡がある。

下: 右手に川に架かる橋がある。


 
< 6. 漁港の防波堤 >

上: 遥か遠くに見える島影は、牟岐港の先にある出羽島や大島です。
北東を見ている。

下: 写真の右手が漁港の開口部です。


 
< 7. 岬の突端にある手倉湾 >

上: 出羽島や大島が見える。

下: 漁港の開口部と牟岐方面を見ている。



 
< 8. 手倉湾から南を見ている >

上: 遠方の岬は宍喰浦の乳ノ崎だろう。

下: 船が見えたので拡大した。



 
< 9. 手倉湾の小島 >

漁師が岩礁で何か漁をしている。


 
< 10. 海部川の河口 >

大きな川です。
今回、訪問した海部郡では最も平野部が広いです。
川の右岸から撮影した。

上: 上流を望む。

下: 河口を望む。

次回に続きます。



20200628

徳島の海岸と漁村を巡って 8: 鞆浦を訪ねて 1





*1

今回から、2回に分けて鞆浦漁港を紹介します。
小さな漁港ですが、地の利を生かした良い漁港だと思いました。


 
< 2. 宍喰から鞆浦へのルート >

上: 宍喰から鞆浦へのルート、上が北。
赤枠が既に紹介した宍喰の散策範囲です。
オレンジ線がドライブルートです。
黄枠が鞆浦です。

下: 鞆浦、上が南(上図と向きが逆)。
オレンジ線が宍喰からのドライブルート。
黄枠が鞆浦の今回紹介する散策ルート。
赤枠が次回紹介する手倉湾。
黒矢印は漁協、黄矢印は海部川の撮影地(次回)、赤矢印は宍喰浦(那佐湾)の撮影地。
赤四角は海部城跡。


 
< 3.那佐湾と宍喰浦 >

上: 左の宍喰浦に挟まれた那佐湾の向こうに宍喰が見える。

下: 宍喰浦。


 
< 4. 鞆浦漁協 1 >

ここに到着したの9時45分でした。
競りが行われており、様々な魚種が見られました。
訪問した時間が異なるからかもしれませんが、鞆浦の方が由岐、日和佐、宍喰の漁港よりも大きな魚が沢山獲れているようでした。

素人の見立てですが、この港は大きな海部川上流の栄養が海に注ぎ沿岸漁業に恵まれ、また大きな河口は上流の材木の切り出しと海上運搬に有利に働いたことでしょう。

 
< 5. 鞆浦漁協 2 >

魚を入れる大きなコンテナや陸揚げ用のコンベヤなどが目立ちました。

下: ブリでしょうか。


 
< 6. 漁協の2階の展示物 >

トイレを借りに2階に上がりました。
漁に関する幾つかの展示がありましたので紹介します。

上: 鞆浦大式、定置網の一種。
元々は富山湾で生まれた定置網で、後にこちらでも使われるようになったらしい。
徳島県内では最大の定置網のようで、全長1300mもある。

下: 定置網漁の写真のようです。

漁協の人に聞きました。
遠方に出る漁としては高知沖まで行っているが、徳島ではこの鞆浦だけが行っているとの答えでした。
大きな船を見ることが出来ませんでしたが、大きな屋根付きのドッグがありました。
漁協の魚を見て、多いですねと聞くと、ここでも「少ない」との返事が返って来た。


 
< 7. 漁協の周辺から散策を始める >

上: 漁協の階段から南西方向を見下ろす。
川が見え、その先に従来の漁村が広がる。

下: 漁協の西側を見る。
この山に海部城跡がある。
山の手前のこの一帯だけは新築の家が多い。
若い漁師に古い町並みの事を聞くと、最近引っ越してきたばかりなので知らなかった。


 
< 8. 川の橋から >

上: 網袋を持った一人の漁師が漁協へ急ぐ。
網袋の中は、さざえかウニのようでした。
重そうなのでさざえかな?
下の写真の船から一人の漁師が下船して、歩き出した所です。
この奥の山が、海部城跡のある山です。

下: 川の上流を見ている。
川の右も海部城跡のある山です。


* 海部城と鞆浦について :

