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20200623

中国の外縁を一周して 42: 麗江とお別れ



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今回で、麗江の紹介を終わります。
麗江の地下街、麗江の朝、新幹線駅までの街並みを紹介します。
ここには古い家並みと発展する街が混在しています。
撮影したのは2019年10月26日と27日です。

 
< 2. 束河古鎮から民主路の地下街へ >

上: 束河古鎮から麗江への途中。

下: 夜の民主路。
この道を左に折れると麗江古陳の玉河広場になります。


< 3. 地下街 >

地下街は思ったより長く、幾つか分岐して延びています。
夕食の為に来たのですが、ショッピングの店が多い。
店は多彩で、地上よりも地下の方が人出は多い。


 
< 4. ホテルの朝 >

これで2日目の朝を迎えました。
この日は、新幹線で最後の訪問地昆明に向かいます。


 
< 5. 朝8時頃の麗江古陳 >

清々しい朝で、人影は少なく、ふっと歴史舞台の一コマに紛れ込んだようです。



 
< 6. 玉河広場へ >

下: 玉河広場。
丘の上にホテルが見える。


 
< 7. 玉河広場に面した食堂街 >
ここには何回も来ては、食を手短に楽しんだ。


 
< 8. 黑龙潭の方を望む >

上: この川の上流(奥)が黑龙潭で、奥に雲を被った玉龍雪山が微かに見える。

下: いよいよタクシ-に乗り、新幹線の駅に向かう。
以下の写真は、すべてタクシー内から写したものです。
麗江の都市の姿が垣間見えます。


 
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中心部は観光で成り立っているのが分かる。


 
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いったん家並みが少なくなった。

 
< 11. 郊外に忽然と巨大な住宅街 >

ガイドの話によると、ここらには別荘群が続々と建っているそうです。
驚きです。
次回、新幹線からの眺めを紹介しますが、この地は中国の奥地で、昆明からでも新幹線で3時間半も隔てた所にあるのです。
ここらは新幹線の駅に近い。


 
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下: 小学校のようです。

直ぐ新幹線の駅です。

次回に続きます。




20200613

中国の外縁を一周して 41: 束河古鎮と茶马古道博物馆




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今回は、麗江の別の古陳と博物館を紹介します。


 
< 2.束河古鎮の地図、上が北 >

上: 麗江全体図
赤矢印: 束河古鎮。
ここは麗江古陳から4km離れた所にあり、大きさは約1km四方です。
ここはナシ族発祥の地で、麗江古陳ほど観光化されていない。
束河古鎮の北4kmの所に、木氏の本拠地であった白砂がある。

茶色矢印: 既に紹介した黑龙潭公园。
赤矢印: 既に紹介した麗江古陳。

下: 束河古鎮の主要観光地
この範囲は束河古鎮の北西部で山裾にあり、泉が湧き出している。

A: 茶马古道博物馆
B: 四方街
C: 青龙桥
D: 九鼎龙潭


 
< 3. 駐車場から古陳へ >

麗江古陳の通りに比べ建物が古びている感じがした。
古さを残しているとも言える。


 
< 4. 茶馬古道博物館に入る >

正直に言うと、小躍りするような展示はなかった。
それでも写真パネルや幾つかの説明資料(中国語)は役に立った。

下: 茶葉を運ぶ姿が印象深い。
この姿で、普洱(プーアル)から大理、麗江、香格里拉を経由して拉薩(ラサ)までの3000kmの山道を行き来した。
小型の馬も使用したのだろうが。
このようにして茶葉を運ぶために、茶葉を円盤状に固く圧縮したのだろうか?
やっと理解出来た。

 
< 5. 茶馬街道の様子 >

上: 険しい山岳路が目に浮かぶ。

下: 左下に麗江古陳の賑わいが見える。
上には、拉薩のポタラ宮と大昭寺が見える。


 
< 6. 茶馬街道と人々 >

下: 博物館にあった街道の地図。
北部と南部に二種類の黄色線が見える。
北部の路は、良く知られた西安から蘭州を通り、中央アジアに抜けるシルクロード。
南部の路は、成都から昆明を通り、ミャンマー、インドに抜ける南方シルクロード。

黒線も主に二種類ある。
一つは成都からチベットを抜けインドに至る茶馬古道(北路)。
もう一つは、景洪から普洱、麗江を通り、後は北路と同じ路を通る茶馬古道(南路)。


