20180909

北欧3ヵ国を訪ねて 25: スカンセン(野外博物館) 1






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これから数回に分けて、スカンセン(スウェーデンの伝統的な建物を移築した巨大なテーマパーク)を紹介します。
多くの家族連れや観光客で賑わっていました。
写真は2018年6月2日(土)、11時半から12時までの撮影で、快晴に恵まれました。




< 2.スカンセンの地図、上が北 >

黒線はトラム、赤線は今回紹介する徒歩ルート、緑線はエスカレーター、オレンジ枠は今回紹介する農家です。


* スカンセンについて

1981年に開園した世界初のこの野外博物館には、スウェーデン全土から移築された160以上もの代表的な家屋や農園が点在しています。
広大な園内(直径600mの木々に覆われた丘)には動物園や水族館、様々な工房街やミュージアムショップもあり、大人も子供も楽しめるテーマパークです。

私はここで北欧文化の基層、昔の生活の一端を見ることを楽しみにしていました。
私はスウェーデンだけでなく、ノルウェーとデンマークにある同様の博物館も訪れたました。
それらから3ヵ国の相違、建物の構造や生活、展示方法などの違いに気づくことも出来ました。



< 3.停留所Nordiska Museet/VasamuseetからSkansenまで >

ヴァーサ―号博物館を出てもう一度、北方民族博物館の前に出てトラムに乗り、スカンセンで降りた。
この間、バスもあります。
実は記憶が定かでは無いのですが、降りたのは大通りにある下の写真のトラム停留所だったと思う。
スカンセンのゲート前にも停留所(バスやトラム)はあったと思うのだが。



< 4. スカンセンの入場ゲート >

上の写真: 入場ゲート。

下の写真: ゲートから入場して、少し上った平坦部から振り返ったところ。



< 5. いよいよ野外展示場へ >

上の写真: 平坦部を奥に進むと大きな岩をくり貫いた入り口が見えます。
中にあるエスカレーターに乗り、さらに丘の上に行きます。

下の写真: 丘の上に出て、今来たゲート側(南側)を見下ろしている。




< 6. 伝統家屋 1 >

最初に見た伝統家屋群。
この辺りは下り坂の周囲に当時の民家やショップが集まっている。
家庭菜園も再現されている。



< 7. 伝統家屋 2 >


< 8. 伝統家屋 3 >

ちょうどショップから出てきた女性。
この方は係員なのでしょう。
この野外博物館には、所々に説明や作業の模擬の為、また店員としてこのような衣装を着ている女性がいました。



< 9. 伝統家屋 4 >

この二つは屋敷や公的な建物などで、民家ではないようです。


< 10. 伝統家屋 5 >

これら建物には入れるものとそうでないものがあります。
また入れても、デモや説明をしている建物は限られています。
建物には、建築年代や建築地、使用目的などが書かれた看板がある場合もあります。

下の写真: 1810年代に建てられた商人の邸宅です。
北欧の赤壁の家を見るのを楽しみにしていましたが、ここにはたくさんありました。



< 11. 農家 1 >

上の写真: 邸宅の庭園だろう。

下の写真: 中で説明が行われていた農家。
地図でオレンジ枠のあるところです。

この境界を囲む柵の形は北欧3ヵ国に共通していました。



< 12. 農家 2 >

この一群の建物は、ノルウェーとの国境に近いスウェーデン中央部Härjedalen、ストックホルムから北西に約400km行った標高500mの高原地帯にある農場を再現しています。
この地の主な生業は牛の繁殖で、土壌は貧弱だったので大麦を栽培し、林業も重要でした。
周囲の森には熊、狼、ヘラジカが生息しており、冬は雪に覆われます。

建築材は全てが木材と言えます。
壁は構造体であり、いわゆる木組みのログハウスです。
屋根材も分厚い木材を縦に並べ、その下に白樺の樹皮らしいものが敷いてありました。
断熱の為のレンガや土壁の使用は無かったが、室内にある竈は大きく、暖炉も兼ねているようです。



