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20170124

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 27: ビルニュス 2








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今日からビルュニスの旧市街を紹介します。
2016年10月3日、月曜日の朝、町全体が霧に包まれていました。
新市街1カ所と旧市街の半分ほどを紹介します。



< 2. 地図 >

上の地図: リトアニアを示しています。上は北です。
首都ビルニュスは国の右下の方にあり、他の二カ国の首都が海に近いのとは異なります。
これは広大なリトアニア帝国の名残であり、また都市が交易で発展していなかったことに関係しています。

中央の地図: ビルニュスの拡大です。上は北です。
赤い線は前回紹介した夜の街歩きのルートで、ホテルからカテドゥロス広場の大聖堂までを示しています。

Aは杉原桜公園です。

黒枠は今回紹介する旧市街の半分です。

下の写真: 上記の黒枠部分です。上は東方向です。
赤線は前夜歩いたゲディミノ大通りです。

Sは朝、観光バスを降りて徒歩観光を始めたカテドゥロス広場です。
黄線は徒歩観光のルートです。
Eは今回紹介する最後の地点です。

以下の写真は撮影順に並んでいます。





< 3. 朝の光景 >






< 4. 杉原桜公園 >

上の写真: ネリス川の西側(下流)を見ている。
写真の右手に杉原桜公園が広がっている。

中央の写真: 杉原桜公園。
毎年春になると、この公園の200本の桜が咲きます。
桜は杉原千畝生誕100年を記念して2001年に植樹されたものです。
茶色の石碑が杉原千畝領事の記念碑です。

この右手を入ると私達のホテルがあります。

下の写真: 杉原千畝領事の記念碑。


杉原千畝について
彼は東洋のシンドラーと呼ばれる。
第二次世界大戦中、リトアニアの臨時首都であったカウナスに領事として赴任していた。
1940年、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなどから逃れて来たユダヤ人に、外務省の訓令に反してビザを発行した。
彼らはロシア経由で避難し、命を救われた。





< 5. 町の光景 >

上の写真: ネリス川。






< 6. 徒歩観光の始まり >

上左の写真: カテドゥロス広場の大聖堂と鐘楼。
この大聖堂は18世紀の改築によってクラシック様式になった。
この塔の基礎は13世紀の城壁の塔が使われている。

上右の写真: この鐘楼の下部にある記念プレート。
これは以前紹介したバルトの道(人間の鎖)のリトアニア側の端を示す。

下の写真: カテドゥロス広場からゲディミノ大通りを望む。





< 7. 大聖堂の内部 >

上左の写真: バロック様式の聖カジミエルの礼拝所。
聖堂を入って右奥にある。




< 8. カテドゥロス広場から始める >

上の写真: 左に大聖堂、右に再建中の王宮がある。

中央の写真: カテドゥロス広場の木々。

下の写真: 旧市街のメイン通りのピリエス通り。
振り返ると、丘の上にゲディミナス城の塔が見える。



 

< 9. ピリエス通り >

上の写真: 聖ヨハネ教会が奥に見える。
14世紀にリトアニアがキリスト教を受け入れて建設が始められ、18世紀の火災の後、バロック様式で改築された。
現在は離接するビルニュス大学の教会になっている。

下の写真: 聖ヨハネ教会の鐘楼、旧市街で最も高い。




< 10. 二つの教会 >

上の写真: ピリエス通りの突き当りに小さな正教会が見える。

下の写真: 聖ミカエル教会。




< 11. 聖アンナ教会 >

上の写真: レンガで作られた聖アンナ教会。
今回紹介する徒歩観光の終点にある。
16世紀後半に建てられたゴシック様式の教会。
1812年、ナポレオンがロシアへ攻め上がる途上、この教会を見て「フランスに持ち帰りたい」と語ったほど美しい。

