20140721

Summer in Awaji Island : A festival and fireworks of the strait park 

 fireworks
    

Today, I introduce the summer festival that was held by Awaji city July 20.
This main is some events and fireworks that are performed in the lawn open space of Akashi Kaikyo National Government Park.
Moreover, many stalls were set up, and entering the park is free today.
Blessed with weather, many people came from the island outside.

今日は、720日に行われた淡路市夏祭りを紹介します。
これは明石海峡公園の芝生広場で行われる催しと花火がメインです。
またたくさんの屋台が賑わい、この日は海峡公園も無料公開されます。
天気に恵まれ、たくさんの人々が島外からも来ていました。

stalls and a stage in the lawn open space

< 2.  stalls and a stage in the lawn open space    

There are eateries that are provided by the professional in these stalls, but stalls that were provided by the local volunteer are amusing.
The performance and the dances were carried out on the stage.

これら店舗にはプロによる飲食販売もあるが、面白いのは地元ボランテイアによる店舗です。
舞台では演奏や舞などが行われていた。


a eatery by children 

< 3.  a eatery by children 

The faces selling with a smile were shining in sunlight.
笑顔で一生懸命に売り込む姿は、陽差しに輝いていました。

children absorbed in play

< 4.  children absorbed in play >


Akashi Kaikyo National Government Park

< 5.  a central part of the park >
The scene that was reproduced the forest, the hill, and the valley naturally is the merit of this park.
The trees of the season blossom in various spots.
However, the flower of the park is few at this time.

自然の森林や丘陵、谷間を再現した景観が、この公園の良さです。
要所要所に季節毎の木々の花が咲きます。
しかしこの時期、公園全体の花は端境期で、少し寂しい。


Akashi Kaikyo National Government Park

< 6.  Upper: the park south side.  Lower: the park north side. >
There is a very large lawn open space in the end of the park north side, and we watch the fireworks in this side.

公園北側の端に広大な芝生広場があり、花火はこちら側で見ます。


flowers

flowers

flowers

     7,8,9
The flowers in the park
公園内の花々。

fireworks

 10.  fireworks
I took pictures of fireworks for the first time and it was difficult.

I was comfortable, because it was a little cloudy.
After the photography of the park, I was sitting down vaguely at a bench for three hours until the fireworks start.
I had been bringing back the past along with seeing the behavior of families, lovers, and friends.

今回、花火を始めて撮影しましたが、難しかった。

この日は曇り気味で、陽差しが厳しく無く助かりました。
海峡公園の撮影後、花火開始までの3時間、ベンチでボーッと座っていました。
私は家族連れや恋人達、友人同士の振る舞いを見て、昔を思い出していました。























20140720

私達の戦争 9: 当事者が振り返る戦争とは 8




< 1. テレビドラマ >

今回から、今次大戦の作戦立案を担った参謀達の意識を追います。
陸軍参謀の瀬島龍三氏の著作から始めます。
そこからは兵士数百万の命を扱う官吏の有能さが浮かび上がって来ます。


< 2.東京裁判で証人となった瀬島 > 

瀬島龍三について
彼は秀才の誉れ高く、陸軍幼年学校、士官学校、陸軍大学を主席卒業と13歳から27歳(1938年)まで、当時最高の出世であった軍人の道をひたすら進んだ。
直ちに彼は陸軍参謀になり、40年には本部作戦課に配属され、敗戦直前まで大本営で作戦を立案した。
敗戦時、満州在任であった為、ソ連軍によりシベリアに11年間抑留された。
帰国後、伊藤忠に入社し、会長まで上りつめ、後に政財界でも活躍する。
山崎豊子の小説「不毛地帯」の主人公壱岐は瀬島がモデルだが、あくまでフィクションです。