< 13. 農家 3 >

これらは牛などの厩舎なのでしょう。
今考えれば不思議なのですが、周辺に狼がいるのに、上の写真の厩舎の入り口は簡単な柵だけでした。


< 14. 農家 4 >

建材から家具、生活用品なども多くは木製です。
北欧の人々が、木工製品に優れている理由がわかります。

下の写真: この左端にほぼ天井に迫る大きな暖炉があります。
ここは食堂兼居間なのでしょう。



< 15. 農家 5 >

上の写真: 部屋に入ると、観光客の前で写真の女性が何かの家事作業のデモをちょうどしているところでした。
この部屋は煮炊きが出来る竈があるので作業場兼台所なのでしょうか?
しかし調理場らしいものが見当たらなかった。
この竈の右横に薪が積み上げられていた。
このメインの一軒の数部屋の内、二つの部屋に暖炉(竈)があった。

私は知らずにフラッシュを使い、彼女から禁止だと注意を受けて、一瞬笑いが起きました。



次回に続きます。





20180908

沼島を訪ねて 2







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今回は沼島の中心部、漁村にある神社を紹介します。
なぜか小さい島に神社が多い、そこには沼島ならではの歴史があります。



 
< 2. 散策ルート、上が北 >

下の地図: 赤線が今回紹介する散策ルートで、Sは高速艇乗り場です。
赤丸は上から厳島神社、沼島八幡神社、梶原五輪塔、沼島庭園を示します。


 
< 3. 厳島神社 >

別名弁天さんと呼ばれ、また戎神社も祀られている。
立派な石組みや石段、巨大な松がありました。
漁師たちが安全を祈願する神社として、当時は岬の先端に建てられていたのでしょう。


 
< 4. 港に沿って歩く >

上の写真: 遠くに厳島神社が見える。

下の写真: 進行方向を見ている。


 
< 5.沼島八幡神社 1 >

上の写真: 村のほぼ中央、山の裾野の小高い丘の上に神社が見える。
これが沼島八幡神社です。

下の写真: 石段を上り切った境内から。


 
< 6. 沼島八幡神社 2 >

上の写真: 境内から見下ろす。
港と漁村が一望できます。
遠くの山影は淡路島、右下に神宮寺が見えます。

下の写真: 境内にある本殿です。


 
< 7. 沼島八幡神社の本殿 >

上の写真: 沼島八幡神社の本殿内側正面に掛けられている大きな絵。
この絵は「賤ケ岳合戦」(1583年)を描いており、これが淡路島、沼島の歴史と深く関わっているのです。

この合戦で秀吉は柴田勝家との雌雄を決した。
この合戦で活躍した賤ヶ岳の七本槍の一人、猛将脇坂甚内安治は秀吉から淡路島を与えられます。

淡路島と沼島は古くから、大阪湾の守りの要であり、瀬戸内海に往来する海路の要衝でした。
またこの海峡沿いには由良水軍、鳴門水軍、そして沼島には沼島水軍が存在しました。
後に朝鮮出兵で、脇坂は水軍を束ねる三人の将の一人となります。

淡路島は奈良王朝の時代から天皇家の直轄地で、海水産物を献上する御食国でした。
実は、淡路島、沼島には海人族(海運や漁労を生業とする外来の集団)がいたのです。
このことが漁労や水軍の発展に結びついたのです。
沼島には縄文人の土器が見つかっており、古くから人々は暮らしていた。

古事記の国生み神話に出てくる「おのころ島」の候補地の一つとして、沼島が挙げらています(候補は淡路島島内と周辺の島を含めて11ヵ所)。
この国生み神話の原型は中国の長江流域の稲作文化にあります。
おそらくは大陸から、(対馬)、九州、瀬戸内を経て淡路島に到達した海人族が神話を伝承し、それを天皇家が自らの創世神話に拝借したのでしょう。

沼島と淡路島は、大陸と日本の古代を結ぶ架け橋の一つだったのです。


下の写真: 梶原五輪塔を示す看板。
漁村特有の密集する民家の路地を奥まで進むと、右手にこの看板がありました。
この右手に空き地があり、村人に聞くと、昨日ここで地蔵盆を行っていたとのことでした。


 
< 8. 梶原五輪塔 >

下の写真: 右手に二基ある五輪塔の右側が梶原景時の墓と言われています。

梶原景時は源頼朝に仕え、今の明石から広島までの山陽道の守護に任じられ、幕府宿老まで上り詰めていた。
しかし後に義経と対立し、幕府から追放され一族は滅ぼされた(1200年)。
彼は後世、義経の判官びいきとは逆に大悪人と見なされて来た。