実は海部城が出来た16世紀(室町時代末期)、この山は河口に浮かぶ島だったようです。
ここは海と川を監視し、守るには最適な場所だったでしょう。
後に埋め立てられが進み、今は大きな海部川とこの小さな川に挟まれるようになった。
これを築城したのは海部氏ですが、元々は宍喰を拠点にしていたが、こちらに転居したようです。
海部氏は三好(阿波国と畿内を領有)に属していたが、高知の長曾我部との最前線となり、後に攻められ落城した。

今は、鞆浦を含む海部町と宍喰町が合弁して海陽町となった。
古い時代、海部は海運力と上流の木材業で発展した。
15世紀の兵庫の港(兵庫関)への入港記録「兵庫北関入船納帳」によると、海部船籍は全国10位であった。
阿波(徳島)では海部54隻、宍喰20隻、平島(阿南?)19隻で、海部が圧倒的に優位であった。
また同じ記録によると、当時、海部(鞆浦)と宍喰の木材の扱い量は阿波の約半数であった。
如何に、この地域の海運力が秀でていたかがわかる。
また室町時代から「海部刀」がこの地で生産されていた。



 
< 9. 街歩きを始める >

橋を渡って真直ぐ通りを進むと巨石が右手に見えた。

上: 大岩慶長・宝永地震津波碑
大きな石の表面の二ヵ所に碑文が見える。
左が慶長地震津波碑、右が宝永地震津波碑。

慶長地震津波碑: 1605年、高さ約30mの津波が7回来て、男女百人あまりが海に沈んだ。

宝永地震津波碑: 1707年、高さ約30mの津波が三度来たが、死者は出なかった。

本当に、徳島南部の海岸は幾度も巨大津波の被害に遭っていた。

不思議に思うのは、東北大震災の福島原発事故で、巨大津波を国も電力会社も想定外として平然としていたことです。
おそらく地元の漁港には幾つも巨大津波の碑が建っていたことでしょう。
一部の歴史学者は指摘しても、他に問題視した人はいなかったのでしょうか?


 
*10

 
*11

上: 港に面した広場の中央にあった建物。
民家ではなく、郵便局などの公共の建物のようでした。

下: 日蓮宗 吉祥山 法華寺
上記の建物から東方向に延びる道の奥には寺があった。


 
< 12. 古い民家が軒を並べる >

しかし、東由岐ほどには古い漁村の民家を見なかった。


次回に続きます。


20200621

世界が崩壊しない前に 32: コロナに見る日本政府の危機管理 2



*1

今回、はからずも行政サービスの稚拙さから腐敗と癒着の体質が露呈した。
さらに経済政策の根本的な欠陥も浮かび上がった。



 
< 2.アジアでも遅れをとった日本 >


* 行政サービスと経済政策の問題 *

今回、致命的な体質が露呈した。
1. 国民向けの経済施策は政府の念頭に無い。
2. 国民向けサービス体制は手詰まり。


当初、政府は復興と銘打って牛肉券や旅行クーポンを高らかに謳った。

これは弱っている業界を助け、その出費の大半が余裕のある人々の懐から出ることになり、一挙両得だと好感する人もいただろう。

実は、これは経済理念と国民目線の無さを示している。

これでは本当に苦境に陥った店舗の救援が出来ず、また裕福な人の節約を助長するだけです。
例えば、政府が復興の為と称して、ダイヤモンドや世界一周クルーズの購入費を半額負担すると言っているに等しい。
結局、ふるさと納税と同じ人寄せパンダで、自民党に群がる業界団体を潤し、逆累進課税にもなる。

必要なのは他の先進国が実施ているようなコロナにより困窮している事業体や失業者への素早い直接給付です。
日本では、なんとか一律10万円給付が成った。

経済対策の遅れを見ていると、政府が国民の経済弱体化を甘く見ていることがわかる。
政府は、放置することにより国民と事業体が、失業・倒産・大学中退などで再起出来なくなることを意に介していない。

一方、日銀は金融不安払拭の為に株式の爆買いを加速させ、金融緩和に邁進している(米国でも)。
これは更なる金融危機の芽を大きくし、結果的により巨大なバブル崩壊が襲い、大規模な倒産と失業、そして格差拡大が圧し掛かるだけです。
ここ60年繰り返してきた。


なぜこんなことになったのか?