< 3. 瀬島の回想録 >

戦後の私の考察(タイトル)
「『支那事変処理重点方針』という従来の国策に『南方問題処理』が加わり、『二元的国策』になった最大の要因は、欧州戦局に対する判断の甘さ、すなわち、ドイツの国力・戦力を過大評価し、英国と米国の戦争遂行力を過小評価したこにあったと思われる。・・・
 近衛公は『国民組織による新政治体制』を訴え、・・近衛公の狙いは、国民組織の力によって軍部、特に陸軍を抑えることにあったと言われている。しかるに、組閣から五日後、早々とこのような重大決定をしてしまったことは、今も、私にはよく理解できない。」p87

開戦決定と作戦遂行(タイトル)
昭和16年八月頃の情勢と「帝国国策遂行要領」の決定
「8月16日、・・海軍側から今後の国策遂行方針について提案があった。その骨子は・・『十月中旬に至っても対外外交が妥結しない場合には実力発動措置をとる』であった。・・我々(陸軍参謀)もこれを聞いて驚いた。・・、
 これらの経緯を踏まえて、9月6日、御前会議が開催された。そこで決定されたのが『帝国国策遂行要領』である。・・・
 この決定はまさに、『和戦両用』の決意であった。御前会議の前日の9月5日、近衛首相拝謁の際、陛下は戦争準備が主で外交が従ととれる議案に対し強いご不満を表明された。・・」p105106

書籍 以下の説明に下記略号を使います。
書1:「瀬島龍三回想録 幾山河」瀬島著、産経新聞ニュースサービス、1995年刊
書2:「大東亜戦争の実相」瀬島著、PHP文庫、2000年刊、1972年講演分
書3:「瀬島龍三 参謀の昭和史」保坂正康著、文集文庫、1991年刊、1987年初出]



< 4. 瀬島のハーバード大学での講演記録 >

有能な参謀とは
私が彼の書1を20年ほど前に読んだ時、無味乾燥さに失望し、今回、書2を読んで更にその意を強くした。
彼の著作には、開戦に至る大本営の記録が詳述されているが、ほとんど心情の吐露が無い、当初、彼の冷徹さ故と理解していたが。
述懐する批判や反省の矛先に、彼自身と周辺(参謀から陸軍)はありません。
彼は完璧なのか、自分自身の激情や判断ミス、悔悟について一切触れません。
行間から漂ってくるのは「しかたがなかった」「他者(米国)が悪い」ばかり。

彼は、陸軍上層部や参謀本部に重用され、当時多くの作戦立案を自ら書いています。
二十数名の陸軍参謀本部第Ⅰ部作戦課にあって彼は序列5番以内で、最重要な作戦班の補佐でした。

6月のドイツのソ連侵攻時、陸軍参謀らは歓喜し、気宇壮大になっていたが、それを上の文では他人事のように書いている。
また下の文では8月、海軍が俄然、参戦意欲を高めて驚いたと、これまた始めて聞き、他人事のように書いている。
書1ではなぜか抜けているが、書2p204では416月に「対英米戦争・・ごとき画期的国策案」と彼が絶賛する路線は既に敷かれていた。
ソ連の連敗に勢いづいた陸軍に対して海軍は慎重だったが、8月に石油を絶たれたので、6月の予定路線に従って進めざるを得なかった。
彼の記述は、すべて巧みにしくまれている。

参謀達の意識を物語る事件
「・・米国大統領から陛下あて親電が送られたということを知った。・・瀬島少佐から・・『既に戦闘が開始され・・』・・を聞いた。・・かえって混乱の因となると思って、右親電をおさえる措置をとった。」書3のp110
これは真珠湾攻撃の前日、大本営通信課の戸村少佐が、瀬島のアドバイスで、電報を握り潰した記述で、重大な背信行為です。
瀬島は他にも都合の悪い電信を握り潰すことをしている。書3

「部内、来栖の飛行機墜落を祈るものあり、いわく、第二課長(瀬島の上司)、第6課長等。当班もまたその気持ちは同様なり」書3のp107
11月に渡米し日米交渉を必死で進める来栖特派大使への参謀本部の気持ちが、内部文書に残っている。
このようなことを間違っても彼は語ることはない。

