20150923

社会と情報 53: 戦った報道 10



 


< 1.石橋湛山 >

今日は、大正時代後期(19201926年)の報道と政府、そして民衆の動きを見ます。
そこからは既に行進する軍靴の音を聞くことが出来るかもしれません。
今回は、一人の人物と一つの事件を追うことで、当時の社会が見えてきます。



< 2. 尾崎行雄 >

事の始まり
1921年2月(大正10年)、「憲政の神様」と讃えられた尾崎行雄より「軍備制限決議案」が提出されたが、圧倒的多数で否決された。
増強に次ぐ増強で膨れあがる国防費はこの前後9年間で2.5倍に膨れ上がっており、さらに第一次世界大戦後(1920年~)の恐慌が追い討ちをかけて財政は困窮していた。
しかし、議会の大半は軍部を恐れ、この法案を通すことが出来なかった。

3月より「朝日新聞」は「軍縮縮小論」を連載し、世論も軍縮が大勢になっていった。
11月、米国より要請のあったワシントン軍縮会議に日本は参加し、艦艇比率を押さえられ、中国進出に釘を刺されることになった。

この1ヶ月前、雑誌「東洋経済新報」に社説が載った。
それは度肝を抜く、当時の風潮に真っ向から逆らうものだった。

『一切を棄てる覚悟』と題し、「ワシントン会議を従来の日本の帝国主義政策を根本的に変える絶好の機会として歓迎する」とした。
彼の提言を要約すると、
1.経済的利益を見るに、現状の4ヵ所の植民地を棄て、米英との貿易促進こそ重要。
2.植民地放棄こそ戦争を起こさせない道だ。
3.植民地は排日などで騒然としており、既に帝国主義の時代は去った。

これを書いたのは石橋湛山(戦後総理)で、彼は終始一貫して経済的合理性の立場から軍閥の肥大化、侵略に反対し続けた唯一のジャーナリストと言える。
彼は第一次世界大戦参戦に反対し、日本の新聞があげて賛同した対支21か条(1916年)をも批難した。
当然、「東洋経済新報」は政府から監視され、インクや紙の配給を制限されたが廃刊は免れた。

もしこの年、尾崎行雄と石橋湛山の思いが政府に通じ転換が図られたら、太平洋戦争へと向かわなかったかもしれない。



< 3.関東大震災 >

関東大震災がもたらしたもの
1923年9月1日、大地震により焼失戸数45万、死者10万、罹災者340万人の被害が発生した。
しかし、「報道と社会」の面から見ると、このどさくさに引き起こされた朝鮮人虐殺と甘粕事件、亀戸事件が重要です。
この三つの事件に共通しているのは、デマに振り回される民衆と官憲が関わっていたことであり、これ以降思想統制が露骨に強化されていくことになる。

少し言論と思想弾圧の流れを見ておきます
政府は、自由民権運動を抑える為に、1875年、新聞紙条例(発禁処分)と誹謗律(懲罰)、続いて集会条例(許可制、解散)、保安条例(放逐)を制定していた。
1920年代、労働争議は年数百件、小作争議は年2000~3000件へと増大していた。
大正デモクラシーで盛んになってきた労働・社会運動を禁圧する為、政府は1900年、治安警察法(解党)を制定し、その後の1925年には治安維持法で弾圧体制を完成させることになる。

三つの事件の概要
朝鮮人虐殺事件
「朝鮮人が放火し、井戸に毒を入れ、数千人が大挙して日本人を襲っている。戒厳令を敷いたので、厳密なる取り締まりを加えるべし。」
警視庁は、地震の翌日には、このような通達を出し、4000もの自警団が組織された。
この手のデマは地震の3時間後には警視庁に記録されていた。
こうして、朝鮮人虐殺が始まり、日本人と中国人を含む2000~6000人が民衆によって虐殺された。