* 茶馬古道 *

この道は人馬を主要な交通手段にした民間の国際商業貿易ルートで、漢族とチベット族が交流した古道でした。
主に茶と馬の交易を行うための路で、通商は唐宋時代(6181279年)に盛んとなり、明清時代(13681911年)に入って最盛期を迎え、第二次世界大戦の中後期に頂点に達した。

チベットに茶や砂糖、塩などの生活必需品を運び、チベットからは馬や牛、羊、毛皮を持ち帰ったことから、「茶馬古道」と呼ばれた。
麗江からチベットへのルートは5000m級の山々を超える厳しい道で、馬と共に人力による運搬が主流だった。

なぜ馬と茶が、こんな危険を冒し苦労してまで交換する必要があったのか?
チベット人は元々遊牧民で野菜、ビタミンBが不足していたので、これを補うのに茶は最適でした。
また馬は中国の軍隊にとって必要でした。
しかし18世紀になると中国での馬の需要は減り、羊毛や毛皮、薬用素材が主になった。

納西族の古都麗江はシーサンパンナ(雲南省最南端の西双版納)を起点する南からのルートと、四川(成都)からの東ルートの合流点で、木族王朝繁栄の源になった。
清時代以降の拉薩在住の中国商人はナシ族がほとんどで、ペイ族(白)と漢族も少数いた。


 
< 7. 四方街 >

この四方街に面した茶店で、プーアル茶を買いました。
こちらの四方街は麗江古陳に比べ、人は少ない。



 
< 8. 青龙桥 >

四方街のすぐ近くにあるこの橋を渡る。


 
< 9.九鼎龙潭へ向かう >


 
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< 11. 九鼎龙潭 >

実に水が透き通っている。
まさに麗江や束河、黑龙潭は湧水、清流によって生かされており、玉龍雪山からの水脈の賜物と言える。

次回に続きます。

20200529

中国の外縁を一周して 40: チベット仏教の寺






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今回は、麗江古陳から近いチベット仏教の普济寺を紹介します。
この地にはチベット仏教寺院が多い。
これはアジア大陸の悠々の歴史を物語っている。
少し驚いたエピソードも紹介します。

 
< 2. 地図、上が北 >

上: 麗江の位置を示す
黄色枠:麗江古陳、中央の白矢印:普济寺、白枠:束河古陳、黄色矢印:香格里拉。
雪を被った山が玉龍雪山で、その左側を上下に長江が流れている。

現在、麗江古陳からチベット圏東南端の都市、香格里拉までは長江沿いに車で200km、4時間の道のりです。
麗江からの観光ツアーがあります。
さらに香格里拉からチベットの古都ラサまではさらに車で1570km、24時間の道のりです。

今でさえ麗江からラサまでこれだけ遠いのですが、1300年以上前、道なき道を商隊や僧侶が馬や徒歩で行き交ったのです。
当時、茶葉古道は麗江を通り、左(西)に折れて、長江に沿った道だったようです。

下: チベットと雲南省、四川省間の主要な道
左上の雅安から始まる道が四川省成都に通じる。
左下に延びる道が、プーアル茶の産地で有名な普洱に通じる。


 
< 3. 古城忠义市场を出発 >

古城忠义市场の前は、すでに都市部の街並みです。
ここから西側の山に向かってタクシーで向かいます。


 
< 4. 普济寺に到着 >

普济寺は麗江にあるチベット仏教5大寺院―玉峰寺、福国寺、指云寺、文峰寺の一つです。
私がチベット寺院に連れて行ってくれとガイドに頼んで、来たのがこの寺です。
この寺は麗江古陳から最も近いが、他の寺院の方が有名です。

下: 普济寺の門
木々に覆われた小高い丘の上に建っています。
この寺は一辺70mほどの壁に囲まれています。
門の両側に大きなマニ車が見える。
ここの創建は清朝の乾隆帝の時代、1771年で、後に数度修復されている。




 
< 5. 境内に入る >

私達が入った時は、住職以外に人はいなかった。
古い建物が境内を囲み、大きくない境内は樹木で一杯でした。
春になると梅の花が綺麗だそうです。
この地域の寺には紅梅が多いようです。


 
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< 7. 本堂に入る >

上: 入り口の左にあるマニ車
信者がこれを回すと、回した数だけお経を読んだことになり、功徳があるとされる。
側面にマントラ(密教の真言)が古いインド文字で刻まれている。
この筒の中には経典が納められている。