下の写真: 奥に見えるのはベルナルディン教会。



あとがき
このリトアニアは数奇な運命と言うか、過酷な歴史を負った国です。
そしてルニュの旧市街にもその痕跡がある。

他のバルト二ヵ国はドイツ人(騎士団)によって経済と文化が発展し、宗教はプロテスタントになったと言える。
その一方、独立まで長らくドイツ人が支配層に君臨した。
そのことが、タリンやリガのドイツらしい町並みを造った。

しかし、ルニュの旧市街の趣は異なる。
かつてリトアニアは13~18世紀、黒海に接する大帝国で、ロシアを圧することもあった。
やがてロシアへの対抗上、接していたヨーロッパの大国ポーランドと連合した。
しかし、ポーランドが政治と文化で支配的になっていった。
また、この国は農業国で都市の経済発展が進まなかったので、リトアニア人は農民として地方に住んでいた。
1931年当時、ルニュの住民はポーランド人66%、ユダヤ人28%、ロシア人4%で、リトアニア人は1%未満であった。
ソ連支配後のポーランド人追放により、現在はリトアニア人が58%です。
リトアニア全体ではリトアニア人83%、ポーランド人6%、ロシア人5%です。

こうしてルニュ街並みは他のバルトと異なるものとなり、宗教はポーランドの影響でカトリックが主流となった。


次回に続きます。




20170120

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 26: ビルニュス 1





< 1.リトアニア国立ドラマ劇場 >


今日から、バルト三国で最後の国、リトアニアの首都ルニュを紹介します。
今日は、夕暮れのビリュニスと、夜の街歩きを紹介します。
訪れたのは2016年10月2日、日曜日です。



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リガから南下し田園地帯を抜けて、やがて販売店やアパート群が見えて来ました。
ルニュの人口は56万人で、リガの70万人とタリン42万人の中間です。



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思ったより大きく近代的な都市だと感じました。




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< 6.夕食のレストランへ >

バスを降りて、レストランに向かっている。
下の写真: このレストランでリトアニア料理を食べました。


夜の街歩き
私達は夕食後、新市街にあるホテル「Best Western Hotel」に到着した。
次いで、添乗員に案内してもらってショッピングモール「Vilniaus Centrinė Universalinė Parduotuvė」(open10:00-22:00)に行きました。

その後、皆と分かれて、私達夫婦は旧市街に向いました。
ネリス川を渡り、メインストリートのゲディミノ大通りを抜けて、片道2.5kmを歩きました。





< 7.カテドゥロス広場 1 >

上の写真: カテドゥロス広場から今歩いて来たゲディミノ大通りを振り返る。

中央と下の写真: カテドゥロス広場の大聖堂と鐘楼。





< 8.カテドゥロス広場 2 >

私達はまたこの広場を次の日に観光ツアーで歩くことになります。





< 9.カテドゥロス広場 3 >

途中、ほとんど観光客らしいグループを見かけることはなかった。
見たのは、おそらくは地元の人々で、多くは足早に帰宅する人のようでした。
広場のベンチには幾つもの恋人のシルエットがあった。

照明のある大通りや広場を歩いた感じでは、治安に不安を感じるような所はなかった。
実に、感じの良い都市だと思いました。





< 10.ホテルに戻る >

上の写真: 行政府広場から見たゲディミノ大通り。
中央の写真: 帰る途中。
私達のホテルの近くにある大天使ラファエル教会が見えます。

下の写真: ネリス川の向こうに大天使ラファエル教会が夜空に浮かび上がっている。


次回に続きます。




20170115

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 25: ビリュニスまでの車窓の景色

 
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今日は、バスの車窓から見たリガからビリュニスまでの景色を紹介します。
この日のドライブは雨はなかったもののほぼ雲に覆われていました。







 

< 2. リガ旧市街 >

上の写真: 旧市街の北の端にあるリーガ城。
この城は14世紀初め、ドイツから来たリヴォニア騎士団との闘いに負けた市民が建てらされたもの。
その後、ポーランド、スウェーデン、帝政ロシアと支配者が替わり、18世紀以降、現在の宮殿のような姿になった。

下左の写真: リーガ城すぐ横の英国教会。

下右の写真: スターリン・クラシック様式の科学アカデミーが奥に見える。
ダウガヴァ川沿いから見た。


 