一にも二にも、政府の経済政策が、産業界をリードする大企業と金融界を優遇することだからです。
国民の事は二の次三の次に過ぎに成り下がった(この問題はいずれ説明します)。


もう一つの問題は、持続化給付金支給などに見られるサービス体制の欠陥です。

今回、パソナや電通がほとんどのサービス業務で幾度も中抜きをしていることが露見した。
両社は以前から政府と癒着し、巨大な利権と実権を握り、非正規問題とマスコミ支配と言う日本の二大悪を担って来た。
両社を経由した業務がお粗末になるのは必然です。
これは国民へのサービス体制の不備と言うより、根絶しなけらばならない自民党・官僚の腐敗・癒着の構造です。

しかし問題の根はさらに深い。

それは1980年代から自民党と官僚が共同で推進して来た、偽りの構造改革・緊縮政策の一つの結果です。
ポイントは、公務員を減らし民間委託に奔走したことです。

既に日本の雇用者に占める公務員比率はOECD諸国の最低になり、平均の1/3に過ぎない。
だが減って当然の巨額の特別会計は減らず、行政の改善も見られない。
つまり、無数の外郭団体と民間(政商のパソナや電通など)と言う隠れ蓑に予算は食い尽くされ続けている。

さらに悪い事に、このサービスは以前の体制より遥かに非効率になっている。
そこでは、一部の天下りが高給を貪るが、多くの従事者は非正規に代えられ、薄給と不安定な身分に落とされ、意欲とスキルは低下し続けている。
あらゆる省の外郭団体、第三セクターが劣化の危機に晒されている。
民間ともなれば、従業員はさらに規制の無い過当競争に晒され、全てが劣悪になる。

これが現在、日本を覆い尽くす政府による国民サービスの実態です。

この問題の本質は、見かけの改革だけで政府・官僚・政商の腐敗と癒着が強固になり、さらにその不透明さと隠蔽により、全貌が掴めなくなったことです。

特に日本は米国流の自由放任経済に加えて、自民党長期政権を放置したことが災いしている。
このような状況で、様々な地球規模の危機に対応出来るはずがない。


次回に続きます。




20200613

中国の外縁を一周して 41: 束河古鎮と茶马古道博物馆




*1

今回は、麗江の別の古陳と博物館を紹介します。


 
< 2.束河古鎮の地図、上が北 >

上: 麗江全体図
赤矢印: 束河古鎮。
ここは麗江古陳から4km離れた所にあり、大きさは約1km四方です。
ここはナシ族発祥の地で、麗江古陳ほど観光化されていない。
束河古鎮の北4kmの所に、木氏の本拠地であった白砂がある。

茶色矢印: 既に紹介した黑龙潭公园。
赤矢印: 既に紹介した麗江古陳。

下: 束河古鎮の主要観光地
この範囲は束河古鎮の北西部で山裾にあり、泉が湧き出している。

A: 茶马古道博物馆
B: 四方街
C: 青龙桥
D: 九鼎龙潭


 
< 3. 駐車場から古陳へ >

麗江古陳の通りに比べ建物が古びている感じがした。
古さを残しているとも言える。


 
< 4. 茶馬古道博物館に入る >

正直に言うと、小躍りするような展示はなかった。
それでも写真パネルや幾つかの説明資料(中国語)は役に立った。

下: 茶葉を運ぶ姿が印象深い。
この姿で、普洱(プーアル)から大理、麗江、香格里拉を経由して拉薩(ラサ)までの3000kmの山道を行き来した。
小型の馬も使用したのだろうが。
このようにして茶葉を運ぶために、茶葉を円盤状に固く圧縮したのだろうか?
やっと理解出来た。

 
< 5. 茶馬街道の様子 >

上: 険しい山岳路が目に浮かぶ。

下: 左下に麗江古陳の賑わいが見える。
上には、拉薩のポタラ宮と大昭寺が見える。


 
< 6. 茶馬街道と人々 >

下: 博物館にあった街道の地図。
北部と南部に二種類の黄色線が見える。
北部の路は、良く知られた西安から蘭州を通り、中央アジアに抜けるシルクロード。
南部の路は、成都から昆明を通り、ミャンマー、インドに抜ける南方シルクロード。

黒線も主に二種類ある。
一つは成都からチベットを抜けインドに至る茶馬古道(北路)。
もう一つは、景洪から普洱、麗江を通り、後は北路と同じ路を通る茶馬古道(南路)。


