20171207

何か変ですよ! 85: 何が問題か? 8: 摩訶不思議な言葉遊び






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前回は、日本だけでなく世界が右傾化している背景を見ました。
右傾化はハンチントンが指摘した文明の衝突が大きく影響している。
今回は、今起きている不思議な言葉遊びを見ます。


はじめに
今の日本の経済と政治は凋落を深めているように思える。
しかし、多くの人にはそうは映らない。
この違いを「何が問題か?」で解明したいと連載を始めました。

今まで、日本の経済先行きと所得格差、右傾化を取り上げて来ました。
しかし、これとて反対の立場から見れば正常に見えるらしい。
今回、この反対の立場の一端をみます。



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忖度を巡って
ある田舎の役場を退職した人に、私は「役場で忖度(そんたく)はどのような感じですか?」と聞きました。
彼は「そんなものは無いよ! 第一、忖度と言う言葉は急に出て来たものだから・・・」とあっさり否定されてしまった。

マスコミでは森友・加計問題、詩織さん事件で「忖度」が毎日のように騒がれています。
私は彼の口から、忖度の事例が聴きたかったのですが、拍子抜けでした。

忖度と言う言葉はあまり使われていなくても、出世を望む人の多くは上司の意向を汲み取り仕事をするのが当然で、実際に忖度はまかり通っているはずです。
これが出来ないと上司から「気配りの出来ない奴」と相手にされなくなるでしょう。

敏感な彼は、とっさに私の質問に政府批判を汲み取り(忖度し)、否定したのでしょう。
彼は如何にも強面で独断専行タイプでした。

「忖度」はあまり使われない言葉ですが、その意味するところは大概の人には分かり、日本の社会に定着した精神文化です。
どちらかと言うと良い意味で使われ、その意味は他者への配慮、気配り、推察などでしょう。

ある新聞記者が2003年に投稿した文に忖度を使っていた。

「・・。あえて忖度すれば、そのような錘(おもり)を心の中にぶら下げた人々が、数多く戦後の数十年を生きて来たのではないか。」

これは戦後、親しい人物が誰にも従軍中の体験を語らなかったことについて触れたものです。



*3


あるテレビのニュース番組で
以前、二人のコメンテーターが森友問題に関して答えていました。

司会者が「官僚は忖度するものですか?」とこの二人に尋ねました。
すると、一人は「忖度は当然あるはずです」と答えた。
もう一人は、「上級の官僚は忖度なんかしないですよ」と明言した。

私は聞いていて、奇異な感じを受けた。
忖度自体が悪いのではなくて、上司や利害関係にある人物の便宜を計り、法や手続きを曲げて、不公正なことをする事が悪いはずです。
このことは自明なのに、簡単に忖度を否定し、しかも下級の官僚ならやるでしょうとはぐらかす返答に、この人物の悪い忖度例(権力者へのおもねり)を見た。

この人物とは田崎史郎氏でした。


面白い座右の銘
ある官僚の座右の銘が「面従腹背」だそうです。
この意味は「うわべだけ上の者に従うふりをしているが、内心では従わないこと」で、通常悪い意味で使われます。

この官僚なら上の者(権力者)に忖度をするはずはなく、自ら便宜を計らない潔癖な官僚と言える。
それこそ田崎氏の弁に従うなら、正に上級官僚の手本と言えるかもしれない(笑い)。
もっとも出来る官僚達は政治屋を馬鹿にしているので、このような風潮が生まれと言え、やはり良い状況とは言えないが。

この官僚とは前文部科学省事務次官の前川喜平です。


これに輪を掛けて不可思議な事
実は、この前川氏を「官僚のクズ」と言い放った元官僚がいた。

この元官僚は「面従腹背などと言って逃げず、官僚なら正々堂々とクビを覚悟で仕事をしろ!」と前川氏を罵倒する。
私もそうあって欲しいと願うが、そうでないのが日本の悲しさ!
官僚組織は縦割社会の典型で、残念ながら長いものには巻かれろは日本の風土です。

かの田崎史郎氏は忖度しないのが上級官僚と言い放ったのに、ここではそれが仇になっている。

この元官僚とは岸博幸氏です。




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何がおかしいのか
おそらく私のこの説明を読んでも、二つの異なる立場は対立したままでしょう。
現政権内で忖度が災いを生んでいると考える人と、忖度など無いと考える人の溝は埋まらないでしょう。