< 3. リガとの別れ >

上の写真: 中央市場。
中央の写真: ダウガヴァ川の対岸。
下の写真: ダウガヴァ川を渡り、南下してリトアニアの首都ビリュニスに向かう。

すべての写真は撮影順に並んでいます。


 
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< 5. 途中の町 >


 
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< 7. 国境を越えて >

上と中央の写真の間でラトヴィアからリトアニアの国境を越えています。

いつも思うのですが国境を越えても、自然の景色は変わらない。
ここでもそれは同じですし、家屋や人工的な風景も変化していない。

7年前にオーストリアからハンガリーへと国境を越えた時、自然は変わらないが、家屋が急にみすぼらしくなっていることに驚いた。
国家形態の違いによる経済の差が、このような形で明瞭に出ていることに驚いた。



 

< 8. 人間の鎖 >

途中、休憩に寄ったレストランの駐車場に「the Baltic Way」(人間の鎖)の表示が立っていました。

上の写真: その駐車場から見た道路で、the Baltic Way」の舞台になった。

中央右の地図: the Baltic Way」のルートを青い線で示しています。
赤丸はこのレストランの場所を示しています。

下の写真: 当時の様子。


人間の鎖について
1989年8月23日、バルト三国の国民200万人が参加し、三つの首都を結ぶ600km以上の鎖を造った。
これは人口の約半分が参加したことになり、世界で最初かつ最大の人間の鎖でした。
この行動は、タリンの「歌の原」で紹介した1988年の「歌の革命」に続いて起きた、バルト三国団結の象徴的な事件でした。
この後、リガで紹介した1991年の「バリケード」事件で、バルト三国は独立を達成することになりました。



 
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< 11. 少しの変化 >

この三枚の写真に、バルト三国の南下に伴う変化が見て取れます。

上の写真: 南下するに従っていつしか原生林が道路から遠のいて行った。
耕作地が増え、作物栽培や放牧を多く見るようになった。

中央の写真: 道路沿いに写真のような十字架や小さな教会をいくつか見た。
道路周辺に民家が増えてきたからもしれない。

下の写真: 一番顕著な変化は、緩やかな起伏が増えて来たことです。


 
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< 13. もうすぐビリュニス >


次回に続きます。



20170112

ロシアとバルト3国、ポーランドを巡る旅 24: リガ 3





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今日は、首都リガ紹介の3回目です。


 

< 2. リガの地図 >

地図: 今回紹介する範囲で、上が南です。
黄色線が徒歩観光ルート。
Sは前回に続いて聖ペテロ教会Aは猫の家、Bは火薬塔、Cはスウェーデン門、Dは聖ヤコブ教会、Eはドゥァマ広場。

下左の写真: 前回紹介した聖ペテロ教会。

下右の写真: 猫の家に向かっていく途中の通り。


 

< 3. 猫の家 >

上の写真: 猫の家はリーヴ広場に面している。

下の写真: 猫の家。
屋根の上の猫は、かつて反対方向を向いていた。
この家の裕福なラトビア商人が、ビッグ・ギルドに加わりたいと願った。
しかしギルドはドイツ人が支配的であった為、拒否された。
そこで怒った商人は、猫の尻をギルドに向けた。


 

< 4. 火薬塔 >

上左の写真: 薬草酒の販売店。
添乗員に連れられて皆は店内に入りました。
試飲するとアルコールが効いて、雨に濡れて冷えた体が一気に火照りました。
結局、小瓶を買いました。
このリガの町には、いくつか同様の店があるようです。

上右の写真: これで2度目の火薬塔です。

下の写真: 奥に赤いレンガ積みの城壁があり、さらに奥に火薬塔の緑の屋根が見えます。
写真のすぐ右側にスウェーデン門がある。
前日の夜、この通りの左側のレストランで食事をしました。



 