梶原景時の墓と呼ばれるものは鎌倉にもあるが、真贋は如何に。

「梶原一族と沼島水軍」によると、以下のように説明されています。

滅ぼされた年に梶原景時の一族が、沼島城主になった。
これは水軍つながりだそうです。
後に梶原家が沼島八幡宮を創建した。
1521年、足利十代将軍義植が流浪の末、沼島に来て梶原の庇護を受ける。
この将軍が梶原家に後に紹介する沼島庭園を贈呈した。
神宮寺は梶原家の菩提寺でした。
しかし16世紀末、滅ぼされて梶原の治世は終わる。

こうしてみるとこの小さな漁村に、多くの神社仏閣、沼島八幡宮、神宮寺、蓮光寺(居城)、西光寺があることが理解できる。
これらはすべて梶原家の創建によるものだそうです。
墓がここに建立された可能性はあるが、景時が討たれたのは静岡でした・・・。


 
< 9. 沼島庭園 1 >

上の写真: 路地を奥まで進むと看板が見えた。
この看板には「伊藤庭(沼島庭園)」と記されていた。
右手に入って行くと、雑草が生い茂る空き家があった。


下の写真: この空き家を迂回して裏に回る。
ここは個人宅の庭です。


 

< 10. 沼島庭園 2 >

すると打ち捨てられた石組みの小さな庭が見えた。
鬱蒼と茂る木々の陰になって、庭はいっそう暗く侘しい佇まいでした。

これが室町時代、戦乱と内紛を逃れた10代将軍が過ごした場所であり、庭だと思うと虚しさを感じる。

一方で、淡路島と沼島に不思議な存在感を感じた今回の散策となった。


 
< 11. 沼島庭園 3 >

久しぶりに見たサワガニです。
昔は、淡路島の小川では至る所で見られたのですが、ついぞ見なくなりました。
私があまり外出しなくなったからもしれないが。

沼島を散策して不思議に思ったのが、こんな小さな島なのに沢をよく見かけたことです。
水が豊富なようです。



次回に続きます。










20180904

北欧3ヵ国を訪ねて 24: ヴァーサ―号博物館へ







< 1. ヴァーサ―号の模型 >


今回は、ヴァーサ―号博物館と、この巨大な戦艦建造時のスウェーデンを紹介します。
写真の撮影は2018年6月2日(土)10:36~11:00です。




 

< 2. ユールゴーデン島内の観光ルート、上が北 >

訪れた所: オレンジ□印はビジターセンター、黒〇印は北方民族博物館、赤〇印はヴァーサ―号博物館、赤枠はスカンセン(野外博物館)です。

黒線は歩行ルートで、一つは最上端のバス停Djurgårdsbronから、北方民族博物館とヴァーサ―号博物館見学を経て、トラムとバスの停留所Nordiska Museet/Vasamuseetまでを示します。

青線はSkansenまでの7番トラム乗車を示します。
この間は67番のバス で行く事も可能です。
停留所Skansenを降りると、スカンセン(野外博物館)の大きなゲートが見えます。

ヴァーサ―号博物館退出以降は次回紹介します。



 
< 3. 北方民族博物館を出て >

北方民族博物館を出て、南側に進み、西側に曲がるとヨットハーバーが見えました。
今日は土曜日なので市民が芝生広場でくつろいでいました。


 
< 4. ヴァーサ―号博物館が見えた >

上の写真: ヴァーサ―号博物館。

下の写真: 北方民族博物館の裏側。


 
< 5. ヴァーサ―号博物館に入館 >

上の写真: ヴァーサ―号博物館の入り口付近。

下の写真: 博物館に入ると、最初に目に飛び込む光景。

ここも非常に暗い。
逆に、この暗さの中だからこそ輪郭が定かでなく、スポットライトで浮かび上がる戦艦に圧倒されることになる。



* ヴァーサ―号について

これは17世紀に建造された当時スウェーデン最大の戦艦でした。
マストの頂上から竜骨(底)までは52メートル、船首から船尾までは69メートル、そして重量は1200トンもありました。
また64門の大砲が装備されていました。