結論
瀬島も含め、参謀達の意識は、戦争続行・拡大である。
特に作戦好きだった瀬島にとって、自分の筆で数十万の兵員を自在に動かせる喜びは何事にも代え難いものがあったろう。
彼らの多くは、国民に対して背信行為だとか、判断ミスとか、兵士に申し訳なかったという感情は無縁だろう。
彼らにとって、与えられ目標に勝利する作戦・用兵を提示することこそが有能の証しであった。
例え兵士の消耗率が10~50%あろうが・・・・

次回は、別の生き方をした陸軍参謀を紹介します。





20140719

私達の戦争 8: 当事者が振り返る戦争とは 7

 

< 1. 大政翼賛会 >

今回も前回に続いて、太平洋戦争勃発前夜、日本を牽引した近衛公の振る舞いを重光氏の手記から見ます。



日本の行くべき途(タイトル)
「近衛内閣は『スローガン』内閣であり、戦線拡大主義者であり、酷評すれば百鬼昼行の政府である。その第一内閣は陸軍を押して遂に支那事変を惹起して今日の乱脈の原因を起こした。近衛第二次内閣は支那問題を太平洋全面に拡大してここに日本の前途を暗黒に導きつつある。先には日満支新秩序なる『スローガン』を振り回し、今日は新体制を高調して居る。・・特に極論派の強要には何でも応じてもって世論を容れ難物を操縦し得たと感じ、これが最も成功したる政治と心得ているが如くである。」p1351940年夏


< 2. 三国同盟 >

第三次近衛内閣の崩壊
「第三次近衛内閣は、三国同盟締結後の我が国際関係の混乱を日米交渉成立によって救済すべき重大使命を帯びていたと同時に、絶好の機会を握った内閣であった。
・・単に松岡君を追い出してその後に海軍を据えたぐらいでは到底やり切れるはずがない。近衛公は内閣において陸海軍のバランスをとって、外交は日米交渉成立を陸軍よりも熱望する海軍を利用して、実は自らやって行くことにした点は、バランスをとっていく公家式の考え方で極めて浅薄であった。」p297

説明
1937年、近衛は期待され、軍部が主導権を握り混迷する政局にあって第一次近衛内閣を率いた。
独走する陸軍、慎重な海軍、独伊か英米かで割れる中で唱えたスローガンは「国内各論の融和」であった。
しかし結局、陸軍に振り回され日中戦争、ノモンハン事件(ソ連との軍事衝突)へと深入りした後、総辞職する。


< 3. 大東亜共栄圏の双六、戦前 >

1940年、1年半の平沼内閣の後を受け、第二次近衛内閣をスタートさせた。
この時のスローガンは「皇道の大精神に則りまず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立」であった。
彼は国民一丸を目指し、全政党を解体し大政翼賛会一本にまとめ、政党政治と民主主義を無にした。
一方、松岡外相が裏切られることになったドイツによるポーランド侵攻とソ連侵攻、さら陸軍と共に唱える対ソ戦準備、日米交渉の非協力態度(外されたことにすねる)に、近衛は松岡を切る。

かくして41年7月、続いて第三次内閣をスタートさせた。
形では日米交渉を継続していたが、日米共に決戦の腹をほぼ決めていた。
暗号解読で日本政府の言動は米に筒抜けだったが、日本は外交組織を破壊し、米や世界の情報をまともに掴むことが出来なかった。
こうして独り相撲の形で、自ら火の中に、蛮勇をもって飛び込んだ。

近衛公は筆頭摂関家に生まれ、25歳で世襲により貴族議員となり、類希な血筋、貴公子然の風貌、革新的な言論で、大衆の人気を集め首相として期待された。
しかし彼の政権運営は、生来の気弱さが災いし、軍部に流されるだけに終始した。


< 4. 御前会議 >

だが彼一人が悪いわけではない、当時、軍部の独走を防ぐ手立てがなかったと言える。
それは当時の憲法に、軍権は天皇に、政権は内閣にと謳われていたが、軍事費が国家予算の半分を越えるに至っては、その分離は無意味だった。
そこで、国の重大方針は内閣と軍部首脳による天皇臨席の御前会議で行われるようになった。
それは天皇が反対をしないので、軍権に関わる政府議案としてすんなり通すことが出来たからでした。