* 茶馬古道 *

この道は人馬を主要な交通手段にした民間の国際商業貿易ルートで、漢族とチベット族が交流した古道でした。
主に茶と馬の交易を行うための路で、通商は唐宋時代(6181279年)に盛んとなり、明清時代(13681911年)に入って最盛期を迎え、第二次世界大戦の中後期に頂点に達した。

チベットに茶や砂糖、塩などの生活必需品を運び、チベットからは馬や牛、羊、毛皮を持ち帰ったことから、「茶馬古道」と呼ばれた。
麗江からチベットへのルートは5000m級の山々を超える厳しい道で、馬と共に人力による運搬が主流だった。

なぜ馬と茶が、こんな危険を冒し苦労してまで交換する必要があったのか?
チベット人は元々遊牧民で野菜、ビタミンBが不足していたので、これを補うのに茶は最適でした。
また馬は中国の軍隊にとって必要でした。
しかし18世紀になると中国での馬の需要は減り、羊毛や毛皮、薬用素材が主になった。

納西族の古都麗江はシーサンパンナ(雲南省最南端の西双版納)を起点する南からのルートと、四川(成都)からの東ルートの合流点で、木族王朝繁栄の源になった。
清時代以降の拉薩在住の中国商人はナシ族がほとんどで、ペイ族(白)と漢族も少数いた。


 
< 7. 四方街 >

この四方街に面した茶店で、プーアル茶を買いました。
こちらの四方街は麗江古陳に比べ、人は少ない。



 
< 8. 青龙桥 >

四方街のすぐ近くにあるこの橋を渡る。


 
< 9.九鼎龙潭へ向かう >


 
*10



 
< 11. 九鼎龙潭 >

実に水が透き通っている。
まさに麗江や束河、黑龙潭は湧水、清流によって生かされており、玉龍雪山からの水脈の賜物と言える。

次回に続きます。

20200522

中国の外縁を一周して 39: 小さな橋と古城忠义市场






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今回は、麗江古陳内の美しく小さな橋と、
古い佇まいを残す庶民の古城忠义市场を紹介します。


 
< 2. 大石橋から始める >

上: 前回紹介した大石橋です。
これからこの川沿いを南下し様々な小さな橋を訪ねます。
最後に市場へと向かいます。

下: 百岁桥(百歳橋)
橋の上の左に、赤い漢服を着た女性が見えます。
観光客に写真の被写体を頼まれたようです。
若い女性が、漢民族風の着物を着て観光地を歩く姿をたまに見かけた。
厳密な漢民族の服と言うより、ファンタジクな中国歴史ドラマで見かける自由なデザインのようです。
多くは一人から数人です。

以前、私はフランス、アルザス地方のコールマールを訪れたことがあります。
この地も、花に彩られた古い町並みと小川や橋で有名でした。
麗江と比べて町や川、橋は大きい。
しかし、菊で飾られた麗江の街並みと小川はさらに見応えがありました。
菊で飾られた時期に行くべきだとは思いますが。


 
< 3. 様々な橋 >

右下: 橋を渡ると、概ねこのような家に挟まれた小路を行くことになります。


 
< 4. 少し広い通りに出た >

 
< 5. 万古楼が見える >

下: 獅子山公園の丘の上に立つ万古楼が見える


 
< 6. 古城忠义市场の一角に入った >

この一角は、植物、果実、根などの乾物が売られている。
この地は松茸の産地です。
サイズはかなり小さいが、大きな袋に沢山入って安かった。
妻は、大量の干し松茸を買った。
しかし香はほとんどせず、日本に帰ってからもあまり使用していない。
日本の松茸とは異なる。

 

< 7. 地元の人が買っているようです >


 
< 8. 食材が豊富です >

ここを訪れたのは13:30頃でした。
時間帯のせいか、あまり客はいない。
当然、この大きさなので、時間ともなれば多くの市民がくるのだろう。


 

< 9. 様々な店舗形態があります >


 
< 10. 肉売り場 >

先ず、この広さにびっくりした。
そして、ここでは相変わらずの衛生感覚のようです。
下の写真のように、客が肉を手づかみで選んでいる。
もっとも、麗江には近代的なスーパーや商店街もあり、衛生管理が行き届いた店も沢山あります。
違和感なく新旧が混在している、不思議な感じがする。


 