この戦艦が初航海で沈んだのは、王の命令でより多くの大砲を装備するために甲板を2層式に嵩上げし、バランスが悪くなったためでした。

この船は海中から引き揚げた本物ですが、そのまま展示すると自壊してしまうので全てに樹脂を浸透させています。


 
< 6. 左舷 >

まるでパイレーツ・オブ・カリビアンの世界! 不謹慎だが。
船体表面にこびりついたものがうねりながら光沢を放つ光景は実に生々しい。
この船が沈没したのは、初航海の1628年で、そして引き上げられたのは1961年でした。
まさに400年間の眠りから蘇った。


 
< 7. 船尾と飾り >

上の写真: 船尾部分。

下の写真: このカラフルな彫刻像は、上の船尾に付いている木製像を復元したものです。
この船には700体の彫刻品で飾られていました。


 
< 8. 最上階から眺める >

甲板や帆柱を見ることが出来る。


* ヴァーサ―号建造時のスウェーデン

私は初航海、それも内海を1kmほど帆走して横転沈没したと知って失笑しかけた。
しかしスウェーデン国民はこの戦艦を誇りにしており、確かに来館者も多い。

私にはこんなつまらない結果を招い王、グスタフ2世アドルフが滑稽に思えるのだが?
しかし歴史は面白い、この王こそが強国、最もスウェーデンがヨーロッパで輝いた時代を作り上げたのでした。

私が1年前、フランスのアルザス地方を訪れた時、宗教戦争(三十年戦争)でプロテスタント側のストラスブールはスウェーデンの軍事援助を受けていたと知った。
この時、スウェーデンはヨーロッパの雄、プロテスタントの旗手だったのです。

グスタフ2世アドルフ(在位1611-1632)はデンマークからの独立を果たしたヴァーサ―朝の第6代スウェーデン王でした。
彼が即位した当時、スウェーデンはバルト海の制海権をめぐってロシア・ポーランド・デンマークと交戦中であった。

当時ポーランドはリトアニアと共和国を成し広大な国で、かつスウェーデンと王位継承を巡り仇敵であった。
一方、宗教改革後、カトリック勢と神聖ローマ帝国はプロテスタント勢と熾烈な戦いを続けており、やがて北欧プロテスタントの国々を脅かす最大の敵となっていた。

そこで彼はポーランドとの泥沼の戦いを休戦し、カトリック勢と戦う為に三十年戦争に参戦した。
その嚆矢となったのがデンマークと同盟を組んで戦った1628年のシュトラールズント攻囲戦で、この勝利がスウェーデンの版図拡大をもたらした(この年にヴァーサ―号が沈没)。

残念ながら彼は1632年、38歳で戦死した。
このことがまた彼を宗教改革での殉教者にした。

彼は若くして王になり、生涯、戦場を駆け巡ったが、それだけではなかった。

彼の統治によりその後のスウェーデン国制が出来たと言える。
4つの身分からなる議会制度や司法制度、また地方行政を整えることにより徴兵制度を築いた。
大学やギムナジウムなどの教育機関を創設した。

また軍事教練、戦法、兵器を発展させ、ヨーロッパの軍事大国になった。
このことが巨大砲艦ヴァーサ―号への建造に繋がった。

経済力の貧弱なスウェーデン軍が、強大になれたのはその国家誕生に起因するかもしれない。
1523年、独立を戦ったのはヴァーサ率いる農民達でした。
このことが4つの身分(聖職者、貴族、市民、農民)からなる議会制度を可能にし、徴兵制度を容易にし、大陸のような費用の掛かる傭兵制度を不要にした。

こうしてスウェーデン帝国への道のりと、ヴァーサ号が結びついているのです。






 
< 9. グスタフ2世アドルフ治世の版図 >

白丸がシュトラールズント、黒丸がストックホルムです。
彼が帝国の礎を作った。


 
< 10. グスタフ2世アドルフとシュトラールズント攻囲戦 >

シュトラールズントはハンザ同盟に属する港湾都市で自治都市でした。
ここを神聖ローマ帝国軍(カトリック連盟軍)が攻めると、この都市はデンマークとスウェーデンに救援を求め、形勢は逆転した。




 

< 11. 三十年戦争の変遷 >

番号③がグスタフ2世アドルフが参戦した経路です。
プロテスタント勢は英国と北欧、バルト三国、北ドイツです。

次回に続きます。