次回より、当時、軍事作戦を担った複数の参謀の回顧録を見ます。
そこからは対照的な能吏が見せる軍中枢の惨状が浮かび上がって来ます。




20140718

私達の戦争 7: 当事者が振り返る戦争とは 6




< 1. 日本軍が広東方面に上陸 >

今回は、太平洋戦争勃発前夜、日本を牽引した指導者達の振る舞いを重光氏の手記から見ます。


< 2. 軍事クーデターの2・26事件、1936年 >

ああ 支那事変(タイトル)
「満州事変が起こって後、るる陸軍方面の人々から聞かされたことがある。日本は政党の為に、資本主義の為に腐っている、日本精神を取り返す為には国内的革命を必要とする、これが為に満州事変から続いて世界を敵とするような困難を招くことも必要である、と言うのであった。・・・
三年を越す支那事変は軍部の連戦連勝にかかわらず、日本の負担として耐え難いものがある。・・国家はこれでよろしいか。国民は枯れて将軍が群がっている現状は果たして皇道であり、国家をやすらかにするものだろうか。」p167194012

説明
日本は第一次世界大戦での軍需景気、軍部による海外領土拡張と好調が続いた後、経済恐慌に見舞われると国民の不満が高まった。
すると軍人による政府要人暗殺とクーデターが頻発し、1937年以降は軍部が政権を握った。
こうして首相といえども陸軍、海軍の同意なしに政治が動かなくなった。
おうおうにして世の軍人は力でもって突き進むことを是とするようで、やがて太平洋戦争に突き進むことになる。



< 3. 国際連盟脱退時、松岡全権大使が熱弁を振るう >

日本の狂乱
「外務省は外交の転換から世論の声に乗じて、いわゆる外交陣の刷新を断行して上層部五六十人の整理をなして、革新派と称するこれまでの不平組を登用した。外交機関は全世界にわたって破壊されてしまったが、これまでの外交機関は現状維持派であるから不必要であると、公然と当局者は言った。出先の報告等は、三国同盟締結の方針が定まって日本は新体制に乗り出したのであるから不必要であると言われて、電信報告無用の訓令が来た。」p205


< 4. 第二次近衛内閣、松岡外相、東條陸相、吉田海相 >

説明
これは1940年、第二次近衛内閣誕生の目玉になった松岡外相がとった処置でした。
彼は33年の国際連盟脱退、外務大臣として日独伊三国同盟の締結を牽引し、結果、太平洋戦争への道を準備し、去った。
彼は外交官、満鉄理事、国会議員を経て、その人気と豪腕を近衛公に買われ入閣した。
三国同盟締結でドイツ寄りを鮮明にすると、それまでの親英米派の外交官を一掃した。
この時、欠かせない重光や数人の外交官だけは残る事が出来た。
元来、彼は英語がたんのうで世界的な視野を持ち、ヒトラーのドイツを信用していなかったが、軍部との主導権争い、後背の憂いであるソ連重視(日ソ中立条約)、彼の傲慢が災いし、その道は袋小路に入った。
彼も政局の渦に巻き込まれた一人だが、最重要な国際情報を途絶するとは如何にも日本らしい政局の乗り切り方だった。

次回は、最重要な近衛公について見ます。




20140717

私達の戦争 6: 当事者が振り返る戦争とは 5

 1941年、チャーチルとルーズベルト会談

< 1. 1941年、チャーチルとルーズベルト会談 >

太平洋戦争開始を日米、それぞれの側から見ます。

太平洋戦争開始の直近の経緯
1939年: 9月、ドイツ侵攻で第二次世界大戦開始。
1940年: 9月、日本が北部仏印進駐、日独伊三国同盟締結。
1941年: 6月、独がソ連侵攻。7月、米が日本資産凍結、日本が南部仏印進駐。8月、米が対日石油輸出停止。11月、米がハル・ノート提示。12月8日、日本が真珠湾攻撃。