< 11. 鳥や魚類の販売 >

先ず驚いたのは、淡水魚の扱いが多い事でした。
それも活けで売られている。
こんな高地で、これだけあるとは思はなかった。
おそらく池などの養殖が進んでいるのでしょう。

左上: この一角では、鳥と日本人が口にしない様々な小獣をケージに入れて販売しています。
30年以上前、中国の広州や台湾の台北の市場で見た光景を思い出します。





 
< 12. そろそろ市場の端に来ました >

下: 民族衣装を着た老婆が足早に去って行きます。

私達が、例えばアイヌのように日本で民族衣装を着た人を見ると、観光用を連想します。
しかし、中国では少し趣が異なるようです。
特に雲南省で目立ちます。
それは観光用だけではなく普段着、さらに言えば誇りを持って着ているように見えることです。
これは中国の少数民族政策の反映だと思う。


 
< 13. 市場の本来の入り口 >


次回に続きます。


20200509

中国の外縁を一周して 36: 木府を訪れる





*1

今回は、ナシ族の統治者木氏(モクシ)の館を紹介します。
紫禁城を小振りにしたような立派な宮殿です。

 
< 2. 散策マップ >

上: 麗江古陳の観光地図、上が北
茶色線が前回紹介した散策路、赤線が今回の木府への入場口、紺色線が次に紹介する獅子山公園への散策路です。

中央: 木府の全景、見ている方向は下地図の茶色矢印
入場口は奥の方に見える。

下: 木府の平面図、ほぼ上が北
赤線が入場までのルート。
主要な建物は、右から議事庁、万巻楼、護法殿です。


 
< 3. 忠義坊 >

上: 忠義坊の前から通路を挟んで照壁を見る。
下: 忠義坊、ここを入って行く。


 
< 4. 木府に入る >

上: 入口、平面図の議門に当たるのだろう
ここでパスポートなどを見せる。

下: 議事庁
木氏が政務を執った所。

ナシ族の首領であった木氏は元の時代13世紀より、麗江の統治を委ねられた。
以来、元、明、清の時代を22世代470年にわたって世襲統治した
木府は麗江の政治、経済、文化の中心でした。

1996年の麗江大地震で大きな損傷を受けたが、元通りに再現された。
麗江古陳の街並みも同様に再現されたものです。



 
< 5. 議事庁の前広場 >

上: 広場の両壁に建つ楼。

下: 議事庁の前から、入場口を望む。


 
< 6. 議事庁の中 >

上: 興味をそそる像。
頭の上に抱えるのは銅鼓でしょう。
銅鼓(銅製の片面の太鼓)は雲南からベトナム北部で、紀元前5世紀頃から造られた。
主に雨乞いや祖先祭祀の際、精霊に働きかける目的で作られたとされる。

下: 天井。


 
< 7. 万巻楼 >

曲阜の孔子廟を参考にして建てられた書庫。


 
< 8. 万巻楼の二階 >


 
< 9.万巻楼の二階からの眺め >

上: 北の方を見ると、玉龍雪山の峰が雲間から覗いていた。
本来は主峰が左側にそそり立つているのですが。

下: 北東を望む。


 
< 10. 護法殿 >

上: 護法殿。
木氏の私事的な話し合いがもたれた場所。

下: 万巻楼。


 
< 11. 護法殿の中 >

下: 護法殿の奥に道教が祀られていた。


 

< 12. 木府に特徴的な水路 >

湧水が豊かな麗江らしく、宮殿内には水路がはりめぐらされている。
川縁に立つ柳は中国の歴史舞台を連想させる。


* 感想 *

私は訪れる前、古くて小さな建物を想像していたのですが、敷地の広さ、建物の立派さに驚いた。
思ったより漢民族の宮殿に倣った建物だった。
もっとも漢民族の支配下にあったのだから当然かもしれないが。

麗江古陳も木府も、城壁や城砦が見当たらない。
雲南では小部族による抗争が長らく続き、8世紀以降に統一王国が形成されるようになった。
麗江は奥地だったためか、侵略されることも抗争も少なかったのだろうか?
元(フビライ)はかつて雲南からベトナムまで侵攻したことがあったが。

木府内に、十人ほどの白人観光客がいたので、声を掛けると、彼らはチェコから来ていた。
プラハやチェスキークルムロフが懐かしい。
白人の団体観光客は珍しかった。

次回に続きます。