< 4.亀戸事件の被害者 >

亀戸事件
以前から警察署に労働争議で睨まれていた平沢ら10人が、震災で混乱していた9月4日に捕らえられ、署内で騎兵連隊の兵によって拷問を受け刺殺された。
治安当局は10月10日、この事件を公表した。



< 5.甘粕大尉 >

甘粕事件
9月16日、社会運動家(無政府主義者)で名を馳せ睨まれていた大杉栄と妻ら三人が、憲兵隊司令部に連行された夜に憲兵大尉甘粕によって虐殺され、遺体は井戸に遺棄された。
陸軍省は24日、大杉殺しを発表し、軍法会議で裁く旨を報じた。
甘粕は懲役10年を言い渡されたが秘密裏に2年で出所し、満州で特務工作を担い、満州建設に一役買い、満映の理事長を務めた。


震災時、報道はどうしていたのか
まだラジオも電話も普及する前で、東京の新聞社の多くは焼失し、交通網は途絶していたので新聞機能は麻痺していた。
新聞の中には「東京全域が壊滅・水没」「三浦半島の陥没」「政府首脳の全滅」等のデマを取り上げるところもあった。

政府の言論統制が即刻始まり、新聞記事の取り締まり-検閲、前述事件の取り扱い禁止等、が11月末日まで続いた。
この間、発禁処分は新聞48、雑誌8であった。
こうなると、上記三つの事件は当局の都合の良いように報じられることになる。


「報知」は9月3日、朝鮮人虐殺事件について号外でこう報じていた。
「伝えるところによれば、昨日程ヶ谷方面にて鮮人約200名徒党を組み・・・暴動を起こし同地青年団在郷軍人は防御に当たり鮮人側に10余名の死傷者をだし・・」

また「読売」は当局による亀戸事件発表の翌日、こう報じた。
「・・署長が平沢らの収容所内の騒ぎが他に及ぶのを恐れて・・近衛騎兵連隊を呼んだ。・・平沢らを中庭に連れ出した兵士らは『静粛にしろ』というと、平沢らは一斉に『お前達は資本家の走狗として俺たちを殺すのだろう』と叫び、・・・『革命を見ずして死ぬのは残念だ』と絶叫し、・・胸部を刺されて・・死体を横たえた」
彼らの遺体の拷問跡や他の証言により、これはデタラメであることが判明している。

地震当日、朝日新聞の経理部長石井(戦後衆議院議長)は警視庁に非常食を分けて貰う為に使者を使わし、庁内の状況を探らせた結果、朝鮮人暴動のデマの発信源は警視庁だと判断した。
彼は記者に取材にあたって「朝鮮人騒ぎは嘘で、騒いではいけません」と触れ回るように伝えた。

民衆はどうだったのか
10月9日、「東京日日」は甘粕大尉を「残忍冷酷、正に鬼畜の所業である」と報じた。
しかし、民衆には憲兵が不逞の輩を退治したのであって、甘粕を国士と見る支持者も多かった。
在郷軍人会なども動き、一般から集まった彼の減刑嘆願書の署名数は実に65万に達した。

何が変わっていったのか
既に社会は保守的傾向-国粋主義的で排他的な傾向、を強めており、民衆もそれに引っ張られていった。
多くの報道機関はまだ政府に抵抗していたが、報道規制やあらゆる手を使う政府の弾圧の前になす術は限られ、御用新聞や飼われていた右翼の教宣活動は力を持ち始めていた。

一番重要なのは、警察や軍隊、政府がこれで味を占め、報道規制だけでなく露骨な謀殺・謀略を行うようになっていたことです。
甘粕大尉の扱いは、1931年、満州事変の首謀者石原中佐の扱いと同じです。
また上記デッチあげ事件は1928年の済南事件(中国)に通じ、これらの扱いは敗戦までエスカレートして行くことになる。

こうして日本は、政府の権力と暴力によって報道は麻痺し、民衆は思うままに踊らされることになった。

次回に続きます。



20150921

I visited Guilin 1: Introduction


桂林を訪れました 1: はじめに


< 1.  Boat tours of the Lijiang River >
< 1. 漓江下り >

I traveled to Guilin in China for 5 days.
The main attractions of this trip were boat tours of the Lijiang River and a walking of Logsheng Rice Terrace.
I introduce the sightseeing and a stroll in Guilin city.