太平洋戦争地図 

< 2. 太平洋戦争地図 >

日本の思惑と動き
日本は1920年代より、国防方針で、最大仮想敵国をそれまでのロシアから米に変えていった。
その背景に第一次世界大戦、ロシア革命、日本では日英同盟破棄、満州・日中事変、軍部支配があった。
日本の軍部は多大な犠牲(国費、数十万人)を払って得た朝鮮半島や満州の権益擁護と拡大に戦争続行を当然と考えた。
その為には大陸の陸戦よりも米国との海戦が低費用で有利とし、資源(鉱物・石油、食料など)確保を中国と仏印(東南アジア)に求めた。

一方、突如起こったドイツ攻勢は欧州制覇から世界制覇を思わせた。
日本は手薄になったソ連東方と東南アジアを入手する絶好の機会と捉えた。
また、米は長年、交戦中の日中に対して兵器や石油を輸出し、中立の立場(孤立主義)をとっていたこともあり、日本は、開戦直前までそれを弱腰で参戦なしと捉えた。
この予断が、危険な三国同盟締結、さらなる侵攻、強気の外交につながった。
それが417月、関東軍特種演習と称して関東軍を35万から80万体勢への増強、仏印進駐となった。

関東軍特種演習と仏印進駐

< 3. 関東軍特種演習と仏印進駐 >
 
日米の差は資源産出力で数百倍、兵器生産力は十倍近くあったが、進めて来た開戦準備により、開戦当時には、日本の保有艦船は米を少し上回り、石油備蓄も1年以内の戦闘なら可能となっていた。
一方、米は40年から被侵略国向けに兵器増産を始めており、開戦が遅れれば遅れるほど、日本は勝つ見込みは限りなく零になる。
さらに造船工期は2年を要するので初期に米艦隊を叩き(奇襲)、1年以内の短期決戦なら勝利が可能とし、その時期は41年の出来るだけ早い時期とした。

開戦の年も、日本の方針は相変わらず定まらず、米を恐れながらも、「日米開戦に備え、さらなる資源と権益確保を推し進め、交渉決裂時は開戦をも辞さず」の矛盾した両論併記であった。
41年初頭から日米で和平を模索する交渉を始めていたおり、「中国からの撤退」は終始、日米互いに譲れない条件であったが、日本は楽観論と強硬論で揺れ動いた。
4111月、ハル・ノートが米から提出され、日本軍の中国からの撤退要求は決定的となった。
こうして開戦を決意しながら日米交渉に挑み、呑むことの出来ない要求で決裂し、真珠湾攻撃となった。

米の思惑と動き
米も1920年代より、日本をオレンジ計画で交戦可能国の一つとして見なしていたが、国内世論もあり、欧州とアジアへの介入意志はなかった。
しかし、ヒトラーの動向(再軍備)、日中戦争勃発と枢軸国の膨張が続き、日独伊防共協定が締結されるに及んで、ルーズベルト大統領は37年に反枢軸国への援助を公言した。
まだ米国内では参戦への反発が強かった。
この後、日独の現実の侵攻、特に40年の日独伊三国同盟への制裁として、大統領は段階的に経済封鎖(ABCD包囲網)を行った。
日本はこの致命的な経済封鎖すら、米が実施しないと当初楽観視していた。

40年末、再選された大統領と米軍部は、欧州参戦を優先しながらも、日米開戦もやむなしと考えた。
この頃、日米の指導者達は共に、国民向けに強気の発言を行うようになっていた(牽制の為か)。
米は40年に日本の暗号解読を完成させ、秘密裏に画策していた日本の開戦意志と侵攻準備を無線傍受により事前に察知していた。
さらにヒトラーへの後手の対応への反省、日本の勢いづく侵攻拡大、高まる英ソの敗北危機、米は放置出来ないとし日本との戦争を不可避であるとした。
米は欧州戦線を優先しながら日本に対抗するには、日本軍が太平洋で戦域を伸ばした所を航空兵力で叩き、数年後の勝利が得策と判断していた。
日本は艦船を重視したが、米は太平洋戦では防御より航空機での攻撃が有利とし、開戦時で3倍、2年後で7倍も航空機を保有した。