< 5. スウェーデン門の今昔 >

上の写真: 現在のスウェーデン門。
左が外側から、右が内側から写した写真です。

下の写真: 1991年のバリケード事件の写真。
スウェーデン門の外側にはトラックを置き、内側で市民が暖を取っています。


 

< 6.聖ヤコブ教会 >

上の写真: 聖ヤコブ教会の横から見たイェーカバ通り。
突き当りにドゥァマ広場が見える。
右側に碑が見え、「1991年、バリケード」と書かれている。

下の写真: 聖ヤコブ教会。
この教会の最初の記録は13世紀と古く、15世紀に建て直された。



< 7. ラトビア国会議事堂の今昔 >

上の写真: ラトビア国会議事堂。
この建物はイェーカバ通りに面し、聖ヤコブ教会と向き合っている。

下の写真: 1991年のバリケード事件の写真。
右にラトビア国会議事堂、左に聖ヤコブ教会が見える。
多くの市民が集まっており、数台のトラックが見える。



< 8. 三人兄弟 >

上の写真: 「三人兄弟」の建物を左右から見ている。

下の写真: この三つの建物は中世の住宅で、外観は当時の姿をほぼ保っている。
右の17番が15世紀のもので、リガの一般住宅としては最も古い。
中央の19番が17世紀中頃のもの。
左の21番が17世紀後半のもので、土地が少なくなった為か窮屈になっている。
しかし窓税の廃止により、17番に比べて窓を大きくとっている。


 

< 9. 昼食のレストラン >

ここは聖ヤコブ教会のすぐ近くにあるニンニク料理の店です。
私は始めてニンニク入りのビールを飲みました。
美味しく、温まりました。


 

< 10. ドゥァマ広場に戻って来ました >

下の写真: イェーカバ通りからドゥァマ広場のリガ大聖堂の雄姿を再び見ることになりました。
右に少し見る赤い建物は証券取引所で、風格があります。


 

< 11. ドゥァマ広場の今昔 >

下の写真: 1991年1月のバリケード事件の写真。
上下の写真はほぼ同じ位置から撮影しています。
ここでも多くの市民と車が集まっています。



 

< 12. バリケード事件 >

1991年1月のバリケード事件について
1991年の8月までに、すべてのバルト三国がソ連の軛を脱し独立した。
そして同年12月にソ連は崩壊した。
ラトビアで起きたこの事件は、これらと深く関わっていました。

既に紹介したように、1988年、エストニアのタリンで「歌う革命」が起きていた。
これを境に、バルト三国はソ連支配からの独立を共同で目指し始めました。

一方、ソ連国内ではゴルバチョフ主導のペレストロイカにより、連邦内の各共和国の意見が反映されるようになっていた。
しかしモスクワでは旧体制への揺り戻しが起き、混乱していた。
こうした中、リトアニアが1990年3月、一番に独立を宣言しました。

すると1991年1月、リトアニアの首都ビルニュスで親モスクワ派がデモを敢行し、これに呼応してソ連軍の戦車が侵攻し、14人の死者と数百人の負傷者が出た。
この様子はメディアを通じて世界に伝えられ、世界の同情を集めた。

この翌日、ソ連軍はリガの占拠を開始した。
これに対して数万の市民は車や廃材を持ち込み、旧市街の要所にバリケードを造り、非暴力で防衛した。
この日(13日)、エリツインがタリンを訪問し、エストニアの支持を表明した。
1月20日、モスクワで10万人のデモが起こり、バルト三国への支持を訴えた。

こうして同年の8月、残り二か国は独立宣言に至る。
この間のリガの死傷者は6人でした。


あとがき
この美しく静かな中世の街並みと石畳は、バルト三国の人々の自由への熱望と英知を秘めていたのです。
バルト三国は数百年に及ぶ異民族や最後のソ連による支配に喘ぎ続けていた。
しかし彼らは、非暴力と三国の協力をもって、さらに世界の支持を得て、ほぼ無欠の革命と独立を成し遂げたのです。

私はこの事件の写真を見ながら、その石畳の上に立っていた自分に熱いものを感じています。

次回に続きます。