左下: 右が入口

右下: 内部に入ると目の前に、天井から吊り下がっている布が目に入る。
どうやらチベットのタルチョーのようだ。
タルチョーは祈祷旗で、五色の青・白・赤・緑・黄の順に並び、それぞれが天・風・火・水・地を表している。
これが筒状に、2段に重ねられている。



 
< 8. 正面 >

上: 正面の奥を見ている
狭い堂内はカラフルで、壁一杯に掛け軸や写真、絵が飾られている。
仏画の掛け軸はタンカと呼ばれる。
正面は観音像のようです。
逆三角形の顔の輪郭と耳まで覆う大きな冠はチベット仏像の特徴です。
左下に釈迦如来像らしいものが見える。

下: 正面の左側を見る
奥に千手観音像が見える。
チベット仏教では釈迦像や如来像よりも観音像が重視されているようです。


 
< 9. 右側面を見る >

 タンカが沢山見られる。


 
< 10.明王像か >

上: 仏像の表情は眉がつり上がり、怒りの様相をし、また鎧を纏っているので明王像らしい。
また獣に乗って従えているように見える。

明王像は、インドで仏教が衰退する直前の7世紀頃、最後に花開いた密教と関りがあります。
日本の密教は弘法大師が広めたことで知られています。
密教は、それまでの悟りや戒律重視の仏教から、祈祷や呪文が重用される世俗的なものになりました。
この時に、仏教以外のヒンドゥー神や様々な守護神などが仏像に加わりました。
その一つが明王像で、悪魔を降伏させる怒りの表情を持っている。

チベットに仏教が広まったのは、7世紀のチベット統一王朝成立時なので、密教が主になったのです。


下: 本堂の屋根





 
< 11. 住職家族の住まい >

本堂の隣、壁を隔てて住職の住まいがあります。
久しぶりに、古い住宅をまじかで見ました。



* 歴史を想う *

今回の中国旅行では、4種類の寺院―道教の道観(開封)、仏教寺院(開封)、モスク(蘭州)、チベット寺院(麗江)を見た。
また麗江ではナシ族の宗教、トンパ教の一端を見た。
様々な宗教が習合し、像や装束、建物などが影響され文化の混淆を見ることが出来た。

この地のチベット仏教やトンパ教を見て、大きな時の流れとアジアの交流について感じることがある。
麗江にチベット仏教が伝わったのは、おそらく茶葉古道を通じてだろう。
これは険しいアジアの屋根を2000kmも隔て行き交っての事だった。

一方、北のシルクロードから伝わった仏教が中国の大平原で漢文化と混淆し、道教と共にこの地に遡上するようになった。
これは昆明、大理(雲南)を経て入って来たのかもしれない。
しかし長江は香格里拉や麗江から四川省や武漢を経て上海で太平洋に注ぎ、これも経路の一つだったかもしれない。

この普济寺を建立したのは清朝の皇帝でした。
13世紀、モンゴル帝国はチベットを征服した折、それまでの原始宗教からチベット仏教を国教にします。
この後、北方や中央アジアにチベット仏教が広まった。
その後、北方の満州民族である清王朝が中国全土を支配した。
このことで、清王室の中にはチベット仏教を篤く信仰する人物が出た。
こうしてこの地には幾重にも宗教や文化が交錯することになった。

さらに不思議な事がある。
実は、遺伝子分析によると日本人(大和、アイヌ、琉球の民族)にもっとも近縁なのはチベット人で、分岐は3.5万年以前だそうです(所説あり)。
これは氷河期の事で、日本列島に新人類が住み始める前のことです。
その後も様々な交流が見られる。

かつて日本の水耕稲作はインド東端のアッサム地方から長江沿いに伝わったとされたが、現在の起源は長江中下流域のようですが、どちらにしても長江が関わっている。
またイザナギとイザナミが出てくる国生み神話の起源は、長江中流域にあるとの説もある。

訪れた成都の金沙遺跡と出雲大社の両遺構から復元された神殿が実によく似ている。
これも長江流域で見つかっている紀元前5千年前の高床式住居と日本の高床式から発展した神社建築様式の繋がりを示しているのだろうか?