艦隊戦力と航空戦力

< 4.艦隊戦力と航空戦力 >

米は長らく他国の紛争には関わらないモンロー主義(孤立主義)を貫いていたので参戦する場合、相手が先に攻撃し、国民世論が沸き立ってから、迎え撃つ態度をとり続けていた(両大戦共)。
こうして「リメンバーパールハーバー」は米国民を一気に参戦へと勢いづかせた。

最後に
これが第2話の中條氏の指摘「米は日本を戦争に追い込んだ」の真相です。
皆さんは、この両国の対応をどう見られますか?

次回、このような対応をした日本の指導者達の心理を重光氏の手記から読み解きます。












20140716

私達の戦争 5: 当事者が振り返る戦争とは 4

 

< 1. 真珠湾攻撃 >

はじめに
私が考える、日本が太平洋戦争に至る過程での問題点をあげます。

A.      なぜ戦線を拡大させていったのか? 日清、日露、満州、日中、仏印、太平洋へ
B.      なぜ危険な三国同盟を結んだのか?
C.      なぜ国力・兵力が10倍以上勝る米国に戦いを挑んだのか?
D.      なぜ統治者・官吏達(外交官、参謀)は正常な情勢判断が出来なかったのか?
E.      なぜ自他に対して残虐になったのか?

既にBは4話で、Eの実態は3話で、他は続いて要点だけ考察します。
重要なことは、これらの問題は国民がそのメカニズムを理解し、原因を是正しない限り、再発の可能性が高いということです。


太平洋戦争開始の直近の経緯
1939年: 9月、ドイツ侵攻で第二次世界大戦開始。
1940年: 9月、日本が北部仏印進駐、日独伊三国同盟締結。
1941年: 6月、独がソ連侵攻。7月、米が日本資産凍結、日本が南部仏印進駐。8月、米が対日石油輸出停止。11月、米がハルノート提示。12月8日、日本が真珠湾攻撃。

日米の動きを「重光葵 手記」から見ます



< 2. ルーズベルト大統領 >

英米の重圧(タイトル)
「三国同盟論者の他の誤算は米国の態度である。米国は1940年、11月の総選挙によって孤立論者は惨敗して、全面的英国援助論が党派の如何を問わず勝利した。ルーズベルト大統領は当選後全力を上げて被侵略国の英、中、ギリシャ等の諸国に対して留保無き如何なる形の援助をも提供する方針を決した。これが為に、枢軸三国(日独伊)から宣戦布告を受けても意に介さないと決心したのである。このために、・・・、枢軸三国との抗争を最後までやろうと言うのである。」p222



< 3. 近衛文麿 >

第三次近衛内閣の崩壊
「(在外日本資産)凍結令の実行によってジリ貧説が台頭して来た。このままにしていれば敗戦国と同様になるから、力のある内に戦争しなければならぬ、石油は力で取りに行かねばならぬと言う主張が有力になった。まるで子供の議論である。しかし近衛内閣は日米交渉最中(1941年)96日に、もし交渉が十月上旬にまとまらなければ戦争を開始すると御前会議に通した。このような交渉が期限付きで出来るはずがない。
一方で平和交渉を行いながら、他方戦争準備を進める。相手方(米国)はそれが平和の為か、戦争の為か分からぬ。恐らく戦争手段に訴える前提としか受け取ることが出来ぬ。ましてや日中戦争以来、同様の手段で既成事実を作られており、(日本の)新聞世論の激しい調子から見て、また例のドイツ流の手ではないかと直感するのも無理ではない。
     ・・ここにおいて交渉は益々困難となる。」p298


 