簡単に言えば、忖度はありふれた日常の行為で、これを否定することに無理がある。
むしろ日本では出生する人ほど(仕事が出来る人ではない)、忖度出来るのが常識です。
重要なことは、忖度により不正が行われることです。

先述の役場の退職者や田崎氏、岸氏の立場は「忖度があった」ことを否定することにより、配下の不正行為を権力者(上司から首相まで)と切り離すことにあるようです。
つまり彼らは誰かの立場が悪くならないように忖度しているのです。
残念ながら、この態度も日本の組織でよく見られるトカゲの尻尾きりで、幾度も繰り返されて来ました。


悲しい事
今の日本の政治では不毛な口論が延々と続くだけです。

不毛なのは追及する側と追及される側だけではない。
それらに加勢し、さらにつまらない口論と煽動を行うマスコミに生きる人々が居る。
この人々の言説に留飲を下げ、憂さを晴らす人々が、さらに大勢居る。
これが最も悲しいことだろう。


私の知る限り、革新が続き、成長し続ける会社の社長は、部下が上司への無駄な忖度、おべっかなどをしないようにさせている。
小さな不正も積もれば、やがて山となるの例えです(笑い)。
日本の政治も私利私欲(党利党略)を離れ公正でありたいものです。


次回に続きます。






20171206

晩秋の京都を訪ねて 2: 下鴨神社 1






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今日は、京都植物園を出てから下鴨神社までを紹介します。
神社はたくさんの人出でした。



 
< 2. 地図、上が北 >


上の地図: 赤線が今回紹介する散策ルートで、京都植物園の正門Sからスタートし住宅街を抜け、下鴨神社に入りました。

下の地図: 下鴨神社境内の散策ルートです。

写真は概ね、撮影時間順に並んでいます。


 
< 3.植物園とお別れ >

上の写真: 植物園の正門から内部(北側)を望む。
下の写真: 鴨川の上流(北側)を望む。


 
< 4. 鴨川 >

上の写真: 鴨川の下流を望む。
下の写真: 北大路の東側を望む。


 
< 5. 下鴨本通り >

下の写真: 下鴨神社参道の案内が見える。

 
< 6. いよいよ下鴨神社 >

上の写真: 西参道の先に鳥居が見えた。

下の写真: 手前が舞台、右奥が本殿に至る中門です。

子供が七五三の着物を着て、緊張した面持ちで両親に連れられている姿を至るところで見た。
度々、子供に「かわいいね」「おめでとう」と声を掛けると、お母さんが微笑んで感謝の言葉を返してくれた。
気持ちの良い一時でした。






 
< 7.立派な楼門 >

これは表参道から塀に囲まれた社殿に入る為の楼門。
上の写真: 社殿境内から見た。
結婚の新郎新婦が記念写真を撮っていた。

下の写真: 表参道側から楼門を見た。


 
< 8. 表参道を行く1 >

まるで原野のような糺の森(ただすのもり)を抜ける。



 
< 9. 様々な紅葉 >

薄暗く濃い緑の森の中で、赤や黄、茶色に色づいた木の葉が陽を受け輝いている。

下の写真: 表参道の東側を流れる泉川の風情。


 
< 10. 表参道を行く2 >



次回に続きます。




20171204

晩秋の京都を訪ねて 1: 京都植物園





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2017年12月3日、京都の洛北を散策しました。
快晴の中、大学オケを聴き、紅葉を愛で、食事を楽しみました。
今日は、京都植物園の紅葉を紹介します。







< 2. 京都の散策ルート、上が北 >

赤線が徒歩のル―トで、矢印は地下鉄やバス、電車の昇降駅です。

この日の日程
朝の9時過ぎに烏丸線北山駅を出て、京都植物園と下賀茂神社の紅葉を楽しんだ。
その後、市バスで烏丸線北大路駅に行き、昼食後、京都北文化会館で大学オケを聴いた。
次に、烏丸線で烏丸駅に行き、そこから新京極通りまで行った。
新京極通りに入り、蛸薬師堂の手前を右に折れ、高瀬川に出た。
そこで夕食を食べ、木屋町通りを抜け、阪急河原町駅から帰路に着いた。




< 3. 植物園のマップ、上が北 >

赤線が散策ルートで、上の北山門から入り、正門から出た。
アルファベットは主な写真撮影地点。
概ね写真は撮影順に並んでいる。



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下の写真: 池、地図のAの近く。



< 5. 池の周辺 >

地図のA~B。
落ち葉の絨毯が晩秋を漂わせる。




< 6. 蓮池 >

地図のB。




< 7. 様々な紅葉 >

地図のA~D。



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地図のD.