身近なものにも驚きがあった。
アイヌのムックリ(口にくわえて鳴らす楽器)と同じような物を、この麗江(ナシ族)でも見ました。
調べてみると中国南部から東南アジアに広く分布しているようです。
不思議な事に、韓国、中国北方、アイヌ以外の日本では見られないのです。

こうしてみると、日本人や文化が長江流域と深く関わっていることを感じさせる。
この奥まった高原地帯の雲南、麗江は実に興味深い。



* 驚いたエピソード *

麗江古陳と他の観光地への移動では、ガイドがライドシェア(滴滴出行など)でタクシーなどを呼ぶのですが、今回は問題が発生した。
この寺から次の束河古陳まで移動するために車を呼ぶんのですが、幾ら待っても応じる車がないのです(辺鄙だからでしょう)。
そうこうするうちに、一人の中年女性が寺に車でやって来ました、
ガイドは帰ろうとする彼女に乗車を頼みました。
少しの交渉時間を経て、載せてくれることになりました。

私は、これまで親切な人に出会っていたので、てっきり善意で無料と踏んでいたのですが。
彼女は、お金を要求し、一人数十元で三人分要求している。
私はお金を支払い彼女の乗用車に乗りました。
移動は近いので、直ぐ着きました。

私達は助けられたのですが、それにしても彼女の勘定高いのには驚いた。
また辺鄙な観光地でのライドシェアやタクシーを呼ぶのは困難だと知りました。
バス交通の確認と、初めからチャーター車の利用を考えないといけないようです。

次回に続きます。








20200522

中国の外縁を一周して 39: 小さな橋と古城忠义市场






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今回は、麗江古陳内の美しく小さな橋と、
古い佇まいを残す庶民の古城忠义市场を紹介します。


 
< 2. 大石橋から始める >

上: 前回紹介した大石橋です。
これからこの川沿いを南下し様々な小さな橋を訪ねます。
最後に市場へと向かいます。

下: 百岁桥(百歳橋)
橋の上の左に、赤い漢服を着た女性が見えます。
観光客に写真の被写体を頼まれたようです。
若い女性が、漢民族風の着物を着て観光地を歩く姿をたまに見かけた。
厳密な漢民族の服と言うより、ファンタジクな中国歴史ドラマで見かける自由なデザインのようです。
多くは一人から数人です。

以前、私はフランス、アルザス地方のコールマールを訪れたことがあります。
この地も、花に彩られた古い町並みと小川や橋で有名でした。
麗江と比べて町や川、橋は大きい。
しかし、菊で飾られた麗江の街並みと小川はさらに見応えがありました。
菊で飾られた時期に行くべきだとは思いますが。


 
< 3. 様々な橋 >

右下: 橋を渡ると、概ねこのような家に挟まれた小路を行くことになります。


 
< 4. 少し広い通りに出た >

 
< 5. 万古楼が見える >

下: 獅子山公園の丘の上に立つ万古楼が見える


 
< 6. 古城忠义市场の一角に入った >

この一角は、植物、果実、根などの乾物が売られている。
この地は松茸の産地です。
サイズはかなり小さいが、大きな袋に沢山入って安かった。
妻は、大量の干し松茸を買った。
しかし香はほとんどせず、日本に帰ってからもあまり使用していない。
日本の松茸とは異なる。

 

< 7. 地元の人が買っているようです >


 
< 8. 食材が豊富です >

ここを訪れたのは13:30頃でした。
時間帯のせいか、あまり客はいない。
当然、この大きさなので、時間ともなれば多くの市民がくるのだろう。


 

< 9. 様々な店舗形態があります >


 
< 10. 肉売り場 >

先ず、この広さにびっくりした。
そして、ここでは相変わらずの衛生感覚のようです。
下の写真のように、客が肉を手づかみで選んでいる。
もっとも、麗江には近代的なスーパーや商店街もあり、衛生管理が行き届いた店も沢山あります。
違和感なく新旧が混在している、不思議な感じがする。


 

< 11. 鳥や魚類の販売 >

先ず驚いたのは、淡水魚の扱いが多い事でした。
それも活けで売られている。
こんな高地で、これだけあるとは思はなかった。
おそらく池などの養殖が進んでいるのでしょう。

左上: この一角では、鳥と日本人が口にしない様々な小獣をケージに入れて販売しています。
30年以上前、中国の広州や台湾の台北の市場で見た光景を思い出します。





 
< 12. そろそろ市場の端に来ました >

下: 民族衣装を着た老婆が足早に去って行きます。

私達が、例えばアイヌのように日本で民族衣装を着た人を見ると、観光用を連想します。
しかし、中国では少し趣が異なるようです。
特に雲南省で目立ちます。
それは観光用だけではなく普段着、さらに言えば誇りを持って着ているように見えることです。
これは中国の少数民族政策の反映だと思う。


 
< 13. 市場の本来の入り口 >


次回に続きます。