私は中国の桂林を4泊5日で旅行してきました。
この旅行の目玉は、漓江下りと龍背棚田の散策でした。
これから桂林の観光と町歩きを紹介します。



< 2. Logsheng Rice Terrace >
< 2. 龍背棚田 >

Summary of this trip
I joined a tour organized by a tour company with my wife.
This travel schedule was from Tuesday, September 15, 2015 to Saturday, September 19.
We shuttled between Kansai International Airport and Guilin Airport via Shanghai Airport by airplanes.
We went around the actual place by a bus.



旅行の概要
ツアー会社: トラピックス
ツアー名: 桂林と絶景の龍勝5日間
旅行日: 2015年9月15日~19日
主な行程: 関空・上海乗り継ぎ・桂林空港を前後2日かけて往復。現地は総べてバスで移動。

Good points of this trip

Because 11 participants of this trip can sit just around one Chinese table, we could travel harmoniously. 
Because we stayed for 4 days in same hotel, daily packing was easy.
This trip included in various sightseeing, but the fare was inexpensive comparatively.
Those days were hot as the highest temperature registered 31- 34 , but we were blessed with fine weather.

Bad points of this trip

Our hotel was facing the Lijiang River, but was far from the downtown. 
We had to stay at 5 specialty stores for more than half-hour.

この旅行の良かった点
参加者11名は一つの中華テーブルを囲める人数なので和気あいあいと旅行が出来た。
一つのホテルを4連泊したので毎日の荷造りが楽だった。
多彩な観光の割にツアー料金が安かった。
現地ガイドの日本語がいまいちだったが誠心誠意で良かった。
最高気温31~34℃と暑かったが晴れに恵まれた。

不満な点
宿泊ホテルは漓江に面していたが繁華街まで徒歩25分以上と少し不便でした。
5ヵ所の専門店に各半時間以上立ち寄るのがつらい。



< 3.  These maps indicate our sightseeing spots >
< 3. 観光地の地図 >

Upper photo: Red point is Guilin City of Guangxi Zhuang Autonomous Region that we were traveling.
Lower photo: Blue frame is the center of Guilin City.
Two red points are most distant place of sightseeing spots that we visited, and the direct distance between two places is about 120 km.
Black frame shows the zone of boat tours of the Lijiang River.

上図: 赤点が今回観光した広西チワン族自治区の桂林市です。
下図: 青い輪が桂林の中心部です。
二つの赤点が遠い訪問地で、互いの直線距離は約120kmです。
黒い枠が漓江下りの範囲を示します。

About Guilin

Guilin is in a mountainous area of the south of China, and a karst basin at an altitude of 150m
The scenery consists of numberless mountains of approximately tens of meters, because the ground was covered by limestone of the thickness of kilometers.
The population of Guilin city is 5 million, and 740000 in the urban area.
There are many minority people in this autonomous region, and there are the people living in the urban area, on the other hand there are the people who continue still a traditional lifestyle in the mountain range.

桂林について
桂林は中国南部の山岳地帯にあり、標高150mのカルスト盆地です。
深さ数kmの石灰岩で覆われていることにより、この地の風景は数十m以上の尖った無数の山々が形づくる。
桂林市の人口は500万人、市区の人口は74万人と大都会です。
この自治区には多くの少数民族がおり、都市に暮らす人々もいるが、今も山岳地帯で昔ながらの生活を続ける人々もいる。


< 4.  Boat tours of the Lijiang River >
< 4. 漓江下り >

Our excursion boat travels slowly down the river a range of about 60 km long over four hours.
Various shapes of the mountains appears in right and left, and we can see traditional nature and living on the riverside.