< 4. 東條英機 >

日米交渉
「東条内閣(19411018日~)は初めより喧嘩内閣であって、外務大臣まで(日米)交渉に熱意を示さずして終始挑発言動に出ている。今後の方向はおのずから明らかである。その態度は、開戦の準備は出来ている、長期戦に打ち勝つ計算は出来ている、平和は必ずしも帝国を救うものではないとの態度である。」p312

次回は、日本と米国、それぞれの立場から日米開戦への思惑を説明します。
それにより第2話の中條氏曰わく「米は日本を戦争に追い込んだ」真実が見えて来ます。



















20140715

私達の戦争 4: 当事者が振り返る戦争とは 3

 

< 1. 重光葵とチャーチル、1941年 >

今回は、第二次世界大戦期の日本外交で活躍された重光葵氏を紹介します。
彼はこの動乱の時代、非常に興味深い政権の内情と国際状況を手記に残しています。
彼の痛烈な批判は、当時の日本の危うさや間違いを明らかにしています。
数回に分けて、主要な問題点を見ます。

*2

「重光葵 手記」(中央公論、昭和61年刊)より
この手記は文体が古いので、少し意訳して抜粋要約します。

少し難しくなりますが、戦争が起きるべくして起こったと言うより、一つづつの選択ミスの積み重ねであることがお解りいただけると思います。

危ないかな日本の外交(タイトル)
「当時、ドイツの意を受けた日本人の主張は、欧州には断じて戦争は起こらぬ、従って日本の参戦の義務は発生せぬ故に防共協定を三国同盟に拡張して、同盟国と共に利益を得るべきであると主張した。次ぎに又三国同盟は欧州戦争を予防する大なる手段であると主張し、開戦後は同盟なきが故に戦争が起こったと説明し更に、戦争は独伊の圧倒的勝利に帰するから同盟を締結すべし、右は米国が参戦しても形勢には変わりはないと主張するのであった」p88、1939年前半期の情勢

    

説明
日中間では、1931年満州事変、37年日中戦争が始まっていた。
36年、日独伊はソ連に対抗して防共協定を結んだが、さらなる軍事同盟への格上げで日本は意見が分かれていた。
反対派は英仏と米を刺激することを心配した。
しかしドイツは、39年、独ソ不可侵条約を結んだ後、ポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発、40年6月にはパリを占領した。
ヨーロッパ制覇近しと見た日本は乗り遅れまいと三国同盟を9月に締結した。
日本はこの三国同盟を含め、日独伊ソ四国協商、日ソ中立条約を締結し、ソ連を味方に付け、その圧力をもって米にアジア(中国)から手を引かせる目論見であった。
しかし突如、ドイツは41年6月、ソ連に侵攻し、この目論見は崩れた。
結局、時流に乗り遅れまいとしたドイツ盲信が、最も恐れていた英米ソを敵に回すことになった。

    

三国同盟論の誤算(タイトル)
「近衛公は外交側近者の進言をそのまま採用し、これへの深き理解もなくして実行に移した様である。
その政策の基礎は左の点にある様である。
第一、   ドイツはイタリアと共に即戦即決の方式によって間もなく全勝を得る。
第二、   従って英帝国は直ちに滅亡する。
第三、   ソ連はドイツに軽く扱われるので、日本とは接近親和を欲するはず。中国問題においても日本の意に反して援助を継続しないだろう。
第四、   重慶中国は日本の南京工作により、又独伊の勧奨により日本に降参しなくとも少なくとも和議を提唱するに違いない。
第五、   米国は容易に立たず、三国同盟によってむしろ萎縮して孤立主義の勢力は増大し、漸次英国を見放すだろう。」p213、1941年1月11日記

説明
この41年の初頭、ドイツ軍はまだ破竹の勢いで、日本は虎の威を借りて、東南アジアとソ連東部への権益確立(侵攻)をまたもや目論んでいた。
一方で、日本は中国問題で対立し、最も恐れていた米国と和平を模索する交渉を進めていた。
しかし、その日本の交渉態度には、三つの思い込みがあった。
ドイツの世界制覇は近い、米国は高圧的に出ず戦争もしない、さらに不思議なのが日本は大丈夫だと言う安心感のようなものです。
これらが上記の近衛内閣の政策に出ています。
この無知と慢心が、やがて41年の12月7日の真珠湾攻撃につながり、太平洋戦争勃発になった。