< 9. 圧巻の紅葉 >

地図のE。あじさい園にて。

一本の巨木(ホウ)がまさに紅葉真っ盛りでした。
黄色から深紅のグラデーションに染まった葉が幾重にも重なり、青空を背景に輝いていました。
この瞬間、来た甲斐があったと思えた。

実は、植物園に入って最初に池の周辺の紅葉を見た時は見頃を過ぎ、かなり落葉していたのでガッカリした。
何とか、写真は見栄えのするものを選んで撮れましたが、1週間早ければ良かったのにと後悔していました。
また実際に見た色と写真の色は異なり、下の写真の紅葉の色はも少し黄色味がかっていた。



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ポプラの紅葉が青空に映えていました。


次回に続きます。




20171201

フランスを巡って 47: シャルトル 1



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今日は、シャルトルの町と大聖堂の外観を紹介します。
この大聖堂は初期ゴシック建築とステンドグラスの青色で有名です。
この日も、快晴で爽やかな観光になりました。


 
< 2. 地図、上が北 >

上の地図: 赤丸のシャルトルはパリの西90kmのところにあり、途中にベルサイユがあります。
シャルトルの南にはロワール川沿いの都市オルレアンがあります。
シャルトルの人口は4万人と大きくはなく、広大な麦畑の中に浮かぶ島のような都市です。

下の衛星写真: 私達は街の中央広場でバスを降り、S点から徒歩で大聖堂を見学して、また戻りました。


 
< 3. ゴシック大聖堂の由来 >

上の地図: ゴシック建築が始まる当時のフランス(カペー朝)領土の変遷図。
カペー朝の領土は青、英国系は赤。
赤丸がシャルトル、茶色丸がパリ。

下の絵 : ゴシック建築とその前のロマネスク建築の特徴を示す。


私は以前から、ゴシック建築がなぜこの地で花開いたかのが気になっていました。
その経緯を簡単にまとめておきます。

ゴシック建築は、パリ北側の郊外にあるサン・ドニ王室修道院聖堂の1136年からの部分的改築に始まった。
ここは歴代フランス君主の墓所でした。

これに続いて、シャルトルのノートルダム大聖堂(マリアに捧げれらた)は、サン・ドニに続いて1145年から建築が始まった。
しかし途中の大火災で西側正面を残して全焼し、1194~1220年に再建が成った。
この大聖堂は現存する初期ゴシック建築物で最古であり最上級の建築になる。
その後、この建築様式はフランス全土からヨーロッパに広まり、ルネサンス期まで続いた。

それではなぜこの地にゴシック建築が花開いたのか?

フランク王国が三つに分裂して出来た西フランク王国も987年に断絶し、その後、カペー朝がフランス王家を継承し14世紀まで続いた。
このカペー朝は設立当初、権力基盤が弱く、パリ周辺のみ(左地図の青部分)を領有するだけであった。

しかしカペー朝は周辺の教会勢力(司教座)を支配下に置いており、特にサン・ドニ修道院の修道院長シュジェールがこの王朝の伸張に尽力することになった。
この修道院長がサン・ドニ修道院の内陣(祭祀の中心的な場所)と周歩廊を画期的な空間へと改造し、これがゴシック建築の緒となった。
彼の指示によって。ロマネスクの重厚で狭く暗い部屋は、神の光が差す温かみのある空間へと変貌した。
そしてこの修道院長の友人であったシャルトルの司教は大聖堂をゴシック様式で建築した。

つまり成長期にあった王朝とキリスト教会が一緒になってフランスを盛り上げる為に、神の国の新しい教会を体現したと言えそうです。


 
< 4.広場で >


 
< 5.広場から大聖堂へ >

 
< 6. 大聖堂 >

左下の写真: 西正面の左の塔にはゴシック建築の美しさがある。
右下の写真: この像は焼け残ったことによりゴシック最初期の作品となった。
これらはロマネスクの像に比べ、写実的になりつつある。


 
< 7. 西正面(ファサード) >


 
*8.



 
< 9. 大聖堂周辺の街並み >


 
< 10. シャルトルの町 >

次回に続きます。