遊覧船が60kmほどを4時間かけてゆっくり下る。
多彩な山容が左右に流れて行き、川辺には昔ながらの自然と暮らしが垣間見える。



< 5. Multiple sightseeing
< 5. 多彩な観光 >

The top photo: Daxu Ancient Town. This town flourished as a trading center once, and the vestige remains in this street.
The second photo:  Yao people’s village in Logsheng Rice Terrace that we strolled in. 
Lower left photo:  A calcareous cave of Chuanshan park.
Lower right photo:  An acrobatics show of minority people (option).

一番上の写真: 大墟古鎮。かつては交易の要所として栄え、その面影を残す街並み。
二番目の写真: 龍背棚田にある散策した瑶(ヤオ)族の村。
下左の写真:  穿山岩の鍾乳洞。
下右の写真:  少数民族の雑伎ショー(オプション)。



< 6.  Some scenes of Guilin city >
< 6. 桂林市の様子 >
Upper photo:  A crossing in the urban area.
Central photo:  A downtown at night, Zhengyang Lu.
Lower photo:  Apartments under construction in the suburbs.

上の写真: 市区の交差点。
中央の写真: 夜の繁華街、正陽歩行街。
下の写真: 郊外の建設中のマンション。





< 7.  Some aspects of people's life that I looked while strolling  >
< 7. 散策で見かけた暮らしの一コマ。  >

Upper photo:  Morning, children take simple breakfast before going to school.
Lower photo:  Early morning, a man fishes in a river, branch of the Lijiang River.

上の写真: 朝、登校前に朝食を取る児童。
下の写真: 早朝、漓江の支流で釣りをする人。



< 8.  Participants of this trip >
< 8. 今回の旅行の参加者 >

Everybody was people who I met for the first time, and there were people who participated from far away outside Kinki Region.
Much people were experienced travelers, and had one’s own unique view.
Sometimes, someone led us skillfully, and other persons deferred to it, and thanks to this, our trip became happy and excitative.
I thank all participants and a local guide heartily.


皆、初めて会った人々で、近畿圏外の遠くから来られた人々もいる。
多くは旅慣れた人であり、一家言ある人達でした。
時には、彼らの巧みなリードぶりと老境の謙譲さが程良く調和し、楽しくチャレンジに満ちた旅となりました。
皆、人生の一仕事(子育て、仕事)を終え、更に意気盛んな人々でした。
参加者と現地ガイドに心より感謝します。

Now, things that I think about this trip
Guilin was a very lively big city.
On the other hand, the people enjoy this firm grand that the Lijiang River flows through.
In there, their festinate behavior had coexisted with magnanimous mind in the magnificent nature.
Although it was incoherent, there was immeasurable energy, and there was not fragile thing that I felt about China before we traveled.

This continues next time.

今、思うこと
桂林は実に活気ある大都市でした。
一方で人々は漓江が流れるこの大地を満喫している。
そこには気ぜわしさとおおらかさが雄大な自然の中で共存していた。
ここには、ちぐはぐだが底知れないエネルギーがあり、日本で抱いていた危うげな中国を感じさせるものはなかった。

次回に続きます。



20150914

Went around Croatia and Slovenia 2: Lake Bled


クロアチア・スロベニアを巡って 2: ブレッド湖




< 1.  Assumption Church in Bled Island >
< 1. ブレッド島の聖マリア教会 >

Today, I introduce a lake in the Julian Alps of northwestern Slovenia. 

Once again, I take the liberty of resting from my blog for one week.


今日は、スロベニア北西部の山岳部にある湖を紹介します。

また、勝手ながら1週間ほど、ブログを休ませていただきます。



< 2.  The map of lake Bled >
< 2. ブレッド湖の地図 >
A blue point is our hotel. A blue arrow is the road from Ljubljana.
Two black marks are main spots for photographs on the lakeshore.
A red arrow shows the north.
No.1:  Bled Castle.
No.2:  Church.
No.3:  Assumption Church and Bled Island.
No.4:  A boat dock that is used for crossing to Bled Island.