次回に続きます。












20140714

私達の戦争 3: 当事者が振り返る戦争とは 2

    

今日は、終戦まで歩兵として北支(北京一帯)で従軍された岡部正美氏の体験を紹介します。

    

「日本、東洋鬼子」(近代文芸社、1998年刊)
上記著作から抜粋要約し、彼の体験や考えをみます。

征途(タイトル)
「『守ってやって下さい、一人息子です。帰してやって下さい』と老女が班長さんと、手を握りしめて、・・ある母親は狂気のように髪を乱し裾が乱れ、・・憲兵に叱られつつも、押しのけて迷い走る姿が目についた。」
これは太平洋戦争開始の1年後、北支に向かって姫路駅を新兵部隊が出征する場面です。

    

弱兵は殺される
「大部隊をもっての攻略がはじまる。・・携帯の弾薬合わせて20数キロの重量に、その疲労は激しく昼夜兼行の行軍にある。・・馬鹿野郎しっかりしろい、と励ましかばいたてに意識朦朧としての落伍に最早かばうことの時間のロスであり、何小隊落伍1名の報告に処分せよの下命に銃殺である。・・路傍に引きよせて、ご苦労じゃった。必ず俺も行く、待っていてくれ。と頭部に銃口して引金の指の震え涙止まらず路傍に逝く。」
行軍は百キロを越えることが多く、落伍者はこうして、その都度、昨日の友や上官らによって始末された。

残虐行為
「ある村に野営とあって、炊事に忙しく豚、鶏、卵と他調味材料に鍋、器と手当たり次第の略奪が賑わう掃討に駆け走る。部落民はいち早く逃避して、・・古兵が『オイ、娘が居たら言うて来いよ。女も探して来い』・・纏足の婆がかばうように、藁の前に立って、手を合わせている。藁の中なら・・可憐な娘二人、・・『エエ奴探したのう。来い』・・『殺したか、やっとけよ』」p174
「『なぜ針金で通してあるのですか』『戦の中で捕らえたり部落で集めて逃げんようにしてあるんじゃ。・・取り調べ済んだらスラスラ(殺すこと)じゃ。首切り初めてじゃろ、見せてもろたろか』『ハイ』」p175
当時、日本は資源・食料を朝鮮半島、台湾、さらに仏印(ベトナムなど)で調達していたが、戦場は現地調達であった。味方でさえ処分されるので捕虜は言うまでもない。

結文
「ありし日の軍政のウソと隠蔽が許されずあきらかな残虐無慈悲の蛮行に中国民の嘆き苦しみ、そして戦慄と死活に耐えたいろいろと、その真を・・一つでも認識していただいて二度と起こすな戦争、更に独裁政治を行わせしめるな、・・」

これが彼の体験した戦争であり、ささやかな願いでした。

彼と著作について
彼は尋常高等小学校高等科を卒業の7年後、徴集され、太平洋戦争と同時期、日中戦争を戦った。
彼は歩兵部隊の軍曹で、戦いながら兵士の教育係も担当しており、軍人として優秀だったようです。
復員後、裁判所に定年まで勤務した。

彼は79歳でこの本を出版しているが、自費出版だったのではないか。
この歳で出版に踏み切られたのは、これが最後だとの想いがあったからでしょう。
戦地に行った多くの人は、復員後、口をつぐんでしまいます。
例え自責の念がよぎっても、仲間や家族への気遣いがそうさせます。

残念ながら、amazon.co.jpで見た分には、この本は人気が無いようです。
文章は長文で古い文体や単語が多く読みづらい。
しかし、真実を伝えたい、遺しておきたい彼の熱意が伝わって来ます。

不思議なこと
ほぼ同時代を生きた、前回の中条さんと岡部さんの両著作の人気と考え方の違いは何を意味するのだろうか。