青点が宿泊ホテル。青の矢印がリュブリヤナからの進路。黒マークが湖畔の主な撮影地。赤い矢印は北を示す。
番号1: ブレッド城。
番号2: 教会。
番号3: 聖マリア教会とブレッド島。
番号4: ブレッド島に渡るボート乗り場。


Lake Bled
This lake is at an altitude of 500 m in a basin that was surrounded by Julian Alps, its length is about 2 km, and is famous of scenic spot.
On the lake, there is one island that Assumption Church has been built in.
Bled Castle is on top of a cliff of the northern shore and there is other church at the right side.
A main street of hotel district led up from the lakeshore, and it is about 10 minutes from Hotel Krim that we stayed in to the lakeshore on foot.

Main itinerary
In an evening of August 30, we arrived at the hotel, and I walked around the lakeshore at the night.
In the next day, I took a picture from before dawn.
After breakfast, we went to the boat dock (No.4) for sightseeing, crossed to the island by a rowing boat, and fully enjoyed the landscape of Lake Bled from about 7:00 to 8:30.

ブレッド湖
この湖は長さ約2kmで、アルプスに囲まれた標高500mにあり風光明媚で有名です。
湖には聖マリア教会が建つ島があり、湖の北岸の断崖にブレッド城、その右に教会があります。
ホテル街が湖畔から伸びており、私達が泊まったHotel Krimから湖畔まで歩いて10分ほどです。

主な行程
8月30日の夕刻、私達はホテルに到着し、私は夜の湖畔を散策し、次ぎの日、夜明け前から湖畔で撮影した。
観光は朝食後、バスで④ボート乗り場に向かい、手漕ぎボートで島に渡り、約7時~8時半までブレッド湖の風景を満喫しました。



< 3.  Before dawn, Bled Castle (No.1) on the right side and the white church in Bled Island (No.3) on the left side. I photographed at 4:57      >
< 3. 夜明け前の①ブレッド城(右)と③ブレッド島の教会(左の白い塔)。4:57撮影 >




< 4.  Bled Castle
< 4. ブレッド城 >
Upper photo:  The castle (No.1) had glowed red and the church (No.2) had come whiter against the darkness, at 3:25.
Central photo:  The sky increased brightness a little, at 4:53.
Lower photo:  Before dawn, but Mt. Triglav that is the highest mountain in Slovenia with an elevation of 2864 meters began to become red.
This mountain is used to the national flag of Slovenia.
The sunrise of this day was about 6:20, but it seems to have become bright after 7:00.

上写真: ①赤く照らされた城と②白い教会が暗闇に浮かび上がる。3:25。
中写真: 空が微かに明るさを帯びて来た。4:53。
下写真: まだ日の出ではないが、スロベニアの最高峰トリグラウ山2864mが赤味を帯び始めた。5:25。
この山はスロベニアの国旗に使われている。
この日の日の出は6:20分頃で、実際、明るくなるのは7時過ぎでしょう。    



 5.  A view from the boat dock (No.4), at 8:30 >
 5. ④ボート乗り場からの眺め。8:30 >



< 6.  Crossing to the island >
< 6. 島に渡る >
Upper photo:  Assumption Church (No.3).
Central photo:  The inside of the church.
Many tourists tolled a bell that grants a wish with pulling the rope.
Sad thoughts of a woman in old days spread over the surface of the lake gently.
Lower photo:  This handsome man has succeeded to the family business of rowing boat for generations.
It was very fresh morning on the surface of the lake.

上の写真: ③聖マリア教会。
中の写真: ③教会の内部。ロープを引き、願いが叶うとされる鐘を鳴らす観光客。
一人の女性の悲しい思いが今も湖面に静かに広がっていく。
下の写真: 代々、手漕ぎボートの家業を受け継ぐ美男。
実に爽やかな朝の湖上でした。



< 7.  Views from the island >
< 7.島からの眺め >
Upper photo:  Bled Castle stands on the top of the cliff.
Central photo:  A view of east side.
World-class rowing matches often were opened here, and people had exercised that day also.

上の写真: 断崖絶壁に立つブレッド城。
中の写真: 東側の眺め。
ここは世界的なボート競技が行われる所で、この日も練習が行われていた。



< 8.  Comforting environments >
< 8. 心が洗われるひと時 >
Left photo:  Assumption Church (No.3), at 5:53.
Right photo:  Bled Castle (No.1) and a church (No.2), at 8:34.

左の写真: ③聖マリア教会。5:53
右の写真: ①ブレッド城と②教会。8:34



< 9.  A lakeshore >
< 9. 湖畔  >
Upper photo:  The main street of hotel district led up from the lakeshore.
Central photo:  A lakeshore that I visited in the morning.
Lower photo:  A family enjoyed lake bathing near the boat dock (No.4).

上の写真: ホテルやレストランが並ぶ湖畔に通じるメインストリート。
中の写真: 朝の散策で訪れた湖畔。
下の写真: ボート乗り場付近で湖水浴を楽しむ家族。8:35

Postface
It was very balmy time under a brilliantly sunny morning.
Bled lake was cleanliness and its nature was unspoiled.

This continues next time.


あとがき
快晴で清々しい朝でした。
ブレッド湖は観光化されているが清潔で自然保護が行きとどき、素晴らしい一時を過ごせました。

次回に続きます。




20150912

社会と情報 52: 戦った報道 9




< 1.シベリア出兵 >

今日は、報道が権力に屈服する瞬間を追います。
この年は、奇しくも日本が大陸進出へと大きく踏み出した年でもありました。




<2. 米騒動を伝える新聞 >

1918年に何が起きたのか
この年の7月、富山で米騒動が起こり、またたく間に全国に飛び火した。
8月、日本軍73000人がシベリアに出兵し、1922年まで駐留した。
9月、寺内内閣が総辞職し、次いで初の政党内閣が誕生した。

そして10月、新聞「大阪朝日」の社長と編集局長らが大挙辞任し、政府に陳謝する事態が起きた。



この事態が起きた背景を見ます
1914年に第一次世界大戦が起きたことにより、日本は好景気に沸いたが、インフレと経済格差が貧困層を襲った。
またこの大戦とロシア革命(1905年、1917年)は日本の軍事状況を大きく変えることになった。
一つに、1914年、同盟国英国は極東で戦闘が始まれば援助を希望すると伝えて来たが、日本はその前に軍隊を派遣し中国に駐留した。
さらに1918年、英仏米はドイツを牽制しロシア革命を阻止する為に、シベリア出兵を日本の7000名派兵で合意した。
しかし日本は10倍を越える派兵を行い、停戦で英仏米が撤退した後も駐留し、領土的野心を露骨にした。
この年、軍事費は国家財政の30%を越えた(日露戦争では80%)。

これらことも重なり米価は高騰し、地方の不満を爆発させ米騒動の引き金になった。




< 3. 当時の日本帝国の占領地 >

なぜ日本は軍事侵攻を押し進めたのか
前回見たように、1914年、不満を持つ国民は国会を取り囲んで海軍の山本内閣を打倒したが、この時、もう一つの不満要因があった。
1913年、南京で邦人3人が中国軍によって殺害されたが、その対応で政府は弱腰外交と批難され、右翼により外務省局長が暗殺されていた。

1914年、日本がドイツに宣戦布告した時、新聞「東京朝日」と「東京日日」は、この政府の方針について、軍事的・経済的利益拡大の意義を強調し、中国領土の侵犯を容認する社説をかかげて支持していた。
こうして軍部と右翼だけでなく国民世論も大陸侵攻へと傾斜しつつあった。

反権力をかかげて部数を伸ばして来た大手新聞も、国家主義から抜け出すことが出来ず、また政府を非難することで民衆の関心を惹く一面もあった。

但し、論説誌「東洋経済新報」のみ、これに警鐘を鳴らした。
「野心を遂げようとするならば、それこそ我が国家を危険に投ずる事件を発す」
これは30年後に実証されることになる。

結局、日本は日清戦争で得た領土(遼東半島)を三国干渉(露・独・仏)で放棄せざるを得なくなったことへの恨みと、大陸への権益拡大に釣られて侵攻を容認するようになっていた。



< 4. 襲われた神戸の鈴木商店 >

1918年の報道を追います
7月3日、富山で漁港の主婦達が積み出される米を見て米価高騰に業を煮やし、米屋を訪れ「米をよそへやらないで」と陳情した。
これが8月にかけて県内に広がっていった。
これを報じた富山の「高岡新報」の記事を県外紙が誇張した。
「2百余名の一隊が高松家を襲いたるさい、高松の妻が『苦しけりゃ、死んでしまえ』と言い放ち、一隊は大いに憤り、・・その女房を袋叩きにして引き揚げたり(高岡外電)」
これは「大阪毎日」の記事だが、「大阪朝日」も変わりはなかった。
この報道は事実ではなかったが、これが引き金になり、9月には日本全国に騒動が飛び火した。
各新聞は騒動を同情的に
報道し政府を非難する大キャンペーンをはった。
この間、打ち壊しや放火が起き、炭坑では出動した軍隊に対してダイナマイトで抵抗する事態が発生し流血事件も起きた。

政府は、先の「高岡新報」を発禁処分にし、米騒動に関する一切の報道を各紙に禁じた。
8月15日、これに対して新聞各社は報道禁止令の解除を求める決議を行い、内務大臣に申し入れを行い、大臣は折れた。
8月25日、その余勢をかつて大阪で朝日新聞社長が座長となり86社が集まり、「米騒動の責任追及、シベリア出兵と言論弾圧の反対を掲げて、内閣弾劾」を決議した。

この状況を「大阪朝日」は報じた。
「・・誇りを持った我が大日本帝国は、今や恐ろしい最後の裁きの日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の火とが呟いた不吉な兆しが黙々として、・・・人々の頭に、稲妻のように閃く・・」

政府はこの文言を問題にし記事を発禁処分にし、さらに9月9日、政府転覆を目指すものとして朝日を起訴した。

9月21日、報道攻勢にさしもの寺内陸軍大将の率いる内閣も倒れた。
彼は日露戦争で貢献し、韓国併合を推し進め、巨額資金(西原借款)を中国軍閥に注ぎ中国に深く関わり、武断政治を行っていた。

9月28日、右翼が朝日の社長を襲う事件が起きた。
10月15日、「大阪朝日」は突如として、社長以下、多くの編集局長が辞任し退社した。
12月4日に判決が下され、朝日の執筆記者は禁固二ヶ月と軽微で済んだ。



< 5. 寺内首相 >

朝日に何が起きたのか
政府は「白虹日を貫けり」が秦の始皇帝暗殺を暗示させ、天皇や政府を害するものとした。
この因縁のつけ方は、秀吉が大徳寺三門の件で千利休を、家康が方広寺の「国家安康」で秀頼を追いつめるのに使ったものと同じです。

こんなことで簡単に大新聞が転向するものなのでしょうか

当時、関西では不買運動が起こり、右翼系新聞は朝日攻撃のキャンペーンを張り他紙も追随していた。
この右翼系新聞を動かしたのは内務大臣の後藤新平で、後に官僚出身の正力松太郎が読売を再建する際に多額の資金援助をしている。

一番、朝日が恐れていたのは新聞の発行停止の判決が出ることだった。
これを防ぐには判決が出る前に、朝日自ら政府に陳謝の礼を尽くすことで、政府はこれを待っていた。
そして、朝日は判決日の直前12月1日に、自ら違反したことを認め、改めることを新聞に載せた。

これを期に反権力の先鋒だった大手新聞は沈黙し、やがて迎合していくことになり、日本は太平洋戦争へとひた走ることになる。
記者たちの抵抗は続くが、さらなる一撃が待ち受けていた。


次回に続きます。